第十四話
更新が遅れてしまいすみません。
さすがに水平移動できる幽霊の時よりも移動するスピードは遅かったが、それでもサトミの足取りはかろやかだった。本当に兄と再会できるという喜びのためだろう。
「あっ、お兄ちゃんだ!」
前方に、灰色のジャケットを着た男性の後ろ姿が見えた。葵は先ほどちらりと見ただけだが、サトミの兄に間違いないだろう。
青年はゆっくりとしたペースで歩いているため、すぐに追いつく事が出来た。
「お兄ちゃん・・・慎治お兄ちゃん!」
名前を呼ばれたのに反応し、サトミの兄・慎治は振り返った。眼鏡をかけた理知的な顔立ちだが、きょとんとした表情を浮かべている。
「えと、あの・・・?」
「お兄ちゃん!」
「へっ?」
明らかに動揺を隠せていない兄に、ぎゅっと抱き付くサトミ。加奈子は元々身長が低いので、その光景はまさに『兄妹』に見えた。
「あの、人違いじゃ・・・?」
しかしこちらから見たら心暖まる感動の再会シーンも、兄の方からしてみたら見ず知らずの女の子にいきなり抱き付かれているのだから、パニックに陥るのも無理はなかった。
「サトミだよ! お兄ちゃん元気だった? ずっと会えなかったから心配だったよ」
「な、何を言って」
「お父さん元気? それからお母さんも」
「や、やめ――」
言いたい事が積もり積もっていたのか、サトミは興奮してまくしたてる。
「今はこの加奈子おねーちゃん・・・あ、この身体の人なんだけど・・・の中に入れてもらってるんだ。幽霊のままだと、お兄ちゃんサトミに気付かな――」
「やめてくれ!」
突然の大声に、サトミはびくりと肩を震わせる。
「・・・君が誰かは知らないが、妹の名を語ってそんな悪ふざけはやめてくれ。妹は死んだんだ」
慎治は目を伏せ、それだけを淡々と告げると妹と名乗る少女に背を向けて歩き出した。一方サトミは、ただその場でうつむいているだけだ。
・・・こうなるであろう事は、葵も予想していた。いきなり知らない少女に「自分はあなたの妹です」なんて言われれば――しかもその妹が亡くなっているならば――普通は、そのまますんなり受け入れるなんて事にはならない。たとえそれが事実であろうとも。
(でも、こんなのはあんまりだ!)
いてもたってもいられなくなった葵が1歩を踏み出そうとした瞬間、
「――12月2日が、何の日か覚えてる?」
サトミの一言に、その場に入ろうとしていた葵や雪乃・・・そして慎治は動きを止めた。
少女は、もううつむいてはいなかった。
もう、諦めない。そんな想いのこもった強い眼差しで、しっかりと兄を見据えている。
葵は以前、この眼を見た事があった――そうだ、あれはサトミが和輝を見つめていたのと同じ視線だ。
サトミは、立ち止まったままの兄の背に向け、その口をゆっくりと開いた。
「・・・一昨年のその日、お兄ちゃんはサトミにおっきなウサギのぬいぐるみをくれた。
サトミが前から欲しいって言ってたやつで・・・初めてお店で見た時に、冗談のつもりで『欲しい』って言ったら、お兄ちゃん本気にしちゃって。誕生日にくれた時は、ほんとにびっくりした」
「ど、どうしてその事を・・・」
慎治は振り返り尋ねる。その顔には、驚きの表情が浮かんでいた。だがサトミはその問いには答えない。
「お兄ちゃんはそのウサギの他にも、ケーキ屋さんで小さなケーキを買ってくれた。・・・とっても嬉しかったし、楽しかった」
サトミはそこで言葉を区切った。少しの間無言になる。1つ道路をはさんだだけなのに、人や店でのざわめきがとても遠くの出来事のように感じる。
誰も何も言わなかったが、葵は隣で貧乏ゆすりをする和輝に気がついた。
それに、内容だけならほのぼのとしているが、葵には何故かこの間が嫌なものに感じられた。
