第2幕 大好きだよ、エド
柊は泣いていた。
先程までのはつらつとした彼女の姿は微塵も感じられなかった。
両手を顔にあて、さめざめと涙を流す。
初めてだった。
こんなにも誰かを愛おしく思って
その人と繋がれていると実感できるぬくもりが感じられることが。
それが起きた瞬間に、今まで柊が立っていた世界のすべてが変化していた。
それまで幸せに満ちていると思っていたものは風に散らされるように吹き飛んだ。
世界が真っ暗になる。
あると思っていたものは、存在しなかった。
上も下も、右も左も、前も後ろも、すべてが闇に飲み込まれる。
あぁ、だけど
前の方が、淡く輝く。
闇の中を進む。
進む。進む。進む。
ゆっくりと踏み出したはずの歩みはいつしか早歩きに変わる。
進む。進む。進む。
早歩きはいつしか緩やかな走りに変わる。
進む。進む。進む。
緩やかな走りは、とうとう全力疾走へと変わる。
足がうまく動かない。
すぐに息が上がり始める。
転びそうになり、体のバランスを崩して倒れそうになったとき、その光は強烈な光の渦となって柊の体を包み込む。
あぁ
温かかった
光が収束する
僅かに光りながら ソレが姿を形作る
ソレは柊の体を、両手で優しく抱きしめていた。
優しい目をしている
温かい手をしている
柊はソレの胸に額を触れさせる
動悸の音が相手に聞こえてしまうのではないかと思うほどに大きく鳴っていた。
両手をソレの背中に回す。
腕に力を込める。
ソレの鼓動が伝わってくる。
今そこにソレが存在していることが感じられ、喜びで体が震えた。
一人ではなかったのだ。
自分がどうしようもなく一人だと悟った瞬間に、そうではないと否定する存在が目の前に現れた。
顔をあげて、ソレの顔を見つめる。
「・・・?」
ソレは、こちらを見つめていなかった。
僅かな焦燥が胸の中に生まれる。
何よりもそばにいるはずで、幸せで仕方がないのに。
ソレは自分を探すように目線を彷徨わせている
私を探しているの?
それとも違う誰かを探しているの?
気づいて。
私はここにいるよ。
ソレはこちらを見ない。
お願いだから気づいて、私はここにいるよ。
ソレはこちらを見ない。
冷や汗が背中を伝う。
つま先立ちになって、ソレの頬に触れる。
私はここに居るよ!?
ソレはこちらを見ない。
寂しそうに、辺りに視線を彷徨わせ続ける。
柊の胸の中に絶望が広がる。
私が見えていない。
確信する。
ソレの胸を叩く。
ねぇ?
ねぇっ!?
・・・私はっ!!!!!!!!!!
ここに居るからっ!!!!!!!!!!!!!!!
お願いだからっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「こっちを見てよぉっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
絶叫が教室に響いた。
シン・・・と教室に一瞬で静寂が訪れる。
数瞬ののち、何かが静寂を破って声を上げた。
「お、おい」
柊は涙を流したまま呆然と目の前の、自分に心配そうな顔を向けるそれに瞳を向ける。
「大丈夫か?」
優しそうな声だった。
先程までの頭の中に響いていた声が、今度はしっかりと鼓膜を振動させて柊の頭に響く。
涙を拭く。
鼻をすする。
目を開いてそれを見つめる。
「・・・大丈夫」
相手の反応に。
もう一度確信する。
相手は気づいていない。
常識では考えられないほどの、強烈な力をもってしてリンクが繋がったことに。
もしも気づいているのなら、今は、お互いが何も考えられなくなるほどの愛情に流されているはずなのに、その相手はただオロオロと困った表情を顔に浮かべるだけだったから。
何よりも、相手から僅かに流れ込む感情が、愛情ではなく、ただの心配であったから。
耐えられるはずがない。
たった16年しか生きてきていない少女には、あまりにも残酷な現実だった。
本当ならば今、柊とソレは固く抱きしめ合っているはずであったのに。
生きている間に巡り合えた喜びに打ち震えていたはずなのに。
何が原因かはわからなかった。
一方通行の溢れ出しそうになるほどの愛情が、見えないボトルネックに詰まって相手に届いていない。
契約は成就した。
成就したが、相手がそれを正しく理解していない。
「エド・・・」
柊が、一度も聞いたことのない、ソレの名前を口にする。
エド、と呼ばれた悪魔は僅かに驚いた感情を柊に流す。
「あ、あれ?成功したのか?」
