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第十八話

 『――――ねえ、葵ちゃん』


 しっとりと包み込むようなその声で、葵は我に返った。

 それまで真っ暗だった視界が唐突に明度を取り戻し、それに伴い意識もはっきりしたものへと変化する。

 まず最初に認識したのは、歩行者用の信号機だった。赤と青が狂ったように点滅を繰り返している。目の前の地面には均等に引かれた白線。それが交差点だと気づくと、認識できる光景は一瞬のうちに広がった。十字の交差点。店のショーウィンドウ。そこに並ぶぬいぐるみ。駅前。街路樹の桜。横断歩道の前に立つ自分。そして、歩道を挟んで正面に立っているのは、制服姿の雪乃。

 そうだ、ここは――――

 どくん、と心臓が大きく波打つ。

 

 そこは、雪乃がトラックに撥ねられた交差点だった。


 「ゆ、ゆき……」


 渇き切った喉から、声にならない声を絞り出す。

 それが聞こえたのか、幼なじみは目を細めてにっこりと笑った。

 自分たち以外は無人で、信号機はいつまでも明滅を繰り返すという異様な状況。その中で雪野の太陽のような笑顔だけが現実味を帯びていて、葵はほっと安堵する。


『――――ねえ、葵ちゃん』


 彼女は、再び同じ言葉を口にした。同時に、真新しい革靴を履いた足を一歩、横断歩道へと踏み出す。以前、あと1年しか履かないというのにわざわざ新品を調達したと言っていたのを思い出した。コツ、と音が鳴る。


「な、何だよ雪乃。驚かせるなよ」


 内心では得体の知れない不安感を感じながらも、葵は一歩分だけ自分へと近づいた幼なじみを見やる。

 彼女は再び、口を開いた。


『――――ねえ、葵ちゃん』


 ぞくり、と肌があわ立つのを感じる。また一歩、彼女は自分へと近づいた。違う。何かがおかしい。雪乃は相変わらず笑顔のままだ。葵は気づいた。その笑顔は、先ほどと全く変わっていなかった。

 再び、今度は彼女の左足が持ち上がる。背中に汗が滲む。

 ねえ、葵ちゃん。

 彼女は同じ台詞を繰り返した。抑揚も速度も、録音された音声のように正確に同一だった。

 瞬きすらせず葵に定められた眼と、吊り上げられた口の端。笑っているはずのそれは、今では能面のように見えて仕方がない。

 葵はその場から逃げようとしたが、震える足は地面に縫い付けられたかのようにぴくりとも動かなかった。そうしている間にも、歪な不気味さを纏った雪乃は着実に自分へ近づいてくる。


 嫌だ、来るな。来ないでくれ!


 彼は耐えかねなくなって耳を塞ぎ、目を瞑った。最早、あれを自分の幼馴染だとは考えていなかった。感覚を遮断する事で恐怖から逃れようとしたが故の行動だったが、葵の行動はほとんど意味をなさなかった。瞼には壊れた人形のような雪乃の笑顔が焼きついているし、自分を呼ぶ亡者のような声は掌を通してはっきりと聞こえてくる。


 頼むから消えてくれ、お前なんか雪乃じゃない!


『――――ねえ、葵ちゃん。…………だの』


 ふいに、何か別の言葉が聞こえたような気がした。しかし、ノイズが混ざったように不鮮明なので内容がわからない。少しでも恐怖を紛らわせたくて、葵は言葉の続きを聞き取ろうと必死になった。


『――――ねえ、葵ちゃん。ど……て、…………だの』

『――――ねえ、葵ちゃん。どう て、あ……は、  だの』


 段々と薄れてゆくノイズ。鮮明になってゆく内容。そしてそれらが意味を成して耳朶を突いた時、葵はそれに耳を傾けてしまった行いを心の底から後悔する事となる。


『――――ねえ、葵ちゃん。どうして、あたしは死んだの?』


 葵は背筋が凍りつくような錯覚に陥った。

 それと共に、何故彼女がこの交差点に現れたかを理解する。

 責めているのだ、自分を。

 忘れ物を取りに行っただけというちょっとした偶然で、雪乃だけが死ぬ形となった。自分があの場にいれば、雪乃を守る事が出来たかもしれないのに。あるいは、一緒に逝ってやる事も。

 それを考えれば、彼女が自分を恨んでいたとしても、それは当然ではないのだろうか?


