一章 3
ヴァル=ルージェ所属。天使ヴァインは、戦場にはいなかった。
「オイ、侵攻作戦はもう始まったそうじゃねぇか。何故俺がまだここなんだ?」
「痴れたこと。貴様がまだ戦力として認められていないからだ」
彼はあの時自身を倒した男――イラレージュと共にいた。
騎士団副官に、実にあっさりと負けたのだ。王は莫大な力を有するはずの天使がそんなことではならないと、打ち破ったイラレージュ本人へと躾けと稽古役を命じた。彼も当初は渋ったが、王の眼光に渋々と従うこととなる。
一月経った今でも、その関係は続いている。
ヴァインは未だ、降り立った頃に着ていた赤い祭祀服を着用していた。
対照にイラレージュは戦場でもないというのに、軽鎧を着込み、いつでも戦う準備は万端という風だった。
ヴァインが訝っていると、王の方からお呼びがかかったのだと言った。
しばらくして、あの日戦った玉座へとたどり着く。
無論一月経っている。死体や血だまりなどは綺麗にされ、あの重苦しくも卑しい雰囲気が蔓延していた。
「騎士団副団長、イラレージュ。ご用件を承りに来ました」
片膝をつき、顔を伏せて問う。ヴァインもやらなければ戦いに出さないと脅され、仕方なく従っている。
王はそれを睥睨すると、陋劣な笑みで二人に言った。
「天使ヴァイン。騎士団副団長イラレージュ。お主たちも明日から、コールブランドと共に戦線に加われ」
その声に二人は、ばっと顔を上げる。
「しかしっ……!」
「黙れ」
王の言葉に、イラレージュは押し黙る。
「力とは戦場で身につけるものだ! それをのこのこ訓練訓練、安全なところでかまけおって! 我らが祖先は幾多の戦場を潜り抜け、国を建てた武人ぞ。お主らもそれに習い、進むが良い!
天使よ! 鍵を渡す。ちこう寄れ」
ヴァインはニヤニヤしながら頭を下げてお膝元へと近づくと、そっと手を差し伸べる。王は袖の下から金色の鍵を出し、そこへ落とすと小さくヴァインにしか聞こえぬよう、小さく何かを呟いた。そして彼は、すっと玉座を出る。追うイラレージュ。
「ようやくだな」
ヴァインの嬉々とした笑みに、イラレージュは押し殺した怒声を放つ。
「ふざけるな! 俺にやられるようじゃ、行って無様に死ぬだけだぞ!」
そんな言葉もどこ吹く風。ヴァインは地下の宝物庫へと足を進めながらも答える。
「てめぇの目は節穴かよ? 俺ぁまだ、本気を出していないぜ?」
イラレージュの言葉を流しながら、ヴァインはそう嘯く。
宝物庫へとたどり着くと、扉を守る兵に鍵を見せつけどかせる。そして彼らの前で鍵を穴へと差し込んだ。それだけでは回らず、扉も開かない。彼が王から聞いた呪文をそっと呟くと、鍵が独りでに回る。
ギィ、と開く扉。奥にはさらなる地下への階段。
彼が降りて行ったので、イラレージュはクソッと毒づきながらついていった。
この国の宝物庫は、王しか持たぬ鍵と呪文で守られていながら、結局のところ、入っている物は三つだけだった。
護神の剣、コールブランド。
女神の剣、クラウ・ソラス。
死神の剣、ダーインスレイヴ。
ただの三本。
全て朽ちたようにひび割れ、原型を保っているのが不思議なくらい風化していた。
その剣は、始原に作られし神々の剣。
先代覇者たるこの国が管理し続けた、他国との優位点。
対応する英雄が扱わねば力を発揮せぬが、逆にいえば対応する英雄に渡さなければ、英雄は神に与えられた力を発揮しないのだ。
しかし、この国には天使が舞い降りた。天使はその剣によって最大の力を発揮でき、神子と悪魔は神の恩恵を受けての力を発揮できない。
これは大きなアドバンテージ。
残りの剣がここで朽ちていくならヴァル=ルージェの勝ち。万一ここまで攻め込まれたなら、それはそのまま負けだ。
圧倒的優位。
だから、こそ。
「オイ、この国を裏切らないか?」
天使の言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「それは……どういう……?」
彼が言えたのはそれだけ。天使は供えられた三本の剣を袂にしまい、彼へと振り返った。
「フン。こんな腐った国で何かを為せると思っているのか? 国民から金を絞りとり、外部へ抜け出せぬよう、内を見張る関所を作る。そして絞り取った金は軍備と高官の懐だ。甘い汁を吸うのは上流階級と国王のみ。こんな国で、本当に何かを為せると思っているのか?」
彼は答えあぐねた。
肯定するのは簡単だ。しかし、天使が本心でそれを言っているとは思えない。今まで天使が見せてきた態度は、一に戦い、二に闘い。三が知識で四が戦闘。
なるほど、それが言えるだけの情報を集めていただろうことはシャルフも知っている。その結論に至る理由も納得できる。しかし、戦闘にこだわっていたこの男が何故今更、闘いの場に出られると分かった今になって、そんなことを言い出すのか。誰にも見られないこの場所で。
理解できない。
考えられるのは、王への忠義を試すよう、演じている可能性もある。頷けば王の前にひっ立てられ、首を斬られるかもしれない。
だが、そうでなければ。天使が本心からそう言っているのであれば。
それは乗るだけの価値があるのではないか?
