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水槽

作者: 海月瑞希
掲載日:2026/02/10


今朝、メダカが死んでいた。名前くらいプレゼントしてやればよかったものの、一匹一匹の区別がつかないし、愛着を持つと別れが惜しくなるからな。タニシの餌食となって、腹が抉れたそれを救い出すだけの情は持ち合わせていた。泣き喚くほどの感情移入ができなかった自分に涙が出そうだ。


二年前、社会人になって一人暮らしし始めた僕は、部屋の広さに耐えきれなかった。四方八方白いだけ。五歳の頃だったか、図書館の奥の奥、誰もいない隅っこに目をやった僕は脚立に乗って一冊の本を引きずり出した。色褪せた空色で、ところどころ剥げて段ボールのような茶色い本体が見え隠れしていた。繊維がほつれた栞紐が刺さっていたページから、死刑囚の短編が詰まっていた。彼は独房の壁を、死んだらどこに行くのだろうかとかで埋め尽くしていた。それを思い出した僕は、僕を閉じ込めていた白い壁にマーカーの切っ先で触れようとして、すぐに手が引っ込んだんだ。そして、また壁を睨みつける。そんな生活を続けていたある日、初月給はべらぼうに軽かった。それでも、何かしらで壁を埋めたかったんだ。行き先も決めてない僕はたった一つの看板を逃さなかった。18年の人生で初めてメダカ専門店という単語を見つけた。一匹、百十円。税込み。百均と同じような感覚で命のやり取りがなされている。でもそれも、百均でガムを買うのと大差ないものだった。水槽、カルキ抜き、餌、網、底砂、水草、ろ過フィルター、水温計。メダカと合わせて、税込み二万九百円。家賃の半分程度で、一つの世界が作れるらしい。ビニール袋から取りこぼさないように歩幅を緩めるのは、小学生時代の味噌汁の輸送を彷彿させた。アパートの角部屋、最初の家具は水槽だった。その日から、壁を睨んでいた時間はメダカへと費やされた。自分以外の生き物が部屋にいる感覚は、部屋を狭くしてくれた。


今日は少しだけ部屋が広くなった気がする。網の上で寝ているメダカは腹から二つにちぎれた。スマートフォンが言うには、メダカの死骸は、燃えるゴミとして処分する、土に埋める、ペット火葬業者に依頼する、の三択らしい。これはペット、なんだろうか。でも、かと言って燃えるゴミも違う気がする。とりあえず、土に埋めることにする。公園に捨てるのは不法投棄とのことで、窓際のガジュマルの土に埋めることにする。ガジュマルは名前がペットみたいだから、去年からここに住まわせている。ガジュマルの麓にスコップと網を携えてしゃがみ込む。右手のスコップで、麓を削ろうとしたその時、手が止まった。ガジュマルの栄養になるのも、タニシの餌食になるのも、生命の循環という点では大差ないんじゃないか。植木鉢、水槽、それぞれ交互にピントを合わせる。そして、最後はメダカだったものに。どうせ誰かの餌食になるなら、見えないとこで栄養になってくれ。スコップで一掘りし、網から亡骸を左手に移す。ゴム手袋をはめるのは嫌だった。穴にそれらを置いて、土に帰す。左手からは、ちょっとだけアンモニアの臭いがした。


流し場にて、僕は左手の掌を漠然と眺めていた。水は流していないけど、水槽は水音を鳴らし続けている。結局は流し場のレバーを上げて左手を流した。タオルで拭いていたら、自然と視界に水槽が入って来た。残り九匹。一匹土に還ったというのに、気にしているのは僕だけのようだ。


冷凍庫の扉を開くと、真っ先に映ったのはあずきバーだった。最後の一本。パッケージを手で切り裂いて、ひと舐め。


僕は顔を顰めた。


全て溶かし切ったのちに、僕はガジュマルの麓に、棒を突き刺した。


床には蓋の外れたマーカーが転がっていた。


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