65. 子ども同士
二人が言葉を交わし始めた時、吾はいつものことかと楽観していた。
ロムルスが無茶を口に出してアナスタシアがそれを窘める。
あいつはすぐに非を認めて誠意の感じられない謝罪をこれ見よがしに表して、まともに取り合うのは損だとばかりに彼女は嫌々ながらも受け入れる。
見飽きたとすら思えるお決まりの光景だ。
ロムルスは人を弄んで悦に入る生粋の変人で、アナスタシアはそんな相手と関わると庇護欲というのか無視ができない。
だから、一連のやり取りは何度も繰り返されるのだ。
今日だって、同じようにすぐに終わると思っていた。
一癖も二癖もある二人が、まさかああも拗れるとは想像もせずに。
アナスタシアとロムルスとの関係は長い方だ。
どれだけ親密でも数週間で死別していた吾の経験則からはかけ離れ、既に半年以上も吾は二人と行動を共にしている。
気が付けばアウグリュニーの豪邸で、リヴァチェスター領とマルド・プール領を手に入れていた。
とても順調でとんとん拍子に事が進んでいたために気が付けなかった。
幾ら優秀でも、二人は人間だということに。
「ちょっとホロウ……まだ話は終わってないのよ」
抗議するような口調のアナスタシアの文句を黙殺して、吾は問答無用でリビングルームから連れ出した。
行く当てなど考えていない。
あの時は、二人を引き離すしか解決方法が思い浮かばなかった。
無計画で、その場しのぎの無策に等しい。
「……? ホロウと……アナスタシアさん? どうしたんだよ」
ガーネット色のメイド服を着こなしたラミとすれ違うが、当たり障りのない返答をできる余裕はない。
「ちょっとな……」とか曖昧に濁して、逃げるように螺旋階段を駆け上がった。
時刻は既に正午を回ったあたりだろう。ならば、二階以上で二人の仕事は終わっているはず。
吾としては誰にも邪魔されたくない。
ならば、どこに向かうべきかなど必然的に決まってくる。
「アナスタシア。貴様の部屋へ行くぞ」
「……? わたくしの?」
自室というのは存外、リラックスできるものだ。
今まで家や部屋という概念に触れてこなかった吾には理解できなかったが、つい最近になって納得できた。
遠征中はエディンやトンム・ルドーの大使館の一室を使っていたが、やはり、この屋敷の吾の部屋ではないと心から休まることはなかった。
もしかしたら、アナスタシアも同じかもしれない。
気が緩めば、堅固に蓋をした本心を話してくれるかもしれない。
…………これってロムルスと似たようなやり方だよな? まさか、染まってきているのか?
なんて。戦々恐々としながら進んでいると、アナスタシアの部屋の前まで辿り着いた。
最上階である三階の、二つある大部屋。その内の一つ。
「……? おいアナスタシア。鍵をかけているのか?」
衒いなくノブに手をかけるとガチャリと抵抗を感じた。
「ええ、ごめんなさい。すぐ開けるわ」
バツが悪そうに、目尻を下げた彼女は懐から取り出した鍵をもって扉を開けた。
そのまま入室したアナスタシアは、テーブルに置いてあったティーセットへと手を伸ばした。
必要ないと言いたいところだが、恐らく吾のではなく彼女が飲みたいのだろう。
落ち着きたい、一息つきたいといった本心が透けて見える。
それも、自室という安息空間に戻ったためであろうか。
「整頓されているな」
「え、ええ。カレンとラミが優秀なのよ」
「同感だ。吾の部屋も見間違える程に綺麗にしてもらった」
「広いから無理にしなくていいと言っているのだけれど……」
謙遜でも、誇張でもなく。
アナスタシアの部屋はそれはもう本当に一室か? と思える程に広い。
扉を開けて飛び込んできたのは赤色の絨毯に包まれたリビングだ。
右手には扉と壁があり、部屋の中にもう一室設えられている。
吾の部屋を五つ並べてようやくリビングをすっぽり隠せるであろう広大さには圧倒される。
木目調の壁紙に、等間隔に日光を入れる窓、廊下側の壁には一面に書棚がそびえたち、一冊の余裕もない程に本が几帳面に並んでいる。
中心には丸テーブルを囲むように紺色のソファが円形に設置されていて、その奥には木製の机と黒皮の椅子が鎮座している。
そして、山のように積まれた書類と、背後の書棚に立てかけるように広げられたウェスタ=エール帝国の地図が一際目を引く。
夥しい書き込みと、地図を拡張するかのように付け加えられた別紙が、アナスタシアの努力を教えてくれる。
「適当に座っていいわよ」
「ああ、そうだな。遠慮なく」
ソファの弾力はとてもじゃないが安価とは思えない。
庶民の一軒家ならば一括で買えてしまう金額に等しいだろう。
「そういえば、初めて使うわね」
「なに? 普段は使わないのか」
