天使の裡側 その2
校門前で向坂先輩と別れると、あたしは走ってその場を後にした。
『フォームが悪いですよ、真奈佳。腕の振りが乱れています。もう少しコンパクトにすれば運動エネルギーのロスが抑えられますよ』
天使さん改めマナエルはそんなアドバイスをしてくれるけれど、それで修正できるほどあたしの運動オンチは甘くないのだ。
身体の主導権はもうあたしに戻っている。
マナエルのときは外見や雰囲気だけじゃなく運動神経までよくなっているみたいで、体操選手もかくや、というくらいキレのいい動きを見せる。
HRが終わったときも、クラスの空気が緩んだスキを突いて、窓から外へ飛び出ていた。先輩との別れ際に向こうが一瞬であたしの姿を見失ったようになるのも、天使の奇跡の力だけじゃなくて、死角にもぐりこむようなすばやい動きをしているらしい。
でも、いくら椿井先輩がこっちを見失ったといっても、たった数十メートルしか離れてないんじゃ、あたしはとても安心できない。
だって、正体を知られてしまった。
昼休みにお兄ちゃんと向坂先輩が一緒にあたしのクラスを見に来たから、それは間違いない。
お兄ちゃんのことだから、何かの拍子についうっかり話してしまった、ってところだと思うけど。
あたしはあっという間に息切れして立ち止まり、
『急に止まると却って身体に負担がかかりますよ。ゆっくりでもいいので歩きましょう』
マナエルのアドバイスで再び歩き始める。
〈ごめんね、いきなりお兄ちゃんがバラしちゃって。絶対に話さないでって何度も言ったのに……〉
天使的には、その正体は重要な秘密のはず。あとでお兄ちゃんにも頭を下げてもらわなきゃ、と思ったけれど、マナエルはそのことには特に触れずに、
『椿井智実の出方は予想外でしたね』
〈そう? 二日目も続けて屋上へ来てたから、十分積極的なんじゃないかな〉
『いえ、先ほどの校内デートのことです。天使の存在について、もっとしつこく尋ねてくると思っていたのですが』
確かに、椿井先輩との会話といえば、ほとんどが雑談だった。
「マナエルは彼氏とかいるの」
「いません」
「誰かと付き合ったことは」
「ありません」
「じゃあ僕が初めての相手ってことだね」
「ありえません」
「え」
「これは交際ではなくただの同行ですから」
「あそうですか……、じゃあほかの天使でいいなと思った相手とか」
「そもそも私たちは他の天使個体との交流はありません」
「ふぅん……、そりゃまた孤独なことで」
こんな他愛のないやり取りを数分もしていると、あっという間に校門に着いてしまった。椿井先輩の残念そうな顔が印象的だった。
〈マナエルはそれを承知で、一緒に帰るのをOKしたの?〉
『天使の話題を出せば、即、打ち切るつもりでした』
それを待ってたんだ……。
〈でも、普通の世間話だけだったね〉
『おそらくこちらの腹を読んで、天使の話題に触れなかったのでしょう。なかなか計算高い少年です』
〈計算とかじゃなくて、マナエルのことに興味があるんだよ。先輩の告白もマナエルが表に出ているときだったし、一目惚れ、とかじゃないのかなぁ〉
『一目惚れ。容姿が気に入ったからという、浅い恋愛動機のことですね』
マナエルは辛口だなぁ。
〈違うよ、一目惚れっていうのはもっとすごいの、相手のことがキラキラ輝いて見えて、その輝きで視界が埋め尽くされちゃうの、誰かと比べて格好いいから、なんていうレベルじゃないの〉
『ご経験が?』
ありません……。
〈え、えっと、マナエルは恋愛がわからないって言ってたよね〉
『解さない、です』
〈似たようなものじゃない。それでね? この世界には、恋愛のありとあらゆる可能性を追求する一大文化があるの。それを読んだら、きっとマナエルも恋愛に興味が湧くと思う。強制とか言わないで、もっと素敵なものなんだって、みんなにアピールできるよ〉
『それによって私にマナカの言うような志向が生じる――つまり心変わりが起こる可能性はありませんが、参考資料として拝見しましょう。読むということは文献ですか?』