彼はそっと目を伏せ、何が起きてもいいよう、腰に提げた剣の柄に手を這わす。
「それで? 何になると言うんだ。まずここを出た後の勝算はあるのか? まず扉の前の兵二人。その後窓を蹴破って逃走しても、しばらくは庭だ。障害物がないため魔法なり矢なりで狙い撃ちを受ける。上手く逃げたとしても城門があり、さらに逃げ切っても、外と内を切り離し囲う巨大な壁。そしてそこを逃げ切れたとしても、誰が追われる立場のお前を助ける? いくつの障害を抜けなきゃならない? それならまだ、その二本は置いて戦場で裏切るほうが効果的だろう? 騎士団副団長という立場の俺が、何故そんなことをしなくてはならない? 道理で物を言え」
それは、彼が常々考えていたことだ。
どうやって三本の剣を奪い去る? 持ち去る? 逃げ切る?
彼が何年も積み上げ、考えてきた問いの答え。まだ出ぬ答えを追い求めながらも、自然と彼は斬って捨てていた。
無理だと。
内心では、そう思っているから。
するとヴァインは、彼と戦った時のような不敵な笑みを浮かべた。
「それはなぁ……」
彼は袂の剣の一本を取り出し、その右手で力を込めた。
「こうすんだよ!」
コールブランド――護神の剣が、天使の力を受けて赤く光る。
そして、姿を変えた。
錆びついたような直線の剣身は、鈍く赤を輝かせる反りのある刀身へ。刃の縁には円形の穴がいくつも穿たれ、またその円の縁も薄く研がれていた。ひびの入った十字の鍔は一つだけになり、持つ手を守るように柄頭へと伸びてそのまま鋭い刃を後ろに向ける。
通常の刃とは遥かに構造の違う、紅蓮の柳葉刀が姿を現した。
「クカカカカカ! いい刀だ、なァ!」
彼は刀を左に持ち変えると、それを出口へ向けて一閃する。刃の軌跡は炎を纏い、衝撃波のように空を裂く。
「ぐぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
手に短剣を構えた男が、火だるまになって悶えていた。
「こんな雑魚で止められると思ってんだ。それじゃァ、燃やしつくすしかないじゃないか?」
彼は右手から炎弾を繰りだし、黒装束の火勢をさらに上げる。
「大方毒でも塗ってあるんだろ? そのまま焼け死ねや」
彼は肉の爛れる臭いも気にせず、男を視界に入れつつもイラレージュと向き直った。
「俺は行くぜ。武力突破だ。来るなら来いよ。止めに来たらぶち殺すがな」
ヴァインはそう行って、ここ一か月の間渡されていた量産型よりいくらかマシ程度の剣を焦げた男へ投げつける。直線の軌跡を描いて見事に刺さり、相手が動かないのを見てから踏みつぶして走り出す。
すぐに上から、兵士たちの悲鳴が聞こえた。
――どうする……!?