「ええ。いつもはあっちにいるもの」
対面へと腰を下ろしたアナスタシアの指し示す方向は、執務机だった。
確かに、彼女の性格や生活上、団欒の象徴たるソファには座らないだろう。
それに、彼女が誰かを自室へ招待したなんて話も聞かない。
「それで……わたくしの部屋まで連れ出した理由を聞いてもいいかしら?」
楽しい楽しい雑談の時間は終わりか。
……まて。これはロムルスの言い回しだ。あのキザったらしくて、聞いているこちらが悪寒の走るような気持ちの悪い言葉選び。
よもや、ここまで毒されるとは。自分が情けない。
それと。
何も見えていなかった吾が、誰よりも憎らしい。
「分かっているだろう。先の口論は……アナスタシアらしくなかった」
「わたくしらしさ、ね。それはどういうものかしら? それが……何か関係があるとは思えないわ」
「大いにあるぞ。アナスタシア、貴様は皆が誰の背中を追ってここにいるのか。わかっていない」
吾の言葉にムッと眉根を寄せて不服を表現するアナスタシア。
どうやら、表情のコントロールすら満足にできないらしい。
それほどに、憔悴しているのか。はたまた、彼女の急所を突いてしまったのか。
彼女に辛い顔をさせたくはない。
けれど、避けては通れぬ道だ。
「承知しているわ。ロムルス…………彼でしょう?」
「ふん。やはりわかっていない。貴様は思い違いをしている」
「……、わたくしが。何を捉え損ねていると?」
「考えてもみろ。どんな物好きであろうと、あれについていこうと思わない。それでも、吾たちはここにいる」
言葉足らずで申し訳ないと思う。
吾にはロムルスのように魂を絡めとるような話術も、アナスタシアのように合理的で論理的な言葉も知らない。
吾にとっての言葉は暴力で、和解など望み得ないものだ。
だから、本質を確実に伝えられる自信はない。
「アナスタシア、よく聞け。知人……いや、友人として忠告する。吾だけではない。テリアも、マルタもアヤメも、ヨークも、カレンやラミだって、ロムルスの隣に貴様がいるから安心できるんだ」
「わたくし……?」
吾はいま、細心の注意を払って言葉を紡いでいる。
ダガーのように、言語とは相手を容易に傷つけるものだから。
「ああ。何を考えてるのか見当もつかないし、踏み込んで理解したくもない男の隣で貴様が歩いているから。だから、吾たちは──っ」
「そう、わたくしは…………隣、なのね」
失態を晒した。
取り返しのつかない失敗を、吾は犯したのだと気が付いた。
悲痛に歪んだアナスタシアの表情と、力一杯握り締められた両の拳、しゃんと伸びた背筋。
どこからどう見てもアナスタシアなのに、まるで核たる心技がバラバラになってしまったように別人の思えた。
憂いを帯びた瞳が手を伸ばしても掴めなかった失望を見せる。
「あ、アナスタ──」
「ホロウ。わたくしが商会を立ち上げた理由……覚えているかしら?」
「あ、ああ……亡き姉の無念を晴らすためだろう」
「ええ。あの人の願いを私欲に汚した惨めな報復よ」
「…………否定が聞きたい訳じゃないならなんだ。同情が欲しかったのか?」
「いいえ。そんなことされたら、きっと怒ってしまうわ」
ならば今は怒っていないのか? とは聞ける雰囲気ではないな。
さしもの吾とて、ロムルスと同じ轍を踏むつもりは毛頭ない。
吾の言葉が原因で、アナスタシアを激励するどころか更に傷つけてしまった。
理由は生憎とわからずじまい。
だから推測する他ない。
吾から見て、ロムルスとアナスタシアは抜群のコンビだと思う。
むしろ、アナスタシアでなければロムルスの相手は務まらない。
あいつは……ロムルスは。
頓珍漢な戯言を抜かしたかと思えば、それが見事に整合性をもった柱へと変化する。
誰にも胸の裡をひけらかさないために不和が生まれる。
無論、出会った当初に比べて幾分かマシになった。
ドルや“オドラの邑”での不信感は天元突破レベルだ。思い返してみれば、どうして彼を信用できたのか、何をとち狂って付いて行ったのか理解できない。
それでも、【権能】を開示してくれて、目的を話してくれるようになった。
彼なりの決意なのかもしれない。
ロムルスなりの誠意なのかもしれない。
なにせ、あいつは酷く不器用で、なまじ“未来”を視る力と尋常ならざる洞察力があるだけの男なのだから。
そうだ、超人でありながら超越者じゃない。
顔色一つ変えずに仲間を死地に送れる程に冷徹になりきれない。
言葉一つ弄せずに仲間を死なせないように必死なだけなんだ。
暗殺者はいいように使われる性分で、吾はそれが身に染みている。
そう、だから。吾はそれでいい。
けれど、アナスタシアは? 常に一人で逆境に立ち向かってきた彼女は?
