27 9月16日★
事態は海の思った以上に深刻だと気づいたのは、情けないことに金曜日になってからだった。
月曜の朝、普通に出勤すると、普通に桃がいた。
「おはよう」
「おはようございます、大島さん」
土日に連絡が無かったのが嘘のように、カラリとした笑顔に騙された。
金曜日に桃がいなかった理由も、土日に連絡が出来なかった理由も、聞けば教えてくれる程度のことなのだろう、と安心してしまったのだ。
あんまりにも、桃が普通に笑うから。
そして、どうして連絡が無かったのか聞こうとするときに限って、立て続けに仕事がはいりこんできた。
月曜~水曜までは、午前様になった。当然、明け方近い時間に電話するわけにもいかず、連絡がつけられなかった。
木曜は何とか12時前に家路に着いたが、先週とは打って変わってのハードワークに、残念ながら身体がついていかず、風呂上がりに撃沈して、連絡出来なかった。
そして今日、金曜日。
ここまで放っておいたわけではなく仕事で忙しいことは、桃も見ていて分かっていたのだろう。
「今週はお疲れ様でした」
と定時前にいたわりの言葉をくれた。
それが不覚にも嬉しくて、頬を緩ませてしまう。
出来れば二人きりの時、桃を抱きしめてぼんやりテレビなんか見ているときにそんなことを言われたい、と思わず想像してしまう。
桃といると、落ち着く。
何かをしなくてはいけないと、急かされるのではなく、ただ、あるがままにいられる気安さがあった。
無論、それは蕎麦酒屋で二人で飲んだ日々が積み重なったからこその今なのであって、最初からそうではなかったはずた。
飲み仲間を経ての今だから、こうして丁度いい距離を保っていられるのだと思った。
就業中に飲んだコップを片付けに行くだろう桃に、トイレに行きがてら、と理由を付けて後を追う。
「酒田」
呼びかけると、桃が振り向いた。
「今日、早く帰れそうなんだけど、帰り、少しいいか?」
「いいですよ」
桃は愛想よくそう返してくれた。
いつもと変わらない笑顔。
「?」
その筈なのに、何か違和感を覚えた。
「酒田?」
「正門のところにいますから」
桃はそれ以上、何も言わずにそのまま給湯室に向かっていった。
いつもなら少しだけ、海と気軽に話し込むのに、それさえもない。
定時間際だからだろう、とも思ったのだが、違和感が拭えない。
(何かがおかしい)
今更ながら、違和感に気づいた。
桃はあんな風に笑う女だっただろうか?
腹の奥からジワジワと湧き上がる不安。
繋がらない電話。
一切、連絡を寄越さない態度。
違和感のある笑顔。
何かがまずい、と今更気づいた。
トイレで小用を済まして戻る廊下で、桃ともう一度鉢合わせる。
「酒田、そういや今週、連絡...」
会社なので語尾を濁すと、桃はにこりと笑ってから、
「後でお話しますね」
と優しく言った。
その瞬間、海は強く後悔する。
この一週間、何もしなかったことに。
(馬鹿だ、俺)
冷水を浴びせられたような気分だった。
今週、一週間、ずっと桃はこんな笑顔で自分を見ていたのだ。
声色はいつもと変わらない。
だけど、視線の先が違かった。
海を見ていない。
何も見ていないかの笑顔は、いつも全面の信頼で向けられていた眩しい笑顔とは、あまりにも違いすぎた。
「さか...」
呼び止めようとした手はスルリとかわされて、海は帰りに桃から言われるであろうことを、図らずも察してしまった。
☆☆☆
海にとって、定時速攻で帰るのは珍しい。いつもなら同僚を気にして残業まではいかなくても、六時過ぎまではいたりするのだが、今日はそんな余裕もなく定時を告げるチャイムを聞くと、急いで帰り支度をして外に出た。
正門付近は定時直後ということもあり、沢山の人がいた。
桃も定時であがったのだろうが、海よりは遅くなったらしい。
「すいません、お待たせしました」
と近寄ってきた彼女はにこりともしていなかった。
「今週は連絡出来なくて悪かった」
歩きながら、取り敢えずそれだけを先に謝る。
桃は首を横に振り、
「お忙しかったみたいだし、仕方ないですよ」
と言った。前を見て、海の方には視線を向けない。
「今日、蕎麦酒屋行くか?」
ドキドキしながらそう問うと、桃は曖昧に微笑みながら、
「いいですよ」
と返してくれた。
それだけでホッとする。
(あぁ、別れるつもりではないんだな)
