10 8月2日★
海が子供の頃、鰻の粉を混ぜたクッキーを静岡土産にもらうと、いつも疑問に思っていたことがある。
夜のお菓子。
お菓子は3時のオヤツだと思っていた海にとって、何故、その菓子だけが夜と冠するのか不思議で仕方なかった。
大人になった今では、随分、際どい隠喩だったのだと分かるが、今更、それを誰かに言う気はない。
「酒の肴に鰻つつくのは、お前だけで十分だ」
深読みすれば際どい言葉を投げかけたのは、桃と二人で飲んでいる最中だった。
二の丑だから鰻を奢ってやると言ったら、犬みたい尻尾を振って桃は海といつもの蕎麦酒屋についてきた。
いつもの楽しい飲みの筈だったのに、水を差したのは、同期、人妻の千夏だった。旦那が出張だから、鰻を食べにいこうと電話をかけてきた。
いくら男として意識してないからと言っても、あまりにも道徳心のない千夏に内心、少し苛立った。
しかも鰻を既に食べていると言えば、自分も行きたいと言い出す始末で、そんな電話の内容をきいてしまったのだろうか、みるみる桃の上機嫌な顔が曇っていった。
(今更、何のつもりなんだか)
千夏は、結婚当初はピタリと連絡してこなかったくせに、この前、二人で飲んで以来、やけに気安くなってきた。
別に同期だから、嫌ではない。
だが、もう自分のプライベートな空間に、彼女を入れることはないと分かっている。
(そこには、コイツがいるからな)
鰻の話で微妙そうな表情を浮かべた桃は、他の人間を、鰻を食べに誘わないのはお金の問題ではない、との回答に僅かに戸惑った。
だけど、そこから先はスイ、とまるで池の鯉みたいに避けて、
「この山葵、つん、とくるけど、お寿司屋さんのみたいに、悶絶する程じゃないですね」
と別の話に移してくる。
さっきまで、他の女が入ってくるのを嫌がった《女》の顔はもうそこにはない。
(鰻食うだけ食って、そのまま、帰るのかよ)
奢ってやるって言ってるんだから、少し位、深読みしてもいいのに、そんなことを桃はしない。
思えば千夏もそんな感じだった。
散々、煽るだけ煽って、そのまま、サラリと海の腕から逃げていく。まるで、その駆け引きが楽しいんだと言わんばかりに。
(お前もそうなのか?)
期待させるだけさせて、桃も千夏のように、さっさと他の男の物になるんだろうか?
酒を飲みながら、桃の顔を盗み見ると、桃は鰻の白焼きを綺麗な箸使いで口に運んでいた。
曇っていた表情が僅かに弛む。
そんな桃を見ている自分の頬も思わず弛む。
(くそ)
騙されてるかもしれない。
そう疑うくせに、桃のほんの少しの柔らかい態度で、そんな疑いをもみ消してしまう自分がいる。
「大島さんも食べましょうよ」
先程よりは大分元の顔に戻ってきた桃がそんな風に海に言った。
(鰻で悶々とするのは俺だけか? 俺だけなのか?)
好きな女が目の前にいて、他に女を連れてこないで欲しいと表情に出される位には欲を見せられて、それでどうにか出来ない自分は何なんだと苛つく。
「大島さん?」
桃に呼びかけられて、海は桃を見る。
「この後、どうする?」
そう、思わず言いかけて、慌てて酒で流し込んだ。
(今日はどうかしている)
二人で飲んでいるところに、知らない奴が来たら、嫌がる人間もいるだろう。
この気安い空間が損なわれるのは、海だって本意ではない。
「店主、甘口の重い酒、ありますか?」
助け船を乞うように店主に問うと、店主は一本の日本酒を奥の棚から持ってくる。
「これなんか重いし、香りも強いよ」
そう言われて、一合徳利に注がれた日本酒を、猪口を空にしてから注ぎ飲んで見れば、なる程芳醇な味で、のど奥にズシリときた。
「私も飲みたいです」
「お前、重いの苦手じゃなかったか?」
桃はどちらかと言えば辛口のスッキリとした飲み口の酒を好む。だから、飲み干して空にした猪口を突きつけられて、僅かに注ぐのを躊躇うと、桃は不満そうに口を一文字にした。
「私も飲みたい」
「子供か、お前は」
その駄々さえ可愛らしい、と内心思いながら酒を注ぐと、桃は一気にぐいっと飲み干した。
「あ、おいしー!」
パァっと、電話が来る前の明るい表情に桃が戻った。
「一気に飲むなよ」
と注意しつつ、再度酒を注いでやると、桃は鰻も食べながら、満面の笑みを浮かべる。
「おとーさん、これ、鰻とあう!!」
嬉しそうに桃にそう告げられて、店主も嬉しそうだった。
それを見て、海も嬉しくなる。
(このままでいい---)
喜ぶ桃の顔を見られれば、それでよくなってしまう。
下手に藪をつついて蛇をだす必要はないのだ。
この居心地のいい空間は、やっと作れた二人の空気だ。
他の人間に混じってもらいたくないし、自らこの空気を壊す必要もない。
(このままで、いい)
千夏の時のように、浮かれてはしゃぐ年でもない。
それがずっと続かないことも分かっているくせに、まるで夏休みの宿題みたいに、未来に押し込む。
酒を飲みながら鰻を食べると、確かに酒の重さが、白焼きの淡泊ながらしっとりとした味にしっくりきた。
「確かに合うな」
「でしょう!」
まるで自分の手柄みたいに喜ぶ桃を見ながら、海も微笑んだ。
夜のお菓子にもなる鰻。
桃の笑顔はいっそ清々しい位健全で、海は鰻と一緒に腹の中に黒い欲は流し込む。
これ以上は望まない。
期待しない。
それでいい。それがいい。
そんな二人でいられる内は、いくらでもいよう。
そう決意すると、海はぐいっと猪口を干し、甘口の重い酒を再び注いだ。
「えへへ。奢って貰ってすいません。今度、私も奢りますね?」
嬉しそうに笑う桃を見ながら、海も笑む。
いつもなら、「来年の丑の日も奢ってくださいね?」なんて言ってもいい筈の桃が、今日に限って殊勝なことを言った。
多分、来年の丑の日は鰻を食べないだろう。
このままでいい。
このままが、いい。
だから、来年はきっと鰻は食べない。