〈それは見てのお楽しみ。……ところで、向坂先輩のことをずいぶん警戒しているみたいだけど、ほかにも注意しなきゃいけない人たちがいるんじゃないの?〉
『複数形。天使委員会の方々ですか。大丈夫です、彼らは善意の協力者ですから』
屋上で天使委員会の人たちに囲まれたことを思い出す。
「あなたの手助けがしたい」なんていう反射的に断っちゃいそうな申し出を、マナエルは簡単に受け入れて、当然のことのように振舞っていたけれど、それはあたしにとって強い違和感のあることだった。
自分の着替えを使用人に任せる貴族みたい、というのは言い過ぎかもしれない。だけど、天使委員会の善意をそよ風のごとく受け止める、マナエルの堂々たる態度を見ていると、ちょっとしたことですぐ慌ててしまう自分が情けなくなる。
〈あたしは……、その善意がちょっと怖い。見返りはいらないって言われても、無条件で何かをもらってしまうと、それ以上に価値のある何かを返さなきゃって考えちゃう〉
『天使のシステムにおける不具合ですね』
〈不具合?〉
予想外の言葉に思わず訊き返してしまう。
『私が表に出ている際は、マナカに外界のことが一切伝わらない、休眠に近い状態になるよう設定されていればよかったのですが。それならマナカの気持ちを不安定にさせることはありませんでした。こちらのミスです。申し訳ありません』
〈何も見せない方がいいなんて、そっちの方が不安になるよ……〉
身体を貸すのは構わないとしても、その間、自分が何をしたのかがわからないなんて、考えただけで怖くなる。マナエルはそういうことは感じないのかな。
『しかし、私とあなたの関係がこういう形になっている以上、どうすることもできません。私が表に出ている間の、天使――マナエルに対する他者の言動については、観劇していると割り切って、あまりマナカ自身と関連付けないよう、注意してください』
〈うん、わかってる……〉
マナエルの〝他者〟という言葉に、あたしは天使委員会とは違う、別の人のことを考えていた。マナエルはもしかして、それを見透かした上で「自分と関連付けるな」って言ったのかな。
『マナカ!』
「えっ?」
急に強い口調で呼ばれて立ち止まる。
『赤信号ですよ』
二歩ほど前をトラックが通り過ぎて、その轟音に身体がすくむ。全然気づかなかった。
〈……ん、ありがとう〉
『いけませんね』
マナエルが重々しくつぶやく。
『ただでさえ貴重な時間を借りているというのに、それ以外の時間まで天使に関わって、マナカ自身の生活をおろそかにしては申し訳が立ちません。心内対話は控えた方がよさそうですね』
「それはダメっ!」
大きな声を出してしまい、周りの人たちが何ごとかと振り返る。
『マナカ?』
〈あ、その……大丈夫だから。お互いの意思疎通は緊密にしておかないと突発的な問題に柔軟な対応ができないでしょ〉
『それは一理ありますが……そうですね、問題といえば、事前に話し合っておきたい案件があったのを思い出しました』
〈でしょ? ちゃんと意思疎通を緊密に――〉
あたしはマナエルに反論させないためだけに言葉を連ねた。
――このやり取りがなくなってしまうのは嫌。
あたしはまだ、人と話をするのが苦手だった。特に同級生の女子とは、話題や考え方が合わない子が多くて、変に意見を主張して眉をひそめられることも多かった。同い年の子が普通に知っていることを知らなくて、話についていけないことが日常で。
だけど、マナエル相手なら顔色をうかがわなくてもいい。
あくまでも個人的な感覚だけど、彼女はきっと人間に対して好悪の感情を持っていないと思うから。
こっちをなんとも思ってない相手なら、気を遣わずにいられる。
それがコミュニケーションとして正常じゃないとわかっていても、曲がりなりにも誰かと繋がっているからまだ大丈夫――
自分を慰めるために、天使を使っている。
