二章 4
翌朝。
来客用の部屋で寝泊りをしたヴァインは、部屋をノックする音で目を覚ました。
「ん? 誰だ?」
服はやはり、紅蓮の祭祀服のままだった。
「俺だ」
「ああイラレー……シャルフか」
扉を開けると、緑髪の青年が鎧姿でいた。
「なんだ朝早くに。久々にぐっすり寝ようと思っていたのに台無しだぜ」
ノックで起きる浅い眠りをしておきながら、口から出たのはそんな嘘である。シャルフも気付きながらもそれには触れず、用件を済ます。
「お前、所属する軍は決めたのか?」
「前も言った通り、第一候補はお前に潜入任務を申しつけた、頭の切れる奴んとこだな」
それは都合いいと、シャルフが踵を返す。
「お呼びだぞ、天使」
「ふん、そいつぁ光栄だ」
すっかり頭を覚醒させ、シャルフの後ろをヴァインがついていった。
シャルフが向かったのは、西地区の豪邸だった。
一軒一軒がかなりの大きさでひしめき合いながらも、その華美さを損なわぬよういくらかの間隔を開けて建っている。
彼らが訪れたのは、その中でも一際小さい邸宅だった。
「ふん……。王族でもなく、軍属でもなく……か。そして家は貴族にしては小さいが――実用性重視と見るべきかな。こりゃ当たりだな」
シャルフは邸宅の扉の取っ手を掴み、コンコンと扉に打ちつけた。
間もなく扉が開く。使用人が内に控え、扉の横で腰を曲げた。
メイドの案内なく、歩きなれたように二人は進む。
「シャルフ、一つ訊きたかったことがある」
「何だ?」
歩む速度は変えず、そう返す。
「お前がヴァル=ルージェへの潜入任務を受けたのは、金の為だけじゃないだろう?」
「……何が言いたい?」
歩調は変わらず、シャルフは邸宅二階にある部屋を目指す。
「とぼけなくてもいい。十歳やそこらのガキが、他国への潜入任務を受けるはずがないだろうが。金が出たからって、孤児院で育ったからって、お前みたいなひねた野郎が、孤児院にそこまで深い思い入れがあるとは思わない。勝手に助けて勝手に送りだすんだ。仕送りをしなけりゃいけない義務はないはず。まァ俺の世界にゃそんなモンなかったから実際はどうか知らねぇが……」
自らの知、及ばぬ故言い淀む。しかしすぐに言葉を繋ぐ。
「とにかく、ガキがまだ戦争の影も落ちていないご時世に、わざわざ他国の――それもとりわけ治安の悪い国に赴いて潜む訳がわかんねぇ。それなら――」
「ついたぞ」
ヴァインの言葉を遮るようにシャルフが言った。
「話はまた後だ」
ノックとともに、部屋へと入る。
部屋は広いながらも、廊下や広間と比べるべくもない、質素なものだった。
「来たかシャルフ」
その中で机に向かっていたのは、白髪の目立つ老紳士。筆を持つ手を止め立ち上がり、シャルフとヴァインに向き直る。
「よくぞ来た、天使ヴァイン=ハイゼルト。おぬしを我が軍に迎え入れられること、心から光栄に思う」
老紳士の青い目は、鋭く深い。
それは隣国の元王などでは到底敵わない、清濁併せ呑み突き進む者の底知れぬ器。
「なんだこいつ……!」
その片鱗を嗅ぎ取ったヴァインは、思わずと言う風に言葉を漏らした。
「口を慎め。このお方は、今のお前ではまだ早い」
忠告を促すはシャルフ。
敵対しながらも認めた相手だ。シャルフ、あるいはイラレージュという男がどれだけの自信を内に秘め、臆すことなく立ちまわってきたかをヴァインは知っている。その男が『このお方』だ。その言葉に揶揄の響きはもちろん、屈服を強いられた時の反するがごとき苛立ちも感じられはしない。
僅かな驚きと共に眼を瞠るヴァインへ、老紳士は穏やかな口調で言葉を続ける。
「別によい。相手の力量を測れぬ弱者は私にはいらぬ。そして見極めてなお正しい選択を下せない愚者は、従えるに値しない。どの判断を下すかは個人の自由。それを互いに見極めるための面会なのだからな」
男の言葉に「話が分かるね」と、余裕を取り戻して言う。
「それで俺がお前の下に『ハイそうですか』と従うと思って――」
瞬間、刃を突きつけられる。それも三本。
一本目は隣のシャルフの長剣。
二本目は、扉の影にいた男の短剣。
そして三本目は、殺意の刃。目に見えない魔力が、違和感を生むほど凝縮されて向けられていた。
ヴァインはそれらを見、感じて、握りかけた剣の柄をそっと放す。
「とんでもねぇガキだな……」
見れば部屋の隅、眼の暗い少女が錫杖片手に、魔力を放っていた。
「おい、隅のそいつにゃ気付いていたが、こっちの男は何だ? 気配が全くしねぇぞ?」
刃に魔力と、敵意を超える殺意を突きつけられてなお、彼の平静は揺るがない。この武力より、先の男の大器、そこから感じられる圧力の方がよっぽどまずいと彼は思う。
「優秀な部下だよ。まだ戦いを覚えたての君とは違う、ね」
挑発するように答える老紳士を前に、ゆっくりと手を上げて降参の意を示す。
「負けだ負け。本物の暗殺者ってやつかこいつ? シャルフよりもよっぽどやべぇじゃねぇか」
見れば短剣には薄く水気が見られる。毒だろう。
「まぁいいさ。お前らがその男を崇拝しているのはよくわかった。俺としても問題ない。何せ若年のシャルフ君を魅せ、幼馴染の命で脅して敵国のスパイにさせるような男だ。この国の裏を一手に担ってそうな極悪人! 飾りでしかない俺が従わないはずがねぇ」
ヴァインの言葉に、シャルフが驚いたように問い返す。
「お前……」
「ああもちろん気付いていたさ。どこに幼馴染ほっといて他国に潜入する奴がいる? 正義を信じてやまない善人様か? そんなやつが、潜入任務なんか務まるか。力が全ての独裁国家で、その現状を見て、それでも耐えて上へ昇り詰めるなんて小賢しい真似できるはずがねぇ。ならなんだ? それが本当に必要なことだと、認識させるか? 小さなガキに? それこそ無理だ。仮に認識させたところでガキはガキだ。無慈悲に振る舞うのも限界がある。だから――」
不敵に笑う。何もかも知っているかのような、ブラフ混じりに堂々と。
「脅した。幼馴染を使って脅した。まずは金。何をもってしてもそれで釣る。釣った後は、脅す。ガキはガキなりに、誰だって正義感を持っているもんだ。自分の所為で知り合いが――友人が――それ以上の者が――死ぬのを良しとするはずがない。後はそれをネチネチネチネチ刷り込んで御出立とした――んだと思ってたが……な」
歯切れ悪く言葉を断つ。
――懐柔? お前が?
