五章 1
コンコン。
ノックの音を響かせ、氷水の部屋の前に立つ。
魔神との邂逅から五日。
生き残った三人ではあるが、シャルフはあの後修羅の形相で姿を消し、未だ見つかっていない。十中八九魔神を探しているだろう。彼には理性など残っていない。勝てるかどうかは問題でなく、ただその溢れんばかりの怒りの発散するところを求めている。
ヴァインは三日かけてミーティアへと戻ってきていた。行きの半分という速度だが、その代償として馬が二度と使えない程衰弱していた。無理に乗りまわした結果。順当とも言える。
また、ヴァインに背負われ入城した氷水は、泣いて一切動かなかった。彼女はヴァインが残っていた馬に乗せ、手綱を引いて無理やり連れ帰っていた。
氷水は心身衰弱していて、戻ってきてから――戻る最中も――飲まず食わず、部屋に閉じこもって泣いている。心配に思った知人やアリルの上役などが様子を見に行けば、「罰」や「罪」と言った単語を呟いていたそうだ。
唯一平静を保つヴァインだが、まともに話せる一人と言うことで丸一日事情を聞かれ、馬に乗り続けていたこともあり、一日開けた今でも疲労の色は濃い。
そんな彼も、ついに業を煮やした。
「開けるぞ」
中の返事を待たず、ヴァインは扉を開ける。
昼だと言うのに、部屋は暗い。カーテンは締めきられ、蝋燭などの灯りの類は点いていない。
部屋の隅では布団にくるまった氷水が、すすり泣きをしながら「罪、罰」などと呟いている。
ヴァインは左手に火を灯すと氷水に近づき、その布団を一気に剥いだ。
怯えるように顔を上げる氷水。ヴァインの炎に照らされた顔は、目元には隈がくっきりと表れ、頬も痩けていた。
「いいか、一度だけ言ってやる」
彼は苛立つように右の手で氷水の襟を掴むと、自分の顔の位置まで引き上げた。
「立て、この腑抜け!!」
突き飛ばすように右手を放すと、氷水はガクンと崩れ落ちる。
「いいか、五日、五日だ。俺は五日待った。腑抜けたテメェの代わりに、報告から何やら全てやった。あいつが死んだことは悲しい。だが、誰だって親しい人間との死別はある。皆が皆そうやってたら社会ってものは成り立たねぇんだよ。誰だって乗り越える! 生者がいつまでグズってんじゃねぇ!」
氷水はうんともすんとも言わない。ヴァインは続けて捲し立てる。
「なんでお前はまだそこにいるんだ? お前にとってあいつは、その程度の存在なのか? 死んだ奴の思いを代弁するなんて、ガラにもねぇが言ってやる。あいつはお前がそこで泣き叫ぶのを良しとするのか? そうじゃねぇだろ? ぜってぇこう言う。『私のために泣かないでくれ』ってよォ。団員たちもそう。誰もかれも、善い人ばかり。善人すぎる。俺にだって分かるくらいだ。より長くいたお前が、分からないはずないよなぁ」
「……」
彼の挑発めいた励ましも、氷水の心に届かない――
「……てめぇはそれでも、泣き叫ぶだけなのか?」
ヴァインが初めて悲しげに、声を押さえて言った。
「シャルフのように怒り狂い、復讐しようとは思わないのか? 魔神が憎くないのか?
