15
セントラルに着くまで、コラム・ソルから六日間かかる。たった一週間足らずのことだと、アレックスは楽観していた。マクガレイ准将の話は杞憂に過ぎない、セントラルならともかく、軍艦の中では何もおきるまい、と。
元々トルネード号は西ロジェーム方面艦隊から派遣されていたから、アレックスには顔見知りも少なくはない。実際、行きの航海では艇長を外され厄介な立場に押し込まれてと、同情する空気もあった。
だが、帰りは誰もアレックスに声をかけない。視線すら合わそうとしない。
(それはいいさ。一生ここで過ごすわけでもないし)
シャワールームに併設された洗面台に向かって、サッタールと髭を剃りながら考える。
(だけどジャクソンは違う。セントラルに着いてからも一緒なんだから、もう少しなんとかならないかな……)
ジャクソンの態度はどう見ても囚人の監視に近い。行動が制限されているわけではないが、一挙手一投足を疑いの目で見られるのは鬱陶しい。
当のサッタールにはその心情まで透けて見えるのだから、なおさらだろうと思うのだが、本人は至って平静な顔をしていた。
(いや、違うな。まるでそこにいないみたいにしているから、逆に言うと相当意識してるんじゃないか?)
そこまで考えて、アレックスは自分がまた失態を犯しているのに気づいた。
「あ、失敬」
鏡越しにサッタールの顔を窺うと、仏頂面が困ったような笑みに変わった。
「アレックス。一つ言っておいた方がいいと思うんだが。私は生まれてからずっと他人の思念の中に生きてきた。だから自分に対する整理されていない評価などいちいち気にしてはいない。じゃないと頭がパンクするからな。ある意味鈍感なんだ。アルフォンソなんていつも心の中でこき下ろしているし、姉は私が何をしても心配ばかりする。私のやり方が気に入らない長老たちは罵倒ばかりだ。これまでの十数年でわかったのは、まあ、だいたいお互い様ということだな」
「へ、へえ……じゃあ、君の俺に対する評価は?」
頬のクリームをふき取りながら尋ねると、サッタールはふと視線を逸らした。
「心に気ままに浮かんだものを言葉に変えるのは少々難しい。が、そうだな……真面目なくせに抜けている。あとは他人を見る目を公正に保とうとした挙げ句に足をすくわれかねないお人好しで、頑固な上に打たれ強い」
その評価が当たっているのかどうか、アレックスはちょっとだけ考えて、すぐに笑顔になった。
「母さんも似たようなことを言っていたから、きっとそうなんだろうな」
あっさりと受け流し、耳たぶにクリームを残したまま洗面台を離れる世話係を、サッタールは呆気にとられて見送った。
心を読まれてなおかつああも超然としていられるのは、一種の才能だと思う。
(ジャクソン曹長の警戒心の方がある意味理解しやすいな)
蒸しタオルで顔全体を覆ってそっと息を吐く間も、背中に視線が突き刺さる。その表層に浮かぶのは、疑念と不信、厭わしさだ。
だがそれは、大なり小なり、全ての人間から感じる感情であって、不思議ではない。
(もし私の立場が逆だったら、やはり心を許すことなどできないだろうし)
アレックス・イルマの人懐っこさの方が不可思議なのだ。得にならないどころか、おそらく彼は損ばかりしている。
アレックスは、乗員がよそよそしくなったと嘆いているが、サッタールが読んだところでは、大部分の乗員は今でもイルマに同情を寄せていた。ただ、いつも横にいるサッタールを恐れているだけだ。
(だが、それを告げるのは礼儀に反するしな……)
タオルを丁寧に折り畳んでキャビンの前まで戻ると、そのアレックスとジャクソンの険悪な声が脳に飛び込んだ。
「ひげ剃り用の剃刀まで取り上げろだと? 気でも狂ったのか、ジャクソン曹長!」
「いたって正気です。剃刀といえども十分に殺傷力はありますから」