天使を裡に宿したあたしの罪深さを、懺悔できる日は来るのかな。
そんなネガティブに沈みそうな思考が、背後からの声で引き戻される。
「真奈佳」
振り返るとやっぱりお兄ちゃんだった。
偶然、なのかな。
もしかして、さっき向坂先輩と二人でいたところから見られていたんじゃ……。
「偶然だな、もうそのまま帰るんだろ? 一緒に行こうぜ」
偶然だな、なんて自分から言い出しちゃうところがすごく怪しい。
「ねえお兄ちゃん、あたしのこと……」
尾行してたんじゃ、と尋ねる前に、
「そうそう、ちょっと頼みがあるんだ。明日、弁当作ってくれよ。男一人分」
お兄ちゃんは低姿勢で両手を合わせた。
「えっ……」
「ダメか?」
「ううん、別にいいけど……」
その頼みは、唐突だったけど特におかしなものじゃない。
あたしは以前から自分のお弁当を手作りしていたので、ついでにお兄ちゃんの分を用意することも多かった。返事が少し遅れたのは、お弁当を作るのが久しぶりで、上手に作れるか不安だったからだ。
「どうしたの? お小遣いの節約?」
「いーや、手土産だ」
お兄ちゃんはニヤリと擬音がつきそうなくらいに口元を上げる。
あ、悪だくみしてる顔。
小さな頃から、派手ないたずらをやらかして、あたしもときどき、それに付き合わされて一緒に叱られたりした、その発火点の顔だ。
嫌な予感なんていうレベルじゃない。無理難題を確信しつつ、あたしは訊いた。
「誰に?」
「お前に告白してきたやつがいるだろ」
「あれはあたしじゃなくてマナエルに……」
「まなえる?」
「天使さんの名前だよ。よその天使と区別できるでしょ」
「ふーん、まあいいや。あいつと、あと生徒会の副会長がいるだろ。あいつらにちょっと話をしとかないといけないだろ。天使の宿主としては」
椿井先輩と、生徒会副会長の向坂先輩に?
一瞬、心の中で首を傾げたけれど、すぐにそのつながりに気づく。糾弾するべき人がいることにも。
「――って兄ちゃん、どうしてあたしのことバラしたの?」
「バラしてない」
お兄ちゃんは目を逸らした。
「あれは向坂の――アレだ、誘導尋問みたいな、なんか巧妙な罠、のようなものにハメられたんだ。オレのせいじゃない。あいつは姑息だ。女みたいな名前のくせに……」
その言い訳からは、うっかり口を滑らせた臭がぷんぷんする。だけど、一度誤魔化したからには、お兄ちゃんは頑としてはぐらかし続けるだろう。
「もう……、それで、どんな話をす――」
『言うまでもないこととは思いますが』
マナエルが心の中で口を挟む。
『私は天使の秘密に関わることを話すつもりはありませんよ』
「どうした?」
マナエルの言葉が聞こえないお兄ちゃんは怪訝な顔をする。
「あたしが呼ばれたのって、天使のことを知りたいから? それならお断りしないと……」
椿井先輩は天使の秘密を探ろうとしている、とマナエルが警戒していた。
マナエルが嫌がることはしたくない。
「いや、知りたいのは向こうだよ。椿井智実ってどうも胡散臭いやつだろ。何が目的なのか、直接話をしたら少しはあいつの考えもわかるんじゃないかと思ってな。オレだけじゃあいつの求めるネタを出せないけど、真奈佳も一緒に来てくれたら、椿井の口も軽くなるかも知れん」
『存外まっとうな提案ですね。乗りましょう』
「そういうことなら……」
あたしはうなずいた。
マナエルが同意するなら断ることはない。椿井先輩がどういうつもりなのかも気になるし。
それにしても、マナエルって心なしかお兄ちゃんへの口ぶりが厳しいような。椿井先輩のことも、ちょっと警戒が過剰な気がするし。……男嫌いなのかな。
「そうか、じゃあ弁当のこと頼んだぞ」
お兄ちゃんはあたしの肩をぽんと叩く。
あまり深く考えずに返事をしちゃったけれど、あたしのお弁当なんかで手土産になるのかな。学食のA定食の代わりなら400円相当。ギリギリそれくらいの価値はあると思いたいけれど。
お兄ちゃんと並んで話をしつつ、頭の片隅で明日の献立を考える帰り道だった。