五章 2
暗闇。ノックの音。
光。扉の開く音。
炎。彼女に話しかける声。
氷水は疲労感から朦朧としていた。意識は混濁し、身体は眠ろうとする。それを氷水は、「友が死んでも眠ろうとする浅ましい人間」とし、肌に爪を立てて無理に覚醒。馬上での疲れに上乗せするように一日を終え、そしてヴァインとの会話に至っていた。
朧気な意識はヴァインとの会話をぼんやりとしか覚えていなかった。
罪、罰、ヴァイン、憎い、魔神、魔神、魔神、憎い、憎い、憎い、ヴァイン、悪くない……
ぐるぐると回る言葉たち。夢現にそれらを咀嚼し、氷水は眠りから目を覚ます。
「――!」
目を覚ますと、目の前に合ったのは絨毯だった。
なんで――と思いながら、手を突く氷水。
「っ――!?」
ひきつるような痛みが腕から発せられる。咄嗟に腕を引き、頭から絨毯に埋まる。
見れば腕の表面はボロボロに削がれ、垂れた血が腕の上で凝固し赤のストライプを描いていた。
そこで「ああ……」と彼女は思い出した。
――私は、無力だ。
この世界へやってきたときの決意。友への贖罪。それを忘れ。
アリルの死を悼む自分。友への懺悔。それすら睡眠欲に負けてしまう。
仇への執念。怒りも憎しみもない。あるのは虚無。ぽっかりと空いた心の奥。
無力、無力、無力。
決意も完遂できない弱き意志。
友の仇を討つこともできない自らの無能。
「あは、は……」
氷水は笑う。
「私は、無力なんだ……」
涙を流しながら、嗚咽をこらえながら、一人、笑う。
――だめだよ、皆。
真っ白な空間。
何も見えない聞こえない感じない。
――一人にしないでよ。
誰もいない。一人ぼっち。
――私も連れてってよ。
遠くから、声が。遠くに、人が。
――私だけ、一人だけなんて……
「嫌だ……!」
覚醒する。
氷水は床にうつ伏せ。同じ体勢で寝ていた。
目には涙の跡。
身体は未だ重い。肉体が空腹を訴える。
氷水は未だそんなことを感じる自らの身体を見て、笑う。
「はは。もう、いいや……」
――このまま……死のう。
「何がだ?」
部屋に誰かいた。
「……誰?」
「人の声も忘れやがったか」
『誰か』は氷水の髪を掴み、乱暴に面を上げさせた。
「はっ、おはよう神子サマ。もうお昼時ですぜ」
ヴァインはそう言って彼女の腹のしたに足を入れると、「よっ」という掛け声とともに足を上げ、そのまま彼女をベッドの上に蹴り上げた。
氷水は抵抗なく、すぽんと厚い布団にダイブした。
「ヴァイン……」
赤い髪、赤い目、褐色の肌に、頬にはタトゥー。紛れもなくヴァインだ。
「なんだ? 記憶まで混乱してんのか?」
笑うヴァインは、どかっと部屋の脇に置いてあった椅子に座り、足を組んで氷水を見下すように視線を寄こす。
「ふん。で、何がもういいんだ?」
問いかけるヴァインに、氷水は答えを返さない。無言を貫くと、ヴァインが呆れたように言ってきた。
「どうせこのまま何もせずに死のうとか、ロクでもないこと考えてたんだろう?」
「なんっ――!?」
「見りゃわかる。お前、自分がわっかりやすい性格してるってこと、いい加減自覚した方がいいぞ?」
羞恥心に思わず赤くなる氷水だが、自分にまだそんな感情が残っていたのかと、嫌悪感が頭を冷静にさせた。
「別に。あなたには関係ないでしょう?」
冷静になった頭は、自らへの怒りをそのまま彼にぶつけてしまう。
「アリルも騎士団も、皆いなくなった。なのにどうして私だけここにいなきゃいけないの? 私も死なせてよ。ねぇ? これの何が悪いっていうの?」
全部身勝手な自分が悪い。そう分かっている。でも、止まらなかった。
「あなたは平気なんでしょうね。皆あなたと関わりはなかったから。あなたは傷つかないものね。だからそうやって上から私に声をかけれるんだ。慰めてやるよ、なんて風に。あなたの勝手を押し付けないで」
暴言を涼しい顔で受け流すヴァイン。
「それだけか?」
あまつさえ耳垢を指でほじくる様子に、氷水の怒りは否が応にも増した。
「ふざけないで! あなたはなんでそうなの!? なんで皆のこと悲しんであげられないの? 他人じゃないでしょ? 少しでも話したでしょ? なんでそんな風にいられるの? なんで? なんで? なんで!?」
氷水の叫声に、彼はうるさそうに顔をしかめるだけだった。
ぐっ……と息を吸い、続けて声を発そうとしたところ、狙いすませたかのようにヴァインが返事を滑り込ませる。
「一昨日のこと、覚えてないようだな」
「なんのこと?」
「いや、いい。
では問いに答えよう。
理由は『既に悲しんだから』だ」
