四章 5
交差した剣の先、三つの首が鋭利な刃物で切断されたように落ちる。
――腕と連動するように切れたことから、なんらかの物理現象での切断か? 考えられるのはあの二対の長剣のルーツ。つまり神子の僕になったのだろうアリルの得意分野。氷。剣の延長上に伸ばした氷を、アイツの能力で吸いつければ……
ヴァインは氷水の動きを観察し、それの解析を行う。知的好奇心刺激するからという理由もあるが、もっとも重要なのはそれが対抗策となりうることだ。
誰への?
氷水でもあるし、他の誰かでもある。
いつどこで誰が敵になるかなど分からない。結局のところ精進する以外に他にないのだ。
自身の中で一定の解決を得ると、シャルフを伴って氷水、アリルの許へと行く。
残っていた魔獣たちは散り散りに逃げた。その場に残るのは、死体と負傷者だけ。
「神子サマ、今日は随分と頑張るじゃないか」
皮肉るように頬を吊り上げ、座り込む氷水を見下ろす。
「え、へへへ……」
氷水はその皮肉を受けても、笑って彼を見上げた。彼女は彼の皮肉に気付いていないのか、気付いていてでもその言葉に頷いているのか、ヴァインにも判断が付かなかった。ただ満足したように見上げている。これには彼も毒気を抜かれた。
「部隊の状態はどうだ?」
シャルフがざっと周りを見渡しアリルに訊いた。
「大丈夫だ。魔道騎士団員に死者はいない。傷も見たところヒミナが一番深いだろう」
魔獣たちの攻撃を掠りながらも捌き続けたアリル、連携によって魔獣の警戒を買い殆んど戦わなかった騎士団員。氷水の傷は噛みつかれた腕だけだが、騎士団員はそれすら受けていないということだ。常人が噛みつかれればそのまま肉を持っていかれるため、それも当然と言える。
魔道騎士団の者たちは個々に分かれて状況の捜査に動こうとしていた。
その、瞬間。
――ッ!
「逃げ――」
勝利の余韻残る、騒がしき元戦場。そこを駆け巡った、得体のしれない、ヴァインにしか感じられないような、害意の芯通る寒気。
ヴァインは叫びながら、体に炎を纏わせ横へ跳んだ。予想外の出来事が起こると、彼は体に炎を纏わせる。シャルフはそのことを知っていた。
突然のヴァインの動きにコンマ数秒の誤差でついていける可能性があったのは間近にいた三人だけで――ヴァインの叫びに反応でき、彼の動きに従えるのは一人だけ。
シャルフも同様に――いや、目の前にいたアリルの腕を取って跳ぼうとしていた。しかし彼女もまた、ヴァインと同時に敵の襲来に気付いていた。彼女はその分、シャルフより動きが早かった。
彼女は思い切り、目の前にいた少女を右手で押した。背後から迫る悪意のない害意、重く苦しく痛ましい必死の気配から、神子を氷水を逃すため。
反動で下がる体。シャルフは離れるその指先を掴み取って跳んだ。二人の体が宙を――。
そして、悲劇は一瞬だ。
それ。口。赤い。牙。白。ヒト。肉。血。服。青。
視界を埋め尽くす、赤き口腔。その奥にこの世の果て――ある意味ではその通り――のような黒き穴。牙にはヒトが、舌にはヒトが、闇にはヒトが。
ヒトが、ヒトが、ヒトが、ヒトが、ヒトが、ヒトが、ヒトが、ヒトが、ヒトが、ヒトが。
喰われている。
その口が、シャルフの目の前で閉じられた。
カッ――バキッ――
歯のぶつかる軽い音と――骨を砕く鈍い音。犬歯が擦れ合い、前歯が間をおかずに人を潰した。
彼の手が掴むのは、アリルの腕。その腕から続くはずのアリルの体はそこにない。潰された部分の皮が無残に垂れ、僅かな血を噴き出すのみ。断面から覗ける綺麗に折れた骨が、その圧力を物語っていた。
「あ、あ、あああああああ……」
シャルフの目の前で、彼が最も大事にしていた者が喰われた。
アリルを喰らった獣は、先の巨狼よりさらに大きい。体長は三十メートルを超し、体を覆う毛は黄金に輝いている。地につける四足は太くしなやか。狙った獲物を逃さない。それは百獣の王――ライオン。
「オォォォォォォオォン!」
獅子の咆哮。
「ぃ、い、い、嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
叫ぶヒミナ。
「ああああああああああああアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァ!」
吼えるシャルフ。
――なんなんだよ、コイツは……!
