20 8月27日★
「私、結婚するの」
そう言われた時、海は一瞬、どんな顔をしていいのか分からなかった。
「おめでとう...」
それでも声が掠れないように精一杯気をつけて呟いた。
言われた千夏は、酒を飲んでいるのにちっとも落ちない鮮やかな色を付けた唇で、
「ありがとう」
と言いながら、微笑んだ。
華やかに。嬉しそうに。
そして言った。
「誰に祝福されるより、海に祝福されることが一番嬉しい」
あぁ、自分の好きになった女は、残酷だ。
それでも彼女を好きな自分が、とても惨めに思えた。
☆☆☆
「おーしまさん、あ、そびま、しょー!」
インターホンを押した後、まるで子供みたいな声が聞こえて、海は苦笑する。
「お前はどこの小学生だ」
そう言いながら玄関をあけると、桃がニコニコしながら立っていた。
今日はハンチング帽に、膝丈パンツの出で立ちだ。
前回も思ったが、こういう少し少年ぽい服装が好きなのだろう。20代半ばにもなって、随分若々しい格好だが、背の小さい桃には似合っていた。
「今日は私の運転ですね」
そう言いながら、チャリチャリと車のキーをつけたキーホルダーを桃が鳴らす。
今回も海が車を出すつもりだったのだが、買いたい物があるらしく桃が運転したいと提案してきた。
拒否する理由もなかったので、迎えに来て貰った。
彼女に迎えに来てもらうという経験がなかったので、何となく落ち着かない気分で玄関に鍵を閉めて部屋をでた。
アパートの駐車場脇に桃の愛車が見える。相変わらずの鮮やかなグリーンに、これに乗るのか、と内心僅かに躊躇ったが、怪しまれない内に助手席に乗り込む。
「ちょっと狭いんですけど」
「いや、軽自動車にしては大きいんじゃないか?」
天井も高いし、思ったよりは乗り心地は悪くない。
「あ、椅子、下げて貰って大丈夫です」
「あぁ。
? すまん、どれがレバーだ?」
自分の車と勝手が違う上に、助手席ということも相まって、ドアと席の間を左手で探すが、レバーが見当たらない。
「あ、ちょっと待ってくださいね」
ヨイショ、と一声かけて、桃が海の太腿の上に上半身を乗せてくる。
「!!」
思わず固まってしまった海などお構いなしで、上半身を押し付けながら、レバーを探している。
少しして、ガコンと音をあげて座席が後退する。
「この辺で大丈夫ですか?」
膝の上で顔を上げられて、海は口を一文字に結んで、黙っているしかない。
「あ」
海の顔を確認して今更気づいたのだろう。
カァッ、と一気に桃の顔が赤面して、そのまま勢いよく桃が自分の座席に戻る。
「今更か」
出来れば上に乗る前に気づいて欲しかったが、もう遅い。
桃は顔を赤くしながら、
「す、す、すいません。
いつも女友達しか乗せてないから」
と理由を述べた。
その理由は悪くない理由だが、それなら彼氏がいた時は、自分の車に乗せなかったのだろうかと、余計な疑問が浮かんできた。
(いつもは男の車だったのか?)
それはそれで面白くない。
「俺の車でもいいんだぞ?」
と再度提案したが、桃は首を横に振った。
「大きいから、帰りに下ろしたりするの大変ですから」
そう言えば、桃が何を買いたいのか聞くのを忘れていた。
「何を買うんだ?」
と言うかどこに行くんだ?
問いかけると、まだ顔を赤くしていた桃が、恥ずかしそうに言う。
「その....テレビを.....」
「テレビ?」
随分大きな買い物だな、と思った時、桃が続けて言う。
「私の部屋、アナログテレビのままなんです」
「.........」
もう、1ヶ月程、地デジ化して経つんだが?
