第8幕 逃走
橘美月はその時、急遽入ったバイトのシフトを終えて帰路についていた。
バイト代が増えるのは純粋に嬉しかったが、連日となったバイトに体が疲れているのを感じる。
朝は早くに起きて母と自分の弁当を作り、昼は学校で眠気と戦いながら勉強をし、夜は深夜までのバイト、帰ってもすぐに寝るわけにはいかない。
夜干しになるのが本当は嫌だったが、洗濯をし、母が作ってくれた夕飯を食べ、家の掃除をして、風呂に入り、それを掃除してからようやく宿題に取り掛かる。
高校に入ってからまだ一ヶ月ほどしか過ぎていなかったが、慣れない過密スケジュールで体には疲労が蓄積していた。
しかし、それでも美月はいつも笑顔を絶やさない子だった。
辛い、と思わないでもない。
それでも、母と一緒になって懸命に生きることが楽しかった。
綺麗で明るい先輩たちとも巡り合うことができた学校生活は充実し、退屈する暇がなかった。
大変ではあったが、気持ちは明るく保つことができたのだ。
家計は相変わらず苦しかったが、バイト代を貯めたらもしかしたら大学に進むことができるかもしれない。勉強を頑張れば、奨学金だってある。
大学を出れば、もしかしたら稼ぎのいい職に就くこともできるかもしれない。
そうしたら母の生活を楽にしてあげられる。
父が亡くなっていらい、美月のために自分の時間の全てを投げ出してきた母に、もう一度時間を上げることができたらどんなに素敵だろう、そう考えると美月は自然と頬が緩むのを抑えられなかった。
どんくさい自分には困難も多いだろうが、やってみる前から諦めるのは信条ではない。
どんくさいからこそ、努力してなんぼだろうと、美月はいつも思っていた。
そうやって彼女は育ってきたのである。
夜も更けた道を美月は進む。
暗い夜道も最初こそ怖かったが、今では慣れたものだった。
美月のバイト先は、学校をはさんで丁度家の反対側にある。
本当はいけないのだが、明かりの落ちた学校の敷地内に忍び込んでそこを突っ切ると、幾分か時間短縮になる。
多少罪悪感をかんじた美月であったが、その日も少しでも早く家につこうと、いつも鍵のかかっていない学校の裏門から敷地内へと入っていった。
たまに、誰か先生が夜遅くまで残って仕事をしているのか、校舎にあかりが点っていることもあったが、今日は誰も残っていないようで、校舎は完全に闇に包まれている。
校舎を横目に見ながら、美月は柊先輩と葵先輩のことを思った。
今日はもともとバイトが入っておらず、美月も愛好会の活動に参加できる予定であった。
葵に急遽入ったバイトのことを告げて足早に学校をあとにした美月は柊にそのことを告げる暇はなかったが、きっと柊先輩のことだ、頬をふくらませて不満そうな顔をしたに違いない。
その様子を頭に思い浮かべると、申し訳ないような、おかしいような、そんな気分になって思わず美月は一人で微笑んだ。
明日は、バイトのシフトもない。
数日ぶりに、三人で楽しい時間を過ごせるかと思うと、疲れた体に不思議と元気が湧いてくる。
明るい柊先輩と、いつもその柊先輩に手を焼いている葵先輩の輪の中に入れたことは本当に嬉しかった。
鼻歌でも歌いたいような気分になった美月が、校舎のB棟、オカルト愛好会の会室がある校舎を通り過ぎようとした時だった。
バギンッ
何かがひび割れるような音が頭上に響いた。
美月は何事かと頭上へ顔を上げる。
一見してそこには異常は見当たらない。
見当たらない、と思った次の瞬間。
ガシャンッと派手な音をたてて、今度は本当に校舎のガラスが割れる光景が、オカルト愛好会の会室があるはずの場所のガラスが割れる光景が、美月の目に飛び込んできた。
何が起こったのかと、思考する暇はなかった。
内側から壊されたガラスの破片が美月の目の前にバラバラと降り注ぐ。