男は不遜な態度を崩さない。悲しんだようにも見えず、困惑する氷水。
「てめぇはいつまで引きずってるつもりだ。あれから七日たったんだぞ? 葬式も終わってる。皆今を生きるために動き出している。お前だけだ、何もしないのは」
見下したように笑うヴァイン。
ギリと歯を食いしばった氷水に、彼は思い出したように言った。
「そうそう……覚えてようとなかろうと、約束は果たしてもらうぜ」
彼は立ちあがり、ベッドに座る氷水まで近づくと――一息に蹴り飛ばした。
「え――」
腹を蹴られ身体が宙へ浮く。
部屋を転がる氷水。王城の客間を使ってあるだけあり、少々暴れるには問題ない広さがあった。四肢で身体を支え、ヴァインを見上げる。目の前に迫っていた。
「死ね」
次は腕を振り上げ、炎を纏わせる。避ける間もなく腹に拳が入り、氷水の何も入っていない胃を刺激する。
「がはっ……」
唾。遅れて吐しゃ物が口から漏れだす。胃酸のツンとした臭いが立ち込める。ヴァインはそれを無視。拳の形を変えて彼女の腹を鷲掴みにし、彼女を上へと持ち上げた。
彼は逆の拳を振り上げる。腹を掴む手、振り上げる拳。共に纏う炎がどんどん大きく、濃くなる。魔法の影響の薄い氷水を侵食する密度。炙られる腹、迫る拳――炎。
氷水は何も考えず、考えれず、顔を逸らしてそれを避ける。
頬を掠める炎が、彼女の頬をぴりぴりと焦がす。
ヴァインが彼女の動きを見て、ニィと笑った。
「――死にたいんじゃなかったのか?」
彼はそう言うとぱっと手を放し、彼女を落とす。
喉に残る吐しゃ物を撒く氷水。そしてその頭を踏みつぶすヴァイン。ほんの僅かに気を遣ったのか、潰す時は側面から鼻を地面にぶつけないようにだった。
「別に……」
「関係ない、なんて言うなよ?」
考えていることとは違ったが、答えず無言を通す。
「自分の理性と、身体の生存本能は別。違う違う。確かに事実なんだが、本当に絶望している人間がそんな反射に従う訳がない。俺は見てきた。拷問された人間が自ら喜んで自身の首を掻っ切るところを。俺は見てきた。そんな人間が五万といたことを。
お前はまだ、絶望しきっていない。生を享受している。眼が死んでない。死に切っていないんだよ。お前は生きたいんだ。俺が今からそれを証明してやる」
そう言って彼は移動し、部屋の扉を開けた――
「神子様……!」
多数の声。
部屋の外にいたのは、城のメイドや町の人間たち。氷水と関わりのあった人間たちがそこにいた。
「見ろよコイツラ。神子サマが死にそうって吹聴したら蟻のように集ってきたぜ。皆ご苦労なこった」
そう言うヴァインを睨みつける者も何人かいる。だが多くの人間はそれよりもと氷水に眼を遣った。
「大丈夫かいヒミナちゃん」
「この男に変なことされてないだろうね?」
「もう遅いって」
「神子様死ぬなんて言わないでください」
「アリルさんの死は悲しいですが、どうか立ち止まらないで……!」
「彼女もそう願っているはずです」
数々の言葉が投げかけられる。言葉の雨を浴び、そして今の自分の見苦しさ、不甲斐なさに自己嫌悪。
「見ろよ」
ヴァインが彼らを示す。
「罪とか罰とか……誰が気にしてんんだ?」
誰も気にしていない。
――気にするのは、私だけ。
ヴァインが近づき、群れる皆を裂く。倒れている氷水の前まで来ると、先ほどまでとは打って変わって顎をそっと持ち上げた。
赤の瞳が、氷水の眼を見つめる。
「気付け。罪も罰も、んなもんは自らを律する枷だ。てめぇのはそれに自己弁護を混ぜてるだけだ。理由にしているだけだ。言い訳にしているだけだ。お前の過去に何があったかは知らないが、ちゃんとそれを見ろ。事実だけ見つめ直せ。そんな言葉に縋って逃げるな」
彼の初めての真摯な言葉が氷水の心に染み――
「あっ……」
ようやく、過去、彼女の死を直視できた。
――なんで私がこんな目に! なんで私が死ぬの! なんで!? なんで!? なんで!?
理不尽を嘆く言葉。
それは誰かを非難するものではなく――恐怖を遠ざける叫び。
ようやく彼女は、真実に気付いた。
「あぁぁ……!」
眼から涙が止まらない。
――私はあの子の死を、私の、ああ、あぁあ……!
気付けばヴァインの懐で泣いていた。
彼はそれを突き放すようなことはせず、そっと背を撫でた。氷水が泣きやむまでずっといてくれた。
「落ち着いたら、アリルの家に来い。ミリルも待っている」
彼はそう言い残し、皆に囲まれる氷水から去った。
彼の眼は、我が子を見る父のように穏やかだった。
そして彼の眼は、仄かに笑う氷水を映していた。