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第十七話

 5月も残り僅かとなる頃。道路に残っていた桜の花びらは先日の雨で全て流され、街からはついに春の名残が消えた。その代わりに豊かに生い茂った木々の葉は、まだ足りないと言わんばかりに重そうな枝を伸ばし、日の光を貪欲に受け止めている。

 今年に入ってからの最高気温を大幅に更新しただけあって、駅前では多くの人が薄着で歩いていた。中には、一足早く半袖で駆け回る子供の姿も見える。

 しかし、日差しは強いものの、気候自体はカラリとしていて過ごしやすく、思わずどこかに出かけたくなるような気分にさせられるような1日だ。

 そして、その快晴の中をどんよりとした負のオーラを纏って歩く少年の姿があった。


〈葵ちゃん、元気出して。中間テストは補習がある訳じゃないし〉

「……それにしたってあの点数は……」


 葵の脳裏に、思い出したくも無い数字の羅列が蘇る。48、55、24…………


「あああああ!」

〈葵ちゃん!? ちょっと落ち着いて!〉


 道端で頭を抱え身悶えを始めた葵を、通行人は奇異の目を向けながら避けて歩いていく。しかし当の本人はそれに気づかない。というか、気づく余裕などなかった。

 先週1週間をまるまる使って行われた中間テスト。その結果が、今日になって一斉に返ってきたのだ。

 ほぼ雪乃との筆談に費やしていて授業の内容を何も覚えていなかった葵は、テスト1週間前になって謝り倒しながら可奈子にノートのコピーを取らせてもらった。しかし1ヵ月半分の内容をたった1週間で取り戻せるはずがなく。

 結果、どの教科でも17年間生きてきた中でダントツトップの点数を叩き出した。勿論最下位という意味でのトップだが。


「……やっぱり、バカの一夜漬けなんかじゃタカが知れてるよなあ。まともに勉強し始めたのがテスト一週間前な時点でまず終わってるし」


 商店街のショーウィンドウに映った自分の顔を見ると、遠くからでもはっきりとわかるほどのクマが浮かんでいた。連日徹夜までしてこんなクマをこしらえた意味が果たしてあったのか、と考えると、何だか果てしなく自己嫌悪に陥りそうなのでやめておく。


「期末はちゃんと勉強しておかないとなあ。本当に全教科補習とかになったら洒落にならん」

〈むう……ごめんね葵ちゃん。あたしとおしゃべりしてたばっかりに〉


 雪乃は、この2週間で何十回と聞いた台詞を再び繰り返した。おしゃべり、というのは授業中の筆談のことだ。


「それはもういいって何っ回も言ったろ。好きでやってたんだし、もっと早くから勉強しとけば良かっただけの話だし」

〈ありがと。でも、あたしならカンニングし放題だったのに〉

「……あのなあ、俺はそんなセコいことまでして点欲しくないっての」

〈偉いねえ、さすが葵ちゃん〉

「ま、まあな」


 口では偉そうなことを言うものの、情けなさと焦りに追い詰められていた1週間前の葵が誘惑に負けそうになったのもまた事実だ。

 しかし結局人としての一線を踏み止まれたのは、ただ単に彼にそんな度胸がなかったからである。


「今更悔やんでも仕方ないし、期末でどうにかするよ。その代わり、これからはちょっと筆談は減らすぞ」

〈はーい。あたしのせいで葵ちゃんが暑い中補習受けるのもやだし、ここは我慢するよ〉

「よしよし、偉いぞ雪乃」

〈わーい、誉められたー〉

「……なんだか犬みたいだな、お前」


 浮いているせいで葵より若干高い位置にある雪乃の頭を撫でる振りをすると、彼女はくるりと宙返りをして喜びを表現する。きっと、尻尾があったら千切れんばかりに振りしきっているに違いない。

 こうして雪乃と軽口を叩き合っていると、地上に帰還する潜水艦のように沈んでいた気分が浮上してくる。

 駅前を通過した葵たちは、夏の気配を含み始めたのどかな住宅街を、家に向かって歩く。平日の昼間ということもあり、買い物帰りの主婦以外にすれ違う人はほとんどいない。葵がいつも帰宅する頃には、帰路につく会社員や学生をよく見かけるので、何だか変な感じだ。

