9 8月2日☆
「鰻、うな、うな、鰻~♪」
調子外れな音程だけど、そこは見逃して欲しい。
何故なら今日は鰻の日。土用の丑の日だからだ。
夏の、土用の丑の日は有名だけど、今年は、実はそれが二回ある。毎年あるわけではなくて、今年の暦がたまたま丑の日が2日ある年だということなのだが、私は二回あったことに、深く深く感謝したい。
「はいよ、鰻の白焼きね」
「きゃあぁ!」
行きつけの蕎麦酒屋。
私の前には白焼きの白い鰻。
私の横には、日本酒を飲みながら笑む大島さん。
そして、歓喜に咽ぶ私。
「今日、二の丑だろ? 飲みに行くか?」
と大島さんが言ってきたのは、定時前の廊下。いつもならこれから残業に入るのが大島さんの常なのだが、今日は早く帰れるようになったらしく、こうして二人で行きつけの蕎麦酒屋に来ていた。
「そんなに鰻が好きなのか?」
半ば呆れるような大島さんに、私は満面の笑みで、
「いや、丑の日なんだから、食べないと!」
と力説する。
年中、鰻を食べたがるほどの鰻好きではないが、やはりこの季節になると、いつもより鰻が食べたくなるのは世の常だろう。
しかも酒飲みにはもってこいの、白焼きだ。
脂ののったふんわり白い鰻を山葵で食べるなんて、どんだけ贅沢?!と思わなくもない。
しかも、今年の鰻は高上がりで、この白焼きだって、この蕎麦酒屋の価格帯では、破格のお値段だ。それでも、こうして白焼きを用意してくれる蕎麦酒屋の店主であるおとーさんに、私は心底感謝する。
「おとーさん、おいしー!!」
「ははは? そぅぉ? それなら嬉しいなぁ」
おとーさんは好々爺然とした話口で、嬉しそうに目を細めた。蕎麦だけでも十分美味しいのに、この蕎麦酒屋は、酒のつまみも絶品だ。そして安い。
楽しくてうまい酒、がおとーさんのモットーらしく、その酒に対する愛情はおとーさんの店構えにもよく表れている。
決して満員御礼な、繁盛店ではないが、常連がこよなく愛する酒屋が、ここだ。
(私が一人で来ても、快く受け入れてくれるしね)
何も聞かないし、何も言わない。
去年まで、ここに通っていたのは、実は私一人じゃない。
実家からタクシーワンメータの距離だが、市街地と住宅街では人の目は全く異なる。
私のことを知る人もいなかったこの場所に、去年、一昨年、その前の年、私はずっと誰かさんと一緒に来ていた。
大島さんも常連だったのに会わなかったのは、単純に私はこの店に来店するのは土曜日で、大島さんは会社帰りの平日だったからだろう。
思い出の場所、と言うのも苦い思い出だが、誰かさんと来ない日も一人で偶に来ていたせいか、おとーさんは一人できていた私にもいつも通りだったし、誰かさんが一緒にこなくなっても、いつも通り迎えてくれた。
美味しいお酒と肴を、女一人でも気兼ねなく飲み食いできる場所というのは、ジクジクと何時までも消えない傷みを少しでも癒すのに、本当に貴重な場所だったのだ。
「おいしー。おとーさん、おいしー!」
「奢ってやる俺に感謝の言葉はないのかよ」
隣で酒を飲んでいる大島さんが、呆れたようにそう言うので、私はニコニコしながら、
「大島さん、御馳走様です」
と言ってみた。
「あぁ」
私の顔に満足そうに大島さんは目を細める。
初めて二人で飲んだのは去年の暮れ。
それから一人で通った一月、二月、三月。偶に会うようになって、四月には蕎麦酒屋で偶然出くわすのではなく、互いに声を掛け合って、ここに繰り出すようになっていた。
(神様、ありがとう)
運命の神様なんて信じないが、大島さんとのこの時間は、私にとってかけがえのない物になりつつある。
他愛ない話を異性とする。
それだけで、楽しい。
それだけで、癒される。
(これ以上は望みません)
もう、これで十分。