「はっ! そりゃおまえならそうだろう。おまえなら、ペン一つでも十分だろう。だが彼は民間人だ。戦闘訓練一つしたことのないなっ。身のこなしを見れば分かるだろ? 身体はよく鍛えられているが、ごく一般的な少年だ。それが軍人をわんさか積んだこの艦で、剃刀を持って何ができると言うんだ?」
「一般的な民間人? あれがですか? むしろスパイと言った方がふさわしい。まんまとあなたに取り入って、情に訴えるところなんかは立派なものです」
「……そうか。そうおまえには見えるんだな」
アレックスの声が、酷く低くなった。いつもの穏やかで少し間の抜けた様子とはまるで違うその気配に、サッタールは僅かに目を見開く。
「おまえも会談の場にいたんだから聞いただろう。彼は精神感応の達人だと。サッタール・ビッラウラが本気でおまえを排除し、騒ぎを起こそうとしたら、事は簡単だ。おまえに、自分で舌を噛んで死ねと、そう命じればいい。あるいはその腰の物で幹部士官を皆殺しにしろと。彼の力は単に心を読むだけじゃない。それができる人間だから、あの若さで長を務めていた」
「承知していますよ。だからこそ化け物なんじゃ……」
バシッと何かを叩きつける音が、耳に届く。サッタールは辺りを見回し、そして首を振った。全てが監視されているなら、この一幕も誰かがどこかで見ているに違いない。
自分の出る幕ではない。自分はここの人間ではないのだから。
「おまえの目は余程の節穴か、それとも曇っているんだな。彼の後ろにはコラム・ソルの全住民がいる。彼はその期待に応える為に単身でここにいるんだ。化け物と蔑まれることを承知の上でな。たった十七、八の少年がだ。彼の忍耐を試すような振る舞いは俺が許さん」
「忍耐を試されているのはこちらですよ。なぜわからない? 無害なフリをしたって、アレは人間じゃない。魔物です。あの彗星と同様の災禍です」
「おまえと同じ人間だ」
疲れたようにアレックスが言うのと同時に、床に重い物が落ちる音がする。
「俺が誑かされたと思っているのなら、俺のこともさぞ信用できないだろう。それはおまえが保管しておけ」
「士官のくせに丸腰で過ごすと?」
「武器の携行は、士官の義務じゃなくて特権だ。特殊戦闘員のおまえとは違う。俺は彼も、我が海軍に所属する全ての軍人も信用している。セントラルに着くまで、どうせそれの出番などない」
しばらく物音が続く。その間、アレックスもジャクソンも、憤りの感情をそれぞれのやり方で抑えようとしていた。
サッタールは廊下に突っ立ったまま、アレックスの心の変化をなぞっていた。飄々として生真面目。お人好しで正義感にあふれ、どこか抜けている。その印象は変わらない。だがそれだけではなかった。
人の心は重層的で変化に富んでいる。理解したかと思っても、その広がりと襞の深さは、時にサッタールを驚かせ立ちすくませる。
操ることはできるかもしれない。だが、全てを知ることはできそうにはなかった。
「いつまでそこで立ち聞きしているんですか?」
気づくとドアが開いて、ジャクソンが立っていた。
「取り込み中に割って入るほど、無粋じゃない」
素っ気なく答えたが、片づけをしていたアレックスは明らかに動転していた。
「あ、お帰り。その……腹も減っただろう? 今日の朝飯はなにかな?」
ぎこちない笑顔で取り繕った下手な演技に、サッタールは目を覆いたくなったが、ふと見るとジャクソンが自分とそっくり同じ顔をしていた。
「朝食はいつも未来永劫変わりませんよ、少尉」
「そ、そうだったな。トーストと卵とベーコン。はは、でもって薄い珈琲か」
そそくさと上着を羽織るアレックスをしばらく見つめてから、ジャクソンはまるで給仕をするかのように恭しく拳銃を差し出した。
「どうぞ、イルマ少尉」
ぽかんとした顔に笑みがじわっと広がり、アレックスは歯を見せて笑った。