☆☆☆
「すいません」
恐縮した様子ながらも、桃は嬉しそうに家電量販店に車を停めた。
「私、家電あまり詳しくないから、大島さんに一緒に選んで貰おうと思って」
頼られるのは嫌な気がしないので、海は「気にするな」と返す。
「別にどこに行くとか決めてなかったしな」
(昼間から一緒にいられるだけで十分)
砂を吐きそうな甘い考えは脳内に納めて、桃の部屋のテレビを選びに行く。
「予算は?」
「そんなに大きくなくて、5万前後で欲しいんです」
「海外メーカーでもいいのか?」
「いいです。どうせ大して見ないので」
だったら必要ない気もするのだが、その海の考えを読んだのか、桃が言う。
「意外に朝が不便だったんです」
「あぁ、なるほど」
朝のニュース番組は情報収集だけでなく、あの左端の時間が、なかなかどうして結構重要だ。
海も眠い朝などは、時計よりもテレビの声を気にすることが多いので、桃の言い分にすっかり納得した。
店員を呼んで、安価なもので映りのいいものを見繕って貰うと、思った以上に早くテレビは決まる。
「大島さん、ありがとうございます」
「いや、殆ど決まってたし」
「だけど、私一人だと、店員さんがうるさくて...」
確かに今も、カードを作らないかとか、余計な勧誘が間に入った。
どうやら桃はそう言うものが苦手らしい。
「断ることは出きるんですけど、話が長いから疲れちゃって」
「聞く前断ればいいだろうが」
「気がついたら、話が始まってるんです」
確かに桃は見た目、押しに弱そうに見えるので、店員も強引になるのかもしれない。
「まあ、そういう時は今度から付き合ってやるから」
「本当ですか?」
嬉しそうな顔に、こちらまで頬が緩む。
先の、いつになるか分からない約束も、確定事項として締結できる間柄なのが、どこかこそばゆく、そして嬉しかった。
(俺、今、馬鹿面だろうな)
そうは分かっていても、出来たばかりの彼女を前に、仏頂面でいられるわけでもなく。
さぁ、会計しにレジに行こうか、と桃の背中を押した時、思いもかけない声がした。
「海?」
前から聞こえてきた声に視線を移すと、千夏が立っていた。
「あら、この前の子」
千夏は桃を確認すると、もう一度、不思議そうな顔で海を見る。
(何でそんな顔するんだ?)
普通なら、からかうような表情を見せてもいいのに、千夏の顔に表れたのは、困惑だ。
困惑された海の方が、逆に戸惑う。
「同じ部署の後輩じゃなかったの?」
「後輩だけど、彼女だから」
桃の背中に手を回したまま、そう告げる。
以前、千夏が海に結婚を告げたあの時の逆パターンみたいだ、と自分でも思った。
言われた千夏が、一瞬、何を言われたか分からない顔をして、それから口角だけをクイ、とあげて、
「そう、おめでとう」
と言ったからだ。
意趣返しをするつもりは更々なかったが、思わず口から出たのはあの時言われた言葉。
「ありがとう。千夏にそう言われるのも悪くないな」
(あぁ、これで切れられる)
プツリ。
音を立てて、漸く最後のしがらみのようなものが切れた気がした。
好きだった女。
他の男と結婚した女。
それらが海に与えた影響は、大きい。それこそ、桃を意識するまでずっと、他に好きな女を見つけられなかった程に。
「じゃあ、俺たち、会計があるから」
「そう。じゃあ、またね」
それは社交辞令か。
それとも本当に「またね」なのか。
海は問い返すことはせずに、千夏の横を通り過ぎた。
「大島さん...」
不安そうに桃が海を呼んだ。
「何だ?」
「いいんですか?」
「何が?」
「私が彼女だなんて言って」
まるで自分が二号さんみたいな言い方だった。
千夏とは何もないのに、どうして桃が引け目を感じる必要があるのか。
海は苦笑しながら、桃の頭にポンポンと手を置く。
「ただの同期に何遠慮してんだよ」
「.........」
桃はじっと海を見ていたが、やがてふんわりと小さく笑う。
それはひっそりと咲く道端の花のような笑みで。
海はただ、桃が笑ったというその事実だけをもってして、安心してしまった。
その笑みの意味も分からずに。
★★★
あの人に、女が笑いかけていた。
アノ女ハ、何?
私は頭をかきむしる。
彼が優しい言葉をかけるのは、私だけじゃないの?
彼の言葉に、どれ程、私が救われたことか。
彼がいるだけで、どれだけ、私の毎日が鮮やかになったことか。
あぁ、なのに。
今、彼の側には《女》がいる。
卑しい、浅ましい、穢らわしい、女。
「やめて、返して!!!」
彼はずっと私の、私だけのものだったのに---!
私は頭をかきむしる。
もう気が狂いそう。
私の、私たちだけの空間に、余計な物がいる。
それだけで、おかしくなる。
オカシクナル。
オカシクナル---!