こうして、自分の恥を知らない人と話すことが、こんなにもささくれ立った心を癒やしてくれるものだとは、思いもよらなかった。
(もし、大島さんがいなかったら、
私、どうなってたかな)
やさぐれて、一人で飲み歩いて、寂しさに耐えきれず、行きずりの男と惰性の関係を結んだかもしれない。
そうならなかったのは、大島さんがいたからだ。会社の人で先輩だったことも大きい。自棄になって、身体だけの関係になることも、大島さんとの関係故に防げた。
「ありがとうございます」
もう一度、心を込めてそう告げると、大島さんは
「そんなに殊勝にされると気色悪い」
と言いながら、私の頭にぽん、と手を置いた。
と、タイミングよく携帯の着信音が流れてくる。
私のではない。大島さんのだ。
私はニコニコしながら、大島さんが携帯をとるのを促して、自分は聞き耳を立てないように、おとーさんに話しかける。
だけど、一瞬聞こえた名前に、ピクリと少しだけ反応してしまう。
「なんだよ、千夏。はぁ? もう飲みに来てるっつうの」
(この前の人だ)
頭からスウッと血の気が引いていく。聞きたくないのに、大島さんの声が入ってくる。
「あぁ、後輩と鰻食ってるんだよ。だから無理」
飲みの誘いだとすぐに分かった。
大島さんの方を見てないけれど、大島さんは少し不機嫌そうなのがその声から聞いてとれた。
「はぁ?! 会社の側じゃないから、来れねーよ。早く家帰って、飯作れよ。出張? あぁ、そうか....」
大島さんの声が弱くなる。
何だか嫌な予感がして、思わず大島さんの方を見た。
(ここは嫌だ)
千夏さんとやらには申し訳ないけれど、ここには来ないで欲しい。
ここ、だけは、嫌だ。
どうしても。
絶対。
私の顔が強ばるのが分かったのだろう。
大島さんはぽん、とまた私の頭を叩いて、
「駄目だ。また、別の日にしてくれ。じゃあな」
と言って、電話を切った。
私は自分でも分かるくらい、あからさまにホッとしてしまった。
(私にそんな権利ないのに)
私たちはあくまで、同じ職場の先輩、後輩でしかない。ほんの少しだけ、飲みに行く回数が多い。
それだけの関係。
「すまん。気にするな」
(謝らなくていいです)
謝らなきゃならないのは私の方だ。
まるでこの蕎麦酒屋が二人だけの場所みたいに、独占しているんだから。
「ごめんなさい...」
うなだれると、もう一度、頭を今度はくしゃりとかき混ぜられて。
「ホラ、せっかくの鰻なんだ。しっかり食えよ」
「はい」
山葵をのせて、パクリと口に鰻を含むと、ふんわりと優しい食感と共に、つん、と山葵の辛さが鼻にぬけた。
「酒の肴に鰻つつくのは、お前だけで十分だ」
ボソッと大島さんがぼやいたので、私は顔をあげる。どういう意味か分からずに首を傾げると、大島さんは苦笑しながら、
「今年の鰻は高いからな」
と言った。
「そんなにお財布辛いなら、割り勘でいいですよ?」
いつも飲みに行くときは割り勘か、少しだけ多く大島さんが払う。鰻は大島さんが奢ってくれるという話ではあったが、ボーナスだって先月でたばかりだし、私だって余剰のお金がまだある。
「お前に心配される程、金がないわけじゃない」
「じゃあ、どうしてですか?」
とは聞かない。聞けない。
何だか聞いてはいけない気がしたし、聞いても答えてくれない気もした。
それでも、先程よりは随分心のざわざわも落ち着いて、いつもの二人の空気が降りてくる。
恋人じゃない。
だけど、ただの先輩、後輩でもないことに、私も大島さんも多分、気がついている。
それでも、これ以上進まないのは、私が悪いのか。それとも大島さんが悪いのか。
答は出さないまま、もう一口、パクリと鰻を食べると、やっぱり山葵が鼻につんときた。
色んな想いも一緒に通り抜けたけど、私はそれをサラリと流した。