第十六話
「そう……あの後、そんな事になっていたの」
霊感が身に付いた経緯と、そのせいでその後の生活に支障が出ている事、そして霊感を制御出来ないかというひと通りの話を聞き終えたタエは、頬に手を添えて溜め息をついた。
タエの横に座っているのは可奈子で、客間と同じようなテーブルを挟んで対面しているのは葵、和輝、雪乃。
和輝の説明はあまりわかりやすいとは言えず、葵が所々足りない部分を補っていく形になっていたので、説明をし終えるのにたっぷり30分もかかってしまった。
「その力だって、私がその日のうちに気付いていれば、そんな辛い思いをする事もなかったのに……本当にごめんなさいね」
「そんなことないス。あの時先生に助けて貰わなかったら、俺、今ここにいないと思うし……それだけで本当、感謝してます」
深々と頭を下げるタエに、和輝はひたすら恐縮している。大人に対して頭を下げる和輝なんて、そうそう見れるものではないので、何だか変な感じがした。
だが、和輝の言っている事は間違っていないと葵は思う。
あの時――――和輝が保健室で、清泉高校の生徒だった男の霊に取り憑かれた時。
タエが現れなければ、和輝を守ろうとしていたサトミは濡れ衣を着せられたまま除霊され、気を失ったフリをして和輝の身体に潜んでいた男の霊は誰にも気付かれないまま、和輝の身体を乗っ取っていたかもしれないのだ。
そのぞっとしない結末を考えると、葵からの感謝も尽きない。
「ありがとう。それと、あそこにいたセーラー服の女の子の事も、お礼を言っておきますね」
葵と和輝は、顔を見合わせた。
「あなた達、あの子を成仏させてくれたみたいで、本当にありがとう。詳しい話は可奈子から聞きました。霊の望みを叶えて成仏させてあげるのは、とても難しい事なのよ。しかも、見ず知らずの子でしょう? 普通は、そこまでしてあげる理由はないもの」
そう言って、タエは目を細めた。
葵としては、このままではサトミがあまりにも哀れだと思って取った行動なので、改めてお礼を、しかも第三者から言われると、酷くこそばゆい感じがした。それは隣の和輝も同じようで、微妙に居心地が悪そうな顔をしている。雪乃は照れているのか、はにかんだような表情をしていた。
「――――それで、霊感のお話なんだけれど」
唐突に本題に戻り、それまで和やかだった雰囲気が、僅かに緊張味を帯びたものへと変化した。
「霊感の制御は可能だし、もう霊を視ないように力を封印する事もできます」
「え、じゃあ――」
「でも」
喜色しかけた和輝を、タエは申し訳なさそうに制した。
「やっぱり、そこの松下さんだけを視えるようにするのは難しいわね」
〈…………〉
「そんな……どうにかならないんスか?」
無言のまま俯く雪乃を一瞥する和輝の目に、憂慮が込められているのを葵は見た。
「力を制御すれば、自分の意思で松下さんだけを視る事もできると思うわ。でも、それには長期間の訓練が必要だし、何より余計な心配を抱え込む事になると思うの」
「片桐さんの体質の事ですね」
タエの言葉を引き取ったのは可奈子だった。
〈キンパツ君の――――って、あれ? 保健室で話してたやつ〉
「そうです」
中1の時の臨死体験が原因で、和輝は霊に取り憑かれやすくなっている。
男子生徒の霊を祓った後、保健室で可奈子から聞いた話だ。そのせいで、和輝は男子生徒の霊に憑依されそうになった、と。そう言えば、あの時和輝はまだ気を失っていたのだった。
完全に状況についていけていない和輝にそれを説明すると、和輝は心底驚いたような表情をした。知らず知らずのうちに、自分がそのような体質になっているとは思いも寄らなかったのだろう。
「でも、なんでそういう体質だと霊感持ってたらマズいんだ?」
「霊に取り憑かれる危険が増えるからです」
「……そうなのか?」
横を見ると和輝と目が合ったので、葵は頷く。
「普通、霊ってのは『視える』奴を狙うんだ。ただでさえ和輝の場合は霊にとって魅力的な体質な訳だから、その分和輝の身体を乗っ取ろうとする霊は増えると思うよ」