 清泉高校では、テスト返却日には授業を行わないので昼には下校になってしまう。普段とは違う人気のない住宅街を歩いていると、今更ながら長かった苦行を乗り越えたんだという実感が湧いてくる。それと同時に、なんだか胸が躍り始めるのを感じる。日常の中の非日常、台風で休校になった時の、あの開放感とわくわく感に似た感覚。空も快晴で、雲1つない。こんな日は、インドア派の葵もどこかに出かけたくなってくる。

 

「……雪乃、どっか行こうぜ。せっかく半ドンで終わったんだし」

〈ホント!? 行く行く!〉


 遊びに誘っただけで期待に目を輝かせる雪乃に、やはり犬のイメージが重なる。……そうだなあ、どっちかというと雪乃は小型犬かな。犬にはそれほど詳しくないけど。

 ぼんやりとそんな戯言を考えていると、〈うん?〉と雪乃が小首を傾げた。それにより、葵は自分がずっと雪乃の顔を見つめていた事に気づき、慌てて話題を振る。


「な、なんでもない。それより、どっか行きたい場所ある? あんまり遠い場所は困るけど」


 立ち止まってそう尋ねると、雪乃は〈んー〉と考え込んだが、やがてぽんっと手を打った。


〈すいぞくかん!〉


***


 同日の午後1時10分。

 幼馴染のリクエスト通り、葵は水族館の前に立っていた。正確には、色褪せた文字で『瀬尾マリンパーク』と書かれ、塗装のはがれかけたマンボウやらタコやらがあしらわれた、ヒビの入ったピンク色のアーチの前、である。

 葵の住む柏木市の2つ隣の瀬尾市にあるこの水族館までは、電車で僅か4駅。町から少し外れた郊外にぽつんと建っている。観光客よりも地域住民にスポットを当てた小さな水族館で、県内にある小学校の生徒ならほとんどが一度は遠足で来た記憶を持つ。葵もその例に漏れず、小学校2年生の時に訪れた覚えがあるが、それ以来だ。あの頃から綺麗とは言いがたかったが、10年ぶりに見た外装は予想以上にくたびれて見えた。


「うっわー……よく潰れてなかったな、ここ」

〈何言ってんの葵ちゃん。ほら、早く早く〉


 雪乃は妙な感心をしている葵を置いて、さっさとアーチをくぐってしまう。葵も慌ててそれに続いた。

 アーチから15メートルほど進むと、見覚えのある白い建物が佇んでいた。しかし葵の記憶にあるよりも、表面に刻まれたヒビが増えているように感じられる。

 時間の流れを感じながらチケット売り場へ行くと、中で暇そうにしていたおばさんが物珍しそうに葵に目をやった。


「あなた、高校生?」

「ええ、まあ」

「学校はどうしたの?」

「今日はテスト返却日だったんで、昼下校なんです」


 お節介そうな人だったのでもっと詮索されるかと思ったが、おばさんは葵の返答に納得したらしく、それ以上は何も聞かずに『学生は千円ね』と事務的に告げた。家に帰らずに学生服のままで来たのが功を奏したようだ。


〈家に帰ると、お母さんにテスト見せなきゃいけないもんね〉


 ……どうしてこう、この幼馴染は毎度毎度痛いところを突くんだろうか。

 耳元で雪乃が笑うが、こっちはおばさんがいるので反論もままならない。内心を見透かされて決まりが悪くなりながら、葵は財布から千円札を抜いて台に置いた。

 普段貰える小遣いのことを考えると千円というのは決して軽い出費ではないが、どうせ買うのは漫画やCDばかりなのだからたまには構わないだろう。

 ……それに、雪乃が来たいって言ったんだし。

 そう考えると何だかむしょうに気恥ずかしくなって、葵は差し出されたチケットをひったくるようにして受け取り、奇異の目を向けるおばさんを後にしてゲートの中へ急いだ。



 最低限にまで照明の落とされた薄暗い廊下を進むと、唐突に視界が開けた。


〈うわあ、魚だよ葵ちゃん! 早く見よう!〉


 薄暗い館内は、ぼんやりとだが明るかった。扇状のホールの曲線部分一面が水槽になっており、中では地味な色の魚やエイ、大人しい種類のサメなどといった手堅い面々が退屈そうに泳ぎ回っている。しかし海面からの光を受けて室内を海中のようなコバルトブルーに染め上げている様は、なかなか幻想的であった。

