夏夜の玉響
絢伝南雲神。その神社には古来より受け継がれていた神の名があった。特定の人物を指さず、今日までその神社にて入れ替わり続けてきた全ての神の呼称だった。が、今はもうそこに来る人間は全くと言っていい程いないし、石畳を除き境内は草だらけ。社も元々半畳と少しの小さいものだし、この場所を覚えている者はおろか、名前など忘れ去られているだろう。
そんな社の苔塗れの瓦に、一人の小さな少年が座っていた。かつてこの空の社に贄として捧げられ死んだ彼は、その当時のまま、綿で作られた白い衣に身を包み桐の下駄を履いている。胸に濃く残っていた血の跡は、因縁の浄化からかもう見えない。彼は千年前から今日まで、神として人の願いを叶える手助けをしてきた。ただ、それも今日で終わりだ。
「ありがとうね」
満月の光を反射することもない、今にも朽ちそうな瓦を彼は撫でた。神はずっと一人だったが、いつもこの場所は彼を励まし優しさをくれた。そのお陰で、彼は今日まで悪霊となることなく神として過ごすことが出来たのだ。もっとも、千年前に村の者が彼を生け贄にすることがなければ彼は普通に生を全う出来たのだが。
彼は少しだけ考えていた。千年前、村長は村一つを犠牲に、人の願いを叶える神を作り出そうとしたのではないかと。けれど真相はもう分からない。
彼は照る満月を眺めながら、残り少ない罪が解消される時を待っていた。
と、階段を駆け上がる子どもの足音が聞こえる。神は目をやると、こんな夜中に何事だろうかと社から下り鳥居の方へと向かった。
そこにいたのは、白い半袖シャツと黒い長ズボンから中学生頃と分かる瘦せ細った少年だった。今では知る人の殆どいないこの神社へ、何度か来ていた少年だと神は気付く。偶に夕方頃訪れては「助けてください」「家族と仲良くなりたいです」と懇願してきていたのを思い出した。その度神は夢を使い家族に訴えかけていたが、どうやらそれは上手くいかなかったらしい。
靴を履かず、赤や茶に汚れた白い靴下の少年は息を切らし、境内の石畳に座り込む。汗をびっしょりかいているが、それは夏だからという単純な理由ではなさそうだ。顔面は蒼白なのか赤いのかどちらとも言えず、震える手の先には赤い包丁が握られている。そして腕にも白いシャツにも、包丁と同じ赤い液体が飛び散っていた。
少年は包丁を両手で持つと、その切先を喉元に向ける。
「……!」
少年の喉が血に塗れる既の所で、神は止めに入った。生者の生死に関わってはいけないと知っていながら。
金縛りをかけられた少年は、自分より小さい男の子が、自分の手から包丁を抜き取っていく様を信じられないと見つめていた。何しろ、先程までそこには人の影などなかったのだ。気配も、足音ですら。異界からこちらへ何者かが姿を現したのだと、少年は察した。月明りが小さな少年――もとい神を照らしているお陰で、近くに街灯はないがその姿が確認できる。
神は少年の手から抜き取った包丁を社の手前辺りに置くと、再び少年の元に戻ってきた。座る少年の頭より少し高いくらいが目の位置な為、神は少年の半分程度の身長であると窺える。
「君は……なんなの」
黙っていた少年は、神がやっと金縛りを解いたので恐る恐る喋った。
「ん……『神』と呼ばれるもの、だよ」
「神……」
やはりそうかと思いながらも、少年はまだ信じ難いようで訝しげに神を見る。神の方はというと、つい自殺を止める為姿を現してしまったが、良くなかっただろうかと苦笑した。
少年は何か考えているようで暫く下を向いて黙っていたが、遠くに置かれた包丁に目をやった。
「なんで邪魔したの」
「それは、自殺はよくないと」
「散々願ったじゃないか!」
少年は苦しそうに叫ぶと、俯いて両拳を握る。
「助けてって、言ったのに。僕の生活は何も変わらなかった。だから、だからこんな……」
神は何も言えなかった。良好でない家族関係、暴力と暴言……。神は出来ることはしたが、少年を救えはしなかった。
「本当に神っていうならさ、僕のことを殺してよ。さっきの包丁でも、超常的な力でも、何でもいいから」
「……無理だよ。生者の生死に、死人は関わっちゃいけないんだ」
それを聞いて、蚊の鳴くような声だった少年は再び叫んだ。
「さっき僕の自殺を止めたじゃないか!」
「それは……」
神が言い淀んでいると、不意に少年は地面に手を付き頭を大きく振りかぶった。
「あっ! こら!」
びた、と頭が空中で止まる。少年の頭はなんとか石畳への直撃を免れた。