「そういうことです」
保健室の時は可奈子やタエが近くにいたので事なきを得たが、1人でいる際に霊に取り憑かれたら、和輝に憑いた霊を祓う手立ては何もない。
「じゃあその、霊に憑かれやすい体質? それを直せばいいんじゃねえか?」
なるほど、と葵は感嘆した。確かにそれなら何とかなるかもしれない。
しかしその希望の光に影を差したのは、可奈子の横で静かに話を聞いていたタエだった。
「魂と肉体の『ずれ』を直すのはもちろん出来るし、肉体を強奪しようと近寄る霊は減ると思うわ。でもね、それを差し引いても、急に霊が視えるようになるのは危険なことなのよ」
「……どうしてスか?」
「彷徨っている霊はね、常に救いを求めてるのよ。この世を恨んで死んでいった霊も、自分が死んだ事に気づいていない霊も、根本的には死んでもなおこの世に捕らわれている苦しみから解放して欲しいと思っているわ。…………あなたは、その声に耐えられる? 彼らに対して何もしてあげられないのに、魂の救済を求める彼らの声を聞き続ける事に」
喋り方は先ほどと何ら変わらないのに、質量だけが倍になったかのようなタエの声が、しんとした部屋に響いた。
雨戸1枚を隔てて聞こえてくる雀たちの鳴き声が、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。
こに一週間でそれなりに覚えがあるのか、和輝は拳を固く握り締めて俯いている。だが、それは紛れもない現実であった。葵と和輝、無力な者にとっては、特に。
「……でも、霊感の制御は出来んだよな?」
「出来ない事はありません。ですが、最低でも数年間は修行が必要になりますし、その間は寺院などに篭らないといけませんよ」
「だったら、卒業してから」
「その間に何かあったら、意味がありませんよ」
もっともな意見に返す言葉が見つからないのか、和輝は俯く。
そんな和輝を直視できなくなり、葵は逸らした。
和輝にとってベストの選択を薦めてくれている2人に意見までして、彼が霊感にこだわる理由。
幽霊になってからの雪乃にとって、会話のできる友人は生前の何倍もの価値を持つ。そしてここで霊感を消す事は、雪乃の姿を視認出来なくなるという事。
和輝は自分の身よりも、雪乃を案じているのだ。
和輝自身はそんな事一言も言わないが、和輝が情に厚い奴だと知っている葵には手に取るようにわかる。
だからこそ、本来自分が言うべき言葉を全て可奈子に言わせてしまった罪悪感に駆られながらも、葵は、2人の応酬に口を挟む事が出来なかった。
和輝の身が心配なのと同じくらい、雪乃にこれ以上の辛苦を味あわせたくない。
場に下りた気まずい沈黙。永遠に続くかと思われたそれは、しかし明るい声音で遮られた。
〈――なら話は早いよキンパツ君、霊感消してもらお!〉
全員の視線が、雪乃に集中する。
「雪乃……」
〈それが一番安全で確実な方法なんですよね?〉
雪乃の問いかけに、タエはゆっくりと頷く。
〈ならホラ、やってもらうしかないって!〉
「でも、それじゃ雪乃ちゃんが……」
〈あたし?〉
雪乃は一瞬だけきょとんとした後、すぐに春暖のような笑みを浮かべた。
〈あたしは大丈夫だよ。それよりもキンパツ君がまた取り憑かれたら怖いし……あたしの事は気にしないでいいよ。ホラ、何だったら葵ちゃんを介してお話できるし〉
あわあわと胸の前で手を振る雪乃。
だが、それでも腑に落ちないといった表情をしている和輝に、雪乃はそれまでと全く同じ口調で告げた。
〈――――それに、葵ちゃんに憑いた時から覚悟はできてるしね〉
思いも寄らない突然の告白に、葵ははっと顔を上げる。
〈だから、あたしは大丈夫〉
そう断言して屈託なく笑う幼馴染みの笑顔が、一瞬だけ酷く寂しいものに見えたのは葵の見間違いだろうか。
和輝は迷ったように自分の指を弄んだりしていたが、やがて決心したように短く息を吐いた。
