第一話:ちょっとだけ気になった。
朝起きて、顔を洗う。歯を磨く。服を着替える。昔はこの一連の作業に『面倒くさい』やら『かったるい』やらの考えを持っていた気がするが、忘れてしまった。
朝食のコーンフレークに豆乳をかけて食べる。小学五年生の頃はこれを『美味しい』と言っていたはずなのだが、中学三年生の今はその言葉の使い方がわからない。
家を出て、自転車に跨って走り出す。全身で、まだ少し冷たい四月の風を浴びる。これは多分『楽しい』とか『気持ちいい』だったと思う。
そんなことを考えていたら、唐突に声をかけられた。
「おはよっ! 相馬」
その声の主は、小学校からの友達の轟七海だった。朝っぱらから元気な奴だ。
「ああ……おはよ」
だなんてメントスを入れたコーラの五分後くらい気のない挨拶で返したら、それでも彼女は満足げな表情で。
「じゃっ!」
とこれまた元気良く言って、深夜の暴走族の如き勢いで自転車をこぎだした。
彼女とは結構な腐れ縁だ。小学校の最初のクラスから中学校の最後のクラスまで全て彼女と同じだ。
といっても、小学五年生になるまではそれほど意識もしていなかったのだが。
四年生まではせいぜい女子の中ではよく喋る方、くらいの認識に過ぎなかった。
だが、あの日の事件が起きた後、多くの友人達が僕から離れていった中で唯一彼女だけが変わらず僕に近づいた。
それ以降、僕にとって本当の友達と言えるのは彼女だけだ。
「本当にありがとう。感謝してるよ」
もう既に米粒程度の大きさになっている背中にそう投げかけてみた。
でもやっぱり、その言葉は非常に軽薄で意味の無いものとなった。少なくとも、僕にとってはそう聞こえた。
……感謝してるのは、本当なんだけどなぁ。多分。
● ○ ● ○ ●
二十分後、僕は教室で本を読んでいた。話しかけてくる人は当然いない。轟は僕が名前も知らない女子たちと話している。多分彼女らも僕の名前を覚えていたりはしないだろう。
僕が二十ページほど読み進めたところで、担任の伏木が教室に入ってきた。
「ほら、お前ら座れぇ」
伏木はまだ二十七歳と若く、顔立ちも整っているため女子に人気があるらしい。まあその話を僕にした轟本人は「なんか気持ち悪い」と言っていたのだが。
「よぉし。じゃあ出席とんぞぉ」
この若い教師は間延びした話し方をする。轟が嫌っているのはこれだろうか?
クラスメートの名前が呼ばれているのを聞きながら本を読んでいたら、六行ほど読み進めたところで僕の名前が呼ばれた。
「広瀬相馬ぁ」
「はい」
と特徴のない声で返事をすると、すぐに伏木は次の名前を呼んだ。僕は本の続きを読み始めた。
本を読んで『面白い』と思うことはある。でも、それは『感情』に準じたものではない。
普通は馬鹿げた会話で笑ったり、人が死んだシーンで泣いたりして。そんな感情の動きを経て最終的に辿り着くのが『面白い』なのだろうが、僕はその過程を飛ばして『面白い』へと一気に向かうのだ。
だから、どこが面白かったのかと具体的に尋ねられたら「わからない」と答えるしかない。読書感想文はいつもいいかげんな出鱈目を書き散らして提出していた。何故か一度だけ何かの賞をもらった。どうしてそうなったのか本気で理解できない。
昔は、どうだったかな?
本を読んで泣いたり笑ったりしていたのだろうか?
ちょっとだけ気になった。
● ○ ● ○ ●
授業が終わり、ホームルームも終わり、教室は少しだけざわついている。
部活に行く者、家に帰る者、友人と話す者。人それぞれだ。ちなみに轟は剣道部だ。既に部室へ行ってしまったようだ。
僕は部活に所属していない。いわゆる帰宅部というやつだ。一年のときに轟に剣道部に誘われたりもしたが、断った。それ以来彼女は特に目立った勧誘はしてこない。
いつもは真っ直ぐ家に帰るのだが、今日は少し寄りたい所がある。
まあだからと言って特に急いで教室を出たりということもないのだが。
● ○ ● ○ ●
十数分後、僕はとあるマンションの共同玄関にいた。
「さん、ぜろ、はち。……っと」
僕はある人の部屋の番号を押した。
「はーい。何でしょうか」
スピーカーから女性の声が聞こえてくる。
「こんにちは。広瀬相馬です」
「あ、相馬君か。久しぶり」
「御無沙汰してます」
「何しにきたの?」
「……すみません。詳しい話は中でできませんか」
「ん? ああ。ごめんね」
そういって、彼女は画面から消え去った。その、ほんの一瞬前にドアが開いていた。
ドアを通り、エレベーターの横の電子表示を見たら『12』とあった。
三階へ向かうのにわざわざ十二階からエレベーターを呼びつけるのも莫迦らしく、僕は階段を利用することにした。
五分後、僕は三〇八号室の前に立っていた。階段を登るのには意外と時間がかかった。
「ぴん、ぽーん」
なんとなく小声でそう言いながら、インターフォンを押した。
少しして、中からバタバタと物音が聞こえて、ようやく彼女が姿を現した。
「久しぶり、相馬君」
「お久しぶりです。優奈さん」
と、言いながらも最後に会ったのがいつだったかは思い出せない。
「お邪魔します」
そう言って、僕は部屋の中へと上がり込んだ。