「なんで止めるんだよ! 僕は死にに来たのに」
「目の前で人に死なれたくないよ」
「……そうですか。じゃあもう別の所へ行きます。帰してください」
土下座のような状態で少年は言うが、神は金縛りを解こうとはしない。
「今帰したら、本当に死んじゃうし――」
「だから死にたいって言ってるじゃんか!」
少年は怒りなのか、悲しみなのか、神に叫んだ。
(こんなことなら、あのまま家の居間で……)
「――何度言ったら分かるんだ。お前のような出来損ないにはうんざりだ!」
「二度と同じ間違いをしないでちょうだい。テレビだって叩けば直るのに、お前の頭は本当にどうしようもないわ」
両親からの叱責。
「お前また同じことをしたらしいな。お前が俺の弟なんて信じられないよ。なんで勘当しないのか甚だ疑問だね」
兄からの侮辱。
それは毎日毎日飽きもせず続き、少年の心を蝕んだ。たとえテストで九十点以上取っても「成績が悪い」と叱責され、時に食事を抜かれ、殴られ、彼の体は服で見えないところは痣だらけだった。
(この先もきっと、僕に平穏なんて待ってない)
希望を持ちたかった。夢のようだった幼いあの日のように、もう一度家族で仲良く笑いたかった。けれど、辛い、苦しい、悲しい、どうして……。いくつもの感情が降り積もり、とうとうある夜彼は刃を振るったのだった。
血の海になってしまった居間で、少年は立ち尽くしていた。これで良かったのか、この先どうすれば良いのか、空っぽになってしまった頭で、何を考えるでもなく少年は気付くと家を飛び出していた。血だらけの服で、包丁も持ったまま。
行く当ても考えず、ただ歩いていた彼だったが、次第に怖くなり走り出した。
(違う、違うっ、ごめんなさい)
何かから逃げるように走り続けて、階段を上った先は古びた神社だった。
(あぁ、もう、ここでいいや)
そんな気持ちから崩れ落ちるように座り込んで、彼は包丁を喉に突き立てた。つもりだった――
石畳に頭を打ちつける直前の土下座のような体勢でいた少年は、いつの間にか金縛りが解けていることに気が付いた。頭を上げたが、彼は耐えられなくなって咽び泣く。
「なんで死なせてくれないんだよ。なんで助けてもくれなかったんだよ。お参りだって、ずっと来てたのに。ひどいじゃないか……!」
「……ぼくができるのは、願いの手助けだけなんだ。力になれなくてごめん」
「もういいよ。もう全部終わったんだ。父さんや母さん、兄さんの人生も。でも僕も死ぬくらい許してくれたってよくない? 何で止めるの」
両手で涙を拭う彼は、必死なのか自身の手の甲に付いた血の臭いにも気が付いていない。神はそんな少年の正面に静かにしゃがんだ。
「未来があるのに、自分で終わらせたらもったいないよ。それに、きみがここで死んだらきっとぼくと同じようなことになる」
「……『ぼくと同じようなこと』?」
少年は弱弱しい声で言うと顔を上げる。
「ぼくは昔、近くの村からこの社に生け贄として差し出されたんだ。そして殺された。許せなくて、恨みから村を滅ぼしたけど……社に戻ってきた後、この近くから離れられなくなった」
「……なんで?」
「ここは悪事を働いた死霊が、己を内観し反省する為の場所だったんだ。だからぼくはその力によって閉じ込められた。千年ね。それから人の願いの手助けをして、罪の償いとしてきた。今日はそれが終わる日だったんだ」
聞いていた少年は、そこではっとすると顔を背けた。神は罪の償いをしてきたと言ったが、先程少年の自殺を止めた。生者の生死に関わってはいけないと言っておきながら。
「僕の自殺止めたせいで、それ延期……?」
「ちょっとだけね」
「君、馬鹿だよ。……いや、かわいそうだ。そもそも生け贄にした方が悪いのに、それで千年もここにいたなんて」
けれど神は首を横に振った。
「沢山殺してしまったから、しょうがないよ。償えてよかったって思ってる」
「……」
少年は膝を抱えると、自分より年下に見えるのに成熟して見える神にぽつり呟くように聞いた。
「僕もここにいていいかな。君みたいに罪を償いたい」
彼は時間が経つにつれて、人を殺してしまったという罪と恐怖が自分の中に広がっていくのを感じていた。そして、償うことが出来るならと思ったのだ。
頷いてくれるだろうかと少年が待っていると、神は首を横に振った。
「それはやめておいた方がいいと思うよ。今の世では罪を償う方法は別にあるし、残りの人生があまりに勿体ない。死んじゃうことになるからね」