『――――ねえ、葵ちゃん』


 彼女は再び同じ言葉を繰り返す。しかし、一度それに続いた怨嗟の声を聞いてしまった葵には、もう別の内容にしか聞こえていなかった。


『ねえ、葵ちゃん。どうして、あなただけが生きてるの?』

 こつ、と革靴の音が響く。

『ねえ、葵ちゃん。どうして、助けてくれなかったの?』

 こつ

『ねえ、葵ちゃん。どうして、あたしは幽霊になってるの?』

 こつ

『ねえ、葵ちゃん。どうして?』

 こつ

『どうして? どうして? どうシて? どうシテドうシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ――――』




 靴音が、止まった。




 気の狂いそうだった永劫が嘘のように、辺りには氷のような静寂だけが訪れる。

 両の耳を塞ぐ手は汗ばんでおり、歯の根は合わず、がちがちと不協和音のワルツを奏でていた。


 ……終わった……のか?


 目を瞑っているせいで鋭敏になった聴覚に頼るが、こそりとも音はしない。

 しかし、足音が止まったという事は自分の目の前にいるのかもしれない。そして、のうのうと生きている自分を満面の笑みで見下ろしているのかもしれない。

 じわり、と再び手が汗ばむ。

 怖い。あんな雪乃なんて見たくない。出来る事ならずっと目を閉じていたい。

 だが、彼女は本当にいるのだろうか。全部見間違いなのではないか。確かめるには、目を開けるしかない――――。

 矛盾した2つの欲求は次第に大きくなり、葵の中でせめぎあっていた。

 そして彼はついに、


(……あれがいたら、すぐに目を瞑ればいい)


