第九話
「水城さん、ちょっといいですか」
昼食を取り終え教室に戻った葵の元に、いつになく緊迫した面持ちの可奈子がやって来た。
可奈子とは屋上では話すが、教室では1回も会話した事はなかった。
なのにいきなり葵の席まで来るなんて、よほど切羽詰ってるのだろう、と葵は推察した。
時計を見ると、1時25分。5時間目まであと5分しかない。
「いいけど、もうすぐ授業だよ?」
「とりあえず、廊下に出ましょう」
〈あたしも行っていい?〉
「どうぞ。というより、話を聞いて貰わないといけないかもしれません」
〈・・・?〉
葵たちはざわめく教室を後にし、廊下へと出た。そのまま窓際へと移動する。
廊下の窓からは、グラウンドが一望できる。少し覗き込めば、花びらをほとんど失った桜の木もしっかりと見ることができた。
「・・・あれ?」
先ほど裏庭に向かう時に見た風景と、何ら変わりのないはずなのに、葵は違和感を感じた。
何かが足りないような気がするのである。
「それで、急に呼び出した理由ですが」
背後から可奈子の咳払いが聞こえ、慌てて振り返る葵。
「セーラー服の少女の霊について、色々考えたんですが・・・」
〈お、何かわかったの?〉
「大丈夫だとは思うんですが・・・片桐さんに注意して下さい」
「えっ、和輝に?俺じゃなくて?」
思いがけぬところで親友の名が出てきたことに戸惑う葵。
セーラー服の少女につきまとわれているのは自分だと思っていたので、かなり意外だった。
「今は時間がないので詳しい説明は後でしますが、結論から言うとセーラー服の少女が和輝さんに憑依するという可能性があります」
「憑依・・・?」
〈それって、霊が身体の中に入るってこと?〉
可奈子は頷き、続けた。
「霊が憑依すると、見た目はその人でも人格は霊のものになってしまうんです」
「じゃあ、あのセーラー服の霊は和輝の身体を乗っ取ろうとしてるってのか・・・?」
「・・・それはまだわかりません。でもそういう可能性もあるので、水城さんには片桐さんから目を離さずにいてもらいたいんです」
いつも仲が良さそうなのでお願いしたんですが、とすまなさそうに告げる可奈子だったが、葵は力強く頷いた。
親友が霊に狙われているというのに、何もしないわけにはいかなかった。
〈でも・・・もし、憑依されちゃったらどうするの?〉
葵の顔色を伺いながら、恐る恐る雪乃は尋ねた。
すると可奈子は、これを、とブレザーのポケットからメモ用紙を取り出し、葵に差し出した。
それを受け取り広げてみる。そこには電話番号とメールアドレスが細かな字で記されていた。
「これは?」
「そこに、私の携帯の番号が書いてあります。ついでにアドレスも書いておきましたので・・・何かあったら連絡を下さい」
「あ、ありがと。後で俺のも送っとくよ」
『葵と犬神って付き合ってんだろ?』という和輝のセリフが甦り、顔が赤くなる葵。
雪乃以外の女子にアドレスを教えてもらったのなんて初めてなので、尚更だ。
赤面している葵に、雪乃はまたもしらっとした眼差しを向ける。
それから逃げるように、葵は慌てて話を逸らした。
「と、ところでさ。どうしてセーラー服の女の子は、俺じゃなくて和輝を狙ってるんだ?」
「・・・それは恐らく――」
「君たち、もうチャイムは鳴っとるよ。教室に戻りなさい」
可奈子のセリフを遮ったのは、教師の滝澤だった。
定年を前に国語を教えるおじいちゃん先生で、葵たちのクラスの次の授業の担当である。
どうやら話に熱中しすぎてチャイムに気付かなかったらしい。
ほら、と教室に入るように促される。
「・・・放課後や昼休みは美術室にいますんで、何かあったら」
「わかった」
可奈子も、それだけ言うのがやっとだったらしい。
そのまま滝澤に肩を押されるようにして、葵たちは教室に入った。
葵は窓際一番後ろにある自分の席に座り、国語の教科書とノートを2冊机の上に並べた。
1冊は国語のノートで、もう1冊は雪乃との筆談用に、新しく調達したノートだ。
筆談用ノートは1週間前くらいに買ったものだが、既にノートの半分くらいは埋まっていた。
〈あのセーラー服の女の子は、どうしてキンパツ君に憑依したがってるのかな〉
『そりゃあ、やっぱり生身の身体が欲しいんじゃない?』
〈そっかあ・・・〉
