天使の名前
東園高校では、午後5時が一般生徒の下校時刻になっている。チャイムが鳴り、下校を促す放送が流れ、部活で使われない全教室が施錠される。屋上だって例外じゃない。
「よし、それじゃあ、今日はここまで!」
天使委員会の会長であらせられる日下部先輩(名前は小耳に挟んだ)の声が響く。
「長かったわ」
楓がため息をつきながらノートを閉じる。ときおり吹く風には苦戦したようで、あとで清書しなきゃ、などとつぶやいていた。
ケータイを開くと5時5分前だった。僕は文庫本を閉じて立ち上がると、楓が宿題を片付けるのを待って、二人で天使たちのいる階段室前へ歩いていく。
天使は委員たちに向けてねぎらいの言葉をかけていた。受ける委員たちはかしこまったり、憧憬の表情を浮かべている。「ありがたき幸せ」とか言いそうな顔だった。
僕たちが近づくと、日下部先輩がこちらを向いた。
「なんだね、今日は終わりだと言ったはずだが」
「それを待ってたんです。終わったのなら、あとは下校するだけですよね」
日下部先輩を一瞥し、次いで天使を見据える。
「家に送る、とまでは言わない。学校を出るところまででいいんだ。ちょっと付き合ってくれないかな」
「なぜですか?」
問いかけと同時に風が吹く。天使の髪はなびかない。
「話をしたい」
さらに一歩踏み込み、声を下げる。
「……僕は、君の秘密を知っている」
天使の正体は柊真奈佳。
最初から切り札を切った。
脅迫じみたやり方だが、天使を相手に駆け引きする意味があるとは思えない。何をやっても見抜かれると警戒したのではなく、何をやっても響かないだろうという諦めだった。
そんな僕の内心を見透かすように、天使は口元を上げた。
「あなたのアプローチには、恋を感じさせる要素がありませんね」
こっちが臨戦態勢で来たというのに、天使はあくまでも『問題』の延長だという。
切るカードを――それどころか挑むゲームを間違えている、という言外の皮肉だった。
僕は天を仰いで頭を切り替える。対峙する精神状態を忘れるんだ。今は『天使の問題』のルールに則らなければならない。
ふさわしい精神は求愛だ。冗談みたいだ。それを演じる役者にならなければ。
「……不相応にも天使を見初めてしまった、愚か者の願いを聞いてほしいんだ。下校までの間、君の貴重な時間を僕に――僕だけの天使になってくれないかな」
ダンスのパートナーにと申し込むように右手を差し出す。
天使がそれを見つめている間、僕は委員たちや楓、残っていた生徒数名の無遠慮な視線に晒されるハメになり、羞恥は体感時間を引き延ばしていく。変な汗が出てきて、受けようが拒もうがどっちでもいいからとにかく早く決めてほしい、と投げやりな気持ちになってきた頃、
「わかりました」
天使が手のひらを重ねた。
小さくて冷たい手。
白磁のような指先。
そういえば、天使をこんな間近で見るのは初めてだ。いつも高所から見下ろされていたのでわからなかったが、身長は僕の肩口ほどまでしかない。
「あなたの勇気に免じて、お付き合いしましょう」
天使の口調は淡々としていたが、この返事の、人間へのインパクトといったら。
「エスコートを」
と促されるまで、僕は身動きが取れなかった。
周囲の人々が戸惑う中を、僕は天使の手を引いて歩いていく。
空白しそうになる思考をどうにか繋いで、貴重な時間をどう使うのか考えをめぐらせる。
正体を探るようなアプローチは天使にしょっぱなから否定された。さらに話題に出そうものなら、即座にこの時間を打ち切られかねない。
じゃあどうする。
天使の提示したルールに従うしかないだろう。
ルールに従うことでチャンスを得たのなら、それを続けることでしか、この関係は維持できない。天使の意図はわからない。人間代表として僕を試しているのか、それとも僕の期待していた反応があったのか。
どちらにしろ、現状維持以外はゲームオーバーの可能性が高いという状況は、どうにも手詰まり感が強い。
恋愛は惚れた方が負け。そんな常套句を思い出してしまう。
屋上の扉を開けて中に入り、人目がなくなると、どちらからともなく手を離す。
「……ええと、まずは礼を言っておくよ。ありがとう」
「必要ありません。勇気に免じて、と言いました。あなた自身の行動で勝ち取った権利だと考えてください」
天使の表情からは、それが本心かどうかはわからなかった。天使のポーカーフェイスは完璧だ。意図しない表情を見せたことはないんじゃないか、とさえ思える。
「そりゃどうも。……ところで、どう呼んだらいい? 固有の名前はあるの?」
「ありません。天使さんとでもエンジェルとでも、好きなように呼んでください」
無表情に言う。名前に頓着していないのだろうか。天使は各校に一体ずつなので個別の名称が不要とはいえ、ただ天使と呼ぶのも芸がない。
「じゃあ、マナエルでどう?」
僕の提案に、天使の目が鋭くなる。
マナエルという名前はもちろん柊真奈佳から取ったものだ。真奈佳のマナに、ミカエルとかガブリエルのエルをくっつけただけ。シンプルだが、こういうものはあまり凝りすぎても恥ずかしい。
問題は、柊真奈佳との関わりをほのめかすこの名前が、暗黙のルールに抵触しないか、ということだ。
「積極的に否定する理由はありません」
「消極的に嫌がってるのか……」
「天使めいた名前を名乗ってしまうと、名無しの天使でいるよりも俗っぽさが増してしまうような気がするのです」
「名乗るほどの者じゃない、って格好つけたいってこと?」
「名前とは装飾品に近いものだと考えます。飾り立てるほど世俗へと沈む重石です」
高いところで人間たちを見下ろしていたいのだろうか。
……いや、そうじゃない。
そうじゃない気がするが、ほかの理由も思い浮かばない。ただ、説明できない違和感があった。
「いいじゃないか、世俗にまぎれた方が、人間がよく見える」
僕の一押しに天使は黙り込み、0・5階分ほどの時間を消費してしまったが、
「……わかりました」
ため息混じりに了承した。よし。
「それじゃあよろしく、マナエル」
自分の考えた名前を声に出して呼ぶのは、不思議な感覚だった。犬や猫ならともかく、外見上は人間にしか見えないものに対して、名前をつける日が来るなんて。
天使の名付け親。
そのフレーズにおかしみを感じながら階段を下りていく。
そういえば。
わざわざ一緒に待ってくれた楓を置いてきてしまった。けれど、この状況で彼女を待つこともできず、僕は浮かんだ迷いを断ち切って天使とのやり取りに集中した。