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臆病な恋  作者: 榎木ユウ
9/34

9 8月2日☆

「鰻、うな、うな、鰻~♪」


 調子外れな音程だけど、そこは見逃して欲しい。

 何故なら今日は鰻の日。土用の丑の日だからだ。

 夏の、土用の丑の日は有名だけど、今年は、実はそれが二回ある。毎年あるわけではなくて、今年の暦がたまたま丑の日が2日ある年だということなのだが、私は二回あったことに、深く深く感謝したい。


「はいよ、鰻の白焼きね」

「きゃあぁ!」


 行きつけの蕎麦酒屋。

 私の前には白焼きの白い鰻。

 私の横には、日本酒を飲みながら笑む大島さん。

 そして、歓喜に咽ぶ私。


「今日、二の丑だろ? 飲みに行くか?」

と大島さんが言ってきたのは、定時前の廊下。いつもならこれから残業に入るのが大島さんの常なのだが、今日は早く帰れるようになったらしく、こうして二人で行きつけの蕎麦酒屋に来ていた。


「そんなに鰻が好きなのか?」

 半ば呆れるような大島さんに、私は満面の笑みで、

「いや、丑の日なんだから、食べないと!」

と力説する。

 年中、鰻を食べたがるほどの鰻好きではないが、やはりこの季節になると、いつもより鰻が食べたくなるのは世の常だろう。

 しかも酒飲みにはもってこいの、白焼きだ。

 脂ののったふんわり白い鰻を山葵で食べるなんて、どんだけ贅沢?!と思わなくもない。

 しかも、今年の鰻は高上がりで、この白焼きだって、この蕎麦酒屋の価格帯では、破格のお値段だ。それでも、こうして白焼きを用意してくれる蕎麦酒屋の店主であるおとーさんに、私は心底感謝する。


「おとーさん、おいしー!!」

「ははは? そぅぉ? それなら嬉しいなぁ」

 おとーさんは好々爺然とした話口で、嬉しそうに目を細めた。蕎麦だけでも十分美味しいのに、この蕎麦酒屋は、酒のつまみも絶品だ。そして安い。

 楽しくてうまい酒、がおとーさんのモットーらしく、その酒に対する愛情はおとーさんの店構えにもよく表れている。

 決して満員御礼な、繁盛店ではないが、常連がこよなく愛する酒屋が、ここだ。


(私が一人で来ても、快く受け入れてくれるしね)


 何も聞かないし、何も言わない。


 去年まで、ここに通っていたのは、実は私一人じゃない。

 実家からタクシーワンメータの距離だが、市街地と住宅街では人の目は全く異なる。

 私のことを知る人もいなかったこの場所に、去年、一昨年、その前の年、私はずっと誰かさんと一緒に来ていた。

 大島さんも常連だったのに会わなかったのは、単純に私はこの店に来店するのは土曜日で、大島さんは会社帰りの平日だったからだろう。

 

 思い出の場所、と言うのも苦い思い出だが、誰かさんと来ない日も一人で偶に来ていたせいか、おとーさんは一人できていた私にもいつも通りだったし、誰かさんが一緒にこなくなっても、いつも通り迎えてくれた。

 美味しいお酒と肴を、女一人でも気兼ねなく飲み食いできる場所というのは、ジクジクと何時までも消えない傷みを少しでも癒すのに、本当に貴重な場所だったのだ。


「おいしー。おとーさん、おいしー!」

「奢ってやる俺に感謝の言葉はないのかよ」

 隣で酒を飲んでいる大島さんが、呆れたようにそう言うので、私はニコニコしながら、

「大島さん、御馳走様です」

と言ってみた。

「あぁ」

 私の顔に満足そうに大島さんは目を細める。


 初めて二人で飲んだのは去年の暮れ。

 それから一人で通った一月、二月、三月。偶に会うようになって、四月には蕎麦酒屋で偶然出くわすのではなく、互いに声を掛け合って、ここに繰り出すようになっていた。


(神様、ありがとう)


 運命の神様なんて信じないが、大島さんとのこの時間は、私にとってかけがえのない物になりつつある。

 他愛ない話を異性とする。

 それだけで、楽しい。


 それだけで、癒される。


(これ以上は望みません)


