三章 3
地を駆ける驀進する犀を見ながら、アリルは意識をヴァインへ向ける。
彼女が探るのは気配と魔力。とは言うが、両方とも感じ方が違うだけで同じものだ。気配が五感の延長線上の感覚で、「雰囲気」と「強弱」が知れるのならば、魔力は第六感の延長線上で、「質」と「量」が知れる。
あくまで気配や魔力という感覚論。言葉にしても分かりづらいし、感じ方も解釈も変わる。
彼女に言わせれば、ヴァインのそれは強くはなく穏やかで、だが濃くも多い。言うなれば老衰まっただ中の賢者だ。若さに反して落ち着きすぎている。また、内包する力は底知れない。アリルの魔力を優に超えているだろう。戦いたくはない相手だ。
また、一方で酷く弱いとも思う。戦う時に発される気配が拙い。戦うことを忌避しているのでなく、本気を出していないかのようなか細さだ。しかしそれも、また違うようですらある。
アリルはヴァインを意識から外し、氷水へと向ける。
氷水はヴァインとは反対で、弱く荒々しく、少なくて……濃い。ただ、濃いというよりはその身に受けたる神の御加護でぼかされているような印象だ。加護という魔力を超越した力が、彼女の魔力と混ざって掴みにくいのかもしれない。
それを踏まえて言えば、子供が勝てない何かに立ち向かっているような――そんな印象。意地を張っているようでもある。
と、アリルに突進する影。考えを及ぼすまでもなく、リヴァーヴァレイトだ。
アリルはそらんでいた氷の魔法を、彼女を中心に地面へ放つ。凍りついた地面は深く踏み締めなければ滑ってしまう。その重量を速度にするリヴァーヴァレイトでは、その速さを活かせないことは自明。
さらに言うならば、犀という種は暑さに強く、寒さに弱い。ヴァインの炎で処理できなかった理由がそれだ。毛のない厚い皮膚を焼き切れなければ、ダメージは通らない。同様の理由で生半な火力の魔法のほとんどは通じない。しかしその例外が氷。冷たさがダメージにならずとも、その動きを遅くする。
滑って僅かに逸れる犀の動きに合わせ、紙一重で躱す。そしてその分厚い皮膚ではなく、薄い目元へ剣を差し出し柄頭を押さえる。後はその勢いのまま犀が刺さって脳を抉る。
問題は刺さる瞬間に体を支えなければいけないことと、その後犀の勢いを受け止めなければいけないことだ。だがそれも、彼女の技で補える。
氷使いであるアリルのブーツは、親指の付け根からスパイクが伸びている。小さい物だが、地面の薄い氷を破砕するには十分で、埋まりさえすれば踏ん張れる。
そうして刺せば、後は犀の勢いを止めるだけだが、彼女は踏ん張らないことでそれをなす。スパイクを上げ、勢いのままに氷上を滑る。死んだ犀の余勢はすぐに止まり、アリルは姿勢を崩さず、手を傷めずに一体を狩り終える。
残りのリヴァーヴァレイトから、街へ向かうものの足へ氷結の魔法を放つ。詠唱は先の攻防の間に完成している。
足の一本が表面だけだが凍りつく。地面の氷と相俟って踏ん張ることができない。あえなく犀は横転し、動きを止める。
アリルは手元の犀から剣を捻って抜き、氷水へと走る。アリルの担当する一匹が、氷水へと向かっていた。
「こっちはいいから、お前は街に向かう奴から片しな」
氷水の襟首を引っ掴み、ヴァインがアリルへと言った。リヴァーヴァレイトを氷水を抱えたまま躱すが、後ろから黒の鳥が迫る。彼はそれにも気付いていたのか、慌てず刀を向けて炎を放ち、翼を焼く。レイヴンの姿勢が逸れたところで、硬い嘴を避けて根元に斬りかかる。ここにきて神の武器の面目躍如。バターを裂くような滑らかさで、嘴と顔とを切断。レイヴンを落とす。
見ればレイヴンの死骸は五匹目。数が増えていたようだ。それでもヴァインに傷はない。
――これなら大丈夫か。
アリルはそちらに向かうのを止め、市街へ走るリヴァーヴァレイトへ剣を向けた。
苦もなくリヴァーヴァレイトを駆除したアリルは、ヴァインと氷水の許へ行く。氷水はまだ戦っており、ヴァインは横で助言しているようだ。
「おら、避けるならもっとギリギリで」
リヴァーヴァレイトという犀の脅威は、集団爆走による回避の難しさとその一撃の威力。残るが一匹で、守るものがないならば怖くはない。遠目から気配を追った限り、リヴァーヴァレイトが街へ抜けようとする度にヴァインが気を引き、戻していたようだ。
「氷水では決め手にかけるのではないのか?」
アリルは街の側で構えるヴァインの隣へ。ヴァインは「かもな」と頷き、
「だが実戦にゃ違いねぇ。勝てなくても、経験積ますには十分だろう」
「十分……だが、実戦だぞ? 万が一ということもあり得る」
「なら、さっさと止めに行けばいいだろ?」
突き放すように言うが、口は笑みを浮かべていた。
「やらないのは、あいつに少しでも経験を積ませたいから。それもできる限りリスクの少ない形で。この状況は、その意味では理想通り。それでも、止めさせたいのはてめぇが過保護だから。違うか?」
アリルは苦笑い。
「ま、安心しろよ、さすがに死なせはしない。ただあんなのに負けるような神子だったら、剣を奪って、神子の刻印を焼くだけだ」
「刻印を、焼く?」
ヴァインは静かに首肯する。その言葉の意味を十まで説明はしてくれない。
アリルは考える。剣と刻印の喪失。それが何をもたらすか。
「神子の証の剥奪……か? いやでも、それで何が……」
それで神子は死ぬわけじゃない。天使たるヴァインは勝たず、また、悪魔たる第三の英雄も残る。神子の証明手段を奪ったところで何が……
――神子の、証明……?