 葵ははしゃぐ雪乃をよそに、わざとゆっくり歩いて水槽の前までやって来る。


「うっすらと記憶に残ってはいるけど、本当に何にも変わってないんだな」

〈うんうん、ここに来たの小学校の遠足以来だけど、あの時と一緒だもん……うわあ、可愛いなあ。エイが笑ってるよ〉

「遠足の時にもいたよな、そう言う奴」

〈どうせあたしの思考回路は小学生ですよ〉


 すねたように頬を膨らませる雪乃は、何だか本当に小学生に戻ったみたいだった。

 平日の昼間効果なのか普段からこの調子なのかは定かではないか、ホールには葵たち以外の客の姿はなかったので、周りの目を気にすることなく雪乃と会話をすることができた。

 ふと、葵は眼前の水槽に手をついた。掌からひんやりとした感触が伝わってくる。

 空調管理されて適温で、なおかつ深い青に染まったホールの中、アクアリウムを見ている自分。

 たまに聞こえる水の音。優雅に泳ぐ魚たち。それらを見ていると、水槽と自分とを隔てているものなど何も無いように感じられる。


〈……葵ちゃん、何してるの?〉


 急に黙り込んだ葵を見て、雪乃が声をかけた。


「……こうしてると、自分も魚になって海の中で泳いでる感じがするんだ」

〈えええ? 葵ちゃん、どうしちゃったの。いきなりそんな詩的なコトを。明日はハリケーン?〉


 雪乃が目を丸くして本気で驚いている様子に微妙なショックと気恥ずかしさを覚える。確かにキャラに似合わず、というのは認めるが、そこまで言わなくてもいいんじゃないだろうか。


「ホ、ホントだって! 雪乃もやってみろよ。ほら――――」


 本気にしない雪乃に対する歯痒さと、結構恥ずかしいことを平気で言ってしまった自分への照れと、

この感覚を味あわせたいという思いにかられ、葵は傍らに立っていた雪乃の腕に、手を――そう、今までと同じように――伸ばした。


〈――――!〉


 しかし次の瞬間、葵の手は空を切っていた。何が起こったのかわからない葵が雪乃に目をやると、彼女は自らの腕を抱くような形で、一歩後ずさっていた。その顔は硬く強張っており、能面のように無表情だった。


「……あ。ご、ごめん」


 ――――まただ。


 葵は、やり場がなくなり居たたまれなくなった右手を下ろす。

 すると雪乃は一瞬の間に、無表情からはっと双眸を見開き、そして何事もなかったかのようないつもの笑顔に戻った。


〈行こ、葵ちゃん。確か次は熱帯魚の水槽だよ〉

「あ、ああ……」


 心には決定的な違和感が澱のように沈殿していたが、葵は雪乃の言葉通りに水槽の前を離れた。

 すると、最早定位置となった葵の右斜め後ろに、雪乃も納まる。


〈カクレクマノミって可愛いよね。いるかなあ〉

「……どうだろうな」


 雪乃が普段より一歩分遠い位置にいることに気づいたが、葵はそれについて言及はしなかった。


***


 雪乃ご所望のクマノミ、王者の風格漂うサメやどこまでもマイペースなウミガメなど、どの水槽も一通り見終えた葵たちは、最初に見た扇形の水槽のあるホールまで戻ってきていた。少し離れた壁際に休憩用のベンチが備え付けられており、そこで足を休める為だ。


〈まったく、最近の若いもんは体力なさすぎだよ。まだクラゲ見たかったのに〉


 呆れたように腕を組んで浮遊する雪乃に対し、葵は疲れ切った様子で硬いベンチにへたり込んでいた。


「……あの、雪乃さん。誰かさんに3時間もあちこちに引っ張られなければ、ここまでならないとは思うんですが」

〈誰かって誰だろうね? あー、もっと見たかったなあ〉


 今の雪乃には何を言っても無駄だと悟った葵は、口を閉ざして体力の回復に努めた。

 興奮状態になった雪乃は周りが目に入らなくなるという事は長年の付き合いからわかりきっているし、矢継ぎ早に放たれる感想も適当に流しておけばいいとは思うのだが、それが出来ずに毎回丁寧に返答をしてしまうのが葵だ。

 おまけに、こっちは時間の都合で昼食を取っていない。健全な男子高校生たる葵は、朝食の僅かなエネルギーだけで夕方までフル起動できるほど高性能ではなかった。

 他に客でもいれば、会話を中断せざるを得ないのだが、相変わらず自分たち以外の人影は皆無だった。あまりの閑古鳥の鳴きっぷりに、この水族館の経営状態が本気で心配になってくるほどだ。もっとも、だからこそこうして疲れきるまで雪乃と水槽を回れたのだから、正直なところ嬉しかったりもする。


