降臨の日 その3
ホームルームが終わると、クラスの騒がしさは最高潮になった。
廊下を見ると全力疾走で階段へ向かう生徒も多い。次に目立つのは、音楽室など文科系の教室が詰まった第二校舎に向かう生徒だ。
窓を開けて上の方を指さし、物見高そうな顔で騒いでいる。
第一校舎の屋上が見える位置に陣取っているのだろう。ご苦労なことだ。
「さ、行くわよ」
下りの階段の前で、楓が腕組みをして立っていた。
「がんばって、副会長」
軽く手を上げてエールを送ると、その指を鷲掴みにされる。
「はは、ヤンチャだな痛たたた」
鷲のように爪が食い込んでホントに痛い。
「屋上はきっと人であふれかえっているわ」
楓は目を伏せて気弱げな表情をする。
「生徒会の人間として、そんな場所で感情的になるわけにはいかないの。だから、屋上に着くまでに、自称天使が恋愛を強制する理由を説明して、私を納得させて」
無茶をおっしゃるその前にもう少し握力を弱めてほしい。
「それなら本人がもう話してたじゃないか。恋愛が個人を豊かにして、その豊かさが集まって世界も豊かに――みたいな」
「眉唾だわ」
楓が一蹴する。僕もうなずくしかない。
「自分で言ってて笑いそうだった」
「でしょう?」
楓はようやく手を開放すると、回れ右して階段を上っていく。
「あんなの宗教家の言い草よ」
仕方ない、と思いつつ僕も楓に続いて階段に足をかける。
「彼女が宗教家なら、自分の信じていないことだって真実のように話せるんだろうね」
「じゃあ本物の天使だったら?」
「本気で恋愛の可能性を信じているか、あるいは信じたいと願っているのか」
「恋愛なんてしちゃったら平穏な心じゃいられないし、気持ちが豊かになるとも限らないってこと、わかってないのかしら」
「砂糖菓子みたいな恋しか知らない子なのかもね」
「何よ、その酸いも甘いも噛み分けてます的発言」
「そっちこそ」
わずかにやり取りが途切れると、その隙間に大勢のざわめきが紛れ込んできた。階段を上がるにつれて人が増えて、恋愛がどうのといった恥ずかしい話をしづらくなる。
屋上に出ると同時に放課後のチャイム。
「思っていたよりも少ないわね」
楓の言葉に僕はうなずきを返す。
階段こそ人でごった返していたが、屋上自体の人口密度はそう高くない。ぱっと見たところ30人もいないくらいだ。みんな興味はあるが、直接ここへ来るほどがっついているわけではないのか。
いや、違う。
おそらく、ほとんどの生徒が信じていないのだろう。そして、あんな放送をぶった人物に興味はあるが、それにつられて屋上へ行けば、本気にしたのかとか、物好きだなとか、そういった冷やかしの対象にされると感じている。
「踊る阿呆と見る阿呆」という言葉がある。「同じ阿呆なら踊らにゃ損」と続くけれど、シャイな現代人は踊って注目されるのが苦手なのだ。だからみんな又聞きの情報ですべてを知った気になって満足してしまう。
自称天使の姿を探して辺りを見回すうちに、僕は奇妙なことに気づいた。
今朝の放送は、放課後に騒ぎを起こしますと宣言したようなものだ。それなのに、どうして教師がただの一人も監視に来ていないのだろう。階段での制止もなかった。
やがてチャイムが鳴り止む頃、誰かが階段室の上を指さした。
僕もそちらを振り返る。
生徒の注目が集まると、それが合図だったかのように、給水タンクの後ろから人影が姿を現した。
――ちゃんと女子生徒の姿をしていた。逆光で顔はよく見えないが、長い髪が風になびく様子は、少なくとも天使のイメージを損なうものではない。大仰に言えば神々しくもあった。
屋上にいる全員が彼女の登場に身構え、そしてその一挙一動を見逃すまいと注視する。
「では、質問をお受けしましょう」
放送と同じ声だった。屋外でも凛とした響きに変わりはない。
自称天使は眼下の生徒たちを一瞥し、手前の男子生徒を指名する。
「まずはあなたから、どうぞ」
急に指された男子生徒は、とっさのことに返答ができないでいる。
少しばかり拍子抜けだ。もっと放送のときのような長広舌があると思っていた。
まごまごしている男子生徒を置いて、
「はーい、それじゃアタシからいいですかぁ?」
と、軽い――もっと言えばチャラい態度で、チャラい外見の女子が手を上げる。
「どうぞ」
「どうしてレンアイとか、変な問題を出すんですかぁ? 天使さんって欲求不満ですかぁ?」
チャラい女子の周囲のチャラいグループが爆笑すると、それを皮切りに野次が拡大していき、すぐに収拾がつかなくなる。
どうすんのコレ、と隣を見ると、楓は目を細めて思案顔をしていた。
「おかしいわ」
「何が」
「ここは風があるのに、彼女だけは髪も制服もなびいていないでしょう?」
楓の指摘は些細なことだと、このときは思っていた。
「ある意味じゃ強風だよ、逆風だよ。……仲裁しなくていいの、あれ」
「もう少し、彼女の出方を見てからにしたいわ」
出方も何も、自称天使はさっきから一言も発していない。
大勢の野次に晒されて、すっかり萎縮してしまったのでは――そう思っていたが、意外にも彼女に怯えた様子などまったくなかった。
糾弾の声は彼女の心に何の影響も及ぼしていない。そう確信できるほどに淡々とした、観察するような視線を眼下の生徒たちに向けている。
ふと、彼女が動いた。