「――――わかったよ。雪乃ちゃんがそう言うなら、俺はそれでいい」
〈ホント!?〉
「和輝……」
「ま、その分、葵にはバリバリ働いてもらうけどな。通訳者として」
〈よろしくね葵ちゃん〉
「さいですか」
可奈子だっているだろうに、晴れて雪乃専門通訳機に任命された葵の脳裏に、更に右肩下がりを続けるであろう成績の事がよぎる。
(――でも、まあ)
雪乃と和輝、2人が納得して丸く収まるというのならそれでいいし、その為に自分に出来る事があれば、協力は惜しまないつもりだった。
それに、葵にとって成績など今更気にする程度の問題ではない。受験生としてどうかという気もするが、それはこの際丸めて見えない位置にでも置いておこう。
今思えば、葵はいつも雪乃に助けられてばかりいた気がする。学校の宿題を忘れた時も、いじめられている葵を庇ってくれた時も。
その雪乃が、こんな事になったからとはいえ自分の傍にいたいと思ってくれた。
不純物のない宝石のような想いが、ただ嬉しい。
だから、自分としてはその想いに応えてやりたかった。
***
挨拶してタエの部屋を出た葵たちは、最初に通された客間に戻ってきていた。
テーブルの上には、新しく北里さんが淹れてくれたお茶とお菓子が置いてある。
とは言っても、この場に和輝の姿はない。
彼は今、タエに霊感を消して……というか、封印してもらっている最中だ。
どうやって封印するのかタエに聞いてみると、皺の刻まれた顔に茶目っ気のある笑みを浮かべて「それは企業秘密なの」との返答だった。この辺り、血の繋がりというものを意識せずにはいられない。
儀式――そうタエが呼んでいた――自体はそんなに難しいものではないらしく、30分もすれば完了するらしい。なのでそれまでの時間潰しだった。
「――――にしても、驚いたよ。まさか犬神さんのお祖母さんが、大友先生だったなんて」
「すいません、別に隠していた訳ではないんですが……」
お茶を冷ます葵と対角線上に座る可奈子は、苦笑を交えつつそう言った。ちなみに、さっきまで葵の正面を陣取っていた雪乃は、今は部屋の中をふわふわと漂っている。
保健室での一件を思い返してみると、確かに可奈子とタエはお互い見知った感じではあった。今になってみれば納得出来るのだが、まさか血縁関係だとは。
〈それに、可奈子ちゃんとは苗字も違うしね〉
「大友姓は、祖母の結婚前の苗字なんですよ。当時から教師をしていた祖母は、わざわざ定着している名前を変える事もないだろうという思って、学校では大友姓を名乗り続けたそうですよ」
〈……って事は、大友先生ってずっとあたしたちの学校に勤めてるの!?〉
「そうなりますね」
大まかに考えても、三十年以上はこの学校にいるという事だ。まだ経験した事のない長い年月に、葵は密かに尊敬を覚える。
それにしても、現代とは違い女性の地位がまだ確立していなかった時代に、よく結婚後も婚前の姓を名乗ったり、そのまま働き続ける事が許されたものだ。やはり、土地ならではの権力のようなものが存在していたのだろうか。
〈……ねえねえ、ところでさ。この絵ってもしかして可奈子ちゃんが描いたの?〉
見ると、さっきまであちこちを浮遊していた雪乃が壁の一点の前で静止していた。
言われるまでまったく意識していなかったが、そこには額に納められた一枚の風景画が掛けられていた。
「ええ……そうです」
「え、これを犬神さんが?」
もっと近くで絵を見るために、立ち上がり雪乃の隣に並ぶ。
「え…………これを、犬神さんが?」
発した言葉が先ほどと全く同じ台詞だという事に、葵は気づかなかった。それくらい唖然としていて、気づく余裕がなかった。
砂場にブランコ。それからキリンを模した滑り台。
水彩で描かれていたのは、どこにでもありそうな公園と、3人の人物だった。
砂場では城の建造の最中なのだろう、幼い女の子と男の子がシャベルを片手に土をいじっている。よほど熱中しているのか、2人は頭から足の先まで土で汚れているが、泥にまみれたその表情だけはきらきらと輝いていた。
