閑一話:そんな、声だった。
私はいつものように学校へ向かっていた。
特に何も考えず、なんとなく自転車をこぎながら、眼球だけでどこかに知り合いがいないか捜したりしていた。
「……うん?」
そんなとき、ある人物を発見した。
広瀬相馬だ。
彼は何故か立ち止まって、目を見開いたまま突っ立っている。
「……あれ?」
『広瀬相馬』が『目を見開いている』?
そんな姿、あの日以降私は見ていない。何かあったのだろうか。
少しだけ警戒しながら近づいてみた。
すると、彼の顔にはもっと衝撃的なものが浮かんでいた。
涙、だ。『広瀬相馬』が『涙を流している』!
驚いた私は声をかける。
「相馬! 相馬!」
彼はなかなか気がつかなかったようだが、十六回目の呼びかけでようやく気づいてくれた。
「轟……」
その声は、いつもの彼となんら変わりがなかった。もしかしたら、彼は自分が涙を流していることにさえ気づいていないのかもしれない。そう思わせる返答だった。
「相馬! お前……」
泣いてるぞ。そう紡ごうとした瞬間、彼が目を見開いて、私に倒れ掛かってきた。
「うおっ」
重かった。細身の彼にしては、信じられないほど。
「気を、失ってる?」
それならまだ理解が及ぶ。本当に気絶した人間はかなり重いと聞く。
「う」
突然、彼がそう言った。
嫌な、予感がした。
「うわああああああああああああああああああああああ!!!」
『広瀬相馬』が『叫び声をあげている』。
そんなことも考えられなくなるほどの轟音だった。彼の華奢な体のどこからこんな声が出ているのだろうか。
一秒。叫び終わった彼は、また気を失った。
ふと、私は振り向く。
猫が死んでいた。
相馬の存在に気を取られて気が付いていなかったが、なかなかにグロテスクな光景だった。思わず、目を背けてしまう。
すると、今度は声が聞こえてきた。
子猫の鳴き声だ。
その声がする方へ、目を向ける。
子猫が、啼いていた。
『鳴く』じゃなくて、『泣く』でも足りなくて、『啼く』でしか表せない。
そんな、声だった。
気付けば、私の頬にも雫が垂れていた。
● ○ ● ○ ●
「あれ、七海ちゃんじゃん」
その声が聞こえるまで、私は涙を流し続けていた。
「七海ちゃん、何してんの? こんな所で」
急いで涙を拭って、声の主のほうを向く。
「上総。あんたこそ何してんの?」
声をかけてきたのは、知り合いの相模上総だった。
「うん? いや、何か変な声が聞こえてきたから」
そりゃそうか。あんな叫び声聞いて気にしないほうがおかしい。
「ところでさっきの声は……もしかして相馬が?」
上総が相馬の方に目を向けて言う。
「……うん」
まだ信じていない自分がいるのか、曖昧な口調になってしまった。
「そっか」
上総は案外軽い口調で私の答えを信じた。
「で、相馬は大丈夫なん?」
「……大丈夫じゃないと思う」
多分。正直どうすればいいのかわからない。
「どうする? 高城センセのとこ連れてく?」
上総がそう提案する。
ちなみに上総と私、相馬は優奈さんを通じて知り合った。だから、上総がその発想に至るのはなにもおかしなことではなかった。
うん。それがいいと思う。そう答えようとしたら、ふと当たり前なことを思い出した。
「優奈さん、今日仕事じゃないの?」
「いや、今日は休みだったよ。確か」
なんであんたがそんなこと知ってんの? と聞くことももう面倒だった。
上総は何故か私たちが知らないことを大量に知っていた。それこそ、信じられないほど。物知りだとか、そんな言葉じゃ到底及ばない。どちらかと言えば情報通とか、そんな言葉の方が似合っていると思う。それでも勿論足りないが。
そんな人だから。
「まぁ、そうじゃなくても高城センセは相馬君を優先するんだけどね」
だから、そんな言葉を呟いても。
「しなきゃ、いけないんだけどね。あの人は」
なんて呟いても、気にしなくて済んだ。
「でも、どうやって?」
私は携帯電話なんて持ってない。だから優奈さんとか、誰を呼ぶことは出来ない。
「ちょっと待って」
そう言って、上総が相馬に近寄る。
「よいせ、っと」
上総が相馬を背負った。事も無げに、軽々と。
「重く、ないの?」
純粋な疑問が口から飛び出る。
「うん? まぁ見かけの割には重いかな」
信じられない。本当に何者なのだろうか、この男は?
私が呆気に取られていると、上総は相馬の自転車に跨っていた。
「これ、相馬のだよな? 二人乗りになっちゃうけど……まぁいいか」
そう言って、自転車をこぎだした。
「七海ちゃんも来なよ。ゆっくり行くから」
そう言われて、私も慌てて自分の自転車に飛び乗った。