両手をゆっくり胸の前に掲げて、パン、と一回、手のひらを打ち鳴らす。
その動作に一体なんの意味があるのだろう。興奮した生徒たちをさらに挑発してどうする、と思ったが、その危惧は的外れに終わった。
生徒たちは沈静化したのだ。スイッチが切れたように野次が止まったかと思うと、さらに電池が切れたようにその場にくずおれる。
立っているのは僕と楓を含め数人ほどの、まともに話を聞こうとしていた人間だけで、残りは膝をついてしゃがみこんでいる格好だ。気を失っているわけではない。黙って座れと言われたのでそれに従っている――そんな、強制された動きのように見えた。
この異様な事態には、静観を決め込んでいた楓も動かざるを得ない。しゃがみこんだ生徒たちを避けながら自称天使の少女へと向かっていく。僕もあとに続く。
「なんなの……これ」
楓の声はさすがに少し震えていた。
「あなた一体、何をしたの?」
「柏手です」
少女はやはり淡々と語る。
「こちらの文化圏において、神に参拝する際の行為というほかに、邪気を祓う意味合いもあるのでしょう? 後者のイメージを上手く乗せることができました」
「何を言っているの、あなた」
楓は顔をしかめ、少女を見上げる。
僕も同じような顔をしているだろう。自称天使の言っていることは意味がわからない。
邪気を祓うために柏手を打つ。
そういう作法があることは知っている。だけど、それはあくまでも作法であって、柏手ひとつに人を
黙らせて身体を屈服させる効果なんてない。
だが、この少女が〝本物〟であれば話は別だ。
「周囲の風も同じようにイメージして止めてるの?」
僕がそう尋ねると、隣で楓が怪訝な顔をする。
自称天使の少女は口元を上げた。片方の手を制服の胸元に置いて、
「はい。高所から格好よく出てみたのはいいのですが、思いのほか風が強かったもので。貞淑を保つための措置です」
澱みのまったくない返答だった。
「朝ごはんは食べてるの?」「食パン一枚だけです」というレベルの、日常的に〝そう〟だからこそのレスポンスだ。
手を叩くだけで人を制し、風を止める。それは彼女には当たり前のことなのだ。
――やった。
心の中で喝采を上げる。
まさか、この学校に。目の前に現れるなんて。
「君は天使なのか?」
少女はゆっくりとうなずく。
「天の問いかけを人類に伝え、その回答を促す存在か、という意味での質問ならば、答えはイエスです」
「じゃあ、恋愛を強制っていうのも本気で?」
「私は冗談を言える立場にありません」
「どうしてそんな『問題』にしたの?」
「放送でお話したとおりです」
「やれと言われてできるものじゃないよ、恋愛なんて。それとも、さっきみたいな不思議な力で感情を捏造するの?」
「まずは意識させるところからです。〝恋愛を強制〟と大々的に宣言すれば、恋愛に興味のない生徒でも、その言葉は頭の片隅に残り、折に触れて考えるようになります」
「そうか」
核心に触れようとしない答え。
どうやら深い事情まで話すつもりはなさそうだ。
「最後にひとつ、いい?」
「なんでしょう」
「君が好きだ。僕と付き合ってほしい」
「申し訳ありません」
間髪入れずに断られた。
「――それに、『問題』の開始は明日からですので」
天使は軽く頭を下げると、身を翻して給水タンクの裏へと隠れてしまった。
「逃げられたか……」
フェンスぎわへ寄って隠れられそうな場所を探したが、完全に姿が消えている。これもいわゆる奇跡の力だろうか。
ルールを楯にされたのか、それとも天使自身が恋愛に絡むつもりはないのか、はたまたとっさの照れ隠しなのか。ひとまずこの問題は先延ばしになってしまった。
「お目当ては消えちゃったし、僕らも帰ろうか」
隣を振り返ると楓が真っ赤な顔をしていた。失礼にも僕を指さしながら、
「な、何考えてるのよあなた……」
「何って」
「公衆の面前で初対面の相手に、あんな、あんな……」
「告白したこと?」
「――聞き間違いじゃなかったのね。そんな軽薄な人だとは思わなかった」
楓はきびすを返して足早に階段へ向かい、僕もそれに続いた。
階段を下りながら話を続ける。
「軽薄なんかじゃないよ。天使に近づきたいという気持ちが出ただけさ。つい踏み出しても仕方ないじゃないか、人ならざる存在との禁断の恋、ああ、その行方や如何に、ってね」
「……やっぱりそういうこと」
踊り場で再び向かい合う。楓はもう落ち着いていた。どうやらおどけ過ぎたらしい。
僕は広げていた両手をそっと下ろす。
「あの天使個人じゃなく、天使という存在そのものへの興味――ってことでしょ」
「確かに美人だったけどね」
僕はうなずいて、
「世界に998件しかない降臨認定に加えられるかどうかはまだわからないけど、少なくとも僕にとって、あれは常識じゃ考えられない奇跡的な出来事だったから」
柏手ひとつで人を従わせたあの力はインパクトがあった。全員がグルになったトリックだという穿った見方もできないわけじゃないが……、
「偽物と一蹴することはできなくなったわね、残念だけど」
「そういえば、倒れてた連中は大丈夫かな」
ふと気になって話を変える。
心配というよりは、これも天使への興味の一端だ。
天使の奇跡を受けた人間はどうなるのだろう。
心身への影響は? 持続時間は?