彼らの叫びを前に、ヴァインは一人彼らを視ていた。冷や汗が頭の天辺から顎まで一瞬で流れ落ちる。その滴は一粒でなく、ぽたぽたと彼の焦りを表わすように流れ落ちる。
――なんだこのケモノは。いつ現れた? どうやって? 生き残りは? 三人(俺たち)以外全滅?
ヴァインの目の前で、シャルフは大剣を構えた。顔には怒りと憎しみを始めとする敵意、殺意に分類される感情全てに悲哀を混ぜた、ぐちゃぐちゃの修羅の顔が映っていた。
待て!
ヴァインは声を発したつもりだが、喉が委縮して声を発さない。自身も気づかないうちに獣の存在に、逃れられない恐怖を感じていた。
「うぉぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
獣の足へと跳ぶシャルフ。頭はすぐ上にあるが届かない。そして頭から前脚まででも数メートルの距離がある。シャルフの超常の筋力がその距離を一瞬で飛び越える。振り下ろしに入った剣は、前足を叩き折らんと斜めに下ろされていた。
入る――そんな予感とも必然とも思える動き。目で追いきれない。獣は見えていない。動かない。入らなければおかしい距離。
獣が姿を変えた。
その大質量を一点に小さく集めて、粘土を捏ね繰り回すように形作る。
男のようで――女のようで。若いようで――老いてるようで。強そうで――弱そうで。
――なん、だと……!
「刃を止めてはもらえませんか?」
獣が――獣だった者が立っていたのは、シャルフが斬りかかった足元に立っていた。
獣の変化を見届けたシャルフは、空中にある己の体を無理に捻り、刃を紙一重、肌を擦るような勢いで地面へと突き立てた。
シャルフは決して、その者の言葉に従った訳ではない。己の理性が、それを斬ることを否定した。
なぜならそいつが、女の姿をしていたから。
それでありながら女に見えず、だからといって男に見えるわけでもない。
そんな性別年齢不詳、実力未知数の、女の姿をしたよくわからない何かに。
――矛盾している。
分かっていながらも、その直感が間違っているとも思えないヴァイン。
そして――シャルフはそれ以上に混乱した。
「ア…リ……ル…………?」
その獣は、獣だった何かは、今、明確に、魔道騎士団長アリル=クウェートの形をしていた。服も生前着ていたものと同じもの。唯一違うのは右腕、喰らい損ねた部分。別の兵士が着用していた皮のグローブをそこに、魔道騎士団の青いコートを背中につけ、アリルが浮かべない薄ら寒い笑みを浮かべていた。
そんな明確な姿を取っていながらも、ヴァインにとってはそれがヒトではない何かにしか見えず、女という皮を被った何かという表現しかできない。笑みを取ってもそうだし、何より目では捉えられない雰囲気が圧倒的にヒトであることを否定する。
「攻撃中止、感謝しよう」
それはアリルの声で、だが決してそうではない口調で、仕草で。そんな言葉をかけた。
「オイ……。貴様は一体、〝何〟だ?」
震えるヴァインは問いかけた。ヴァインの震える心とは別に、言葉は強くこの場に響く。
彼の問いは、シンプルでありながら意味深だった。誰とも聞かず、名を訊くわけでもなく。
本質を、問うた。
「何がいい? 主に呼ばれる呼び名は四つ。魔神、獣神、魔獣、魔王。中には気取ったように『宵闇の主』、『月夜の新月』、『災厄より最悪なる罪悪』なんて言葉で呼ぶ者もいた。君はなんて呼ぶ? 私をなんと言い表す?」
それはアリルの体でそう言った。
「……【魔神】、だな」
圧倒的存在感。ヒトではない何か。ヒトを越えたる何か。人はヒト非ざる者をなんと呼ぶ? ヒトはそれを、神と呼ぶ。
魔の神。
「では私はこの世界では【魔神】と名乗ろう」
顔には笑みを湛え、魔神は頷いた。
――この『世界』では……?
考えを纏める前に、今は間を開けないことが重要だと感じたヴァインは、続けざまに問いかけた。
「お前はこの世界で便宜上『悪魔』と呼ばれる、死神の使徒なのか?」
「ああその通り。私が今百年戦争で『悪魔』の役割を為す『魔神』。従えるは『獣』。以後お見知りおきを。炎使い、『天使』ヴァイン=ハイゼルト、磁力使い、『神子』鏡氷水」
名乗ってもいない名を当てられ、自身の力を挙げられる。
――調査はばっちりってか……
彼がそう考えた時、
「いいえ、違いますよ」
「!?」
――心が読まれ――!?
