三章 1
シャルフの刻印成立から十日余り。彼はその証をアリルや、氷水を含めた全員に隠して生活していた。
これは一つのカード。敵に易々と知られてはいけないものだ。戦で敵の意表を突くには、相手に隠すことはもちろん、味方に隠すことも重要となる。指揮する立場の者に知られれば、その力を考慮しての配置となり、布陣にその意図が薄く滲むのだ。パワーバランスをとったり、重要拠点の守りだったり。そこから力量を察知される可能性もある。できることなら不意をついて楽に倒せるのが一番いい。
シャルフの現在の地位は、貴族ヒュネー=スザナフに仕える一騎士。神剣と天使を得た功績はヒュネーの手柄となり、それを達したシャルフには何の恩賞もなかった。
理由はいくつかある。
まず帝国の方から、王を暗殺した者へ手配が回っていること。が、これは表面的な理由だ。帝国の内情――無能な貴族も皆殺しにされたこと――を知る者なら、そちらが本気で犯人を特定しようとしているなどとは考えもしない。どころか、現在指揮を執る立場の人間が首謀者で、犯人は汚名を着せられたか民のためにやった。そんな予想は考える間もなく思いついてしまう。
また、恩賞についてはシャルフとヒュネーの利害が一致した。ヒュネーはこれまで以上の地位を。シャルフは顔を知られたくはない。その理由からも、手柄を譲るのは当然の結果。シャルフにすれば、顔の利く権力者はヒュネー一人いれば十分なのだから。
だが一番の理由は……天使の所在を明らかにしていないことにあった。
ヒュネーが王に報告した手柄というのは、三本の神剣の入手のみにあった。
天使を配下にしたと報告すれば、神子の敵――危険因子とされ、殺される公算が高い。
かと言って捕らえたなどと報告すればそのまま処刑。
神剣入手の主軸を担ったとはいえ、その脅威は無視しがたいものには違いないのだ。この国の実質的トップであるヒュネーといえど、庇いきれるものではない。
神剣のみの献上ならば、喋る口がない故、嘘はいくらでもつけるし黙秘も可能だ。
天使ヴァイン。彼は紛れもなく城下にいて、また城の一室を宿にしている神子とも度々会っているのだが、彼自身が天使であることに誰も気づいていない。無論彼自ら明かした神子とアリル、ミリルはそのことを知っているのだが、誰に言うでもなく、また城に自由に出入りしていることからも気にしていなかった。
実際はヴァイン、シャルフ共々ヒュネーの名を借りて通行許可を取り、城の氷水とアリルとも出会っている。しかし事情を知らない者は、帝国軍の陽動任務直後から現れたこの二人についてどういう繋がりなのか知らない。
だからこそこの状況。
……今シャルフは、アリルのファンに尋問を受けていた。
「あぁ~ん? それでどういう用件で団長につきまとってんですかァ?」
――頭が痛い……。
額を押さえつつ、やれやれと首を振るシャルフ。
目の前には二十半ばの青年。特徴的なのは腰に提げた長剣と背中の青いコート。団長という言葉から予想できるように、魔道騎士団の一人のようだ。後ろには似たような年代の男たち――それも国の兵士らしき者たちが数人控えている。
場所はミーティア東の中流区域。空に星が瞬く頃だった。
シャルフはこの街に帰ってから、毎日のようにアリルの家へと向かっていた。時間は夕刻に変わる間際。いつものようにアリルの家へと向かうと、ベッドの上で本を読むミリルと、その脇の椅子で同様に読書をするヴァインの姿が。
「ん。少し長居しすぎたな」
パタンと本を閉じ、足元に置いてあった一抱えするほどの量の本を持って立ち上がった。
「それじゃ、また来るぜ」
言い残し、シャルフとすれ違う。
「おい」
開いたままの扉を足で乱暴に閉めようとするヴァインへ、シャルフは呼びかけた。
「なんでお前がここにいるんだ?」
当然と言えば当然の疑問。戦闘狂いのこの男が、何故こんな場所で読書なんかを?