 耳に蓋をしていた両手をゆっくりと下ろす。無意識に力を込めていたようで強張っており、腕の筋肉がぎしぎしと軋む音が聞こえたような気がした。

 葵はごくり、と音を立てて、生唾と共に恐怖を飲み込んだ。

 迫り来る狂気から自分を守っていてくれた瞼を、恐る恐る持ち上げてゆく。

 徐々に明度の増す視界、そして――――――――




 ――――眼前には、何もいなかった。




 ……良かった。消えてる。

 葵は安堵の吐息をもらすと、全身からどっと疲れが滲み出た。

 ぎゅっと閉じていたせいで焦点の定まりきらない目を、何度か瞬かせる。

 改めて交差点を見やる。明滅していた信号機が、完全に沈黙している以外は特に変わった事はなかった。

 やはり、自分の見間違い――――――――




『ねえ、葵ちゃん』




 なんの前触れもなく耳元で囁かれたその声に、全身が総毛立った。


「ひ……!」


 息を呑み、飛び退くように振り返る。



 そこには、たった今大型車に撥ねられたかのように全身が血と傷にまみれた幼馴染が立っていた。

 あらぬ方向に折れ曲がった首のせいで逆さに傾斜した顔に、心の底から楽しそうな笑みを貼り付けて。

 そして彼女は吊り上げられた口を再び開き――――――――



***


 どこからか男の声が聞こえる。いや、先程までは唸り声だったそれは、今や呻き声と称しても差し支えない程に深刻化していた。

 …………お前は雪乃なんかじゃない、嫌だ、くるな……誰だ、唸ってるのは……助けてくれ……来るな……うるさいな…………嫌だ…………。

 混濁し、支離滅裂になる思考。

 その違和感と、うめき声の主に気づいたとき、葵の両目は見開かれた。


「っ!」


 そのまま飛び起きる。

 瞬間、眼前に首の折れた雪乃の姿が浮かんだが、すぐに消えた。

 全力疾走をした後のように息が荒く、寝巻きは尋常ではない量の汗を吸って重くなっていた。

 視界に映っていたのは、見慣れた自室が暗闇に沈んだ姿だった。当然ながらあの交差点でもないし、おぞましい姿の雪乃もいない。しばらくの間、肩で呼吸をする。

 あれが夢で、うなされていた自分の声で目が覚めたのだと実感が湧いてくるにつれて安堵感が全身を満たし、


「!」


 急激な吐き気に見舞われた。

 布団を跳ね除け、部屋と廊下の電気をつける余裕すらなく、葵は2階の洗面台で盛大に吐いた。

 口に広がる胃液の味と、腹部が痙攣する不快感に耐える。


「うっ……げほっ……」


 ひとしきり吐いて楽になるにつれて、頭の中では考える余裕が生まれる。

 自分は何という夢を見たんだろう。

 雪乃があんな姿になる夢なんて、彼女が事故に遭ってから初めてだった。

 それに――――脳裏には、病院の真っ白なベッドに横たわる雪乃の姿が過ぎった。それに、間違っても雪乃はあんな悲惨な最期ではなかった。むしろ、葵の見た限り外傷はほとんどなかったはずだ。

 その上、肉体の有無はあれど、今もなお葵は雪乃と普通に接する事ができる。いや、お互いに意識してしまい会話のなかった以前よりも、遥かに関係は良くなっていると言えた。

 だとしたら、何故あんな夢を?

 葵は、両手に溜めた水を思い切り顔に打ち付けた。汗をかき火照っていた肌が冷水に包まれる。

 何度も顔を洗うと、その度に自分の中の恐怖や混乱といった感情が少しずつ剥がれ落ち、洗われてゆくのを感じた。


「ふぅ…………」


 棚から取り出したタオルで顔を拭く。鏡を見ると、雑踏に紛れたらすぐに見失ってしまいそうな、いつも通りの自分がこちらを見返していた。少しやつれている気がするが、それは吐いたからだろう。

 最悪だった気分も、多少はマシになっていた。

 ぶらさがるカニ型の防水時計を見ると、時刻は午前1時半を過ぎたあたりだった。起床時間まではまだまだ余裕がある。可能ならもう一眠りしようかと考え、葵は薄暗い廊下をひたひたと進む。すると途中、一匹の猫が足元にまとわりついてきた。


「あれ、ミィ。起きてたのかお前」


 首輪についた鈴を鳴らすのは、いつもは1階のリビングにいるはずの飼い猫のミィだった。

 葵はしゃがみ込んでミィの頭を撫でる。こうして彼女と接するのも久しぶりだった。と言うのも、猫は霊の気配に敏感なようで、雪乃に取り憑かれてからは葵の側には絶対に近寄ろうとしなかったのだ。

 しかし、どうやら今は主の異変を心配して来てくれたようだった。

 ミィの頭に触れる掌から、生物の持つ暖かさが伝わってくる。

 ――――ああ、生き物ってこんなに暖かいんだな。

 命を燃やして光る灯火の温もり。

 普段は当たり前すぎて気にも留めないような事が、今はとても新鮮に感じられた。あの夢を見たからなのか、夜中にこうしてミィと戯れるという特殊な状況だからなのかはわからなかったが。

 そのうち葵に飽きたのか、彼女は背を向け長い尻尾を一振りすると、とたとたと階段を下りていってしまった。心配してくれたとはいえ、あまりにも猫らしい態度に葵は苦笑する。

