閑二話:気のせいに、しておいた。
「さん、ぜろ、はち。……っと」
なんとなく口でそう言いながら、優奈さんの部屋の番号を押す。
「はーい。何でしょうか」
スピーカーから優奈さんの声が聞こえてくる。
「えっと、轟です。轟七海」
「あ、七海ちゃんか。どうしたの? 学校は?」
「ええと……ちょっと説明が面倒なことになってまして。降りてきていただけませんか?」
「いいわよ。ちょっと待っててね」
切断音が聞こえた後、なんとなく三年ほど前にここへ訪れたときのことを思い出した。
その日、それまであまり友好的な態度を取らなかった相馬が急に私を家に招待したのだ。当時は少なからず驚いたが、その日以降はかなりの頻度で相馬の、というか優奈さんの家に遊びに来ていた。私を家に呼んだ当の本人は家でも基本的に無口で、もっぱら私と優奈さんでお菓子を食べながら話したりするのが日常だった。
二年前、相馬がこの家に住むのをやめて以降も時々遊びに来ている。結局、優奈さんとは三年間の付き合いがあることになる。
そう言えば何で相馬は急に私を呼んだんだっけ、なんて考えていたら、優奈さんが降りてきた。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
慌てて挨拶をする。そんな私とは対照的に落ち着いた声の優奈さん。
「それで……何があったの?」
私にもたれかかって意識を失っている相馬に目を向けて、優奈さんが尋ねてくる。
「……先に、こいつ運びませんか?」
とりあえず、私の思う最優先事項を口に出してみた。部屋に入れてもらえない可能性だとか考えている余裕はない。顔には出さないようにしているが、背中にもたれかかっている相馬の重さにそろそろ耐えられそうにないのだ。
「それもそうね」
こんな私の苦労など露知らずな優奈さんが軽い調子で言う。
「私が左肩を支えるから、七海ちゃんは右から支えて」
「あ、はい。わかりました」
そんなこんなで、二人で協力して相馬を運び始めた。
● ○ ● ○ ●
「で、本当に何があったの?」
一息ついた優奈さんが改めて訊いてくる。ちなみに相馬は既に寝室のベッドに寝かせてある。
「まぁ色々……というか私にもよくわからないんですよ」
優奈さんの持ってきてくれれた麦茶を啜りながら答える。どうでもいいけど麦茶を運んでくるときの優奈さんを見て、なんかファミレスのウェイターさんとか意外と似合うんじゃないかなぁ、とか思った。
「私が見つけたときにはもうなんか半分気を失ってるような感じでしたし」
「うーん……あ、そういえばどうやってここまで相馬君を連れてきたの?」
なにか考え始めたと思ったら、急に今更なことを尋ねてきた。彼女のこういったところは三年まえからあまり変わっていない。じゃあ何が変わったのかと訊かれても特に思い当たるところはないのだけれど。
「ああ、上総が手伝ってくれたんですよ」
「え、何で上総君が?」
この『何で』の意味が少し分かりづらかった。上総が手伝ってくれた理由か、上総がここまで来てどこかへ行ってしまった理由か、そもそも上総がこの話に出てきた理由か。
どれにしたって、私にもわかっていない。
とりあえず、ひとつひとつ消化していくことにした。
「えっと……相馬の叫び声を聞きつけて飛び出してきて」
「え? 叫び声?」
何のこと? と、表情で尋ねてくる。そういえば、優奈さんは三年前より少し表情が明るくなったような気がする。思い当たり、一つ目。
「ああ、なんか叫んだんですよ。とんでもなくでかい声で」
「それは……ちょっと気になるわねぇ」
眉間に皺を寄せて、彼女は説明を要求してくる。
「いや、でも本当に突然だったんですよ。急に倒れたかと思ったら叫びだして」
自分で言いながら、要領得ないなぁ、と他人事のように思っていた。
ついでに、ふと思い出す。
「あ! そうだ! 泣いてたんですよ、あいつ! あいつが、泣いてたんですよ!」
つい興奮して、まくし立てるようにそう言った。
これには優奈さんも驚きを隠せないようだった。いや、別に隠そうとはしてないだろうけど。
「泣いてたの? 相馬君が?」
「はい。確かに泣いてました。あ、でも本人は気付いてない感じでしたけど」
私がそう告げると、優奈さんは机に突っ伏して、迷子の犬のようにうんうんと呻きながら悩み始めた。
「何か起こるとは思ってたけど……」
とか。
「まさか、こんなに早く……」
とか呟いていた。独り言っぽかったので無視することに決めた。
あの猫のことも話そうかと思ったが、なんだか場違いな気がしたからやめておいた。
そうなってくると、もう話すことがない。
時計を見る。今ならまだ、急げば一時間目の途中くらいには教室に入れるだろう。それに今日の一時間目は伏木の数学だ。あの男ならちょっとくらい遅刻しても何も言わないだろう。私は個人的に伏木のことが嫌いだが、そういうところは素直にありがたいと思う。
「すみません、優奈さん」
「うん? 何?」
「そろそろ学校に行ってきます」
「あ、ごめんね。引き止めちゃって」
優奈さんは机に突っ伏したままそう謝罪した。
「あと、相馬の分も学校に連絡しといてくれませんか」
そう言ったとき、彼女が一瞬だけ目をこちらに向けた。その黒い瞳には、微かに拒絶の意思がこもっているような気がした。
「うん、わかった」
気のせいに、しておいた。
● ○ ● ○ ●
自転車を全速力でこぎながら、ふと思う。
あの猫のことを話さなくて、本当によかったのか?
何だか今回の件の鍵を握っている気がする。あの猫は。
あの、子猫の啼き声は。
あの、『哀しみ』をそのまま空気の震えにしたような、そんな声は。