窓の外の景色を眺めているようで、どこか遠くを見つめている雪乃は寂しそうに呟いた。
悪いこと言っちゃったかな、と思いつつも、黒板に続々と書かれてゆく文章を写すのに精一杯で返事をする暇がない。
滝澤の国語の授業は、先生が淡々と喋りながらも次々に黒板に説明を書いてゆくので、生徒達には不評だった。
抑揚をつけずに延々と喋り続ける姿は、まるでお経を唱えているようなので、一部では『坊主』というあだ名までつけられている。
(やべ、眠くなってきた・・・)
そんな『坊主』の授業はとにかく退屈で仕方が無い。
クラスを見渡すと、まだ授業が始まって15分足らずだと言うのに、舟を漕いでいる生徒が何人もいた。
中にはすでに脱落し、安らかな眠りについている者もいる。
そんな時だった。
「センセー」
永遠に続くかと思われた授業を遮って挙手してるのは、和輝である。
滝澤は名簿を広げて和輝の名前を確認した。
「どうしたね、片桐くん」
「頭痛いんで、保健室行きたいんですけど」
まさか、と思い辺りを見るが、セーラー服姿の少女はいなかった。
一瞬サボりかと思ったが、確かに顔色が悪い。
滝澤も同じ事を考えたらしく、ふーむと呟きながら教室内を見回した。
「では、誰か保健室までの付き添いを・・・」
「あ・・・俺、行きます」
葵は反射的に手を挙げていた。脳裏に『和輝から目を離さずにいてもらいたい』という可奈子の言葉がよぎったのだ。
挙手してからあの少女もいないし、そこまでしなくても良かったんじゃないかとも思ったが、立候補してしまったんだから仕方が無い。
それに、眠気を覚ますのには丁度良かった。
「あー・・・じゃあ、水城くんお願いします」
またも名簿を開き、今度は葵の名を確認すると、そう告げた。
葵はのろのろと席を立ち、額を押さえる和輝を連れて教室を出た。
「和輝、相当具合悪そうだけど平気か?」
「大丈夫じゃないー。付き添いが可愛い女の子なら俺の頭痛も一瞬で治るってのになぁ」
「・・・もう1回教室戻ろうかな」
「ああっ、ごめんなさいー」
青い顔をしてはいるものの、冗談が言えるくらいの元気はあるようだ。
少し安心して階段を下りる。保健室は1階にあるので、何回も階段を下りなければならない。
ちょうど2階の踊り場に差し掛かった時、階段を上ってくる人物と出会った。
「あ、こんにちは」
「こんちはー」
「はい、こんにちは」
にこにこといつも笑みを絶やさない、美術の担当をしている大友先生である。
真っ白の髪を頭の上で留めているおばあちゃん先生で、滝澤先生と同じように彼女も定年を控えているが、優しいし授業は楽しい、と生徒には評判の先生だった。
葵は担当の先生が違ったので1回も授業を受けた事がないが、見るたびに今はもういない、優しかったおばあちゃんを思い出すのだった。
「・・・あら?」
すれ違う寸前で、大友はふと足を止めた。そして葵たちをじーっと見つめる。
「な、何ですか?」
不思議に思って聞いたが、大友はくすっと笑うと、
「あなた達、ずいぶんと仲がいいのねぇ」
とにこやかに告げた。
葵と和輝は互いに顔を見合わせた。別に、普通に並んで歩いているだけである。
特別仲がいいと思われる事は何もしていない。
「どういうことですか?」
葵の質問には答えずに、うふふ、と笑うと、大友はそのまま階段を上っていった。
その姿が見えなくなったところで、ぽつりと和輝が呟いた。
「あのおばあちゃん、とうとうボケちゃったんじゃねーの?」
***
「失礼します」
ノックをして保健室に入ると、柏木という若い保健の先生が1人パソコンに向かっていた。
机の上は様々な書類やプリントで山ができていて、少しでも触ると雪崩が起きそうだ。
和輝が熱を測っている間、葵は何気なく部屋を眺めていた。
小さなテーブルが部屋の中央に置いてあり、その周りには丸イスが数個並べられている。
壁際には棚と一緒に身体測定で使う体重計などがごちゃごちゃと置いてある。
それらと並んで何故か人体模型が置いてあるのには驚いたが、聞いてみたら柏木の趣味、ということだった。少し変わった先生のようだ。
それからベッドが3つ。今は休んでいる人がいないので、カーテンも開いていた。
そして、一番窓際のベッドの枕元には男性の霊がたたずんでいた。