サトミは葵たちに目をやり、それから視線を慎治に戻すと、小さくため息をついて、続けた。
「その年が明けて、初もうでに行った時だった。サトミ、急にフラッとして倒れちゃったの。救急車で運ばれて・・・病院での検査で・・・白血病なのがわかったの」
「・・・もう、いいよ」
その時、ずっと黙りこくっていた慎治が初めて口を開いた。だがサトミには聞こえなかったらしい。
「それからは、抗がん剤のお薬とか大変だった。毎日ずっと苦しくて、それでも良くならなくて――」
「もういいって!」
言うが早いか、慎治はサトミの元に駆け寄ると、そのか細い身体が折れそうなくらい強く、思いっきり抱きしめた。
「・・・もう、わかったよ。サトミ・・・なんだよな?」
サトミの頬を、一筋の水が伝った。
それから彼女は恐る恐る手を伸ばし、兄の広い背にまわす。
先ほどのように拒否されないことを確かめると、慎治のジャケットを強く握り締めた。
「慎治お兄ちゃん・・・!」
震える唇で最愛の兄の名を呟く。
何度も何度も確認するように、愛しおしむようにその名を呼ぶうち、それはいつしか低い嗚咽になって彼女の喉から漏れた。
「本当にごめん。お見舞いにも行けなくて・・・母さんから連絡を貰って病院に行った時は、もうサトミは昏睡状態になってて・・・」
「・・・ううん、それはもういいの。それより・・・サトミ、お兄ちゃんにずっと言いたかったコトが・・・」
一生懸命何かを言おうとするのだが、嗚咽に邪魔されて上手く言葉にできないサトミ。
慎治はゆっくりと妹の背をさすり、頭を撫で、焦らす事もなくその続きを待った。
しばらくすると少しは落ち着いたのか、手の甲で目をこすり、ゆっくりとかすれた声を発した。
「あたしが死んだ日・・・何日か、覚えてる?」
意外外の質問だったのか、目を丸くする慎治。しかし一瞬のち、さも当然の事のように答えた。
「忘れるわけないだろ、4月23日だ」
「えへへ、覚えててくれたんだ。・・・じゃあその3日後は何の日?」
さっきとは打って変わって、こちらは少し時間がかかった。
うー、だとかむー、だとか、まるで難しい数式を解いている時のような唸り声を発している。そしてしばらくしてようやく出した答えは、
「・・・みどりの日?」
〈惜しい!〉
外野であるはずの雪乃からツッコミが飛ぶ。ちなみにみどりの日は4月29日だ。
「あれ、4月26日って文化の日じゃなかったっけ」
「馬鹿、それは11月3日だよ」
本当に日本国民なのかを疑いたくなるような和輝の発言に迅速かつ的確なツッコミを入れつつ、葵も少し考えてみた。しかし4月26日という日付に心当たりはない。
〈あ〉
「何、なんか思い付いた?」
〈チェルノブイリ原発事故の日だ〉
「いや、絶対関係ないだろ」
しかもなんでそんな事知ってるんだ、という更なるツッコミを心の中にしまい込み、葵は視線を兄妹2人に戻した。
そこにはくすくすと笑うサトミと、照れたように頭を掻く慎治。結局その日が何なのかわからなかったらしい。
「・・・ほんと、お兄ちゃんていっつもそうだよね。自分のことよりも、サトミとか、お父さんやお母さんのコトを優先してさ」
「・・・・・・」
「そんなコトあるよ。だってお兄ちゃん、お父さんとお母さんの離婚が決まった時も、ずっと泣いてるサトミのコト慰めてくれてたじゃない」
「・・・・・・」
「離婚しちゃってからも、よく一緒に遊んでくれたしさ」
「・・・・・・そんな、事」
「だからサトミ、今でもずっとお兄ちゃんのコト好きだよ。そんな優しいお兄ちゃんが――」
「そんな事、言わないでくれ」
謳うようなサトミの言葉を遮ったのは、さっきの照れた表情とは一変して沈痛な面持ちの慎治だった。
