5 7月21日☆
夕方、随分蒸した空気になったな、と思ったら、定時の5時をすぎた頃には雨が降ってきた。
しかも、大雨洪水警報発令。いわゆるゲリラ豪雨に近い大雨は、会社の中で瞬停が起きるほどで、こんな日に限って運悪く残業した私は、雨上がりの駅のホームで、「あちゃー」と小さく呻いた。
駅の改札口に掲げられるホワイトボード。そこには、しっかりと電車の到着遅延のお知らせ。
どうやら南の方がかなり酷かったらしく、停電が1時間ほど続いたらしい。その影響で電車の方も2時間近くずれこんでいるらしく、しかも8時近いというのに、ホームは人でごった返している。
どうせ次の電車を待っても鮨詰めなら、潔く、遅めの電車に変更すればいい。
私は今入った駅を背に、今度は駅前通りに向かって歩いていく。駅前通りと言っても、ここは商店が栄えた街ではないので、ポツポツと八百屋や魚屋がある以外は、会社帰りの人間を狙った居酒屋が、何軒か立ち並んでいるだけだ。
会社員になってから、夕飯が不規則になったせいか、私の分の夕飯の用意はない。だから、こんな時は気兼ねなく飲みに行ける。
まぁ、その代わり飲まない日は、自分で夕飯の支度をしなければならないのは面倒くさいけど、一人暮らしの自炊に比べれば、とても楽だろう。煮物とかカレーの時は、鍋に残っていれば、それを食べられるし。
ブラブラと何軒か居酒屋をすぎた後、右に入る小さな小道に猫のように滑り込む。車は当然入れないその小道の先に、ちょこんとあるのは小さな居酒屋だ。
女独りで飲んでも悪目立ちしない。客層も年配者が多く、騒いで飲むような居酒屋ではないところが気に入って、電車の待ち時間に立ち寄る私の隠しスポットだ。
しかも、店内が狭いせいか、職場の飲み会では使用できないところがいい。
「こんばんはー」
カラカラ、と低い音を立てて戸を開けると、一つしかないテーブル席の客と露骨に目があった。
「あ」
と小さく声を上げてしまったが、ペコリと会釈で済ませたことは、自分を誉めてあげたい。
「なあに、大島くん、知り合い?」
テーブル席で大島さんと差しで飲んでた女性が振り返った。
私を見て、にこりと軽く笑う。サバサバした感じの綺麗な女の人だった。
(これは、デート、かな?)
大島さんに彼女がいるという話は聞いたことがなかった。
だから今、こうして二人で飲む女の子が、私以外にいたと言うことに、少しばかり動揺する。
「なんだ、お前も電車待ちか?」
大島さんがビールを飲みながらそう聞いてきたので、
「まぁ、はい。そうです」
と返してカウンターを確認する。人が一杯ならこのまま帰るのに、生憎一人しかカウンターにはいないから、座れてしまうところが辛い。
「こっち来て一緒に飲むか?
あ、千夏。こいつ同じ部署の後輩」
ショートカットの千夏という女性は、「こんばんは」と笑った。
「あ、どうも。酒田と申します」
私も取りあえず会釈する。
(しかし、一緒に飲むタイプの女じゃないよなあ)
酒飲みのせいか、酒好きするタイプや、人好きするタイプは、分かるようになってきた。
目の前の女性は、どう見ても、身内で飲むのが好きなタイプで、人と飲むのは嫌いそうに見えた。
第一、一緒に飲もうと大島さんが言った時点で、飲むならこの人も声を掛けてくるだろう。
私は大島さんに対してニコリと笑うと、
「デートの邪魔は出来ませんよ」
と言った。
大島さんが、ギョッと目を丸くしたが、それがどうしてかは知る由もない。恐らく言い触らされるんじゃないかとでも思ったのだろう。何だか虚しくなりつつも、取り敢えずそのままカウンターに座る。
「おい」
大島さんが何か言い掛けたのを軽く会釈でごまかして、
「生大一つ」
と言った。
大島さんもそれ以上は何も言わなかったので、少しだけ切なくなりかけたが、それは料理を頼むことで押し流した。
「あと、ほっけと枝豆と冷や奴。それと、このカボチャのください!」
「はいよー」
脱サラしてこの店を始めたという店主は、ツルツルぴかぴかの頭を光らせながら、私の注文を笑顔で受けてくれた。
背後では、女性が大島さんに何か話し掛け始めている。
私は人の話に聞き耳たてるのは好きじゃないから、直ぐテレビの方に集中した。幸いこの豪雨のせいか、テレビはナイター中継ではなく、特別番組が流れていた。お世辞にも面白いとは言えなかったけど、それでも後ろの二人の話を聞くよりはまだいい。
「はい、生大」
でん、と置かれた大ジョッキ生を私はゴクゴクと飲んだ。いつもみたいに飲んでる!って気分になれなかったのは仕方ない。
(そっか、まあ、私以外とも飲むよな)
別に私と大島さんが付き合っているわけじゃないし、誰と飲んだって構わない。
そこに、私がどうこう言える権利はない。
(動揺するな、私!)