よく見ると、清泉高校の制服を着ている。どうやらこの学校の生徒だったようだ。
(あれ、この人どこかで・・・)
ふとその学生を見たことがあるような気がして記憶を辿ってみると、昼休みに桜の木の陰からこちらを見ていた霊だという事に気付いた。
さっき廊下の窓から見た時に感じた違和感は、この霊がいなかったせいらしい。
その時、室内に体温計のアラーム音が響いた。
「終わったよセンセー」
「あら、37.8度・・・風邪みたいね。しばらく休んでいきなさい」
「うぃっす」
柏木に促され、和輝は立ち上がるとベッドのある方向に向かった。
そのまま一番窓際のベッドに寝ようとするのを見て、思わず葵は声をかけた。
「あ、そこは・・・」
「ん?」
まさか『枕元に男の霊が立っているからベッドを替えたら?』とは言えるはずもない。
「・・・いや、何でもない。じゃあな」
きょとんとしている和輝を置いて、葵はそそくさと保健室を後にした。
***
6時間目に授業には和輝は現れず、帰りのホームルームになった。
何かあったのかな、と不安になったりもするが、その反面眠りこけているだけという可能性も考えられる。
担任の野川が何か話しているが、和輝のことが気になってロクに頭に入ってこない。
やがてそれも終わり、全体で挨拶を済ませたので葵は教室を出た。
結局ホームルームにも帰ってこなかった和輝を向かえに、保健室まで行こうと思ったのだ。
他のクラスもホームルームが終わったらしく、廊下は人でごった返している。
葵は人ごみをすり抜け、階段を下りて廊下を通り、保健室に入った。
柏木はおらず、テーブルの上に『すぐ戻ってきます 柏木』と書かれたメモが置いてあった。
「和輝?」
ベッドを見ると、窓際の一画だけカーテンが引いてあった。
結局、和輝は男子学生の霊が枕元に立つベッドで寝たらしい。
「和輝」
呼びかけてみるも、返事はない。
まだ寝てるのかな、と思いつつ、葵は歩み寄ってカーテンを開く。
和輝は、背中を向けてベッドに腰掛けていた。
「なんだ、起きてるんなら返事くらい――」
「なぁ」
葵のセリフを遮り、和輝は口を開いた。
そして次に聞いた言葉は、およそ葵が想定してたものとは違うものだった。
「お前、殺してもいいか?」
どくん、と心臓が跳ね上がるのがわかった。
まさか、和輝は――。いやしかし、保健室にはあの少女はいなかったはずだ。
葵が絶句していると、ゆらりと和輝は立ち上がり、振り向いた。
「かず・・・」
和輝の目は、赤かった。
白目が充血しているのではない、黒目の部分がまるでカラーコンタクトをしたかのように綺麗に赤くなっているのだ。
〈葵ちゃん、まさか・・・〉
「・・・みたいだな」
和輝は、薄ら笑いを浮かべて立っている。
窓から夕日が射し込み、それが逆光になって和輝の表情はよくわからなかったが、目だけが赤く爛々と光っている。
葵をじっと見つめるその姿は、獲物を狙う肉食獣そのものだった。
じりじりと葵は後ずさる。しかし距離を一定に保つかのように、1歩下がるごとに和輝は1歩前進する。
目を逸らしたら、やられる。
それは葵が本能で感じ取ったことだった。
「・・・雪乃、犬神さん呼んで来て」
〈わかった。でもどこに・・・〉
「美術室、急いで!」
つい雪乃の方に顔を向けた、その時。
〈葵ちゃん!〉
雪乃の悲鳴と葵の身体に衝撃が走るのは、同時だった。
背中と後頭部に強い痛みが走り、目から火花が散る。
飛び掛ってきた和輝に押し倒され、テーブルにその身を委ねているのだと気付くには多少時間がかかった。
「ぐっ・・・!」
先ほどまでは1mくらいの距離があった和輝の赤い目が、今は目の前にある。近くで見るほど不気味な目だ。
〈葵ちゃん・・・大丈夫!?葵ちゃん!〉
雪乃が必死に和輝を引き剥がそうとするが、霊である雪乃はすり抜けてしまう。
葵も必死に抵抗するが、全く意味がない。これが本当に高校生の力か、と思うほどの怪力だ。
次第に、和輝の指が葵の首にかかった。
ぐっ、と力を入れられ、息が出来なくなる。
「・・・いから、早く犬神さんを!」
葵はそれだけを必死に伝えると、和輝の指を外そうとする。
雪乃は少しためらった後、急いで保健室を飛び出した。
もし誤字・脱字等あったら教えてもらえると助かります。