「うん。ありがとう、ジャクソン」
他の人間がしていたら下手な茶番にしか見えないだろう。だがアレックス・イルマが心からホッとして喜んでいるのが、サッタールはもとよりジャクソンにも伝わる。
(不思議な男だ)
サッタールは自分も肩布をまとってから、アレックスの耳たぶについたままのクリームに目を止め、手を伸ばして中指の先で拭った。
「ひげ剃りのクリームがついてる」
「あ、そうだったか。ありがとう」
年長の軍人は、子供のような顔で笑った。
艦には一般の食堂と士官専用の食堂がある。ジャクソンの階級では着席など許されないのだが、マクガレイと航海長の配慮で三人は常に同じテーブルにつくことになっていた。
出航して以来、アレックスは会議に呼ばれることもなく、ブリッジでの勤務もない。従ってマクガレイ准将はむろんのこと航海長以下の士官たちと顔を合わせるのは食事の時だけになっていた。
(このお喋りも不自然だよな)
席は准将と航海長が分かれて座る以外は特に定められていなかったが、本来なら同じテーブルを囲むのが名誉なはずのマクガレイのテーブルには、しょっちゅう空席ができる。サッタールがいるからだ。
得体の知れない人間と共に食事を取るぐらいなら、空腹に耐えるか、鬱陶しがられながら下士官たちと食べる方がいいという判断だろう。
不運にもそこしか席のなかった士官だけが、コラム・ソルの賓客とテーブルを共にするのだ。
(みんな、黙っていると余計なことを考えてしまうからって)
そして、その不運な者たちは皆、一様に饒舌になった。アレックスが看破したように、下らないお喋りに興じている分にはいくら心を読まれても構わないという考えなのだ。
いささかうんざりもするが、隣でナイフとフォークを動かしているサッタールは、実に礼儀正しく、昔流行った曲だの最新の映画だのの知るはずもない話題を大人しく聞いている。
初日の夕食は、サッタールが何を知っていて何を知らないか見当がつかず、ナイフとフォークの使い方までこと細かくレクチャーしたアレックスだったが、いざ席についてみて、少年の優雅で堂々とした所作に目を見張った。
それは付け焼き刃ではなく、そうしたマナーが当たり前の環境に育った者だけがなしえる自然さで、自分のお節介に耳まで赤くなった。
「す、すまない。俺はどうも余計なことまで言ったようだ」
食後、医務室へ向かう道すがら謝ると、サッタールは不思議そうな顔をした。
「私には余計なことなどない、と思う。実際にその場になってみなければわからないのだから。あなたのお陰で安心して食事が楽しめた。ありがとう」
年下の少年に気を使われて、アレックスは完璧に撃沈したのだった。
(まあ、初日よりはぎこちなくなくなったか)
カシャカシャと食器の音が響くテーブルで、そっと同席のメンバーの表情をうかがう。マクガレイ准将の他に機関士長と軍医がいた。
「ところでミスター・ビッラウラ。君の家は地球のアラブ出身なのか?」
マクガレイが思いついた顔で訊いた。今では混ざり合って、個々の出身がほとんど意味をなさないとはいえ、名前の由来は社交界ではよく使われる話題だ。
「そうでしょうね。水晶という意味だと聞いています」
「ほう。で、サッタールは?」
サッタールは一瞬視線を皿の上に落とし、それから小さな笑みを閃かせた。
「神に匿われた子供」
礼儀正しく耳を傾けていた士官たちの口からひゅっと息が漏れた。
「本来は名に使うものではないらしいのですが。単なる響きでつけたのでしょう」
落ち着いて言い添え、サッタールは珈琲を口に運んだ。マクガレイはその様子をじっと見守ってか、くっくと笑う。
「そうだな。姉君がサハルだからな。うん、よい響きだ」
「ありがとうございます」
「実際、ファルファーレで地球時代からの名の由来を正確に答えられる者は少ない。イルマなど、私にはどこの姓か見当もつかん」