「お兄ちゃん?」
「・・・俺は、優しいどころか、兄として失格だ」
「どうして? サトミのコト嫌いだったの?」
「違う、そうじゃない。・・・サトミがいなくなってから、ずっと考えてたんだ」
慎治は、そこで一旦区切ると、深く息を吸った。心なしか、全身がわなわなと震えているように見える。
「俺が。・・・俺がもっと早く、サトミの病気に気付けていれば、サトミももしかしたら助かったんじゃないかって」
「――それは、」
「俺は、サトミが生まれた時からずっと、サトミを見てきた。共働きだった両親のかわりに、俺がしっかりしなきゃ・・・って。両親が離婚してからも、しょっちゅう電話したり、会ったりもしてた。一緒にいる時間が一番長かったのは俺なのに――それなのに、俺はサトミの異変に気づけなかったんだ。・・・だから、優しいだなんて言わないでくれ。俺には、そんな権利はないんだ」
沈黙する2人。サトミは肩を僅かに震わせていて、せっかく止まった涙がまた流れているように見えた。
決して感情を表に出す事もなく、淡々とそれは語られていった。しかし、だからこそ、後悔と、自分に対する激しい怒りを葵はそこに垣間見た気がした。そして同時に、妹に対する深い愛情も。
「ごめん、サトミ。本当に・・・・・・ごめん」
謝罪の言葉に、サトミは何回か鼻をすすった後、涙交じりの声で、小さく呟いた。
「・・・あのねお兄ちゃん。サトミ、別にお兄ちゃんの事恨んだりなんてしてないよ」
「サトミ・・・」
「確かに、サトミは病気になって、13年しか生きられなかったかもしれない。でもね、後悔はしてないの。・・・だって、お兄ちゃんと一緒にすごしてきた時間だけで、もう一生ぶんの楽しさを味わえた気がするから」
サトミは涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげる。両頬には、大粒の涙が幾筋もつたっていた。さっきからずっと泣き通しだったから、目も頬も、耳だって真っ赤だ。
しかし彼女は笑っていた。これ以上ないというくらいの、満面の笑みで。それは、本当に自分の人生に満足した者にしか出来ないような、会心の笑みだった。そして彼女の言葉に嘘偽りがない事は、その笑顔を見れば一目瞭然だった。
「だからお兄ちゃん、自分が悪いだなんて・・・思わないで
」
「サトミ・・・」
慎治は、サトミのか細い身体に縋り付く。その肩が震えているように見えたのは、決して葵の気のせいではないはずだ。
兄妹の感動的な情景に、自分の目頭が熱くなるのを感じる。しかし、和輝と、それに何と言っても雪乃の前で涙を見せるわけにはいかない。ゆっくりと息を吐きつつ視線を2人から逸らす。
その時、自分の隣でも誰かの肩が震えているのに気付く。てっきり雪乃かと思いきや、それは目にうっすらと涙を溜めた和輝だった。
「和輝、お前・・・泣いてんのか?」
心底驚いたように自分を見つめる葵と雪乃に気付き、和輝は慌てたように目をこすった。
「そ、そんなわけないだろっ」
「・・・・・・」
しかし否定する声はかすれ、震えている。
葵はそれ以上の言及を止めた。
一方の雪乃はといえば、きょとんとした顔で和輝に見入っていた。そういえば、雪乃は滅多に泣かない性格だったんだという事を思い出す。
意外な事に気をとられたのが良かったのか、いつの間にか涙は止まっていた。
(それにしても、泣いている和輝なんて初めて見たな)
後でからかってやろう、と内心でほくそ笑みつつ視線を兄妹に戻した葵は、ふと違和感を感じた。
(・・・?)
じっと目を凝らす。
慎治に抱きすくめられているサトミ。彼女が慎治の背に回した腕が、心なしか光って・・・ん? 光って?