てめぇはそんなに安かねぇだろ、とヴァインは思う。
――紛い物の俺より強く、あのふざけた国で期を待てるほど強かだ。そして無慈悲に振る舞いながらも、てめぇはてめぇの知らないところで人望があった。王に従う犬でありながら、兵たちはお前を信用していた。だからこそ王や貴族を殺した後、あの国の兵たちは俺たちを逃した。てめぇは運よく逃げれたのだと思ってるのかもしれねぇが、あいつらはその一回だけは処罰も覚悟して見逃した。軍の引き戻しも、歩きの俺たちより遅く早馬が辿り着くなんてありえない。
――黒幕の作戦は、自身の手を汚さずに玉座を乗っ取ることだ。その為には犯人は徹底的に追い詰め、捕まえなければならない。少なくともその姿勢を崩しちゃいけない。だから王の死は軍に回ってただろうし、容赦をする旨も書いてなかったはずだ。なのに見逃された。それだけお前が慕われてんだ。殺されていいとは誰も思ってねぇんだ。
――そう、お前は下に付く器じゃねぇ。この男に負けるようなやつじゃない。俺の見立てではこの男と張れるくらいには……
考える、考える。現状を考える。必至を得るべく必死に必死に。
――俺の見立ては偽りか? 甘いのか? いや違う。違うはずだ。仮に俺の勘が甘かったなら、俺はあの時、親父と一緒に死んでいる。衰えていたなら、俺はイラレージュと一緒にここまで来れていない。俺は、俺の勘は、俺の観察眼は、まだ、生きている。だから、こいつは、こいつらは……!
「お前らは、お前らの都合で動いている」
断言する。
「国や国王、その下の誰か。お前らはそんな奴らに従っているんじゃない。そしてお前ら二人は一方的な上下関係でもない。対等な関係にあってなお、仮初めの上下関係を演じている」
そりゃあ忌むような口ぶりがないはずだ。この関係は、合意の上で成り立っている。
何のためか?
決まっている。
――この俺を、騙す為。そうだろう?
そこで初めて、老紳士が笑った。
「シャルフ――お前の慧眼にも恐れ入る」
その眼は鋭さを潜め、純粋にこの場を笑っていた。
「そう言ってくれるとありがたいな、ヒュネー」
シャルフも気さくに言葉を返す。
皆各々の〝武器〟を収め、場の空気は完全に弛緩していた。
「……あー、あー……。まぁいいさ」
すると一人剣を抜くヴァイン。咎めるように皆が見るが、彼は警戒させないよう下がると、ゆっくりとそれをかざす。力を受けた神剣は、それをヴァインの形へと変化させる。
「折角だ。一遍に済ませてしまおう」
彼は掲げた刃を、シャルフへと向けて問う。
「お前らは俺を試した。あえて訊こう。その結果は?」
「文句なしだよ。我々には君の力が必要だ」
答えるは老紳士。ヴァインの雰囲気が変わったことを受け、彼もまた弛んだ空気を締めるべく、厳粛とした声で答える。残りの者も立ち位置を変え、彼を迎え入れるように並んだ。
「刃を握り、自らの名において誓え」
応ずるヴァインの言葉。たったそれだけ。しかし皆、それで彼の言外の意を察す。
通過儀礼だ。
お前を俺と対等の存在と認めるという、そういう宣言。
刃を握るとは即ち、血を流し、血で以って誓えという、血盟。
「ヒュネー=スザナフ」
老紳士が。
「シャルフ=ルージェ」
緑髪の騎士が。
そして。
「天使、ヴァイン=ハイゼルト。
俺もまた認めよう。俺はお前らの仲間だ。お前らは俺の仲間だ」
そう言って刃を握る。
上からヴァイン、シャルフ、ヒュネー。
ヴァインの血がシャルフを汚し、シャルフの血がヒュネーを汚す。
血はヒュネーの下で混じり合い――
ボォッと、炎となって消えた。
三人の手を、炎がそっと撫でる。
「これで終わりだ。
……フン、予想通りだな」
彼がシャルフを見て言うと、「なるほど」と彼も頷いた。
「刻印だ」
彼は血を流した右の掌を差し出す。
「天使の軍勢。その証。僕の刻印が今、芽吹いた」
彼の掌には刻印――剣抱く二つの翼が、くっきりと描かれていた。