「ええ」
魔神のその言葉に、彼は深く考えることを放棄した。腹芸したところでバレるんじゃ意味がない。ただ自分の思うまま、好奇心の刺激するままに。
「何故読める?」
「そういう力ですので」
「獣の力か?」
「この世界に来る前に得た力です」
「前の世界はどんなところだ?」
「『前』の世界は平和でしたよ。私の所為で台無しですが。ただこの世界に呼ばれたお陰で、絶滅させずに済みました」
「その言い口だと、まだ前があるようだが?」
「はい、ありますよ。私の持つ力には、世界を渡るというものもあります」
「他にどんな力を持っている?」
「あらゆる力を持っています。数えきれないほどの力を。始め私にあった力は、『喰った者の力を得る力』だけでした。私は私の力に従い、あらゆる者を食べ、こうして今も生きています」
「お前が今その姿の理由は?」
「食べた者の力とは、何も戦いに関するものだけではありません。エネルギーも力ですし、肉体とて力です。そしてまた、感情さえも。私の体の中に、アリルという彼女自身も保存されているのです。そして彼女はあなた方を見て、最も強く『ここから出たい』と願ったのです。そうすると自然と私の体は、その者の姿に近づくんですよ。出ようとする彼女を、私の力が抑えつけているのかもしれませんね。さすがにそこまでは分かりません。あなた方が何故自分が生きているのか、分からないのと同じように」
魔神の言葉を聞き終え、ヴァインは剣を投げ捨てた。
「喰いたきゃ喰いな。俺はもう満足だ。今お前の中で死ねるなら、楽でよさそうだ」
地面に胡坐を組んで座り込む。眼は閉じ、腕を組んで静かに待つ。
「……どうした? 俺は逃げねぇぞ。俺を喰えば炎術師としての力と、『天使』としての力が手に入る。その剣も扱えるようになるだろう。そうすればお前はもっと強く――」
「興味がないですね」
「あ?」
「強さなど、興味がありません。私は既にあらゆる世界上最強の存在と定義されています。何を足そうと、無限大が増えることはないのです。それに――」
ヴァインは瞼を開き、魔神を見た。魔神は手を前に差し出し、そこから……炎を――
「!」
「昔々、あるところに、人と魔物との大戦争を行った世界がありました」
世界の魔物は人を駆逐し、人もまた魔物を駆逐する。終わりなき負の連鎖。互いが互いを捕食し合う終わりなき螺旋。
「ある日それを終わらせたのは、一匹の魔物だった……か」
その魔物は世界を喰らい、全てを無に帰した。その災いを運よく逃れたのが我らが祖先。
「ただの与太話じゃなかったか。てことはうちの先祖も喰ったことがあるんだろう?」
「ご想像にお任せしますよ。こういう力は、世界を巡れば見つかりますから」
炎を体に巻きつける。生きているかのように踊る炎は、とぐろを巻く龍のようで――
「……くそっ」
ヴァインは悪態をついた。彼が思う勝率はゼロ。
――ゼロの確率はない。それが俺の持論だったはずなんだけどな……。
途方に暮れるヴァインを前に、魔神は仄かに笑った。
「久しぶりですよ、私を知ってここまで心穏やかな人間は」
魔神はアリルの顔で――いや、人として無個性を極めたような平凡な顔でそんな言葉を発した。
――なんで、顔が……
思い出すのは先ほどの会話。
『あなた方を見て、最も強く「ここから出たい」と願った』
あなた方。
そうではなく、特定の誰かを見て思ったのでは?
今無個性なのは、出たいと願う人が同列だからなのでは?
後ろを振り返るヴァイン。崩れ落ちる氷水は未だ変わらず。始め魔神の目の前にいたシャルフは一体――?