エドが不思議そうな感情を流す。
「・・・うん」
「そ、そうか。俺はてっきり失敗したもんかと・・・」
無理もない。
エドは見えていないのだ、二人の間につながった強烈なリンクが。
それに
「エド、なんでけろちゃんなんです?」
それに
「・・・俺が聞きてえよ、どうなってんだこれ」
それに、エドはけろちゃんの姿をしていたから
台無しであった。
最悪だった。
正直柊はげっそりした。
赤い糸で結ばれた運命の悪魔はけろちゃんになってしまった。
バッドエンドどころの話ではない。
ケロちゃんエンドなど、どこの誰が得をするというのだ。
「一方的に、お前の方だけリンクが繋がってるのか?んで俺の方だけ失敗してこんな姿になっちまったのか?こんな失敗例、聞いたことねえぞ?なんでこんなことになったんだ?」
けろちゃんがパタパタと手を振る。
正直言って、可愛かった。
「そんなこと言われても・・・エドがやったんだから、エドがわからないんなら私だってわからないですし」
リンクが繋がっていなかったら、それがエドだなどとわかる者はいないだろう。
なんたって見た目は完全にけろちゃんである。
かろうじてリンクのお陰でそれがエドであると、当たり前のように認識できる事が柊にとっては唯一の救いであった。
つながりは感じられる。
「というか、エドエドって慣れ慣れしいなお前」
「どの口が言ってるんですか・・・。リンク開いておいて」
エドの言葉にギンッと柊の目が鋭くなる。
「ぐっ・・・、ま、まぁそうだが・・・。仕方ないだろ、俺はリンクがつながったことに対してなんの実感も沸かないんだからな」
「・・・言葉、通じてるじゃないですか」
「む?・・・あぁ、たしかに」
このけろちゃん、ちょっと抜けているのかもしれない。
「お前、名前なんていうんだ?」
エドがそう聞く。
「柊です」
名前すら、ボトルネックに詰まっているのか・・・。
内心で柊は大きく溜息をついた。
「そうか、柊か。意味は知らんがいい響きの名前だな、それで柊・・・おい、どうした?」
「・・・え?」
柊は顔を真っ赤にしていた。
「え?・・・えっ!?」
頬に手を添える。
燃え上がりそうなほどに熱を持っていた。
自分でも何が起きたか一瞬わからなかったが、すぐに理解する。
名前を呼ばれたのが嬉しくて、恥ずかしかったのだ。
「熱でもあんのか?」
「な、なんでもないでぅ!!」
語尾が変になった。
「大丈夫か?なんか顔があか・・・ごふぅっ!!!!!!!」
柊の右ストレートがけろちゃんの腹部に炸裂した。
「な、なにをしやが・・・」
「なんでもないですから」
再び柊がその視線を本場のあくまでも震え上がらせるほどに鋭くしてエドを睨みつける。
「うっ・・・。わ、わかった。」
ゲホゲホと血反吐でも吐きそうな勢いで咳き込みながら、けろちゃんが震えつつ体を起こした。
なんだかちょっと悪いことをしたかもしれない。
「それで、なんですか?」
「あん?」
「何か聞こうとしたんじゃないんですか?」
「あぁ、そうそう」
ポン、とエドことけろちゃんが手を打つ。
「お前どの程度の規模でリンク開いたん・・・ゴバァッ!!!」
再び柊の右ストレートがけろちゃんの腹部に炸裂した。
先ほどよりも強烈に放たれたそれに吹き飛ばされたエドが、教室の反対側の壁でバウンドし、ゴロゴロと転がりながら戻ってくる。
ゴロ・・・とようやく動きを止めたエドは、しばし硬直したあと、ブルブルと痛みに耐えながら健気にうつ伏せに倒れた体を起こそうとする。
「な、なにを、し・・・やが、る・・・」
けろちゃんを死亡寸前まで追い込んだ当の柊は顔を真っ赤にして、ストレートで突き出した拳をそのままにハァハァと肩で息をしていた。
「し、しりません」
「あん?」
「わ、私、リンクの事とか詳しくわからないんで、その、どの程度つながったとか、知りません」
・・・。
と、しばし教室が無言で支配される。
「いや、それはおかしいだろ。感情的なもんだぞ?お前が俺をどの程度の存在として認識してるかってことを聞い・・・ガハアアアアアアア!!!?」
ついに蹴りが炸裂した。
黄金の右足に蹴りとばされたけろちゃんことエドが天井で跳ね返り、そのままの勢いで床でバウンドし、ドン!ドン!ドン!と三回跳ね上がったあと、ゴロンと転がり停止した。
「ハァ・・・ハァ・・・」
柊は完全にゆでダコ状態であった。
汗が止まらないし、鼓動が早くて心臓が破れそうである。
答えられるわけがない・・・!
