6 7月21日★
「あ! 大島も今帰り?」
電車遅延でごった返す駅で、海にそう話しかけてきたのは、東松 千夏という、同期入社の女だった。
同期入社の中では、結構気さくに話す方で、一昨年までは一緒に飲みに行ったりもした。
一昨年までは。
「すごい人だよね」
と言って口元に左手をあてた彼女の薬指には結婚指輪。
海を気の置けない飲み友達だと称した女は、飲み友達よりもいい男を見つけて早々に結婚した。
友達だと思っていたのは彼女で、それ以上だと勘違いしていたのは海。
今、思い返しても何とも苦い思い出だが、何も伝えなかったからこそ、こうして、今も気軽に話しかけられる関係のままだったことは有り難い。
「電車、まだ来ないだろうから、少し飲んでかない?」
「旦那は?」
「今、出張中」
それでも他の男と二人で飲みに行こうなんて言えるのだから、罪作りなことこの上ない。
「最近飲んでないから、久しぶりに飲みたいんだよね。いいでしょ?」
どう言えば海が断らないか分かっている彼女に対し、海は僅かにため息を逃してから、それを了承した。
但し、それを今、好きな女に見られるなんてのは、当然ながら考えてもいなかった。
☆☆☆
「えへへ。ご馳走さまです」
はにかんだ笑顔を海に見せつけた桃と電車に乗り込んだのは、九時過ぎのことだ。
自宅からの最寄り駅が同じ海と桃だが、帰宅時間が重なることはまずない。
大体、10時前後が帰宅時間になる海と違って、設計補助の仕事の桃は、遅いときでも九時頃には帰宅するからだ。
(何か、緊張する)
図らずもこうして一緒に帰れるとは思わなかった。
先程、居酒屋で鉢合わせした時は、内心冷や冷やした。しかも、デートだなんて誤解されたままなんて、冗談じゃないと思った。
まだ飲み足らなそうな千夏を急かして切り上げた。
「もう1本、遅くてもいいじゃん」
なんて言われたが、生憎慈善事業じゃあるまいし、既婚女性と長々飲む気にもなれなかったから、桃が帰ってすぐに切り上げた。
「凄いな」
乗り込んだ電車は朝以上の混みようで、乗り込んだ瞬間、車両の真ん中まで押し込まれる。
なんとか吊革をつかむと、桃は捕まるところもなく、両足を開いて踏ん張っている。
女が男の前でその足はどうだろう、と思ったが、ここでは仕方ない。
「おい、酒田」
「はい?」
横並びだった酒田がこちらを向いた瞬間、電車が発車した。
「うわっ!」
誰かがよろめいたらしく桃が押されてこちらによろめいてくる。
ぽすん。
軽くはないが、重くもない勢いで桃が胸に飛び込んできた。海は片手で桃を支えて、もう片方の手で吊革をギュッと更に強く掴んだ。
「す、すいません!!」
「い、いや。気にするな」
そうは言ったが桃の頭がちょうど海の鼻頭に近づいて、もう少し押されたら、桃の柔らかそうな頬にキスできそうな距離に桃がいる。
いつもはこの身長で損することもあったが、まさかの役得に不覚にもドギマギした。
「す、すいません」
桃は顔をあげられないらしく、俯いたまま体を固くしている。
海も海で、桃の身体を受け止めた状態は、精神衛生上、非常に好ましくないことに気がつき、必死に別のことを考えようとする。
考えようとするのだが、それを邪魔したのも、やはり桃だった。
「大島さん、意外に体格いいんですね」
「はぁ?!」
「小さいから、もっとひょろっこいのかと...」
「お前、俺の手が動かないのを分かってて言ってるだろ?」
いつもなら間違いなく桃の頭を叩いているが、今は彼女を支えるのと、吊革で精一杯だ。
桃は顔を背けたまま
「いや、誉めてるんですよ」
と言う。
どんな顔でそんなことを言うんだか。きっと、相変わらずのしたり顔だろうと思って、ぐいっと桃を更に抱き寄せた。
ほぼ、密着状態だ。
「ちょっ!」
桃が胸を押してくるがお構いなく抱き寄せる。これくらいの役得、構わないだろうと思いながら、顔をずらして桃の耳元に囁く。
「お前は思った以上に小さいな」
女だとは思っていたし、だからこそ恋愛感情も抱いた。
だけど、こんなにも抱き寄せたら小さいとは思ってもみなかった。
そして、柔らかい。
(これ以上はヤバいな)
「大島さん?!」
戸惑う桃の耳に更に囁く。
「....胸が」
「はっ?」
顔をこちらに向けた桃と、目がすぐに合う。キスできそうな至近距離だが、今、彼女の頭の中では先ほどの言葉と今の言葉が連結されたはずだ。
「!!!!!!!」
顔を赤くして、ぐぬぬぬぬ、と桃が呻いた。
「せ、セクハラめ!!」
「男に身長のこと言うお前もセクハラだ、馬鹿」
それでも先程のことは、言い過ぎだとは分かっている。普段ならまず言わない。
だけど、それ位言わなきゃ、どうにかなることも分かっていた。
(思った以上に、俺、コイツのこと、好きなんだなぁ)
少なくとも、このまま、抱き締めていたら、せっかくの友好な関係を崩すのは目に見えていた。
「信じらんないっ。低俗!」
腕の中の桃は、腕の中だということも忘れて怒っている。
それでいい。それが桃らしい。
一駅挟んで、10分少々の時間の後、電車から降りた時は、元の桃に戻っていた。
さっきまで、人の腕の中にいた彼女は、そんなことも忘れたみたいに、怒っている。
「そんなに怒るなよ。今日は俺の奢りでいいから」
「そうですか? じゃあ、今日は遠慮なく奢られますから!」
奢りで機嫌が直るのも、また、桃らしくて、海はそんな桃を見ながら微笑む。
(これ位がちょうどいい)
千夏の時みたいに、どんどん近くなって、離れがたくなって、欲情して、盛り上がった時に、
「私、結婚するんだ」
なんて言われるくらいなら、ハマりそうでハマらないくらいで、いい。
「よぉし、沢山、飲むぞー!」
腕をまくる桃の背中は、やはり小さくて、抱き締めても、小さかった。だけど、彼女がその小さな身体に似合わず元気で、大らかな心の持ち主だってことは、桃と仕事をして十二分に分かっている。
身長同様、気持ちまで小さい自分には、勿体無い女性だ。
「程々にしろよ」
「それは無理なお話かな!」
先程まで抱き合っていたのなんて嘘みたいに、さっぱりと話しながら、海は桃とホームを歩いていく。
似たような身長の二人が、似たような歩幅で歩く。
二人の間の距離は、30センチ程空いている。
その距離が意味するものを、海は深く噛みしめながら、
「程々に、な」
ともう一度、意味深に呟いた。