ヴァインは視線を魔神へ戻す。シャルフはいない。
「フフ」
薄く笑う魔神。人間の個性を平均し続けたようなその顔は、笑っていてもマネキンのような無機質さを取り除けはしない。
しかしその顔に影がかかる。雲か? 見上げたヴァインは、驚愕に見舞われた。
「――シャルフ」
今まで一度も魔術を使う素振りを見せなかった男が、宙に大剣を構えて浮いていた。
それがおかしいことに、ヴァインはすぐさま気付く。
この世界の魔術体系では、『浮遊』などという継続的現象を起こすことはできない。
シャルフは能面のように表情を消していた。だがそれ故、彼のギラギラした眼は他者の気を惹く。
彼を宙に支えていた力が消え失せた。彼は数メートルの距離を自由落下しながら、大上段に構えた大剣を体ごと反転させて振り下ろした。その先にあるのは、没個性、性質の悪い人形と呼ぶべき魔神。
大剣が、叩きつけられた。
キン――
金属音が空に響き――大剣が割れた。
天を――シャルフを向く魔神。混ざりに混ざったヒトの体は、すぐさまそれを再構築。アリルの顔が不思議と違和感なく浮き出てくる。そしてアリルの姿で、落ちてくるシャルフを抱きとめた。
「シャルフ=ルージェ。先代『天使』と、先代『神子』の子の間に生まれた、力と智を受け継ぐ者」
魔神から放たれるアリルの声は、抱かれたシャルフをびくんと痙攣させる。
「百年前、世界の毒と呼ばれた天使は『風』の属性を持ち、見た目の細さでは考えられない筋力で以って、あらゆるものを打ち砕く剛力を発揮したという。
同じく、天使に一年かけずに殲滅された神子は『自然』の法を操り、エルフという種族故の長寿とそれ故の博識さで自然、とりわけ植物を味方につけたという」
魔神はシャルフを大地にそっと降ろした。
「そして、百年前の戦争で、神子の軍勢を圧倒した天使軍は神子を生け捕りにし、その美貌に心奪われた天使は、彼の者を凌辱した」
その言葉に、生気を失っていたシャルフの顔が、自然と怒りへと動いていた。
「そして生まれた子は女。ハーフエルフ。天使率いるヴァル=ルージェ軍は、天使の生存を危険視。天使は女児が生まれたことにより、軍の不満を解消すべく神子を殺す。そして神子の子を育て、その先に――」
「止めろ」
シャルフの弱々しい怒気が、この場に響いた。
「俺の記憶を……!」
シャルフは涙を流しながら立ちあがり、アリルの姿をした魔神の首を掴んだ。
魔神は止まらない。
「そしてその子と、死ぬまでの間毎日のように交わり合った」
魔神の首を、アリルの姿をした魔神の首を絞め続けるシャルフ。
魔神は止まらない。
「そして生まれる子供。一人目は男。片腕がない状態で生まれてきた。近親相姦がタブーと呼ばれる所以だ。奇形児が生まれやすい。そんな中生まれた二人目の子は、五体満足でそのまま王宮で育てられた。その子の名は、シャルフ=ルージェ」
魔神の首を絞めるシャルフの手。震え、力が篭らない。
「後数年を王の下で暮らし、生まれてくる五体不満足な弟妹たちを外へ逃がし、そして来た王の病死。そして反乱。公的に認められた唯一の王子は、その時行方を眩ました」
シャルフの腕は、もう魔神の首にはない。
「そして五十年。エルフの血を四分の一受け継ぎ、剛力の血を半分受け継ぐ者は、生きていて――そして、アリルという少女に母の面影を見た」
語られるシャルフの出自。
聞き手はヴァインと涙を流すシャルフ。俯く氷水は蚊帳の外。
「彼女は七歳の身でありながら、突如現れた見かけは青年に、慈母のように接し、子のように慕った。顔は陶磁のように美しく、触れれば壊れるように繊細だった。それらが彼の母を思い出させた。そして数年、少女は彼が成長しないことに気付き、また彼も秘密を打ち明けた」
アリルが、十年近く会っていないシャルフのことを、一目で気付いた理由。
その姿は、人間の一年に相当する程度にしか成長していなかった。
「そして彼女の前からいなくなり、十年後、戻ってきた」
そこで魔神の話は終わる。
間違いない。今の話は、
――シャルフの記憶を読んだもの。
話の継ぎ目が、まさしく彼の主観。
今の話を聞き、不謹慎だと思う理性とは別に、謎が氷解したと心が躍る。
いなくなり、ヒュネーと取引を交わすシャルフ。幼くない精神で、十年前のあの男と張り合った。老年同士の、対等な関係。
そしてヴァル=ルージェへ潜入する。五十を数える少年が潜入し、伸し上がる。変わらない外見をどうやって隠したかは知らないが、印象を変える方法はいくらでもある。最終地位が副団長だったのも、王城での活動期間を絞ったからかもしれない。
そしてあの魔の巣窟で、剣を奪取する機会を待ち続けていた。血気に逸る少年ではなく、落ち着き払った老年だったならば。何もおかしくはなかったのではないか。
そこに小さく佇むシャルフ。
俯けた顔は、髪に隠れて見えはしない。
「なんで、どうしてだ? どうしてお前はそんなことを……?」
ヴァインの口から、問いかけの言葉が出た。
どうしても分からない。どうしてこの魔神は、こんなことをするのか。
「どうして? 簡単さ」
それは、アリルの顔で、人間という物が凝縮されたその芯で答えた。
「こうした方が、おもしろいだろう?」
ヒトの残酷さを、その神は、間違いなく得ていた。