「でも……嫌なんだ。怖いんだよ。あそこで暮らすのは」
神は困ったように眉尻を下げると、少年の手を取って立ち上がらせた。
「付いてきて」
少年が彼に付いていくと、社の前まで来たところで突然体が浮き上がった。
「うわっ⁉︎」
驚いた少年は声を上げる。
「掴まってていいよ」
神は少年の右手をとると、社の瓦屋根に上った。カタ、と瓦が僅かに音を立て二人は腰を下ろす。
「社、もうぼろぼろなんだ。人も全然来ない。ここが本当に忘れられたら、ここから出ていけない霊は、誰にも何もしてあげられなくなる。永遠に近い時間、ここにいなきゃいけなくなるんだよ。罪が解消されるその日まで」
「……っ」
背筋がぞくりとした少年は、もうこの瞬間にでも社に囚われるのではないかとひやひやしたが「死霊が反省する場所」と神が言ったのを思い出した。やはり、人間の世界で罪を償い生きていくしかないのかと少年は思う。
「きみにここに囚われてほしくないんだ。一人は、さみしいから」
その声色だけで、神が千年をどう生きてきたのかが分かる。少年は彼の少し淋しげな横顔を見つめた。
「……ねえ、名前、なんていうの?」
「え、ぼくの?」
なんの脈絡もなかったので、神は両目をぱちくりさせた。
「まさか忘れたなんて言わないよね?」
不安そうに言う少年に、少し間はあったものの神はくしゃりと笑って答えた。
「たろだよ」
「たろ?」
「そう」
実際のところは「たろ」だけでなくもう少し何かあったような気がすると思いながらも、神は思い出せない。ので仕方なく大切な響きであるそれだけを言うしかなかった。
「きみは?」
「僕は、佐藤翔太」
「翔太……いい名前だね」
「君も」
たろは微笑むと、翔太が来る前にしていたように月を見つめた。綺麗な満月が黄金の柔らかな光を地に注いでいる。
「息を吸ってごらん翔太。いい匂いがするでしょ、小さな森の」
「……血の臭いがする」
森の匂いに混じったそれにようやく気が付いた翔太は下を向いて、シャツに付いた赤色を見つめる。それは半袖の先から主に腕の方に散っていて、彼は服の横の方を持ってきて拭おうとするが綺麗に取れない。犯してしまった罪が焼き付けられたかのようで、翔太は胸が苦しくなった。
「翔太」
たろの声で顔を上げる。翔太の顔は今の数瞬ですっかり青ざめてしまっていた。そんな彼の頭を、たろはそっと数回撫でた。
「よく頑張ったよ」
「知らないでしょ……」
「知ってるよ」
「でも、僕は人を殺した。三人も。家族なのに。家族だったのに」
翔太の声は震えている。たろはゆっくりと、芯のある声で言った。
「ぼくは何十人も。……ぼく達似てると思うんだ。何か違ったら平和があったのかもしれない。だけどそうはならなくて、なんなら自分の手でもっと酷くしてしまって、罪を負って。……世界が怖い? 翔太」
「怖いよ。でも、自分も怖い。僕はまた、また同じことをしたくない」
「うん」
たろは翔太の丸くなった背を撫でる。震えが酷いのは泣いているからだ。怖いのに今が一番安心していること、未来が分からないこと、大切な筈である家族と生きていけなかったこと……。いくつもの思いが翔太の中に渦巻いていた。
あぁこの気持ちは懐かしいと、たろは遠くを見つめる。
「仕方なかった。そうなる他なかった。そう思うのは当たり前だよ。でも正当化する為のものでもなくて、ただの事実だ。きみが何を選ぶかだよ」
翔太はちらりとたろを見た。もう既に答えは出ている。
罪を償いたい。けれど
「怖いよ、たろ。僕はどうなるんだろう。何をしなきゃ……いや、殺しておいてこんなこと……」
「ぼくしか聞いてない。言えばいい」
「……何が待ってるのか、怖いんだ。色々また言われるんじゃないかって。生きにくくなるんじゃないかって。僕はもう、あんな思いしたくない」
虐げられ続けてきた自分の生活を思い出して、また深く膝を抱え込んで泣き出してしまった翔太の背を、たろは撫でた。
「翔太、色々思うのは分かる。でも、一つ知っておいてほしいことがあるんだ。世界は、そんなにきみのことを嫌いじゃないよ」
「なんでそんなこと。父さんだって母さんだって、兄さんだって、みんな僕を『馬鹿だ、恥だ』って言った。ご飯だって減らしたし、殴ってきたし……」
翔太は自分で話しながら惨めになってきて、たろに顔を背けて涙を拭う。
「世界がたった三人な訳はないよ。何万どころか何億もいる。ぼくを見てごらん」