「俺、ここでちょっと休んでるから回ってきなよ」


 先ほどから『もっと見たい』を繰り返している雪乃にそう提案する。すると雪乃は〈ホントっ?〉と顔を輝かせると、今戻ってきたばかりの道を飛んでいった。当分帰ってこない気がするが、それはそれでいいだろう。

 1人、暇になった葵は、何の気もなしにそれまで手に持っていたチケットを眺め、そしてチケットのデザインが10年前とまったく変わっていない事に気づいた。


「へえ……懐かしいな」


 子供の頃の記憶なんてあやふやなもので、水族館自体の印象は薄いのに、このチケットに関してだけはしっかりと記憶に残っていた。

 長方形の栞のような形をしたどこにでもありそうな入場券。中央に『瀬尾マリンパーク』のロゴがあり、その周りに海の生き物のシルエットが散らしてある、という至ってシンプルかつありふれたデザイン。1度見たら忘れてしまいそうなそれだったが、葵の記憶と完全に一致した。

 というのも、小学校2年の遠足でここに来た際に、このチケットが原因で雪乃と喧嘩をしたのだ。

 葵は、ロゴの右下にいる生き物のシルエットを指でなぞる。

 他のシルエットはイルカやカニなど、見れば一発でわかる影だったのに対し、この右下の生物だけは意見が分かれたのだ。

 しかし喧嘩をした直後でも、雪乃は自分の傍を離れないでいてくれた。

 当時、身体が弱く学校を休みがちだったのと霊感の事で、クラスから浮いた存在になっていた葵にとって、心を許せた友達は雪乃だけだった。

 優しい彼女の事だから、そこで葵が1人ぼっちにならないように気を遣ったのだろう。改めて考えると喧嘩直後の小学校2年生の行動とは思えない。

 思い返せば学校では雪乃の以外の誰かと一緒にいた記憶はないし、水族館の遠足も、雪乃がいてくれなければ、1人で惨めな思いをしていたに違いなかった。

 ――――なんか俺、雪乃に助けられたばっかだなあ。

 他にも、朝起こしてもらったりノートを見せて貰ったりなどといった日常の些細な出来事についても、面倒をかけてばかりだ。そして――――葵の脳裏に、ある光景がよぎる。純白のシーツ、群生のようなチューブ、そしてそれらの中央に横たわる幼馴染。――――そして、あんな事になった後でもまだ、自分は雪乃に世話をかけている。

 では…………自分の方は、雪乃の為に何かをしてあげられているのだろうか。

 日常の些事ならばいくつかは思いついたが、そんなのは葵でなくとも可能だ。しかし、葵にしかできない事となると――――


〈あーおいちゃんっ〉

「うわあっ!」


 唐突に背後からかけられた明るい声に不意をつかれ、葵の思考は中断された。

 ベンチから腰を浮かしかけた状態で振り返ると、目を丸くした雪乃がいた。


〈あたし、そんなに驚かせちゃった?〉

「あ……い、いや、ごめん。ちょっと考え事しててさ」


 ふうん? と小首を傾げた雪乃だったが、深くは追求してこないのはありがたかった。


「それより、もうクラゲはいいのか?」

〈うん。今日のところは満足したよ〉

「……そっか」


 あれだけ見て『今日のところは』なのか。

 そう思った葵だったが、何となく口にする気にはなれず、そのままにしておいた。

 すると、雪乃がすっと隣に腰掛け、葵の手元を覗き込んできた。


〈何見てるの?〉


 視線の先に握られていたのは、先ほどからなんとなく手にしていた水族館のチケットだ。それに気づいた雪乃は喜色を露にした。どうやら雪乃も、このチケットについて覚えていたらしい。その事が塞いでいた葵の心を少し楽にした。