 もう、これで十分。

 こうして、自分の恥を知らない人と話すことが、こんなにもささくれ立った心を癒やしてくれるものだとは、思いもよらなかった。


(もし、大島さんがいなかったら、

私、どうなってたかな)


 やさぐれて、一人で飲み歩いて、寂しさに耐えきれず、行きずりの男と惰性の関係を結んだかもしれない。

 そうならなかったのは、大島さんがいたからだ。会社の人で先輩だったことも大きい。自棄になって、身体だけの関係になることも、大島さんとの関係故に防げた。


「ありがとうございます」


 もう一度、心を込めてそう告げると、大島さんは

「そんなに殊勝にされると気色悪い」

と言いながら、私の頭にぽん、と手を置いた。


 と、タイミングよく携帯の着信音が流れてくる。

 私のではない。大島さんのだ。

 私はニコニコしながら、大島さんが携帯をとるのを促して、自分は聞き耳を立てないように、おとーさんに話しかける。


 だけど、一瞬聞こえた名前に、ピクリと少しだけ反応してしまう。


「なんだよ、千夏。はぁ? もう飲みに来てるっつうの」


(この前の人だ)


 頭からスウッと血の気が引いていく。聞きたくないのに、大島さんの声が入ってくる。


「あぁ、後輩と鰻食ってるんだよ。だから無理」


 飲みの誘いだとすぐに分かった。

 大島さんの方を見てないけれど、大島さんは少し不機嫌そうなのがその声から聞いてとれた。


「はぁ?! 会社の側じゃないから、来れねーよ。早く家帰って、飯作れよ。出張? あぁ、そうか....」


 大島さんの声が弱くなる。

 何だか嫌な予感がして、思わず大島さんの方を見た。


(ここは嫌だ)


 千夏さんとやらには申し訳ないけれど、ここには来ないで欲しい。

 ここ、だけは、嫌だ。

 どうしても。

 絶対。


 私の顔が強ばるのが分かったのだろう。

 大島さんはぽん、とまた私の頭を叩いて、

「駄目だ。また、別の日にしてくれ。じゃあな」

と言って、電話を切った。

 私は自分でも分かるくらい、あからさまにホッとしてしまった。

(私にそんな権利ないのに)

 私たちはあくまで、同じ職場の先輩、後輩でしかない。ほんの少しだけ、飲みに行く回数が多い。

 それだけの関係。


「すまん。気にするな」


(謝らなくていいです)


 謝らなきゃならないのは私の方だ。

 まるでこの蕎麦酒屋が二人だけの場所みたいに、独占しているんだから。


「ごめんなさい...」

 うなだれると、もう一度、頭を今度はくしゃりとかき混ぜられて。

「ホラ、せっかくの鰻なんだ。しっかり食えよ」

「はい」


 山葵をのせて、パクリと口に鰻を含むと、ふんわりと優しい食感と共に、つん、と山葵の辛さが鼻にぬけた。


「酒の肴に鰻つつくのは、お前だけで十分だ」

 ボソッと大島さんがぼやいたので、私は顔をあげる。どういう意味か分からずに首を傾げると、大島さんは苦笑しながら、

「今年の鰻は高いからな」

と言った。


「そんなにお財布辛いなら、割り勘でいいですよ?」

 いつも飲みに行くときは割り勘か、少しだけ多く大島さんが払う。鰻は大島さんが奢ってくれるという話ではあったが、ボーナスだって先月でたばかりだし、私だって余剰のお金がまだある。


「お前に心配される程、金がないわけじゃない」


「じゃあ、どうしてですか?」

とは聞かない。聞けない。

 何だか聞いてはいけない気がしたし、聞いても答えてくれない気もした。

 それでも、先程よりは随分心のざわざわも落ち着いて、いつもの二人の空気が降りてくる。


 恋人じゃない。

 だけど、ただの先輩、後輩でもないことに、私も大島さんも多分、気がついている。



 それでも、これ以上進まないのは、私が悪いのか。それとも大島さんが悪いのか。


 答は出さないまま、もう一口、パクリと鰻を食べると、やっぱり山葵が鼻につんときた。

 色んな想いも一緒に通り抜けたけど、私はそれをサラリと流した。

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