同志はいたかもしれない。
部下は腐る程いたかもしれない。
共犯者は掃いて捨てる程度には充足していたかもしれない。
城塞都市ドルからの馬車で聞いた彼女の身の上。過去。齢十かそこらで背負った業。
親近感が湧くと同時に、吾とは合間みえる人種でないと納得もした。
ようやく、吾は思い違いに気が付いた。
「なあ、アナスタシア。貴様は……焦っている」
「…………………………、忠告かしら?」
長い沈黙が。苦し紛れの台詞が。
アナスタシアの本心を言い当てたのだと示してくれた。
ならば、吾の言葉は。
「アナスタシア、貴様は一人か? まだ、一人で戦っているのか?」
「────それは……?」
「もし、そう思っているなら。吾は…………吾は──」
そう思っていることに、何より吾が一番、驚いている。
伝えたいと思ったことに、一層驚愕が隠せない。
──とても、悲しい。
最後まで言い終わった後の、アナスタシアの表情を。
吾は今生、忘れることはない。
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小さくも力強い掌を握ると、黙っていろと言わんばかりに握り返される。
振り返らずに進む姿は少女とは思えないくらいに頼もしくて、だからこそ、甘えてしまう自分が許せない。
ホロウはいい子だから。わたくしと受け入れてくれるだろうから。
蠢いていた悪感情を衆目すら気にかけずに発露したのは初めてだ。
ずっと理性で押さえつけていたはずなのに。
【権能】すら使って誘導してきたはずなのに。
ほんの些細な変化で、僅かな変動で。
わたくしの自制はいとも簡単に剥がれ落ちた。
ボクにはヨークを政治の道具にするつもりは毛頭ない、と。
彼は言った。
ヨークを囮にして最深部へと破壊工作をするだろうと踏んでいたわたくしは。
ロムルスならば更に巧妙で狡猾な一手を考案するだろうと期待していたわたくしは。
合理よりも直情を信じられたロムルスに、裏切られた気がしたんだ。
彼とわたくしの優先順位は異なる。
けれど、最終的な到達点だけは揺るがないと無根拠に盲信していた。
その手痛いミスは、最悪の形で露呈した。
「整頓されているな」
ホロウの言葉で意識は現実へと引き戻された。
思索へ耽るのは後回しだ。
見慣れた自室に誰かを招き入れる異質感は拭いきれないけれど。
まさか、こうも強引に入られるとも思わなかったけれど。
わたくしには時間がない。
一刻も早く方針を定めてファルガー領を手中に堕とさなければならない。
でないと、ハギンズに時間を与えてしまう。ようやく同じ土俵に立てたのだ。
こんなところで無駄になんてしてられない。
けれど。
貴女についてきて、連れられてきて。良かったと思えたことがあるの。
ロムルスの隣に貴様がいるから安心できると。
貴女は言ったわね。
どうしても、わたくしではオリバー=ロムルスに並び立つことしかできない。
幾ら堅実で実利に富んだ作戦を構築しようと、如何に合理的で付け入る隙など一縷もないと最善の策を講じようと。
へらへらと軽薄な笑みと共に、片手間でなかったことにされる。
いま、わたくしの両の掌にあるのは、ロムルスから与えられたものに過ぎない。
この責可はわたくしだけのものだ。
「そう、わたくしは…………隣、なのね」
一つの呟きは霧中に溶けるけれど、消えてなくなってはくれない。
偽らざる本心の搾りかすは。
貴女を傷つけてしまった。
違うの、とも。聞かなかったことにして頂戴とも。弁明一つできないわたくしは、やっぱり不十分なのだろう。
わたくしの目指したところは。彼の右腕や、信頼のおける友人なんかじゃない。