〈チケットのデザイン、変わってないんだね〉

「やっぱ覚えてんのか」

〈そりゃもう。この右下のやつでしょ〉


 雪乃は得意げにシルエットの1つを指差した。

 それを機にしばし無言になる。しかし、お互いに何を考えているかは容易に想像できた。


「……お前、今これが何に見えるか考えてんだろ」

〈そういう葵ちゃんだって〉

「……俺としては、こいつはどう見てもウツボにしか見えないんだが」

〈何言ってんの葵ちゃん。こんなにわかりやすいラッコを、あんな蒲焼きと一緒にしないでよ〉


 両者の答えは喧嘩の発端となった10年前と同じだった。 常識的に考えれば両者は見間違えていい容姿の生物ではないのだが。

 沈黙の中、2人の視線は交錯し――――同じタイミングで、噴き出した。


「俺ら、こんな事で喧嘩してたのか」

〈あはは、小学生だったしね。周りからしたら、変な2人組だったんだろうね。すっごいむっすりしてるのに、一緒にいるなんて〉

「……なるほど、集合の時に俺らを見てた先生の不思議そうな顔は、そういう理由があったからなのか」

〈葵ちゃんてほんと変なことばっか覚えてるよね。子供の頃の記憶自体はあんまりないのに〉

「……ん。まあな」


 葵の顔に僅かに影が落ちる。それは彼にとって、あまり触れられたくない内容だった。

 雪乃の言う通り、葵には中学校入学くらいまでの思い出がほとんどない。

 身体が弱く学校自体にあまり通えなかったのと、頻繁に風邪や肺炎を患って高熱を出していたので、その前後の記憶が抜け落ちているせいである。

 ――――と、周囲にはそう説明している。しかし実際はそれだけではなかった。

 幼く純粋で、それ故にクラスメイトの無邪気な悪意に対して全く免疫のなかった自分。

 霊感の為だけに異分子になり悪辣な仕打ちを受け続けた葵にとって、忘却こそが心を守る防衛手段だった。だから今記憶に残っているのは、風邪で入院した病院の長い長い廊下や、小5の時に葵をジャングルジムから突き落としたいじめのリーダー格の少年の顔、そして水族館での雪乃との喧嘩といった、断片的な思い出だけである。

 雪乃には、記憶の欠落はいじめが原因だとは言っていなかった。告げたら、きっと彼女はそんなになるまで葵を救うことが出来なかったと自分を責めるだろうから。幼馴染にこれ以上心配はかけられない。それは、葵の昔日からの思いだった。

 雪乃が葵の記憶についてを口にする時、彼の胸はほんの少しだけ痛む。自分に全幅の信頼を寄せている幼馴染への罪悪感としての痛み。


「ま、昔のことなんて覚えてたってしょうがないしな。肝心なのは今だよ、今」

〈……ん。そだね〉


 葵は軽口を叩く。そうする事で、罪悪感から目を逸らす為に。



 ――――だから彼は気づかない。

 相槌を打つ雪乃が、ひどく寂しげな顔をしている事に。


***


 犬神可奈子は、意気揚々と学校の廊下を歩いていた。向かうは加奈子の活動拠点とも言える美術室だ。

 テスト期間前から取り掛かっていた油絵は、ようやく完成の1歩手前に近づいていた。うまくいけば、今日中には仕上げまで終わらせることが出来るだろう。

 幸い、返ってきたテストの結果も上々だった。特に選択科目の美術では、クラストップの点数を取る事もできた。多くの生徒は美術のペーパーテストなどカード付きスナック菓子のスナック程度にしか見ていないが、美大への進学を考えている可奈子にとっては、主要教科と同等以上の価値があった。

 今は放課後だが、今日は午前下校なので時間としてはまだ昼前だ。

 4階から見える窓の外には絵の具をぶちまけたかのような真っ青な空と、連日の雨のおかげで水溜りのできた校庭、そこを帰宅する生徒たちが覗いている。水溜りには快晴とそこに浮かぶ雲が映りこんでおり、さながら地面を削ってできた鏡のようだった。

 油絵に取り掛かる前に、スケッチだけでもしておこうか、と可奈子は思った。先日、葵たちに自分の描いた絵を見せてからというもの、可奈子にはもっと自分の絵を見てもらいたいという願望が生じていた。別に賞賛が欲しいのではない。ただ純粋に、描いたものを『友達』に見せるという行為が楽しかった。

 タエも言っていたが、可奈子は他人に自分の絵を見せるのが嫌いだ。可奈子にとって絵は自分の心象を映し出す『鏡』だ。それを他人に見せるという事は、自分の『心』を他人に曝け出すという行為に他ならない。