連絡がつかなかったのも、笑顔に違和感を感じたのも、きっと海が忙しいから、遠慮してくれたのかもしれない。そう、手前勝手に都合よく解釈した。
桃との付き合いが長かったにも関わらず。
多少のことなら多めに見る彼女が、ある一面ではとても潔癖に近いほどの潔さを兼ね備えていることに。
それに気づいたのは、人気が少なくなった場所で、そっと彼女に手を伸ばした時だ。
すっと海の手から桃の手が逃げた。
戸惑いつつ桃を見ると、桃は表情のない顔で言う。
「駄目ですよ」
「何で?」
「彼女がいるのに、駄目ですよ?」
「酒田がそうだろう?」
何が駄目なのか?と首を傾げた瞬間、桃はハッキリ言う。
「大島さんの彼女は他にいるんでしょう?」
笑うわけでも泣くわけでもなく、ただ、淡々と事実のように突きつけられ、海は困惑する。
「いるわけないだろう」
「でも、先週の金曜日、私はここで、大島さんの彼女だという人に殴られました」
桃が足をピタリと止めた。
公園の隣。
二人で帰るときは当たり前のように選んだこの近道で、他の場所より人の目が少なくなる場所。
「殴られた?」
「鞄で何度も殴られました。
大島さんを返せって叫ばれながら」
「怪我は?」
「大丈夫です」
(千夏か?)
一瞬、千夏の顔が浮かんだが、すぐにそれは否定する。彼女とは金曜日の飲み会でお互いに区切りをつけたから。
「顔、確認したか?」
「はっきりとは見てませんが、多分私の知らない人でした。軽自動車に乗ってました」
桃の言葉で更に確信する。
千夏は軽自動車を持っていないし、会社通勤に車を使用していない。
(だけど、他にいないぞ)
「俺には覚えがない」
海が自信を持ってそう断言した瞬間、桃は無表情だった口元に小さく笑みを浮かべた。
もしかしたら笑ったわけではないかもしれない。単純に、歪んだような唇が、震える声で言葉を紡ぐ。
「信じられません」
キッパリと断言されて、思わず息を呑む。
「信じられないって...。
本当に覚えがないんだ」
「先週の金曜日、飲んでいた同期は誰ですか?」
「え?」
「今、私が殴られたって言ったとき、思い当たった人は誰ですか?」
矢継ぎ早に問われ、一瞬、答えに窮す。桃はそんな海を見ながら、もう一度、唇を歪めた。
「なかったことにしてください」
ポツリと小さく呟かれた言葉は、理解出来なかった。
それを分かっているのか、桃は更に言う。
「もう二番目は嫌なんです。誰か他に好きな人がいる人なんて嫌なんです」
泣きそうな顔に、胸が傷む。そんな顔をさせたくないのに、間違い無くそんな顔をさせたのは自分だ。
「酒田...」
近寄ろうとしたが、後退りされた。近付くことさえ許さない桃の姿に、自分のしてきたことの愚かさを実感する。
「今週一週間、普通の同僚としてお仕事出来ましたよね? 恋人なんてならなくても私たちは変わらないんです。それでいいじゃないですか。
わざわざ恋人になる必要なんてなかったんです。
......だから、なかったことにしてください。
大島さんと付き合ってきた1ヶ月、大したこともなかったし、なかったことになんて、すぐに出来ますよね?」
別れる以前の問題だった。
付き合ったことさえもなかったことにしたいという拒絶に、驚きや怒り、悲しみといった激しい感情は湧いてこない。
ただ、ただ、桃のその拒絶に戸惑う。
「違うんだ、酒田。
千夏とはただの同期だし、他に女なんていない」
「ただの同期だったら、彼女に内緒で飲んでもいいんですか?」
「この前の金曜日はそれをやめて欲しくて話にいったんだ」
「私はその日に、ここで、別の女に殴られた!!」
「!」
悲鳴のような苦しそうな叫びだった。桃はぐっと唇を噛み締めると、海を睨む。
薄暗いが、桃の目が涙ぐんでいるのが分かった。
「怖かったのに、大島さんは別の女のところに行ってた。痛かったのは頭じゃなかった」
「酒田.....」
伸ばした手は避けられた。
(違うのに)
そんな女は覚えがないし、千夏のことだって上手くまとめたはずなのに。
「だから、もう、なかったことにしてください」
黙ってしまった海に、確認することもなくそう告げると、桃は深々と頭をさげて、「さようなら」と言った。
そしてそのまま、ひとりで駅まで歩いていく。
海はその後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
(このまま、終わるのか?)