もう少しでその身を切り刻まれているところだった美月ではあったが、しかし、美月にそんなことで狼狽する余裕は存在しなかった。
今しがたまでガラスがはまっていたはずのその窓枠には、月明かりに照らされながら異形の生物が身を乗り出してこちらを見ていた。
一見すると牛のようにも見える頭部には、うねった二本の角が生え、全身は深い毛で覆われている。
腕は四本生えており、その手の形は人間のそれと違って三つに大きく分かれていて細い指などは存在しない。
足は、窓枠にかけている一本しか見えなかったが、全身と同じように毛で覆われており、動物の蹄のような形状をとっていた。
人間のものよりもはるかに太く、荒々しいその体の背後には、コウモリのような翼が生えている。
そんな生物が、少し離れた美月の耳にもなまなましく届く荒い息を吐きながら、美月に目線を定めていたのだった。
悲鳴をあげたのかどうか、美月は覚えていない。
ただ、気がついたときには全力で走り始めていた。
家の方向に逃げようかと一瞬迷った美月だったが、そのためにはあの生き物の真下を駆け抜けなければならない。
そんな勇気は、とてもではないが美月にはなかった。
いや、たとえその勇気があったとしても、生まれてこのかた遭遇したことのない異常を前にしてその行動が正しいと判断することはできなかっただろう。
美月は反転して、家がある方向とは逆に、今来た道を戻るようにして走り出したのだった。
その時、なぜか美月は大通りの方向ではなく、学校から一番近い葵の家に向かっていった。
あとから考えれば、人通りの多い繁華街にでも逃げ込めば、手っ取り早く自分の身の安全を確保できたのかもしれない。
しかしその時の美月は逃げること以外には、殆どまともな思考を保つことができていなかった。
無意識の内に、日頃頼りにしている先輩の元へと逃げ出したのだった。
背後に、ズンッ、と何かが着地する音が響く。
美月は振り返る事ができなかった。
あの異常は自分を見ていた。
はっきりと、視線を定めていたのだ。
恐ろしかった。
心の底からの恐怖を、生まれて初めて経験した。
全身が危険を察知して粟立っていた。
どうにかしよう、などという思考は生まれてくるはずがなかった。
ただひたすらに逃げ出さなければ、一瞬で足がすくんで動かなくなる確信があった。
運動が苦手な美月であったが、その時の美月の走りはまるで風のように道を駆けた。
混乱に陥っている美月にはそのことを自覚することは叶わなかったが、恐怖で頭の中の何かが外れていたのかもしれない。
美月を知る人がその時の美月を見れば、皆一様に驚いただろう。
それほどまでに、美月の走りは早かった。
実際、その時美月を追いかけていた異形の生物は平均的な人間の身体能力など軽く凌駕するほどの体力を誇っていたにもかかわらず、美月の疾走は二人の間隔を僅かずつではあるがひらかせていたのだった。
こみ上げる恐怖によって、美月は後ろを振り返って異形の生物との距離を測ることもできない。
いくつもの路地を駆け抜け、角を曲がる。
がむしゃらに走り続けるうちに、いつの間にか限界近くまで酷使された足がガクガクと力が入らなくなってきていた。
山上葵の家まで、あと僅かの距離である。
その場所まで来て、美月の中に僅かに安堵が広がる。
もう少しで、葵先輩に会える。
元々美月が葵の元を目指したのは、葵に助けてもらおうとか、合流することでどうにかしようという策があっての行為ではない。
余りに唐突に降りかかった理解不能の出来事に、半ば錯乱状態となった上での行動であった。
そのためか葵の家のすぐそばまでたどり着いただけで、未だ自身の安全が確保できたわけでも、問題を解決できた訳でもないのに、美月の中に一種の油断ともとれるような感情が生まれたのだった。
一瞬の出来事であった。