 立ち上がって、自分の部屋の扉が開けっ放しだった事に気づいた。同時に、幽霊にくせにしっかりと睡眠をとる変わり者の幼馴染の姿を思い出す。

 ばたばたと騒音を立ててしまったが、雪乃は起きなかっただろうか。

 今更ながら、部屋までの残り僅かな距離を抜き足で進む。電気は点いていなかったが、明かり窓から差し込む光のおかげで歩くのに差し支えはなかった。

 内側に向かって10センチほど開いていた扉のノブを、そっと掴む。秘密の宝箱を開けるかのように、ゆっくりと扉を押し、恐る恐る中を覗き込む。


 はたして、中に広がっていたのは宝石のような光景だった。


 正面の窓からは、雲一つない空に巨大な満月がどっしりと鎮座しているのが見えた。周囲の星々など目に入らないような威圧感は、さながら大勢の家臣を従える皇帝のようだ。

 部屋全体には、何にも遮られることのなかった汚れなき月の光がしんしんと降り積もっている。

 水族館で感じたのとはまた別の、蒼く幻想的な空間。

 それは、数十年も人の侵入を許すことなくそこにあり続けた、清浄な神殿を連想させた。

 ――――そして少女は、蒼光を一身に受け、椅子に腰掛けた体勢のまま目を閉じていた。

 穏やかな寝顔は、全ての苦楽を内包してもなお慈愛に満ちた聖母のごとく。

 見慣れたはずの高校の制服は、神の纏う装束のごとく。

 神秘的な雰囲気の中に神々しさを伴い、松下雪乃はそこにいた。

 そこが神殿だというのなら、その少女は打ち捨てられた後も自分を信仰する人間をひたすら待ち続けている、哀れな女神像だ。

 一瞬、葵はそれが自分の幼馴染だとわからなかった。

 その姿が、彼女が普段から表面に出している若葉のような瑞々しさや春の太陽のような朗らかさとは、あまりにもかけ離れていたからだ。

 ただ、綺麗だと思った。

 10年以上一緒にいて、雪乃のことを『可愛い』ではなく『綺麗』だと思ったのは初めてだった。

 葵は、そろそろと女神に近づいた。理由はない。信徒が神と対面した時のような、おぼつかない足取りだった。

 彼女の向かいで立ち止まる。

 間近で見ると、彫像のような美はより一層強調されていた。

 まつ毛の一本一本が、整った鼻梁が、肩にかかる髪が、胸腹で組まれた手が、降り注ぐ月光を閉じ込め、反射し、ガラスのような雪乃の姿を青白く浮かび上がらせている。

 衰廃し停滞した空間だからこそ形を保っていられるような、ひどく儚げで憂虞な美。


 それは同時に、人間には――――いや、どんな生物にも到達することのできない、無機的な領域でもあった。


 幽玄な空間に圧倒され竦んでいた葵は、熱に浮かされたように右手を伸ばした。

 自らの前に現れた神は決して幻などではないと切願し、恐れを抱きつつも確かめようとする門徒のように。

 事実、今の彼の瞳は、眼前の少女の他には何も映してはいなかった。

 強張っていた指先が、眠り続ける雪乃の頬に近づく。

 壊れ物を扱うかのように、優しく触れようとし――――――――

 すっ、

 葵の指は、雪乃の頬を通り抜けた。

 直後、雪乃と重なっている指先を、新雪の中に突っ込んだかのような凄まじい冷寒が襲った。


 ――――これが、雪乃?