「なんか・・・サトミちゃん、光ってない?」
〈え・・・わわっ! ど、どうしたのサトミちゃん!?〉
それは葵の気のせいではなかった。
ほんのりとだが、サトミの身体全体が、淡い光で包まれているのだ。
「サトミがどうしたって?」
復活した和輝が建物の陰から顔を出す。
「うぉっ、あいつどうしたんだ!?」
やはり和輝にも見えているようだ。
しかも、段々とその光は強くなっていく。しかし、慎治は気付かない様子でサトミを抱きしめたまま身じろぎ一つしない。いや、それは気付いていないというよりは、見えていないと言った方が正しいかもしれなかった。
〈ねえ、あれってまさか・・・〉
「うん、多分」
なんとなくだが、葵には確信があった。
「な、何だよ?」
一人わかっていない和輝に、雪乃が告げる。
〈多分・・・成仏だと思う〉
サトミは、自分の身体がほんのりと発光しているのに気付いていた。そして同時に、これが幽霊としての自分でいられる最期の時なのだと本能で感じ取っていた。
(そっか。サトミ、成仏・・・しちゃうんだ)
慎治のジャケットを握り締めた手に、力を込める。
自分が死んでからどれくらいの間、慎治を求めて彷徨った事だろう。そして何度途方に暮れて、何度諦めかけた事だろう。その何度目かの時に、和輝を見かけたのだ。
一目見て、お兄ちゃんに似ているな、と思った。見た目とか顔つきとかは全く似ていないが、その人の持っている暖かさというか・・・こう、強いて言うなら『タマシイの色』とでも言うべきものが似ていた気がしたから。
そして、つい兄の面影を求め、和輝の側にいたところ、あの男子学生の霊が現れて・・・とにかく、後は大変だった。
(あとちょっとで、可奈子おねーちゃんにお祓いされちゃうトコだったしね)
ふふっ、と自然に笑みが漏れる。
それに気付いたのか、慎治が顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、不思議そうにこちらを見ている。思わず、サトミは吹きだした。
「お兄ちゃん、すごい顔」
「サトミだって、人の事言えないぞ」
そう言うと、慎治はポケットからハンカチを取り出して、サトミの涙をそっと拭った。
優しい兄。いつもサトミの事を優先してくれていた兄。
そんな慎治ともうすぐお別れなのかと思うと――やっぱり、寂しかった。
出来る事なら、これからずっと慎治の側にいたい。
しかし、先ほどよりも強くなった光が、もう残された時間は僅かな事を物語っていた。
(・・・そうだよね、和輝おにーちゃんたちのおかげで、サトミは慎治お兄ちゃんに会えたんだし・・・お兄ちゃんに会えないで成仏しないよりかも、ぜんぜん良かったんだよね)
サトミは、兄のジャケットに顔を埋め、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。懐かしい、兄の匂いが鼻腔に広がる。それは、まだ家族全員、1つ屋根の下で暮らしていた頃の家の匂いと同じなのだった。
ふう、とサトミは吸い込んだ空気を吐き出した。
(サトミがこのまま成仏しても、生まれ変わっても・・・この匂いを覚えておこう。お兄ちゃんの事を、みんなで暮らしてた時の良い思い出を忘れないように)
「・・・サトミ?」
うっすらと目を開けると、そこには心配そうにサトミを覗きこむ慎治がいた。
「ごめんねお兄ちゃん。・・・そろそろ、お別れみたい」
「そんな! 折角こうやってまた会えたのに・・・」
「この身体、サトミがお世話になった人から借りてるだけだから・・・」
発光が強くなる。目を開けているのも辛いくらいだ。
「でも」
「お兄ちゃん」
もう本当に時間がなかった。
サトミは、自分の動作がぎこちなくなるのを感じた。魂と身体の結びつきが薄れ始めているのだ。