完璧で、無欠で、非の打ち所がない……とまではいかないけれど。それでも、一人で全部なんとかしてしまう彼が、最後に頼ってしまう存在に、なるのだと覚悟を決めた。
「あ、アナスタ──」
「ホロウ。わたくしが商会を立ち上げた理由……覚えているかしら?」
口を開きかけたホロウの言葉に被せる形で、わたくしは紡ぐ。
他意はなかったと、謝罪を述べようとした彼女を強引に蓋をするみたいに。
そう、貴女の言う通り。わたくしは不幸自慢がしたい訳ではない。
どれだけ汚泥に塗れようと、そんな惨めで愚かな妄言を鵜吞みにするくらい落ちぶれる気はない。
だから、これはれっきとした八つ当たりだ。
思えば城塞都市ドルからの付き合いで、貴女ならば理解を示してくれると。
見るに堪えない愚行。
同情を誘うでもなく、叱咤が欲しい訳でもない。
ただ聞いて、黙りこくってくれと望む。
なんて、最低で卑怯な女なのだろうか。
「なあ、アナスタシア。貴様は……焦っている」
辛そうな顔があった。
苦汁を濃縮した塊を焙煎したような、苦々しい表情を。
ホロウは見せたまま、まるで眼前に座る誰かを憐れむように言葉を振り絞った。
今まで見たことのない年相応の苦悩。
怜悧とした職人でもなく、他愛のない話に興じる友人でもなく、きらきらと憧憬を語る少女でもなく。
「アナスタシア、貴様は一人か? まだ、一人で戦っているのか?」
やめて、と。
頼むからその先を続けないでくれと。
「もし、そう思っているなら。吾は…………吾は──」
貴女は人としてできている。
ロムルスとわたくしの二人では早々に仲違いして破滅していただろう道中を、貴女がいたから穏便に進められた。
貴女は“オドラの邑”で、自分が揺らいでもそんな顔を見せてはくれなかった。
ホロウ…………貴女は、人のために傷つけるのよね。
「──とても、悲しい」
何を望んでいるのか、わたくしにはわかった。
舌ったらずで、核心を突いては無為な傷をつけるだけだと分かっているからこそ迂遠に伝えるしかできない。
こんなところで、経験が活きるなんて思わなかった。
でも、わたくしは。
どんな顔をしていいのかわからない。
だって、わたくしが誰よりも卓越していなければならないから。
脆弱なわたくしには誰もついてこないから。
孤独は辛くない。でないと早晩折れていたから。
寂寞は皆無だ。そんな甘えは許されるはずもないから。
それでも、寄りかかっていいなら。
貴女は言ってくれたわね。
まだ、一人なのかって。
そうね…………だから隣なのよね。
何をしようとロムルスを赦せる理由。
ああ、ロムルスなら仕方ないなと、思わせる理由。
彼は仲間に対して、わたくしたちに対して。
信じてくれている。
だから、皆も信じられる。
ずっと一人でいるだけのわたくしでは、超えられない大きな壁。
もし、貴女がいいと言ってくれるなら。
わたくしは──
❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐
前を進むアナスタシアの表情はわからない。
わざわざ回り込んでみてやろうとも思わない。
迷いはなく、諦観もなく、ひたすらに万事を突き詰める象徴。
──ありがとう
そう、彼女は言った。
真意を問い質そうとは思わなかった。
何故かって? 必要ないと感じたからだ。
吹っ切れたように、断ち切ったように。
彼女は静かに頷いたから。
どうして、吾に留められようか。
そこに在ったのは、吾の憧れたアナスタシア=メアリだ。
だから、吾は。
今まで通り、彼女を信じよう。