愛おしくてたまらないなどと。
言えるわけがない!
愛おしくて愛おしくて、エドのためならば一瞬も迷わずに命さえ投げ出せるなどと、言えるわけがない。
言っても今は、相手は受け止めてくれないのだ。
気持ちは一方通行なのだ。
片思いなのだ。
そんなの、重すぎるだろう。
相手が同じステージにいてくれなければ、こんな片思いなどなんの意味もない。
それがわからない程には、柊は幼くはない。
残酷な事を聞かないで欲しい。
頭がおかしくなりそうだった。
「そ、そそそ、そそれをもう一度聞いたら、こここ、今度こそ容赦しません」
「わ、わ、わかった・・・」
なんとか生きていたらしい。
エドはガクガクと体を震わせながら必死になって体を起こした。
「じゃ、じゃぁ質問を変えよう。ここはどこだ?」
ゲホゲホと苦しそうな様子でエドが聞く。
その様子が少し(?)かわいそうであった。
「・・・」
柊はエドに近づくと、ひょいとその体を持ち上げる。
「お?」
ポンポンと体についた汚れを払ってやる。
「おぉ、すまねえな」
エドも大概お人好しであった。
自分をズタボロに変えた張本人に素直に礼を言う。
エドのホコリを丁寧に落としてから、柊はその場に座ってエドを膝の上に抱く。そのままエドの頭に顔をうずめてしまった。
「お・・・おい?」
「日本ですよ」
「日本?どこだそれ?・・・おいこら離せ」
「余計な事言ったらこのまま締め上げますから」
ヒィッ!?とエドが悲鳴をあげる。
柊はそんなことするつもりはなかったが、どうやら信じて怯えているらしい。
失礼なやつである。
「日本って言ったら日本なんです。アジアの島国です。昔は武士がいて忍者がいて、陰陽師とかそういう魔術的な力を持ってたかもしれない人たちもいました。今は科学の国です。自動車が走って、人がいっぱいいて、悪魔なんていません。地獄とか天国とか、そういうのを信じている人もいるから、どこかに魔術は残っているのかもしれません。それで、この国があるのは地球っていう星です」
柊は一気にまくしたてる。
「お、おい、ちょっとまってくれ・・・何を言ってるか」
「エドのいた世界とは全然別の世界です。エドのことを知っている人はこの世界で、今は私一人です」
エドが動きを止めた。
「なんだと・・・?」
「エドが住んでいた世界は、ここじゃありません。全然別の世界から、こっちに来ちゃったんです、エドは」
「な、なにを・・・」
エドは完全に混乱していた。
無理もない。
リンクを繋げた際にエドから流れてきた情報は、たしかに平常時の柊であれば大混乱を引き起こすようなことばかりであった。
だが、エドの事で心の許容量をすべてあふれさせてしまった柊にとっては、それすらも今はどうでもいいことだったのだ。
冷静であるというよりも、興味がないと言ったほうが感情的には近いものがあった。
知れたのは断片的な視野の記憶ばかりだったが、総合的に考えてとても地球上の世界の出来事とは思えないものばかりをエドは見ていた。
「ど、どういうことだ?違う世界って・・・なんだよ?」
「だから、地球です。人間界です。エドがいた世界は、こっちの世界の感覚でいうと地獄っぽいところです。様々な種類の悪魔が住んでいて、悪いことをした人間が死後そこへ送られるって考えられてる世界です。」
「あ、悪魔?人間?」
必死に冷静を保とうとするエドが可哀想に思えた。
「とにかく、エドはあなたの友達も、家族もいない世界に来ちゃったんです」