あと少しで、自分はこの世界から消えてしまうだろう。あるいは、幽体としての自分はまだいくらかこの世に留まるかもしれないが、少なくとも可奈子の身体から弾き出されてしまうのは時間の問題だった。だから、最期に何か・・・・・・
「ねえお兄ちゃん、さっきの話の続きだけどね」
「さっきの話?」
「うん、サトミが死んだ日のこと。・・・サトミね、ずっとお兄ちゃんに言いたかった事があったの」
サトミは、自分の身体がすうっと軽くなっていくのを感じた。生身の身体と幽体との分離が始まっているのだ。
・・・お願いだから、あとちょっとだけ待って。
「お兄ちゃん、毎年サトミ誕生日をお祝いしてくれたでしょ。・・・だから、サトミもお兄ちゃんの誕生日をお祝いしたかったの」
「誕生日――――あ」
鈍感な慎治も、ようやく4月26日という日付の意味を思い出したようだった。――すなわち、自分の誕生日を。
ふふっ、とサトミが微笑む。しかし、その微笑みは表情に出る事はない。もはや、サトミの意識はほとんど対外へと拡散していた。
それでも最後の力を振り絞り、それを告げる。
「だからね、お兄ちゃん――誕生日、おめでとう」
そして、サトミの意識は完全に可奈子の体から弾き出された。
葵は、目を刺すような強烈な光が一瞬にして消えうせたのを感じた。瞑っていた目を少しずつ開けると、確かに光は消えていた。しかし――
「サトミちゃん! ・・・いや、あれは犬神さん?」
そこにいたのは、意識を失った可奈子と、驚いたように可奈子を抱きとめている慎治だけだった。
〈サトミちゃんは!?〉
「・・・わからない」
「まさか、本当に成仏しちまったのか!?」
辺りを見回すも、サトミの幽体らしき人影は見当たらない。
「っていうか、可奈子ちゃん!」
「あ、おい!」
雪乃は建物の陰を飛び出したかと思うと、一目散に可奈子と慎治の元まで飛んでいく。
葵と和輝は、お互いに顔を見合わせると、雪乃の後を追った。
「サトミ・・・サトミっ!?」
「ちょっとすいません」
サトミの、いや、可奈子の身体をがくがくと揺さ振る慎治を手で制し、葵は可奈子をそっと地面に横たえた。可奈子の肩を支える手から、服ごしに温もりが伝わってくる。
――何を考えてるんだ、俺は。
内心で自分を叱咤する。
雪乃が可奈子の名を2、3度呼ぶと、可奈子が小さく呻いた。
「犬神さん、大丈夫か!?」
「う・・・」
額に手をやりながら、可奈子は上半身を起こした。そしてゆっくりと辺りを見回す。
――良かった、大した事はないみたいだ。
「・・・サトミちゃん、成仏したんですね」
〈やっぱり、あの光は成仏の合図だったんだ・・・〉
「おい、サトミ・・・サトミはどこにいったんだ!?」
それまで呆然としていた慎治が、可奈子の肩にすがりついた。葵たちは事情をわかっていても、慎治からすれば訳のわからない事だらけなのだから、混乱するのも無理はなかった。
「サトミちゃんは」
慎治をなだめつつ、可奈子は言った。
「成仏しました」
それを聞いた慎治の表情が、悲愴から落胆の色にに変わる。
そして可奈子の肩を掴んでいた手を離すと、地面に膝をついた。
「もう、会えないのか」
「・・・はい」
「・・・これだけの」
「え?」
「これだけの時間しか会えないんだったら・・・いっその事、会わない方が良かったのかもな」
自嘲的に笑う慎治に、葵はむしょうに腹が立った。だが、何か言ってやろうと口を開くよりも速く、和輝の腕が伸びていた。
「てめェ!」
がっ、と慎治の襟首を掴んで、強引に立ち上がらせる。
「サトミが、今までどんな思いでお前の事捜してたか知ってんのか! 何日も何日もお前だけをただ捜して、それでも見つからなくて! 挙句の果てには、除霊されそうになって・・・それでもこうやって、お前に会いに来たんだぞ!?」
自分より身長の高い慎治に掴みかかったまま、和輝は怒鳴る。
「それなのに――それなのに会わなかった方が良かっただなんて、何ふざけた事言ってんだよ!」
静寂が訪れる。