その言葉に翔太は鼻を啜ると顔を上げた。そこには、柔和で朗らかな顔の少年が微笑んでいる。
「それからこの社、そこの木。向こうの山。大きな空。海。彼らはきみを受け止める」
「喋らないじゃないか」
「喋ってるよ。ぼくもそうだしみんなも。耳を澄ませてごらん。木だったらざわざわ、海ならぱしゃんさぷんって。喋ってるでしょ?」
「それはただの音で」とは、何故かその時翔太は言えなかった。風にざわめく木々の音が耳を過ぎ、夜の空に消えていく。そこには星が瞬いていて、自分を慰めているような気がしたのだ。
「ただそこにいる。でも受け止めてくれる。人だっていろんな人がいる。学校にも、君を尊敬してる人がね。世界は敵じゃないよ、翔太。翔太自身もね」
たろの言葉が柔らかく耳に残り、翔太は暫く屋根の上で彼と星を眺めていた。不思議なことに、翔太の中にあった強い恐怖はいつの間にか消えていた。
「ねえ、ここを出たら僕、君のことを忘れちゃうなんてないよね?」
「きみ次第だよ。きみがこれをありきたりな日常だと思うなら、すぐに忘れるかもしれない。でも覚えていようと思うなら、忘れないよ」
「じゃあ、忘れずにいる」
翔太は夜空を見つめ、芯のある声で返事をする。その真剣な眼差しはやがて少しの柔らかさを含み、たろに向けられた。
「ありがとう、たろ。僕、まだ生きることにするよ。それと、偶にここに来てもいい?」
「いいよ。でも……今度きみが来る時には多分もうぼくはいない」
「え、なんでっ」
突然のことに、翔太は焦って身を乗り出した。申し訳なさそうに、たろは言う。
「ぼく、今にもここから消えそうなんだ」
「そんな! まだここにいるって……」
自殺を止めた――生者の生死に関わった罪はそれ程重くなかったのだろうか。翔太は考えたが、自分の心を軽くしてもらったことがその償いとなっていることにはまだ気付いていなかった。
たろはその見た目とは合わない大人びた笑みを返す。
「きみと話せるだけの時間をもらったみたい。下りよう」
そう言うと、たろは翔太の手を取って社の前に下り立った。
「折角仲良くなったのに……」
「でも、また会えるから。お空で」
たろは上を指して笑う。その笑顔は、数瞬前とは違い見た目相応の少年の顔だった。
「あっ、たろ……!」
たろの体が透けていく。光の粒子になろうとするたろの手を翔太は掴んで引き止めようとするが、どうすることも出来ない。泣かないように唇を引き結ぶ翔太は、微笑んで腕を開いた小さなたろを揺れる瞳に映した。
たろはほんわりと光を放ち、朽ち果てそうな神社を優しく照らしている。
「翔太、最後にきみと話せてよかった」
そう言うたろは、翔太の半分程度の背丈だ。翔太は屈んで、ぎゅうとその背を抱いた。
「僕も、たろに会えてよかった」
「うん」
たろも翔太を抱きしめる。
柔い光の玉を抱えるような翔太の姿を、少年を温かく抱きしめる『太郎』の姿を、神社は優しく見守っていた。
ゆっくりと、たろの形が消えていく。抱きしめている彼の背を腕がすり抜けそうなのを、翔太は感じたくないながらも彼のことを忘れまいとそのままでいた。
「またね、翔太」
「っ……またね、たろ」
「元気で――」
最後に囁くように耳に残った言葉。それは遠い夏祭りの日の灯火のように、翔太の記憶の一部になった。
「――ん……」
夢を見ていたようにふわふわとした頭で起き上がった翔太は、木の間から飛び込んできた眩しい朝日に思わず目を細めた。山の向こうから夏の太陽が昇り、街を光に染めていた。
「あの後、寝ちゃったのかな……」
たろとの別れの最後を思い出そうと試みるも、「元気で」と言われた後の記憶がない。社の前の石畳に寝ていた翔太は立ち上がると辺りを見回したが、そこにはもうなんの気配もなかった。たろは行ってしまったのだ。
まだ少し眠い目をゆっくり瞬かせ、翔太は歩き出す。鳥居の方へ石畳を少し行くと、黒くなった包丁が転がっていた。それを拾い上げようとして、白シャツと腕にも目が行く。同じく茶色く、固くなっていた。全て夢ではなく現実だ。途端に重くなってしまった体で溜め息を吐くと、翔太は包丁を拾い上げる。
そして石畳から鳥居へと向かい、街へ目をやると何やら騒がしくなっているように感じた。
(……向き合わなきゃな)
翔太は一つ深呼吸をすると、包丁を落とさないよう握りしめ、街へ続く階段を一歩一歩下りていった。
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