俺はな……憎いよ。憎悪の炎に身を任せようと思いたくはなる程度に」
常々冷静な印象の彼と相反する言葉と、その穏やかな声に秘められた激情に、氷水はようやく身動ぎする程度だが動揺を見せた。
「魔神が憎い。人の命をただの快楽で刈り取る奴が憎い。失われる〝可能性〟を、もったいなく思う。可能性は、進化だ。進化とは可能性の果てだ。
だから可能性の潰えた愚者は殺すし、前途有望なガキには援助する」
彼の眼は――ヴァル=ルージェの貴族たち――アリルの妹ミリル――彼らを遠くに見ていた。
「魔神が憎い。可能性の――未来の存在しない進化の極致であるアイツが憎い。俺の持っていないものを持っている、アイツが憎い。
お前はどうなんだ? お前はお前の理由で、アイツが憎いだろう? 憎くないはずがないだろう?」
俯く氷水。
「…………いよ」
「アァ?」
「憎いよ」
口から静かに言葉が漏れる。
「憎い、憎い。でも、でも、でも!」
声は徐々に熱を帯びる。涸れたはずの涙が、再び噴き出す。涙が顔を覆う。
「でも! 罪! 罰なの! 私が、私がこの世界に来たのも! アリルが死んだのも! 私が親友を助けられなかったから! 私がそれを忘れて楽しんでいたから! 私のせいなの! 私がいなかったらこうはならなかった! 私がこんなじゃなきゃそうはならなかったの! 私への罰なの! それに巻き込まれてアリルは死んだの!!」
「テメェの所為じゃねぇ。あれは別格だ。誰であっても回避は不可能。殺すこともできん。そう、言うなら運が悪かった――」
「だから、罪なの。私がいたから、不運が、罰が……!」
涙を流し、いじけるように頭を抱える氷水。怯える子供のように頭を押さえ、髪をかき乱す。
「罪も罰も知るか! ハッ! ふざけんな! そんなモン誰が決める? 神か? この世界に語られる三神サマか? んなわきゃねぇだろ。神がいるなら、存在しているなら、親父をこの手で殺した俺は、どうして裁かれない!」
ヴァインの言葉に、氷水が嗚咽を止めた。
ヴァインは思わず言ってしまった言葉に顔をしかめ、出来る限り冷静に言葉を続けた。
「十年前――俺の一族は、その知識欲の対象もヒトを求めた。俺を含めあいつらには躊躇も後悔も、見据えるべきその先もない。全員が全員、研究者でありながら気狂いで計算高く、そして〝今〟しか見ていなかった。
一族は人を攫い、生とは何かを知ろうと思ってしまった。人体実験。どうすれば人は生きていけるのか、殺すことで逆説的に確かめていった。生きたまま体を焼き、血を抜き、内臓を抉り……そうして生と死の境界を捉えていった。
そんな時だ。俺は一人の少女と会った」
氷水身動ぎしない。静聴しているようにも、気付いていないようにも見えた。
「そいつはな、言ったんだよ。
『どうしてこんなことをするの? 死にたくない。私は家族と一緒に静かに暮らしたい』
そしてそいつは、力を使った。そいつは俺の一族のような、純粋血統じゃない。洗練された力を持っていないはずだった。だがそいつは、そいつの持っていた『火』の力は、一族の『炎』に匹敵する力を見せた。俺はその時、初めて『可能性』を見た。天才という、万の可能性でようやく生まれる価値に。
だが一族の人間は、その先にあるものを見ずに、今そこにあるものしか見なかった。突然変異という神秘を解き明かすことしか見なかった。だから、な……」
そこでヴァインは、突如渇いた笑いを部屋に響かせた。
「ハハッ。ハハハッ! ハハハハハ!
俺は一族に弓を引こうと考えた。一族の言いなりで愚かにも力を使うだけだった俺の、唯一の反抗心。でもな……」
嘆くように、悲しむように、彼は言う。
「俺はその時、逆らえなかった。頭の隅の理性が、『ここで一族を敵に回して生き残れるはずがない』と、そう囁いたんだ。俺は動けなかった。
俺は俺の弱さを知っていたし、俺の精神的弱さもそこで知った。
だめなんだよそれじゃ。
俺はその女が殺されるのを遠くから見るだけだった。そして俺が行った償いはただ一つ。
一族の皆殺しだ」
クク、クククと狂気に触れたように、彼は歪んだ顔で、嗤う嗤う、悲しみをその笑みに滲ませて。
「あぁ、そうだ、一人ずつ、一人ずつ、燃やすのは一瞬だ、仲間さえ呼ばれなければ、最後の子供である俺が負けるはずがないんだから。燃やして熔かして焼いて炙って、アイツラを、アイツラにその罪を償わせてやった。そう、そうだ、そうして俺は――」
父親を、この手で燃やしたんだ。
ヴァインの独白。僅かな沈黙。狂気から醒めたヴァインは、穏やかに続ける。
「そう、俺にとって可能性は羨望だ。進化へと至る唯一の希望だ。俺ができなかったそれをやってくれる力への道だ。だから、だから、俺は可能性を狩るアイツが憎い。そして、」
氷水の首を掴んで持ち上げる。
「何もしない、お前がニクイ。
力はあんだろ? 可能性はあんだろ? さぁ、立てよ。望みがあろうが無かろうが、ここで立ちあがらなけりゃお前……俺が殺すぞ」
ヴァインはその腕に力を込める。うな垂れる氷水に抵抗の気配は一切ない。腕は沈み、顔は涙を流すのみ。
「……――」
声が、聞こえた。
ヴァインの耳に、かすれるように声が。
手に込める力を彼は緩めた。氷水を壁に押し付け、崩れ落ちそうな体を壁に押し付け立たせる。氷水の唇が、ほんの僅かに動く。
「あなたは悪くない――」
その言葉は、父を殺した彼の罪に対する彼女の思い――
完全に気を失い倒れる氷水を、彼はそのまま捨て置き、そっと部屋を出た。
「お前は、お前は……」
彼の言葉に続きはない。