 いくら同じ美術部の部員であっても――――普段からほとんど交流がなければ、それは他人と同定義である。

 だが葵たちは違う。人との距離を置きがちな可奈子にとって、気兼ねなしに付き合える初めての『友人』だった。それまで意識したことはなかったが、絵を見られても不快でなかったので、自分はきっとこの人たちが好きなのだろうと気づいた。

 雪乃は明るく自分とは正反対の性格で、お節介なくらいに人を思いやれる少女だ。

 和輝は、最初見た時は絶対にお近づきになりたくないと思ったが、話してみると気さくで、人情に厚い性格だった。

 そして、葵は受身で優柔不断なところもあるが、とても優しい。


 ……水城さん……。


 可奈子は胸の内でその名を呟いた。

 雪乃の葬儀で、彼に声をかけたのが全ての始まりだった。

 あの時は、死んだはずの女の子がどうして同じ学校の少年の傍にいるのかという興味と、少女の苦しむ姿を見て衝動的に話しかけてしまったが、こんなに深い付き合いになるなんて思いもしなかった。

 しかし日が経ち交流が深まるにつれて、だんだんと彼のことを考える回数が増えていた。恋愛感情ではない、と思う。可奈子は誰かを好きになったことがないので、それがどういうものかよくわからない。強いて言えば、仲間意識のようなものだった。

 葵と話すうちに、可奈子は彼が自分と同族なのだと悟った。彼もまた、霊感によってわざわざ見る必要のない、人間の汚泥のような悪意を直視してきたのだろう。もちろん本人は口には出さないが。

 だから、葵は3人の中でも特別だった。可奈子にとって、親戚以外で唯一自分と同じ力を持つ人だったから。

 最近、やたらと彼のことを考えてしまうのもそのせいなのだろう。

 本当は今日の放課後に遊びに誘おうとも考えたのだが、部活もあったし、どこで遊べばいいかがわからなかった。それに――――可奈子は微笑する。それに、遊ぶ相手なら、自分よりも雪乃がいるだろう。

 それを思うと、可奈子の胸を隙間風が吹いたかのような一陣の虚しさが掠めた。

 死んで誰かに取り憑くというのは、相当強い執着がないとできない芸当である。つまり、それだけ雪乃の葵に対する想いが強いという事だ。

 あの2人ははっきりと互いの意思を確かめあった訳ではないだろうが、それでも幼馴染以上の好意を抱いているのはわかる。

 死者と生者の恋愛。

 それがいかに不毛で残酷か、可奈子は知っている。

 霊能者の視点で言えば、雪乃には今の段階で成仏してもらうのが誰にとっても最善なのだ。

 しかし、『友達』としての自分が、それを言うのを躊躇わせていた。

 そう……別に、今すぐどうにかなる問題ではないのだ。あの2人――――特に、葵の気持ちが変わらなければ、それは杞憂に終わる問題なのだ。

 葵は、そんなにすぐ心変わりをするような人間ではない。それは可奈子もよく知っている。

 だから、大丈夫だ――――。


 いつの間にか、可奈子は美術室の前に到着していた。

 一番乗りだったら職員室まで鍵を取りに行かなくてはならない。ドアの曇りガラスからは中に人がいるかは判断できなかったが、試しにドアノブを回すと、鍵の抵抗に遭う事はなかった。どうやら既に誰かがいるようだ。