終わるのだろう。
桃の傷は深い。
その原因の一端は海にある。
(このままでいいのか?)
いいんだろう。
だって、まだ大して付き合ってない。
だから、今なら傷も浅い。
(そう、このままでいいんだ)
だって、あんなに誤解している桃にどうやって誤解を解けばいい?
自分の方が年長だっていうのに、土下座でもするのか?
そんなみっともないことをしてまで、わざわざよりを戻す必要があるのか?
『大島さん』
瞬間、過ぎったのは嬉しそうに微笑む桃の笑顔。自分の名前を呼んで、恥ずかしそうに繋いだ手。
頭の中ではもう別れるつもりで話は進んでいたし、そう理解した筈だった。
だけど、臆病者だと言われた自分にもこんなにも動く力があったのか、と事が起こってから気づく。
「何......?」
桃がグシャグシャの顔で泣いていた。海が走ってその腕を掴むなんて思ってもいなかったのだろう。
海自身だって、そう思っていなかった。
だけど、身体は心よりも単純で。
掴んだ細い腕を離したくないという感情が、腕を掴んだときに伴って、我ながら馬鹿馬鹿しい提案を海はする。
「お前を殴った女、探す。
俺とは無関係だって証明する。
だから......!」
だから。
続ける言葉は抱きしめて、耳元で囁く。
「まだ俺を諦めないでくれ」
そんなに簡単に見限らないでほしい。
中学生みたいな恋だった。
1ヶ月近く一緒にいながら、したことなんてキスだけで、お互い手探り状態で。
だけど、そんなおままごとの時間をなくすことは出来なかった。
だって、掴んだ腕はこんなに暖かくて柔らかい。
「そ、そんなこと、無理に決まってるじゃないですか!」
腕の中の桃が焦ったような声をあげる。
「だけど、そうしないとお前、俺のこと信じられないんだろう?」
どんなに千夏との関係が潔癖だと言っても、それだけでは足らない。
「それにそういう問題じゃ...!」
「分かってる!」
悪いのは自分だって、痛いくらい分かっている。
桃のことをきちんと考えてなかった。考えているつもりで、自分の都合のいい方にばかり解釈してた。
だけど、それじゃ駄目なんだと思い知る。
「頼む、必ず見つけるから」
心の片隅でそんなことは不可能に近いと分かっているくせに、それでもそれ位しか、桃の信頼を回復する手立てはなくて。
腕の中で、桃の強ばりが解けた。
体を離すと、桃が不機嫌そうにため息をつく。
「分かりました。見つけてくださるなら、信じます」
どうせ出来ないくせに。
言外にそう滲んだ声色に、海は苦笑する。
自分でも無謀だって分かってる。
それでもそれ位しなくては、彼女の信頼は勝ち得ない。
それ位してもいい程、惚れてることに今更気づく。
「ちょっ...!」
顔を近づけていったので、キスをされると思ったのだろう。強張る桃に、キスはせずに額を合わせる。
コツンと合わせた状態で、小さく呟く。
今まで情けないことに、きちんと伝えてなかったことを。
今から始まるから、きちんと伝えたいと思ったことを。
「酒田、好きだ」