そう問いかけはしたが、イラレージュは自身に残された選択肢がないことに気付く。
このままじっとしていれば、天使が逃げ切ろうと逃げ切るまいと、みすみす逃した彼は処刑されることになる。
追いかけ、止めに行くのはどうか。それにはまず、負傷している必要がある。無傷で出れば、最後にはやはり何故逃したのかと問い詰めが来る。かといってここで、追うのに少し時間がかかるという言い訳が通るような大きな怪我をしていけば、天使を前に運に頼った戦いをすることになる。
彼は、天使の力を見誤ってなどいなかった。
彼が見た天使の力は、自身より僅かに上。あの剣を得たことによって、楽々と勝っていた力関係が一気に崩壊した。
その主な理由は、彼が十数日彼の稽古役をやっていたことにある。彼はその肩書きを使い、ヴァインの隙を全く正させなかった。建前上幾つか取るに足らない、隙ともいえない隙を教えるが、彼は致命的なはずの隙を一切教えなかった。だから、ヴァインが接近戦を挑んでくれば、その隙を突いて殺すことなど造作もないことだった。
しかし、護神の剣は、彼のそんな計画を全て打ち砕いた。剣を得たことによってヴァインの剣は折ることの可能な凡百の剣ではなく、加護受けざる者では破壊不可能な神の剣となった。柳葉刀に施されていた円形の穴は、ソードブレイカーだ。細身の剣をそこにかませて折るための仕組み。自身の持つ長剣では、確実に折られる予感が彼にはあった。
となると、その隙を持つ攻撃以外の攻撃を、負傷した状態で受け流せはしない。穴にかまされれば終わり。そんな中ただの斬撃が紅蓮の残滓を帯びて襲ってくるのだ。その斬撃すらも彼の剣を打ち砕こうとするだろう。ロクな回避行動が取れるとも思えない。初手で隙のある攻撃がこなければ、後は一方的に攻め続けられる。
そもそも先ほどのような、中、遠距離から攻撃を受ければ、彼に対処する術はないに等しい。
この案も、無理。
同じ理由で、天使から剣を奪って逃走するのも不可能。
ならばもう、残された道はあいつの策に乗るしかない。
――行く、か……!
イラレージュの心を決めたのは、打算や状況でもなければ――あの男。ヴァイン=ハイゼルト。彼の自信満ち溢れる姿に他ならない。賭けるに値すべき何かがある。勘にも近いそれは、しかし彼の観察眼が下した結論だった。
奴が王の手引きで踊っている線は、ない。
必死に宝物庫の階段を昇り、外の現状へと目を向ける。
「!?」
転がっていたのは屍の山――いや、全てが全てというほどでもない。一刀の下斬り伏せられているが、むしろ死者の方が少ない。しかし重傷には変わらない。傷は焼け焦げ、異臭が城の中を蔓延る。
彼は急いだ。行き先は倒れる人々が教えてくれる。
しかしどうにもおかしい。走れば走るほど倒れる兵の数は増えていく。普通逃げようとしたなら真っ先に外に出て、敵と交戦しないようにするのが常道のはず。
全力で走り続けて、ヴァインの背中がようやく見えた。と思ったら、ヴァインは扉をくぐる。彼はそれを追って、愕然とした。
そこは、玉座の間だった。
再び無法者として乗り込んだヴァインは、紅蓮の刃を王と取り巻きたちに向けていた。
「一つ、死ね。二つ、死ね。三つ、死ね。ヴァル=ルージェ所属、天使ヴァイン=ハイゼルト様からの命だ。王を殺し、その玉座は俺がもらう。覚悟しろ、害悪ども」
平然とした顔で、無茶苦茶なことを言う。
王は微動だにしないが、取り巻きたちは足を震えさせ狼狽する。また王の侍らす艶然な美女らは、鬱屈とした眼で虚ろに眺めるものが多くを占めていた。
彼が睨みつけども、王は無限で見下ろすのみ。
「アァ? いまさら怖気づいたか?」
あの下卑たる王とは思えぬほど、冷静に――いや、まるで今から罠にかかる獣を楽しみに待っているような――
「避けろ!」
ヴァインが踏み出した瞬間、彼を中心として魔法陣が絨毯の下から浮かび上がる。彼も気付き横へ跳ぶが、壁にぶつかったかのように陣から抜けることができない。
王が笑った。
「ふはははははは! この玉座には建国期に作られた、王を護る罠がいくつもある! 貴様がかかったのもその一つ! 魔人の檻だ! 檻は国の四風から流れ込む〝気〟でできている。衝撃は全て吸収し、いかな魔をもつものであろうと、結界を破ることはできぬ! 大地の力だからな! そして――」
ゴォ、と地響きが部屋を、城を揺らす。
「陣の中心部でしか発動しない、特大の遠隔魔法だ! 古代魔術師の作り上げた、地脈を伝う秘儀、受け止められるなら受け止めてみろ!」
魔術の根源、純粋なる魔力の波動が、輝かしいオーラを纏って頭上より急襲する。天井を裂き、魔法陣という結界の内いっぱいにそのオーラを広げる。
回避は不可能。ヴァインは反射的に、手に持つ刃で迎撃していた。
「ウ――オォォォォォォォォ!」
雄叫びを上げて、刃に紅蓮の炎を纏わせる。炎は広がり、自身を覆う炎の壁となった。しかし降り注ぐ波動の勢いはそれより遥かに強い。
高笑いする王。
取り巻きもそれを見て余裕も取り戻し、嘲るようにヴァインを見る。
だが――
――来いよ。
彼は、笑っていた。
――この国を、
イラレージュへと、なんでもないような顔で。
――俺とお前で、変えてやろうぜぇ!