 直後、葵の脳裏を駆け抜けたのは、それまで忘れていた子供の頃の記憶だった。


***


 幼い葵は、誰もいないグラウンドの片隅でひとり泣いていた。

 クラスメイトに、ランドセルを隠されたのだ。

 無くなっていたのは、午前の体育の時間。

 それから、授業の合間の休み時間も、昼休みも、制限された時間の中で探し回った。

 しかし、見つからない。

 放課後になったが、ランドセルがなければ家に帰れない。

 だから葵は、楽しそうに遊んだり、下校する子供たちを横目に、必死になって探した。

 そのうち、雨が降り出した。

 小雨だったそれは、すぐに大粒に変わり、傘を持っていなかった葵の全身を容赦なく叩いた。

 秋口だったこともあり、降りしきる雨は葵の身体から熱を奪った。

 そのうち、ぞくぞくと悪寒がしてきた。

 病気がちだった葵は、これが熱が出る前兆だと気づいたが、それでも黙々とランドセルを探した。

 意地になっていたのだと思う。

 雨の降るグラウンドからは遊んでいた人影が消えた。

 レインコートと長靴、そして傘を装備した子供たちに馬鹿にされ、笑われた。

 段々と、泣きたい気持ちになってきた。

 学校に通える日もあまりないというのに、何故自分だけがこのような目に遭わなければならないのか。

 考えると悔しくて、悲しくて、葵は泣いた。

 俯いて、小さな拳を握りしめ、ぽろぽろと涙を零して。

 その時、見つめていた自分の影の上に、大きな影が被さった。


 ――――あおいちゃん?


 振り向くと、そこには赤い傘を差し出している雪乃が心配そうな表情を浮かべていた。

 葵は慌てて涙を拭う。


 ――――どうしたの、あおいちゃん。なんで泣いてるの?


 その時、雪乃は葵とは別のクラスだった。

 葵がいじめられている事は知っていたし、今日だって言えばすぐに手伝ってくれただろうが、葵はそれをしなかった。

 自分のせいで、雪乃までいじめの標的になるのが怖かったのだ。


 ――――もしかして、また何か隠されたの?

 ――――…………。

 ――――そうなんでしょ? いいよ、あたしも探したげる。

 ――――……いい。僕ひとりでできるから。


 葵がそう返すと、雪乃は驚いたようだった。


 ――――どうして?

 ――――だって、ぼくと一緒にいたら、ゆきのちゃんまでいじめられるよ。ぼくは、そうなってほしくないから。


 雪乃のためを思っての言葉だったが、それを聞いた雪乃は、何故か赤い頬っぺたを膨らました。


 ――――もーっ。そんなこと、気にしないの! あたしとあおいちゃんはオサナナジミなんだから、そうするのが当たり前なの!

 ――――でも。

 ――――それに、もしあたしがいじめられたとしても、別に平気だよ。だって、あたしにはあおいちゃんがいるもん!