そして砂場からそう遠くないベンチに腰掛ける女性は、恐らく子どもたちの母親なのだろう。真っ黒になった2人を叱ろうともせず、慈しむような視線を2人に送っている。
ベンチの前にはシートが広げられていて、そこにはバスケットが置いてある。きっと、近所の公園に散歩がてらピクニックに来たのだろう。
ただ、どこにでもありそうな公園と親子の姿を描いただけの絵なのに、心の琴線に触れる暖かさが、そこには描かれていた。ふんわりとした水彩画なのに、一瞬絵だという事を忘れてしまうようなリアルさがそこにはあった。
ふと右下に目をやると、小さくK.Iとのイニシャルが添えられていた。なるほど、雪乃はこれを発見して可奈子に尋ねたんだろう。
「……この絵、私が2年生の時に描いたんです」
葵を現実に引き戻したのは、すぐ近くから聞こえた可奈子の声だった。可奈子はいつの間にか葵の隣、肩が触れそうな距離に移動して、一緒に絵を眺めていた。今までにないその近さに、葵の心臓がはねた。身長差がある為、葵の表情が可奈子に見えなかったのは救いだ。
「県の大会で最優秀賞をとったんですよ」
〈お、可奈子ちゃんが自慢? 珍しい〉
「趣味を誉められると人間得意になるものですよ」
〈そういえば可奈子ちゃんて美術部だったよね。あたし、他にも可奈子ちゃんの描いた絵見たい!〉
「でも、家にははスケッチブックくらいしかありませんよ」
〈いいからいいから!〉
「うーん……あんまり期待しないで下さいね」
可奈子が出て行くと、その場に残されたのは葵と雪乃だけとなった。
〈可奈子ちゃんてスゴイねー、これぞ才能、って感じ〉
「そうだな」
〈あたしもこんな綺麗な絵が描けたらなー。あたし、美術ってどうも苦手なんだよね〉
「そうなんだ」
〈うん、色の使い方がどうも……〉
「雪乃」
あの時点で話は完結しているが、葵としては聞いておかずにはいられなかった。
話を遮られ、きょとんとしている雪乃。表情も声音も、普段と変わらないように見えるが、しかし――――。
「本当にあれでよかったのか?」
〈え? あれって、何が?〉
「和輝の霊感のこと。覚悟出来てるって言ってたけど、でも」
〈しょうがないよ。葵ちゃんも、キンパツ君がまたあんなコトになったらやでしょ?〉
「それはそう、だけど……」
和輝じゃなくて、雪乃自身はどうなんだ? 覚悟が出来てるったって――――。
しかしその問いかけは、口に出そうとした瞬間に襖の音に遮られた。
「お待たせしました。とりあえず最近のから3冊ほど持って来ましたよ」
半身ほどもある黒塗りのスケッチブックを抱えた可奈子が、襖に手をかけた状態で立っていた。
「え。あ、あのー……もしかして、お邪魔でしたか?」
2人の視線を真っ向から受け止めた可奈子が、恐る恐る尋ねる。
〈ううん、全然! 大した話じゃなかったし〉
「そ、そうですか?」
〈それより、早く見せて見せて〉
文字通り滑るように移動しテーブルの一角に座った雪乃に倣い、可奈子も畳の上に腰を下ろす。
「雪乃」
〈ほら、そんなトコにつっ立ってないで葵ちゃんもおいでよ〉
何だか釈然としなかったが、暗にこの話題は終わりだと言われているような気がして、葵もそれ以上は追求せずに指示に従った。雪乃と可奈子が向かい同士に座っていたので、どちらの隣に座るか逡巡し、結局雪乃の隣に落ち着く。
「ほとんど鉛筆画だし、上手いとは言えないものばかりですが…………」
そう前置きして差し出される分厚いスケッチブック3冊。どれも角が削れていたり傷ついていたりして、相当使い込まれていたであろう事が読み取れる。
葵はそれを受け取り、若干緊張しながら紐を解き、表紙を開く。
〈おおっ!〉
「うわ……すげ」
1ページ目には、美味そうに熟した林檎が『あった』。白と黒の2色でありながらも瑞々しさを感じさせ、なおかつ、絵ではなく、本当の林檎を見ているかのように立体的なのだ。