そうするのが、当たり前とでも言うように。
その時にはもう、イラレージュの思いは決まっていた。
数瞬後、光が途絶える。
周囲の光を根こそぎ奪うかのような、猛烈な光が激突点から溢れだした。
光は空を焼き、人々の目を焦がす。
轟音によって音さえ断絶し、皆は前後不覚に陥り頭を揺らす。
果たして――
魔法陣の中央。そこにはヴァインが立っていた。隣にはイラレージュ。ヴァインの炎は天を焦がし、イラレージュの刃が、ヴァインの刀を下から支えていた。
「なっ!? なっ……!」
「クククククク! おもしろかったぜ、クソジジイ!」
ヴァインは高密度の魔力によって削られた額から血を流しつつも、王へ向かって嘲笑を放つ。
「〝気〟、それは魔力と変わらないものだろう? 物質的な変換を経ない高密度の魔力は、ただの圧力の塊にすぎん。そして檻は、内からは出られないが、外から入るには容易い。二つのコンボ、確かに強大は強大だが、残念ながらこっちには、化け物じみた腕力を持つ剣士と、神に選ばれた天使サマがいるんだよ。魔力同士をぶつけあってほとんどを相殺。足りない分は炎という魔力を壁にして、その圧力に耐えるだけで事足りる」
そして、と足を地面で叩き、イラレージュに目配せする。
「陣が書かれているのは床。絨毯の下だ。形を崩せば、陣は崩壊する」
なるほどと察したイラレージュは、その長剣で床を叩く。
鈍い音と共にイラレージュの長剣が――先の魔力照射を耐えて支えた傑作が――折れ、豪奢な絨毯が抉れ、無機質な床が砕け、描かれし魔法陣が崩壊する。
そして二人はその場から、いとも簡単に動いた。
「それじゃ、天使サマを侮った代償、戴こう!」
再び刃に炎が灯る。炎は刃を煌々と照らし、刃は炎の明かりを受けて揺らめく。
その輝かしき刃に映し出された王の顔は、〝王〟の顔などではなく、ただ生にしがみつく下卑た男の顔でしかなかった。
「ふ、ふざけるなぁ!? だ、誰か早くこいつを止めろ! イラレージュ、何をしている!?」
狂乱する王を前に、イラレージュは冷酷な顔を取り戻す。そっとヴァインに目くばせすると、彼は頷き、前へ出る。
「報いろ、貴様の殺した全てのものに」
呟きはどちらのものだっただろう。
彼は紅蓮の柳葉刀を振りぬき、王の首を狩った。
震えあがる腰巾着の貴族たちをも、無慈悲に刃で刈り取る。
イラレージュも止めはしない。それは必要なことだ。この国をやり直すためには、必ず……
でもその様は、命を刈り取る死神のようで。
――こいつ、本当に〝天使〟か?
そんな冗談じみた疑問が口に出ることは、なく。
残ったのは、ヴァイン、イラレージュ。そして王に侍る、艶やかな美女たちと僅かな侍従。
「さぁて、これで終わりだ。後片付けはもう託してある。〝王殺し〟たる俺らはさっさと逃げようか」