「問題ないでしょ、少し看たけど意識ははっきりしていたし、もう立ち上がっている人もいたから」
さすがに副会長だけあって、そういうケアはしっかりしている。
――天使は人間に危害を加えない。
そんな、いつの間にかできていた不文律を鵜呑みにしたりしない。
とはいえ、実際、これまでに『天使の問題』を直接の原因とした死者はただのひとりも出ていない。よその「戦争ゲーム」などのかなり危険な『問題』であっても、である。
ただしこれは『問題』が天使によって完全に掌握されているからではない。もっと強引な、力技での解決――つまり、重傷者が出た場合は、奇跡の力で治癒しているのだ。
「彼女が本物だとすると、明日からは大変そうね。偽物だったら今日が最高潮だったのに」
楓が深いため息をつく。
「天使曰く、クリスマスまで続くらしいからね」
つまり、最低でもその日まで盛り上がり続けていくということだ。
「あー、「恋愛強制」を『問題』にするだけあって、雑念てんこ盛りの、ふしだらな意図を感じざるを得ない期日設定だわ」
不機嫌さを隠さない楓の言葉は、生徒会の立場ゆえの、風紀の乱れを懸念した発言とも取れるが「馬鹿と言った方が馬鹿」の真理に照らすとあら不思議、途端に向坂楓ムッツリ疑惑が浮上する。
指摘しても必死で否定されるに決まっているので、僕は「確かにね」と無難に相槌を打っておいた。
帰宅後、食事を済ませて自分の部屋に戻ると、僕はすぐに、ここ最近の日課になっている『天使の問題』の情報収集に取り掛かる。
『問題』に選ばれた学校は、天使の保護によって内部の情報が遮断される。
政府が早期に実施した報道規制と合わせて、『天使の問題』は話題性の割にメディアの情報量がかなり小さくなっている。
もっとも、それは規制に従って無茶のできないテレビや有名新聞など、大きな媒体だけの話。ゴシップ寄りの週刊誌やスポーツ新聞なんかは、噂の域を出ない情報でもお構いなしに載せて部数を荒稼ぎしている。
だが、それもネットの動きには遠く及ばない。
ツイッターやブログ、掲示板での盛り上がりは〝祭り〟なんてレベルをはるかに超えて、今じゃフォロワー数ランキングの上位は有名人ではなく『天使の問題』に選ばれた学校の生徒たちで占められている。
天使の保護はあくまで外部の目から生徒を守るためのもので、内側からの情報発信には寛容だ。
もちろん身元を偽ってニセの情報を発信する人間は後を絶たなかったが、よく読めばウソとわかる練り込みの弱いネタがほとんどだったし、ときおり出てくるよくできた話に騙されたとしても、それはそれで面白かった。
天使の降臨から二日もすると、上質なまとめサイトや宗教学に絡めた天使に関する考察など、見ごたえのあるサイトが次々と出現して、どれだけリンクをたどっても飽きることがなかった。
議論も大いに盛り上がっていた。テレビの識者討論、ネット掲示板での益体のない罵り合い、居酒屋での酒の肴。誰もがこの『問題』を語りたがった。
だけど、誰も『問題』の答えを出せなかった。
尺が尽きるまで語りつくした識者も、四桁を超える応酬をした名無しも、呂律が回らなくなるまで杯を空けたサラリーマンも。
一般市民だけじゃない。
高名な宗教家も、有力な政治家も、優秀な科学者も、誰も。皆が納得する答えを出した人はいなかった。だからこそ議論は続くのだろう。
僕も、そんな人たちと同じだ。世界中に山ほどいる、天使に強い興味を持つ人間の一人に過ぎない。
『問題』に選ばれた学校の生徒たちがうらやましかった。答えに一番近いのは、天使に一番近い彼らだろう。
僕は特別にはなれない。
――そんな諦めが吹き飛んだ放課後だった。
楓には感謝しないと。彼女が誘ってくれなければ、僕はきっと屋上へ行ってなかった。
天使に近づけば、答えに近づける。
そう考えると勝手に身体が、口が動いていたのだ。
あっさり断られて出鼻はくじかれたが、あの程度で引き下がるわけにはいかない。
天使の出方をイメージして対応策を練る。
そんな思考を何度も繰り返しているうちに、画面の中の情報への興味が薄れていく。
現実の方が重みを増すのはいい傾向なのだろう、普通は。