「特に理由はないな。逆に訊くが何故お前はここに?」
返す言葉は余裕に満ちている。
……いや、わざとそう言う風に見せて、シャルフの動きを楽しみにしているのだろう。頬の刺青が僅かに歪んでいた。
「……お前と同じだよ」
「だろうな」
互いに目配せして言外の意図を察し合う。
ヴァインは扉を閉めて家を去る。
「お兄さま、座ったらどうですか?」
しばらく入り口で呆けていたシャルフは、ミリルの言葉でようやく動き出した。
「あいつは本を読んでいただけなのか?」
「ええ、そうですよ」
本から目をそらさずミリルは答えた。
「お兄さまと同じように、初めてここに来た日から毎日です」
さらりと、聞き捨てならないことを言う。
「何?」
「ですから、真昼――おばさんがお昼を作るために一度帰っていく時間を見計らってやってきて、お兄さまと会う前に帰っていくのです」
ミリルは病弱だ。今でこそ小康状態だが、シャルフが例の任務を受ける時、彼女の病気快復へ手を打つことを条件として盛り込まなければ、死んでいたかもしれないほどに。
おばさん、というのはミリルの面倒を看てくれる近所の人だろう。それがヒュネーの手回しの結果なのか、アリルの仁徳かは分からないが。
つまり、ヴァインは二人の行動時間を知っていたことになる。まるで予知能力でも使えるような――
「あ、でもおばさんがご飯を持ってきてくれるので、その後は一緒にご飯を食べるんですよ」
それ以外はずっと本を読んでますけど、ミリルの言葉、表情に、
「それは良かったな」
そんな言葉が、自然と口をついて彼自身驚いた。
そしてしばらく雑談し、シャルフは帰る。アリルが帰ってくる前に。
「そんなところも、あの人にそっくりです」
その言葉に、シャルフは苦笑いするしかなかった。
そして家から数歩で捕まった。
「だから言っているだろう。アリルの昔馴染みだ。北へ旅に出ていて、最近戻ったんだ。頼れる者もいないため、彼女に世話になっている」
事を荒げるまいと口裏を合わせておいた設定を述べる。やや苛立っているように振る舞い、あえて隙を残すのも忘れない。
「それじゃあなんでさっき団長の家にいたんだ。今団長の家には妹しかいないはずだ! しらばっくれるな!」
「恩返しだ。彼女は金銭の類を受け取らない。確かに私が頼んだのは家の手配と、近所の人との仲を取り持つことだけだ。金が絡むほどのことではないだろう。彼女は当然のことをしたまでだと辞退した。
そんな彼女に恩を返さずしてどうする? 病弱な妹がいたのは知っていた。ならば私の都合の付く限り、面倒を見ないでどうする。それこそ当たり前のことじゃないか。
しかし……君たちは何だ? 何故今彼女の家にミリルしかいないことを知っている? 知っていて何故彼女の世話をしない? アリルが家にいないこともだ。さては君たち、ストーカーの類か? 彼女の家に近づくのは止めてもらおう。近隣住民として言わせてもらう」
何が待っているのか知らずに藪をつつく愚か者に、彼は一気にまくしたてる。
男たちが怯んだ瞬間、興味を失ったというように男たちから視線を外して路地を去る。
全ては演技だ。ヴァル=ルージェという病巣で生き抜くために手に入れた力だ。
「待ちなぁ」
「……」
無言で歩を進めるシャルフ。
「神子様に付きまとっている頬に刺青をした赤い髪の男を捕らえている。お前さんの連れだろう。しばらく付き合ってもらおう」
男たちのバカな言葉に、
「ぷっ」
思わずもれる笑い声。
「はははははは!」
「な、何がおかしい!?」
「いや、最高だ。久しぶりにくだらないことで笑えたよ」
そしてすっと顔を戻し、いつもヴァインがやるような、愉快そうな悪い笑みを浮かべ、
「それじゃあ後は任せた、アリル」
暗がりの先にいた昔馴染みへと声をかけた。
「ん。お前たち、犯罪行為を自白するのはいいが、これにこりたら二度としないようにな」
『あ、アリル団長!?』
後ろの悲鳴と同時、紫の空が一瞬橙の色に染まったのは気のせいではないだろう。