 部活の人だったら気まずいなあ、と恐る恐る扉を開いたが、中にいる人物を視認すると、可奈子はほっとした。

 教員用の机に座って何か書き物をしていたその人物は、可奈子の存在に気づくとにこりと穏やかな笑みを浮かべた。

 美術部顧問にして可奈子の祖母、大友タエだった。

「こんにちは、おばあ様。今日は早いんですね」


 学校ではタエのことを『おばあ様』と呼ぶことはなかったが、周りに人がいない時は別だった。家族なのに先生呼ばわりは非常に違和感があるのだ。


「ええ。今日は授業はなかったのだけれど、家にいるのも暇でしょう。仕事も少し残ってたし、来てしまったのよね」


 そう言ってタエは手元の分厚い冊子に目をやる。どうやら学級日誌のようだった。

 可奈子は荷物を置いて、通学カバンから愛用のスケッチブックを取り出した。やはり、来る途中に廊下で見た風景をスケッチしておく事にしたのだ。


「あら、またスケッチ? 最近のあなたは前にも増して描くようになったわね。――――まるで、誰かに見せたいみたい」


 微笑のまま放たれた核心を突く一言に、可奈子は内心でたじろいだ。しかし動揺を抑え込み、祖母を意識した微笑みでかわそうとする。


「おばあ様、それは勘違いですよ」

「その割には、スケッチブックをいつも持ち歩いてるじゃない。前は美術室か家に置いていたのに」

「そ、それは……そう、もっと上手くなりたいと思って!」

「あの子たちに見せるんですものね」

「ち、ちが……」


 反論するそばから即座に切り返される。

 ついに言い返せなくなって顔に血液が集まるのを感じると、祖母がいつも以上に相好を崩した。まだまだね、と言いたげな笑いに、可奈子は敗北感を覚えた。今だかつて、タエには口で勝った試しがない。諦めて準備を再開すると、背後から声がかけられた。


「可奈子。わかってるわね?」


 それまでと違う、静かながらも鋭利な響きを孕んだ声音に、可奈子の作業の手が一瞬止まる。脳裏には、先ほどまで考えていた葵と雪乃の姿が過ぎった。

 無言のままの可奈子に追い討ちをかけるかのように、タエの言葉が背中に投げかけられる。


「今はいいかもしれないけど、このままだとそのうち限界が来るわ。それがいつ、どういう形でかはまだわからないけれど…………最悪の事態にならないうちに、早めに対処しておいた方がいい事は、あなたもわかっているでしょう?」


 淡々と、だが有無を言わせない絶対的な祖母の声は、霊能者としての仕事をしている時のものだった。霊能者としての祖母の言葉に、いつだって間違いはない。しかし、可奈子は返事ができなかった。


「最悪の事態になった場合、私がやるにしろ貴女がやるにしろ、それは強制的な終わりになるわ。そして、その時に一番悲しむのは恐らく、水城くんよ。そして貴女は、きっと自分を責める。

 可奈子……せっかくできた友達を消すなんて、出来ないと思ってるんでしょう。でもね、それは逆よ。友達だからこそ、これ以上状態が悪くなる前に――――悪霊になる前に、成仏させてあげないと。辛いでしょうけど、2人を説得するのはあなたにしかできない事なのよ」


 圧倒的なタエの言葉は、可能性としての希望を粉々に打ち砕いた。

 悪霊。

 それは全ての魂に共通して存在する危険で、なおかつ非常に堕ちやすい邪の道。

 幽霊という、魂がもっとも無防備になる状態の雪乃にも、その可能性は勿論ある。


「……でも」


 唇をかみ締めていた可奈子が、震える声を絞り出した。


「変わらなければ、いいんですよね」 

「前に言ったでしょう。この世に、永遠なんてないのよ」


 口の達者な祖母と、常にそれに負かされる少女の図式。

 それは、このような時にまでしっかりと、残酷に働いた。


「…………失礼します」


 可奈子はスケッチブックとペンケースを手に持ったまま、タエの顔を見ずに美術室を後にした。

 つい道具を持ってきてしまったが、もうスケッチをする気は起こらない。少女は、しばらく扉に背を預けて思いつめた顔をしていたが、やがて無言のまま立ち去った。


 美術室には、可奈子が入ってくる前と同じく、タエ1人が残る。

 老女は、いつも浮かべている微笑をふっと消すと、深い深い溜息をつく。


「嫌われちゃったかしらね」


 寂しげに呟くと、自身の左手にはめられている数珠のようなブレスレッドを撫でた。可奈子の手にもはめられているそれは、雑霊から身を守るタエの手作りだった。


「魂と接触できる、人として生きるのに必要のない力……。やっぱり、ない方がいいのかしらね」


 霊能者として天才的な力を持っていたタエの血を、色濃く受け継いだ可奈子。周囲はそれを喜んでいたが、タエは時折考える事がある。

 可奈子が幼いうちに、あの力は自らの手によって封印してしまうべきだったのではないだろうか。

 あの子は、霊感のせいでしなくてもいい苦労をずっと背負い込んできた。そして多分、これからも。

 タエは目を閉じると、再び長く息を吐き出した。

 その時、可奈子が出て行ったドアの外で、女子生徒の喋る声が聞こえてきた。それと共に、再び美術室の扉が開かれる。


「あれ、大友先生。こんにちはー」


 美術部の生徒が数人、めいめいの荷物を抱えて入ってきたのだった。


「……はい、こんにちは」


 大友タエは挨拶を返す。

 先ほどとは打って変わったような、いつもの微笑を湛えて。



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