 ――――ゆきのちゃん。

 ――――だからほらっ、行こ! まずは学校入って、身体拭かなきゃ。またカゼひいちゃう。


 言うが早いか、雪乃は立ち尽くす葵の手をとった。

 捉まれた腕から、雪乃の体温が流れ込んでくる。

 活力と生命力に満ちた温もり。

 冷え切っていた葵の体に、それは特効薬のような効果をもたらした。

 雪乃がそう言うんだから、大丈夫。そんな絶対的な安心感があった。


 ――――うん。ありがと、ゆきのちゃん。


 幼い2人は、手を繋いで校舎へと向かう。



 雪野の手は、暖かかった。




 確かに、暖かかったのだ。




***


「……あ」


 静寂が、破れた。


「あ……あ……」


 葵は、全身がおこりのように震えだすのを感じた。

 ここは厳かな神殿でも、神秘的な教会でもなかった。

 部屋を満たしていた蒼は一瞬にして色褪せ、幽玄な空気は霧散し、部屋はただの小汚い自室へと変わった。

 しかし、目の前の少女は。

 葵は、雪乃と、雪乃に触れた右手に視線を行き来させた。

 彼女は、瓦解した世界の中において、先程と何一つ変わらぬ超然とした美を放っていた。

 幻想的な空間においては一種の神々しささえ感じたその姿も、現実へと帰還した葵の目には、酷い違和感を伴って映った。


 月光を浴び、ガラスのようだった雪乃の姿を思い出す。

 ――――生き物は、身体の向こう側が透けて見えることもない。

 息吹を繰り返す自身の胸に、左手を添える。

 ――――生き物は、呼吸をしない時はない。

 先ほど触れたミィの温もりが甦る。

 ――――生き物は、氷のような冷たさはしていない。


 当たり前だ。それが生者と死者の違いであり、絶対的な差なのだから。


 頭の中で、ずれていた何かが音を立てて元あるべき場所に戻ったかのような感覚がした。


 ぽたり


 葵は我に返った。

 胸に当てたままだった左手に、水滴が落ちていた。


「……え」


 葵の見ている前で、雫はぱたぱたと落ちて数を増やした。

 次に感じたのは、くすぐったいようなむず痒いような、頬の違和感。

 触れてみて、驚いた。

 泣いている?

 気づいた途端、堪えきれないほどの嗚咽がこみ上げてきた。

 駄目だ、ここで泣くな。雪乃が目を覚ます。

 葵はベッドに飛び込み、頭から布団を被った。

 シーツは悪夢を見た時の汗で冷たく湿っていたが、そんな事は気にならなかった。

 湧き上がる衝動をかみ殺し、声を抑えてむせび泣く。


「ふ、っく、うああ……めん、ごめん雪乃…………」


 自然と、口からは雪乃に対する謝罪の言葉が連なった。

 涙と共に、自分の中で様々な感情がうねり、混ざり合い、飲み込まれていく。

 葵は、あえてその奔流に逆らおうとはしなかった。


 以前よりもマシな関係? 平和な日々が、ずっと続けばいい?

 ――――馬鹿か、俺は。 

 自分は、何も見ていなかった。気づかないふりをして、雪乃が死んでからの2ヶ月間、目を逸らし続けていたのだ。

 4月8日。桜満開の入学式のその日、幼馴染はトラックに撥ねられて死んだ。

 頭では理解しているはずだった。

 彼女は『死んで』いて、今自分と一緒にいるのはあくまでも『魂』なのだと。

 しかし、彼女の遺体と対面し、幽霊になった雪乃と一緒に葬儀に出席してもなお、心の底では理解できていなかった。いや、理解しようとしていなかった。

 そして、自分に触れようとするのを頑なに拒み続けた雪乃の態度。

 彼女はこうなる事がわかっていて、だからこそ葵がその一線を越えるのを何よりも恐れていたのだ。

 それを、自分は。

 雪乃の気持ちにも気づいてやれず、守り続けていた境界をあっさりと乗り越え、彼女の想いを蹂躙し、踏みにじったのだ。

 ――――くそっ、この大馬鹿野郎が! 俺は、雪乃と一緒にいる価値なんかないじゃないか。

 葵は内心で、考えつく限りの罵詈雑言を自分に向けて放った。

 しかし、どれだけ自分を傷つけたところで、次々に流れ出る血が尽きることはない。

 葵は、やり場のない怒りを込めて、シーツを握り締める。

 ふいに、先ほど悪夢にうなされた原因がわかった気がした。

 その身に降りかかった理不尽さを問う雪乃に、その答えをしっかりと感じていたではないか。


 雪乃を護れなかったこと。

 最後を看取ってやれなかったこと。

 一緒に逝ってやれなかったこと。

 そして、

 現実に目を背け続けていたこと。

 生前も死後も、彼女に対して何もしてやれなかったこと。

 秘められた想いに、ずっと気づいてやれなかったこと。


 それは、自分の幼馴染に対する絶望的なまでに根深い罪悪感だった。

 雪乃に憑かれてから潤い、充実し始めた生活。

 その裏側で、葵の心の奥底は、一滴ずつ滴る罪の意識を確実に受け止め続けていたのだ。


 ――――『あたし達、今日から高3だね、葵ちゃん』

 あれから約2ヶ月。

 今、ようやく実感できた。

 入学式の帰りまでの彼女と、今、葵の椅子で眠る彼女は決して同じではない。


 確かにあの日――――松下雪乃は、『死んだ』のだ。



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