葵も雪乃も可奈子も、慎治でさえも何も言わなかった。・・・いや、言えなかったの方が正しいだろうか。
葵は、こんなにも烈火の如く怒った和輝を見るのは初めてだった――初めて葵と会った時でさえ、ここまでではなかった気がする。
和輝は、舌打ちをすると、それでも無表情のままの慎治を放した。そしてそのまま、駅の方向へと歩き出す。
〈あ、キンパツくん!?〉
雪乃と可奈子が、慌てて和輝の後を追う。葵もそれに続こうとした時、慎治の座り込んだコンクリートに、黒い染みがはたりと出来るのを葵は見た。その染みは2つ、3つと増えていく。
空は雲ひとつない快晴。
慎治は俯いており、その表情はわからなかったが、その染みを作り出したのは慎治に他ならなかった。
***
揺れる電車内では、葵たちはそれぞれがシートに腰掛けていた。昼下がりの中途半端な時間帯とあって車内にはほとんど人がいない為、雪乃もちゃっかり葵の隣に腰掛けている。
「・・・・・・」
誰も、ひと言も発しようとしない。何とも言えない気まずさが、この場に漂っていた。
電車が柏木駅に着くまでは、あと15分弱といったところだ。それまでの間、この居心地の悪い空間にいるのは、葵にとって正直キツいものがあった。
何か話題はないものかと、必死に考えを巡らせてみる。
(『サトミちゃん、成仏できたみたいで良かったね』・・・ううん、後味が悪すぎるしなあ)
(『あのお兄さん、ちゃんと家に帰れたかなあ』・・・駄目だ、子供じゃあるまいし)
結局、葵もあの場に慎治を残して和輝たちの後を追ったのだった。
(『それにしても、最初は和輝とあのお兄さんで喧嘩するんじゃないかと思ったよ』・・・って、だああ! 自分から地雷踏んでどーすんだよ俺!)
心の中で、虚しく自分自身にツッコミを入れる葵。天然の入った雪乃と非常識な和輝との間で過ごすうちに培われたツッコミ魂は、内心にまで作用するらしい。
いい加減自分の会話下手さと話題の少なさに嫌気が差した時だった。
「あ〜〜〜、くそっ」
そう言って自分の髪をわしゃわしゃとかき乱す和輝。これは、困った時の和輝の癖だという事を葵は知っている。
そして和輝はみんなの方を向くと、申し訳なさそうに手を合わせる。
「みんな、すまん! なんか俺1人で勝手にキレて、雰囲気悪くしちまって・・・でもさ、あんな事言うなんて、いくらサトミの兄貴でも許せなくて・・・だから・・・はぁ」
ますます場の空気が悪くなったのを感じたのだろうか、最初は勢いの良かった和輝も、じょじょに声が小さくなり、最後にはがっくりと肩を落としてしまった。
あの場面で慎治に掴みかかるという行動に出たのを、彼は彼なりに後悔しているのだろう。
中学の頃から変わらないよなあ、と葵は思う。喧嘩っ早いが、見た目と違って人情に熱い性格なのだ、和輝は。
(あの事、教えてやるかな。そうすれば少しは元気になるだろうし)
あの事、というのは、葵が慎治の元から去る間際に耳にした言葉だった。
――――ありがとう。
確かに、慎治はそう言ったのだ。葵たちに向かって。
「・・・私は」
葵が何か言うよりも早く、可奈子が口を開いた。
「片桐さんが言った事は、間違ってないと思いますよ」
きっぱりと断言し、ふっ、と微笑む。その時、葵は心臓が高く鳴ったのを感じた。
〈そうそう。・・・それに、あのお兄さんも本心では分かってたと思うよ。ね、葵ちゃん?〉
「・・・・・・」
〈葵ちゃん?〉
「え? あ、うん。そうだな」
「みんな・・・サンキューな」
気まずい雰囲気も解消され、3人は何かを楽しそうに話し始める。しかしその内容は葵の耳には全く入っていなかった。
葵は、自分の左胸を、服の上から手で押さえてみる。
・・・別に、いつもと変わらない。
(気のせい、だよな・・・?)
自分自身に問うてみるも、もちろん答えが返ってくるはずもない。
しばらくして、慎治の言葉を和輝に伝えるのを忘れている事に気付いたのだった。