単純なモデルながら、葵の目は林檎の上を何往復もさせられた。しかし決して飽きることはなく、雪乃が次のページをめくるように指示するまで魅入られたかのように見つめ続けていた。
2ページ目は静物ではなく、動物――1匹の猫が寝ている絵だった。猫の他には何も描かれていないが、細い目を更に細めた満足そうな表情や光の加減から、食事後に日向で昼寝でもしているのだろう。
それから葵と雪乃は無言で、時には息を呑み、感嘆の声を上げながら絵画鑑賞に没頭した。1冊目のスケッチブックには鉛筆画の静物や生き物の写生が多かったが、たまに風景画や彩色画などが収められていた。
可奈子の絵を一言で表すのだとしたら、『物語』が適切だろう。1枚の絵から色や味、その時の状況など、様々な情報が読み取れるのだ。それは言葉を使わない本を読んでいるようなものだ。葵は美術に関してはからきしだが、時には緻密に、時には雰囲気を重視して描かれている可奈子の物語に次第に引き込まれていくのを感じた。
やがて時計の長針が半周をした頃、葵は1冊目のスケッチブックの最後のページをめくり終えた。ほう、と息をついて葵と雪乃は余韻に浸る。
「あの……どうでしたか?」
2人が何も言わないのを不安に思ったのか、可奈子が切り出す。
〈ごめん、なんか……すごすぎてコメントができない〉
「うん。すごい才能だと思う」
本当はもっと気の利いた事が言いたかった葵だが、雪乃の言うとおり胸が一杯で、その感想の9割すら言葉にできないという情けない体たらくだった。しかし、それだけでも満足なのか可奈子は安心したように嘆息した。
「そうですか……良かったぁ。お二人とも何も言わないから、そんなに酷かったのかと思っちゃいましたよ」
そんなことを言うやつは、きっとピカソとかルノワールに違いない。
ちょうどその時、廊下に通じる襖が再び開かれた。そこに立っているのは、混じりけのない金髪と銀髪という漫画のような組み合わせ――――和輝とタエだ。
「ただいま、って何見てんだ葵」
「あら、可奈子が描いた絵を人に見せるなんて珍しいわね」
「いえ、そんな事は……」
「犬神サンが描いた絵? マジ? 俺にも見して」
即座にテーブルに着こうとする和輝だが、その口からひき潰された蛙のような声が漏れた。タエが和輝の襟首を掴んで阻止したのだ。
「こらこら、せっかちなのもいいけど、その前に確認しなきゃいけないことがあるでしょう?」
老人とは思えぬ力技を繰り出しておきながら相好を崩さないタエに、和輝は咳き込みながら謝る。
「失敗はしていないと思うけれど、念のためにテストをするわね。さて和輝君、この部屋のどこに雪乃ちゃんがいるでしょう?」
要するに、霊感が本当に消えているかどうかのテスト、という事だった。今雪乃がいるのは葵の隣、テーブルの前。和輝は悟りの境地に達した僧侶のような静謐な眼差しに、校内で密かに行われている賭けトランプ以来の真剣さを湛えていた。
〈まさか、まだあたしの姿が視える、ってコトはないよね?〉
葵は、和輝にはわからないようにほんの少しだけ顎を下げた。しかし実際のところ、どちらの意味で頷いたのかは自分にもわからなかった。
そして獲物を探す鷹のように巡らせていた和輝の視線がある一点に定められ、射抜くような眼光は鋭さを増す。そして右手がゆっくりと持ち上げられ――――
「そこだ!」
葵の、雪乃の、可奈子の、タエの、8つの瞳が一樹の指した一点に集中する。
そこにいたのは――――――――――――猿の置物だった。
「ああ良かった、失敗はしてないみたいね」
「あと2メートル南の方角だったら合ってたんですけどね」
〈葵ちゃん…………あたし、猿? 猿なの?〉
「たまたまだと思うけど、何なら怨念でも飛ばすといいよ」
「え、俺心の目で見たんだけど。違うの? 絶対開眼したと思ったんだけど。ていうか葵、さらりと恐ろしいこと言うな」