ハッと面を上げるアリル。
「あいつが戦わなくて済むのか?」
「あいつが戦わされなくて済む、だ。あいつは弱い。神子の能力がなければ――いや、あってもそこらのモンスターに勝てない程に。それでも何を勘違いしたか、神子の役割を戦うことだと思ってやがる。周りがそうさせてんだ。戦わせようとしてんだ。だから今のあいつの場所を奪っちまえば、神子に期待されてるのが戦いなんかじゃないってことにも気付くだろうよ」
表情を変えず言うヴァインに、何故、と問いかけていた。
「何故あなたがヒミナのことにそこまで……?」
ヴァインが初めて、苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
「…………俺に、」
ヴァインは唇を動かし、その先を紡ぐ。しかし意図したものか、それとも彼の心が拒否したのか、言葉は放たれない。それでもアリルは唇の動きで読みとった。
――似ているから……?
顔を背けたヴァインはいつもの表情に戻る。一度リヴァーヴァレイトと氷水を見ると、刀を構えて北を見据えた。
「それじゃあ神子サマも頑張ったようだし、そろそろあのデカブツも殺してやろうかね」
たった一匹のリヴァーヴァレイトに、汗だくで向かっている氷水。リヴァーヴァレイトの方は、目を凝らせば短剣の傷がそこかしこにできていた。しかし致命傷には程遠い。
それが今の氷水の実力なのだろう。
ヴァインは刀を肩に担ぎ、悠然と歩み寄る。どこか氷水に倒れて欲しいような、そんな風を思わせる動きだった。
リヴァーヴァレイトが氷水に突進。それを躱す氷水。リヴァーヴァレイトは目の前にいたヴァインに駆ける。
ヴァインは両手に刀を構え、リヴァーヴァレイトの角へと斬りかかった。
キィィィンと、金属同士がぶつかるような音がする。間もなく、キキキッという金属の擦れ合う、嫌な音が響いた。刀の凹凸が角で音を奏でたのだろう。音がすぐに止まったことから、がっちり嵌まったのが窺えた。
ヴァインが砂埃を上げて後ろに滑るが、彼の表情は余裕に満ちている。
刀が炎を纏った。
じわりじわりと炎が濃くなり、熱気が彼の周囲をぼかす。
ヴァインは数十メートルリヴァーヴァレイトに押され続けたが、姿勢は打ち合った時と変わらない。アリルは昔、ヴァインと同じように、リヴァーヴァレイトと同種の魔物に打ち合った人間を見たことがある。それなりに力に自信があったようだが、ヴァインのように姿勢が保てず、下敷きにされて重傷を負っていた。ヴァインとの差は武器なのか、技術なのか。
炎がリヴァーヴァレイトの角を溶かした。
リヴァーヴァレイトもヴァインも、込めていた力が互いへ流れる。
しかしこれを仕掛けたのはヴァインだ。対策を取っていないわけがない。
踏ん張る姿勢だった右足で地面を蹴り、崩れるような姿勢でリヴァーヴァレイトのすぐ横を飛んだ。それでも刀を握る手は緩めない。
ヴァインの刃は、リヴァーヴァレイトの体を真横に焼き切っていた。
「こんなもんか」
高温に熱せられた刀を錆びた剣へと戻し、ヴァインは「こうやるんだよ、神子サマ」と、皮肉るようにタトゥーを見せる。
「それじゃ、団長サン。神子サマに魔道騎士団の警備シフトをちゃんと教えてやれよ」
アリルはその言葉に、得心がいったと頷いた。
魔物襲撃かでの魔道騎士団の割り当ては市街の巡回。街に入り込む魔物の駆逐が主で、防壁のすぐ内側を回るのがセオリーだった。
氷水とヴァインが魔道騎士団の団長と出会ったのは、偶然ではなかったのだ。
氷水がそうですと、汗を乱暴に服で拭いながら、アリルへ訊く。
ヴァインの姿は消えていた。