それまで奇跡のように美月を運んで来た足が、もつれた。
バランスを立て直す余裕はなかった。
それまでのスピードを殺すことができず、足がもつれた状態のまま美月の体が完全に宙に浮く。
まずい、と美月が認識した瞬間には、既に美月は両手から地面に派手に投げ出されていた。
倒れてもなお勢いを殺せないまま、美月はかなりの距離をゴロゴロと転がる。
手はもちろんのこと、膝や顔をすりむいたようで、体のあちこちが一気に熱を持ってヒリヒリと焼け付くようだった。
しかし美月はその痛みに気を取られることも許されない状況に、慌てて痛む体をギシギシと軋ませながら顔を上げる。
自分が今しがた駆け抜けてきた後方へと目を向けた美月の視界には、静かな路地の光景が映った。
そこに、異形の生物の姿は認められない。
一体、どれほどの時間を逃げていたのだろうか。
いつから、こんなに異形の生物との差を開いていたのだろうか。
一切後ろを確認することなく走り続けた美月にはわかるはずもなかったが。
異形の生物がすぐ間近に迫っていないことを確認した美月の胸の中には安堵が浮かんでいた。
美月は膝に力を入れて、立ち上がろうとする。
逃げ延びたのならば葵の家に行く必要はないかもしれないが、今は葵に話を聞いてもらって自分の不安を―――――――――
不安を―――――――――
と美月が考えた瞬間であった。
ゴッ、と凄まじい風と共に、
曲がり角から異形の生物が美月の視界に、飛び込んできた。
異形の生物はその凄まじい勢いに急停止をかけると、そのままの姿勢で顔を美月へと向けた。
―――――――――笑った
牛のような顔をしているその生物が、本当に笑ったのかどうかは見た目では判断しづらい。
しかし、美月はその時、その生物が確実に笑ったように目に映った。
ニタリ、と、地面に膝をつく美月をあざ笑うかのように。
異形の生物が、一歩、美月へと足を踏み出した。
一歩、また一歩と、ゆっくりと美月への距離を縮める。
その生物はもう急いではいなかった。
美月の表情に、絶望を読み取ったのかもしれない。
これ以上、逃げることは出来ない。
美月がそう考えた事が、伝わってしまったのかもしれなかった。
異形の生物が迫る。
美月は片時も目を離すことができなかった。
頭の中を様々なことが駆け巡る。
母が、写真でしか記憶のない父が、柊が、葵が、クラスメイトが、バイト仲間が、次々と美月の頭の中に浮かんでは消えていった。
「美月ちゃん!!!!!!!!!」
しかしその時、諦めかけていた美月を力強く呼ぶ声が聞こえた。
弾かれたように美月は、自分の名前を呼んだその声を振り返る。
異形の生物とは反対側の路地に、山上葵の姿があった。
「こっちへ!早く!!」
山上葵は自身の危険を顧みず、美月の元へ駆け寄ろうとしていた。
美月は、立ち上がった。
「葵先輩っ!!!!!!!!」
もう立ち上がることすらできないと思っていた両足に、全力を込めて、走り始める。
背後で、獲物に無駄な抵抗をされることに憤るようにして異形の生物が唸り声をあげる音が聞こえたが。
美月は恐怖を感じなかった。
葵先輩がいる。
今は、葵先輩がいる!
美月が葵の元へ駆け寄ると同時に、葵は美月の手を取って自分の家とは違う方向へと走り始めた。
その額には、汗が滲んでいる。
しかしそれを見ても美月の心の中に焦りは生まれなかった。
葵の表情が、恐怖を浮かべていなかったからだ。
「柊ちゃんの家へ!」
走りながら葵が叫ぶ。
行ってどうするの?だの、逃げきれない!だの、そんな事は美月は思わない。
自分が頼りにしている人が、明確な意思でもってそれを指示しているのだ。
美月は声を上げることも苦しくて出来ないのを我慢しながら、一つ大きく頷いた。
柊先輩の家へ・・・
柊先輩の家へ!
急げ
急げっ!!!!!!!