一瞬とは言え期待した自分が、何かとんでもない大損をしたような気にさせられる。その自信がどこから沸いて出てくるのか、一回精密検査した方がいいだろう。
「それはともかく、これでもう和輝は霊に取り憑かれる心配はなくなったんですか?」
「そうね、霊を引き寄せる魂と肉体の歪みも取り除いておいたし……これでもう和輝君は普通の人と何ら変わらないと言えるわね」
「良かったな、和輝」
「うん、スルーはともかくありがとう葵。あと、大友先生もホント、ありがとうございます」
「いいのよ、元はといえば私の確認不足が原因でもあったしね」
再び頭を下げる和輝の真横に、雪乃はふわりと移動した。和輝の目と鼻の先で手を振ったり、『おーいキンパツ君、ほんとにみえないのー? ねーねーねー、あーいーうー』などとしきりに呼びかけていたが、和輝は一向に気づく気配を見せなかった。雪乃の奇行に堪えきれなくなった3人が笑いを漏らすが、和輝だけは理解できないというように目を瞬かせている。どうやら、和輝の霊感はタエによって完璧に封印されたようだ。
「あの、何がおかしいんスか?」
「いいえ、気にしないで。あなたの力が消えたことを再確認してるだけだから」
「? はあ」
「それよりも、もし良かったら可奈子の絵を見てやってくれないかしら。この子、美術部の部員にすら見せるのを嫌がるのよ」
可奈子は僅かに顔を赤らめたが、拒否はしなかったので、結局タエと和輝を交えた5人で残りのスケッチブックを鑑賞する事となった。
そのどれも、描かれていたのは1冊目に負けず劣らずの絵ばかりで、1枚1枚が丁寧に描き込まれていた。葵と雪乃は先ほどと同じくほぼ無言で見入ったが、意外にも和輝は可奈子と絵の話で盛り上がっていた。そういえば以前、和輝がデザイナー志望だと言っていたのを思い出す。これまた見た目に似合わず、なかなか和輝の絵は上手いのだった。
タエはほとんど会話には参加しなかったが、時たま思い出したかのように可奈子の子供の頃の話をするのだった。その度に止められていたが、当然というか幼少時代の可奈子の情報は3人に流出した。それによると、可奈子は物心ついた時から絵を描くのが好きで、本格的な絵の手ほどきをしたのはタエなのだそうだ。霊感にしろ絵にしろ性格にしろ、やはり可奈子はタエの血を色濃く受け継いでいるらしい。
そして話に花が咲き、気がつけば辺りはもうすっかり暗くなっている時間帯となっていた。
「あら、もうこんな時間。ごめんなさいね、遅くまで……」
「あ、いえ。それじゃあ僕たちはそろそろお邪魔します」
葵は席を立って、学生カバンを取ろうと手を伸ばした。そこで改めて今日が土曜日で、学校があったのだと気づく。今日の犬神家での出来事は色々な方向にインパクトがあって、学校の存在が葵の中で希釈されていた。
「それじゃあ、お邪魔しました」
〈すっごく楽しかったです〉
「大友先生、あと犬神サンも、今日は本当にありがとうございました」
玄関まで見送りに来てくれたタエと可奈子に対し、各々が別れの挨拶をする。
相変わらずデフォルトの笑顔なタエに対し、可奈子はむすっとしたような半眼だった。
まあ、気持ちはわかる。誰だってクラスメートの前で子供の頃の自分の様子や失敗を語られるのはいい気がしないだろう。
……それにしても、犬神さんていつも冷静なイメージがあったけど、やっぱ子供の頃は違ったんだなあ。
葵の脳裏に、聞いた話で自分的大ヒットだった『可奈子5歳時・クレヨン化粧事件』がよぎる。ああ、顔の筋肉が緩みそうだ。
「いいえ、また来てちょうだいね」
「…………その時はおばあさまがいない時にして下さい」
「ほほほ、この子はもう。雪乃ちゃん、次は可奈子の子供の時のアルバムを見せるわ。今と全然変わんないのよ」
「おばあさま、怒りますよ?」
なんてやり取りをしている2人に見送られ、葵たちは犬神家を後にした。
5月といえども、日が沈んでしまったら冷える。葵が学ランの詰襟をしっかりと押さえつつ人気の無くなった住宅街を歩いていると、隣を歩く和輝がぽつりと漏らした。