「な、なんだよそれ・・・」
エドが苦しげに笑う。
「そんな話・・・信じられるわけ無いだろ?俺の世界が、消えちまったって?何を言ってるんだ?お前・・・」
「信じてください。リンクで繋がったんです。エドにそんな嘘を、いうわけがないでしょ。私以外のリンクを今感じるんですか?」
「・・・」
この言葉は相当きいたようだった。
エドは沈黙してしまう。
混乱と、徐々に増え始めたエドの絶望の感情が流れてきた柊は、ギュッと膝の上のエドを抱きしめる。
エドが可哀想でたまらなかった。
「俺が・・・消えちまったのか?・・・あっちの世界から?・・・俺だけ、放り出されちまったってのか?」
言わないで。
「みんなと・・・、みんなともう会えないのか?」
言わないで
「ど、どうやったら帰れるんだ?」
言わないで
「こ、ここで暮らしていくしかないのか?」
言わないで
「エリスと」
美しい女性の様々な映像が、一気にエドから柊へと流れ込む。
目をつむり、全てを委ねるかのようにした無防備な表情が映し出される。
全身の血が一気に引いていくような感覚がした。
「エリスと・・・」
お願い、言わないで
「エリスと、もう会えないかもしれないのか?」
待ってよ・・・こんなのってないよ
「エ、エリスが、俺を探してると思うんだ」
やだよ
「さっきまで、さっきまで一緒にいたんだ」
お願いだから
「エリスと」
待って!!!!!
「エリスとさっき婚約をしたんだ・・・」
自分の心が裂ける音が聞こえた気がした。
「え?」
突然力の抜けた柊の腕からエドが転げ落ちる。
「イテッ!」
エドが顔面から床に衝突する。
「お、お前なにすん・・・」
振り向きざまに文句を言おうとしたエドは、そこまで言って言葉に詰まった。
「おい・・・」
柊はまた泣いていた。
声を押し殺して。
僅かな嗚咽が教室に響く。
「どうしたんだ・・・」
エドの困惑した声が響く。
柊にはエドの気持ちがよく理解できた。
記憶の中で、エドは何度も、何人ともリンクを開いている。
その誰とも、ここまで強烈なリンクを経験したことはないのだろう。
想像がつかないのだ、今、柊の中で何が起こっているのか。
柊の中にあるものは、エドの常識の範疇をはるかに超えてしまっていたから。
好きで、好きで好きで好きで好きで
同じように愛して欲しくて、どうしようもなくて
どうしたらいいかわからなくて
胸が潰れてしまいそうで
息がうまく吸えなくて
だから柊は、ひとしきり涙を流すとエドの方を向く。
柊を心配する感情が流れ込んでくる。
だから、命を賭してでも、幸せになって欲しい相手に聞く。
「エドは・・・帰りたいですか?」
正直、エドの返答などどうでも良かったのだ。
エドの心なら、手に取るように今の柊にはわかる。
だから、エドの返事をよく覚えていない。
それは、自分に決心させるために言ったのだ。
「エドがこっちの世界に来た原因、たぶん、私です」
ちょっとふざけた調子でそれを言う。
もう涙は止めていた。
決心した瞬間に、それは実行できた。
涙って止められるんだなぁと、どうでも良い事を思う。
こんなに悲しいのに、こんなに押しつぶされそうなのに。
でも、エドを心配させたくない。
エドが元の世界に帰る時の足かせになりたくない。
笑顔で帰って欲しい。
幸せになって欲しい。
苦しくて苦しくて、涙が溢れたがって暴れるけれど。
エドのためなら、私なんてどうなったって構わない。
大好きだよ。
大好きだよ、エド。