33 9月30日★(3)
女の名前は佐川と言った。
浅間のアパートの隣人で、二人の間に肉体関係どころか、隣人という繋がり以外の何もなく、正真正銘、浅間のストーカーだったことは、警察の事情聴取で判明した話、だ。
「そういうことは前もって警察に相談し、個人でそんなことはしないでください」
とコッテリと6人は灸を据えられたが、それでも誰の怪我もなく済んだということで、12時前には解放された。
「しかし、歩く人間凶器か?」
と言ったのは花川だ。
それに対して西脇は、
「いやあ! まさか、腕につけていた鋼鉄製アームバンドで、ナイフが曲がってくれているとは思わなくて」
と苦笑する。
「女が鋼鉄製アームバンドって...」
白土が呆れたように呟いたが、浅間はそれさえも西脇の行動の範疇で、日常茶飯事だと思っているのか、何も言わなかった。
「じゃあ、各々タクシーで帰りますか」
そう仕切ったのは花川で、三台のタクシーで、各々が帰宅する。
海と桃は同じタクシーに乗った。
「この埋め合わせは必ずするから。
色々すまなかった」
出発する前に、浅間にそう一言謝罪されたので、海は苦笑いでそれに返した。
タクシーの運転手は「皆さん、喧嘩かなんかで絡まれちゃったの?」と絡んできたので、海は「まあ、そんなもんです」と軽くかわした。
行き先を告げようとすると、桃に先に言われた。
行き先は海のアパートだった。
そのまま、桃も海のアパート前で降りる。家に帰らなくてよいのか尋ねようかとも思ったが、元から今日は何もなければ海の家に外泊予定だった。但し、根本は解決したのだから、桃が泊まる必要性は全くなかったのは、多分、お互い分かっていた。
桃は無言で海の後についてくる。
海がドアを開けて、桃を中に招き入れる。
鍵を閉め、靴を脱ぎ、居間に入って電気をつけようとした瞬間、桃がギュッと海に抱きついてきた。
「酒田?」
「.......っ」
しゃくるくぐもった声に、桃が泣いているのだと分かった。
「こっちおいで」
背中に抱きつかれている状態では、頭も撫でてあげられない。
ゆっくりと、桃の手を外しそちらに向かい合うと、桃がぐしゃぐしゃの顔で泣いていた。
「し、死んだかと......」
ボロボロと大粒の涙を零す桃に、海はやんわりと微笑む。
「大丈夫、生きている」
くしゃりと頭を撫でてやれば、桃が海の首にしがみついてくる。
「生きてて良かった!」
感極まった声を耳元で聞きながら、ゆっくりと、手をその小さな背中にまわした。
確かに、ナイフの先が曲がっていなかったなら、死んでいたかもしれない。
それでも、あの時、あの瞬間、飛び出したことに後悔はない。
テレビドラマではないけれど、人間というのは、好きな相手の為なら、自分で思うよりも単純に身体が動いてしまうものなのだろう。
「酒田に怪我がなくて良かった」
そう言うと、桃がヒックヒックと喉を鳴らしながら、
「ありがとうございます」
と言った。
海はその頭を優しく撫でる。
「......で、犯人は図らずも見つかったんだけど?」
泣いている桃に、そう聞くのはどうかとも思ったが、外の明かりが入り込むだけの暗い部屋で、目の前に好きな女の泣き顔があれば、頭を撫でるだけじゃない慰め方だってしたい。
桃はぐっと息を飲み込むと、海の首にしがみついてくる。
「酒田?」
「..............」
「やっぱり俺と付き合うの、無理?」
そう問いかけると、腕の中の桃は僅かに身体を固くして、それからポツリと甘い言葉を言う。
「...私だけにして」
耳元で涙ぐんだ甘い声が響く。
「ん?」
思わず返した自分の声も酷く甘かった。
桃は海の耳元に口を近づけたまま、言う。
「名前で呼ぶの...
私の名前だけ、名前で呼んで」
(私の名前だけ?)
意味が分からなかったが、直ぐに桃が補足する。
「千夏さん.....」
「あぁ、そういうことか」
確かに桃は「酒田」で、千夏は「千夏」だった。
可愛らしい嫉妬に、背中に回した手に力がこもる。
「分かった。桃だけ桃って呼ぶ」
初めて呼んだ桃という名前は、なんだかくすぐったくて、どこか嬉しい。
桃も海の言葉に反応したのだろう。僅かに肩が揺れた。
「他には何かある?」
今だったら、何でも願いを叶えてあげられる気がした。あくまで気持ちだけだったが、それでも、全部、叶えてあげたい。
「他はいらない」
ギュッと更に強く桃がしがみついてくる。
そして飛びっきり甘い言葉を海に告げる。
「大島さんがいてくれれば、他には、何にも、いらない」
(あぁ、可愛いなぁ)
しがみついてくる桃がたまらなく可愛くて、それだけ言ってまた泣き始めた桃の背を優しく撫でると、海はゆっくり桃の身体を自分から離した。
そしてその頭をもう一度撫でて、
「慰めていい?」
と確認する。
桃が小さくこくりと頷いたので、海は桃の頭を撫でていた手を後頭部に添えて、恋人同士しか出来ない慰め方をした。
涙の味のキスで。