話を振られてアレックスは口の中のベーコンを急いで飲み込んだ。
「イルマというのはアジア出身だと思います。多分」
「ではショーゴ、いや、クドーとは先祖をたどれば同じかもしれませんね」
サッタールの返事に、マクガレイは大きくうなずいた。
「我々の先祖は、皆、猿で、その前は蛙で、さらに言えば魚みたいなものだからな」
蛙はごめん被りたいと機関士長が不機嫌に断言し、軍医が種の分化について一席語り出したのをしおに、テーブルの緊張は薄れていった。
そんな会話の後だったからか、医務室で根気強くクドーの口に食事を運ぶサッタールの隣に座って、アレックスは意識不明の男の手をそっと握ってみた。
アレックスは少し縮れた黒髪に濃いブルーの瞳を持っているが、この男の髪は赤みがかったまっすぐな栗色の髪だった。瞳を見たことはないが、黒だという。
顔立ちだって似たところなどないのに、少しだけ親近感を抱いて、細かな傷痕のある手をそっとさする。
「あなたとも話してみたいな、ミスター・クドー」
小さく話しかけると、サッタールがちらりと視線を寄越した。医務室には医療機器がところ狭しと据え付けられて、静かではあったが機械音が耳障りでもあった。
「クドーも喜ぶだろう。多分あなたと馬が合うと思う。彼も日常生活は大ざっぱだけど、繊細な思いやりのある男だから」
「日常生活が大ざっぱってところが似てるのかい?」
「違うか? クドーはよく服に食べこぼしをつけたまま作業に熱中して、ユイに文句を言われていた」
あははと笑いながら、気の強そうな小さな女の子を思い出す。
「そうだ。セントラルについたら君専用の通信機を用意しよう。そしたらユイに様子を知らせてやれるし」
言ってから気がついて、アレックスはサッタールの横顔に問うた。
「もしかしていらないかな? 君ならセントラルからでも島と連絡とれるんだったね」
「いや。念話はそれなりに集中力がいるんだ。距離があけばなおさら。文明の利器を利用させてもらえれば、それはありがたいな」
後ろでジャクソンが鼻を鳴らしたが、二人は気にしなかった。
『ショーゴ、起きてるか?』
口に入れた物は飲み込んでいるのだから起きているだろうと思ったが、ショーゴの返事はどこか物憂げだった。
『うん、でも眠い』
『点滴に薬が入ってるのか?』
『うーん、そこんとこはわかんねえけど。ああ脳波、取ってたぜ』
『脳波? それで?』
『とりあえず繋がってる機械をいじって脳幹部分以外のデータは測定不能って出しといたけど。でもアレ、軍医は気づいてるかも。なんだか近くにいる人間の思考もうまく読みとれなくてな』
『そうか……。いずれにしろセントラルではわかってしまうだろうから、それは気にするな。何をするにしても私の同意をとるよう、もう一度申し入れておく』
サッタールは表情を変えることなく告げた。
『よろしくー。あーでも、そこの、その脳天気野郎の思考はずいぶん鮮明に読めるぜ』
『手をマッサージしてるからな』
『へえ……イルマってのは地球のジャパンの姓だよ。俺と一緒。機会があったらそう言っといてくれ。よお、同胞ってな』
『わかった』
食器を洗い場に置いて、サッタールは、まだショーゴの手を揉みほぐしている士官を見つめた。同時にジャクソンもまたアレックスを見ているのに気がつく。
(まるで出来の悪い子供を見守る父親のような……)
と、考えて、自分の父親の記憶も呼び覚ましてしまい、心で頭を勢いよく振った。
自分のためにアレックスの立場が悪くなってはと思っていたが、どうもそれは杞憂らしい。ジャクソンの思考はとても読みにくかったが、あれほど言い争った後でもアレックス自身を敵視はしていない。
(私だけに憎悪を向けるなら問題ない)
そう思って、サッタールはジャクソンに気づかれないように静かに皿を洗った。