「なあ、今も雪乃ちゃんているのか?」
「え?」
思わず和輝の横顔に目をやる葵だが、和輝はこちらを見ようとせずにただ正面を向いているだけだった。
「……いるよ。俺の隣に」
そう言うと、和輝は「そっか」と軽く嘆息した。
「何だかさ、わかってはいたけど……ホントに気配すら感じないのな。短い間だったけど、普通に話してたコの姿が急に見えなくなる、ってのは……なんか、寂しーよな」
〈キンパツ君……〉
「ま、ここ1週間はすっげえ楽しかったけどな。俺はサトミの兄貴みたくこの事を後悔する気はねえし」
冗談めかして笑う和輝に葵も合わせるが、上手く笑えていたかどうかはわからなかった。
それから何となく、3人は無言で星のない空の下を歩き続ける。家から漏れるテレビの音、団欒の声、夕食の匂い。それらがいつもよりはっきり感じられる。
和輝が取り憑かれてから今日までの1週間ちょっと、色々な事がありすぎてあっという間だった。
サトミを成仏させたこと、葵と雪乃、可奈子というグループに和輝が加わったこと、昼食を4人で食べたこと。そして何より一番なのが、和輝に対する後ろめたさが消えたこと。
その上、いつか話すことはあっても絶対に理解してはもらえないだろうと考えていた、霊を視る上での苦悩と苦労を語り合える日が来るとは思ってもいなかった。
男子生徒の霊。和輝の体質。サトミ。タエ。可奈子。
……何だか、本当に偶然なのかと疑ってしまうような巡り合わせだ。
そしてその巡り合わせに一番救われたのは、他でもない自分だった。
「――――じゃあな葵、また月曜に。雪乃ちゃんも、また」
「え……」
気がつくと、いつの間にか分かれ道に差し掛かっていた。通りを真っ直ぐ進めば葵の家、右に伸びる小道を行けば和輝のアパートがある。
葵の返事を待たずに道を曲がる和輝。切れ掛かって明滅を繰り返す街灯がその背を照らし、学生服の陰影を照らし出していた。
「あ、あのさ!」
葵は無意識のうちに、その背を呼び止めていた。すると和輝はぴたりと停止し、肩越しに振り返る。
しかし声をかけた本人の方はというと、何を言うか考えていなかったので内心では焦っていた。
しかし呼び止めたからには何かを言わなくてはならず、長時間無言でいることもできず――――咄嗟に口から出たのは、
「俺、頑張るから!」
「え?」
「その、雪乃の通訳。だから……ぜんぜん普通に、喋れるように頑張るから、だから……その、何ていうか…………」
途中から何が言いたいのかわからなくなってしどろもどろになり、ついには尻すぼみになって言葉は消えた。
ああ、何で俺はこういう時にハッキリと言葉に出来ないんだろう。いくら現国の成績が悪いっていっても、これじゃあ酷すぎるんじゃないか?
しかし、しばらく珍しいものでも見たような顔で葵のことを凝視していた和輝だったが、ふいに小さく微笑んだ。
「おう、期待してるわ」
そして片手を挙げてひらひらと振ると、再び背を向けて歩き出す。
彼の姿が見えなくなるまで、葵は和輝を見送った。
〈……帰ろっか、葵ちゃん〉
「そうだな」
そして葵と雪乃は並んで、すっかり暗くなった帰路を進む。周囲には人影はなかったので、葵は人目を気にせず雪乃と会話をすることができた。
〈最後のキンパツ君、キザだったね〉
「片手だったもんな。しかも振り返らずに」
〈でも、サマになってたね。葵ちゃんとは違って〉
「…………」
一言も反論できないのが、同じ男として非常に哀しい。しかし、自然と葵は笑みをこぼしていた。
「また成績下がるなー、授業も全然聞いてないし」
〈大丈夫だよ、いざとなったらあたしが誰かのをカンニングしてあげるから〉
「……その行為は人としての道徳心に著しく欠ける気が……」
他愛のない話をしながら、非凡な才能を持った平凡な少年とその幼馴染の少女は並んで歩く。
霊感のある葵と幽霊の雪乃、そして一般人の和輝。1週間前と同じ状態に戻ったが、全てが同じという訳ではないのだった。