そう思えども、冷や奴も、枝豆も、ほっけもカボチャも、いつもなら美味しく感じられるのに、今日ばかりは流し込むように食べるしか出来なかった。
「あ、じゃあ、お先失礼します」
店に入ってきっかり一時間。私は勘定を済ませると大島さんたちに頭を下げる。
「もう行くのか?」
大島さんが驚いた顔をした。いつも二人で飲むときは二時間は飲むから意外だったようだ。
だけど、流石にここで二時間も独りで飲めるほど強くはない。
「電車待ちですからね」
と返して、千夏さんとやらにもペコリとお辞儀して店を出た。
「いい店だったんだけどなぁ」
当分行く気にはなれないかも。
あの千夏さんとやらは一体、大島さんとどういう関係なんだろう、と思い返す。
仲は良さげだった。
サバサバした感じは、大島さんも嫌いではなさそう。と言うより、好きな方なんじゃないかと思う。
「好き、なのかなぁ?」
もしそうなら自分はどうしよう。
そう考えた瞬間、直ぐに答えは出た。
(応援してあげないと)
好きなら、精一杯応援してあげよう。大島さんが幸せなら、それが一番いい。
ホームにつくと、ごった返すような人が少しだけ減っていた。それでも九時という時間でこの人の多さは凄い。あと一時間待っていた方が良かった気もしないでもないが、こ
ればかりは仕方ない。
幸い、あと少しすれば電車もくるようなのでそのままホームに入る。
人混みを避けるように、一番ホームの端に移動して携帯を開く。
時間潰しに、ゲームでもしようかと思ったら、ポンと肩を叩かれた。
「?」
顔を上げると、息を切らした大島さんがいた。
「あれ? どうしたんですか、大島さん」
「いや、電車来るっていうから急いで出てきた」
「お連れの方は?」
「あいつ、上り電車だから」
そう言いながら、大島さんは手で自分の胸元を扇いでいる。
「置いてきちゃったんですか?」
「いや、あっち側にいるんじゃね?」
(いるんじゃね?ってアナタ...)
嬉しいと思うよりも、相手のことを考えると何とも言えない。
友達にせよ、それ以上にせよ、置いてくるように急いで来たのは間違いない。
「そんなに急いで電車乗らなくても」
「お前が帰るから、もう電車来るのかと思ったんだよ」
そう言って、大島さんはジトリと私を見た。横に並ぶとほんの少ししか、目線が変わらない。
私が151センチだから、その身長差は僅か10センチにも満たない。それでも肩幅とかガッシリしてて、手だってゴツゴツとしてる男の人の手だ。
私は何だか恥ずかしくなって、視線を反らしながらぼやく。
「わ、私のせいにしないでくださいよ。せっかく二人で飲んでらっしゃったから、こっちは気をきかせたってのに」
「変な気をきかせるな」
コツンと頭を小突かれた。
横を見れば、不機嫌そうな大島さんの顔。
「あいつ、既婚者だから。変に気を回されても困る」
「わ、既婚者ですか」
それでは、確かに余計なお世話だ。
「あー、すいません。だから私も誘ってくれたんですね」
既婚者と二人で飲むなんてこと、面倒事が嫌いな大島さんにとってはあまりしたくなかったことだろう。
「同期なんだよ。経理部なんだけど、駅にいったらたまたまいて。電車待ちの時間潰しに、酒飲み誘われたんだよ」
説明されて、ストンと安心してしまうのは現金すぎたろうか。
それでも、大島さんから誘ったわけではないとか、この雨のせいだと言われたら、それだけで凄く安心してしまう。
「あちぃー」
大島さんが隣でワイシャツの首元をあけながら、ぼやく。
あら、喉仏。
なんて一瞬、見惚れてしまう自分が情けない。
さっきまで、凹んでたのに、我ながら本当に現金すぎる。
「結構飲んだんですか?」
「まぁ、程々」
大島さんは何だか疲れた様子で、ため息を吐いた。
私はそんな大島さんを見ながら、少しだけニコリとする。
「もうすぐ電車来ますよ」
「そうか」
「九時半までには帰れますから、一時間位、飲んできますか?」
いつものところで。
そこまで言わずとも大島さんは分かってくれたらしい。
時計を確認すると、「暑いし、飲み直してもいいな」と言った。
「生中くらいなら驕りますよ?」
「あぁ、そりゃいいな」
「その代わり、私に生大奢ってください!」
「はあっ?」
呆れたような大島さんの声に被るように、電車到着のアナウンスが聞こえてくる。
「お前なぁ!」
「えへへ。ご馳走さまです」
タイミングよく電車が滑り込んできて、私はにやけそうになる顔を、髪をかきあげ、空を見ることで誤魔化した。
あぁ。
さっきまであんなに憂鬱だったのに...。
まるで夕方の通り雨みたいだと思った。
ホームから見上げた空は、夕方の雨が嘘みたいに、満点の星空だった。