64. 予期せぬ来訪
息苦しい。
誰かの吐息が、衣擦れが、カップを置く僅かな物音すら大きく反響する。
如何にボクが雰囲気を崩す道化師だとしても、こうも暗澹たる空気の中でふざけられる気はしない。
皆重苦しい表情を隠せず、率先して言葉を発してくれる誰かを待ち望んでいる。
しかし、本来ならば打開せんと動くアナスタシアが思考に固まってしまえば状況は停滞する一方だ。
ホロウはそもそも我関せずを貫き、テリアはどうしたものかとマドレーヌを食んでいる。
マルタとヨークは何と声をかけるべきか迷い、アヤメは彼女の感情を聴き混迷を共有してしまった。
カレンとラミは席を外しているため、不在。
よし。
「面倒だから乗り込んでしまおう」
「ロムルス黙って」「はい」
即答だった。
瞠目したまま、考慮するに値しないと言わんばかりに切り捨てられた。
もはやクセになってしまう冷徹さだ。
さて、おふざけはここまでにして。
昨日は一日中休暇を楽しんだ。
砂浜を貸し切った恩恵に与り、皆は大規模な作戦やデスクワークで摩耗した神経を大いに休ませた。
ホロウやテリアたちは年相応に戯れ、成人組もまた心奪われる光景に息を吐いていた。
そんな様子をボクは傍観して。木綿で首を絞められるような、ジリ貧に近しかった綱渡りの作戦を成功させたんだと。
久方ぶりの休日に身も心も休め、志新たに仕事にとりかかろうと意気込んだ矢先。
ボクたちにとって出鼻をくじかれるような、青天の霹靂たる報告が舞い込んできたのだ。
「まさか婚約とはね……」
誰が? ヨークが。
誰と? シーバス=フォン=ランゴバルドと。
ランゴバルド家。
由緒正しきファルガー領領主の姓であり、西側領土にありながら皇帝の庇護を受ける政治的に突出した血族。
今代当主はコルバリウス=フォン=ランゴバルド。
一か月程前、アナスタシアとマルタが婚約破棄の会談をしに赴いたばかりの人物だ。
ついでに、ラヴェンナ商会が西側領土を掌握するに必要な手順において、マルド・プール領の次に攻略する領地こそ……ランゴバルド家の支配するファルガー領であった。
全員──カレンとラミは累積した仕事のため不在──が定位置に着席し、どうやってランゴバルド家の脊椎を砕いてやろうかと議題に載せたところで。
ランゴバルド家の使用人が書簡を届けにマルド・プール領領主邸宅へと現れたのだ。
大きく“未来”が変動すると心優しい【運命識士】の忠告を受け取って、すぐさま対応をしていたゼータの元へと向かった。
そして、渡された手紙にはボクが動転するに足る文字が躍っていたのだ。
「まずは状況を確認しよう。仰々しくも慇懃無礼にとっとと帰った彼の手紙にはヨークとシーバスの婚姻が確定事項として綴られている」
「強引っていうか、面の皮が厚いっていうか……」
「リヴァチェスターの実権が握れなかった代わりに、政権交代のごたつきで疲弊するマルド・プール領を狙う。見事な手腕だ」
「手強い相手だよ……幸運なのは、わたしたちの関与が露見していないってところかな」
辟易した様子でマルタは大きく息を吐いてカップに口をつける。
額に浮かぶ冷や汗が、彼女をして動揺を隠しきれていないとわかる。
「ボクは断固として反対するけど……当人の意見も聞かなくてはならない。ヨーク。キミはシーバスという不埒者と会ったことはあるかい?」
「ない。聞いたことがあるだけ」
「不埒者って……ロムルスくんも会ったことないでしょ」
ない。
現実では。
加速度的に循環する脳内では、幾度となく対面しているけれどね。
「ならば、ヨーク。キミは顔も合わせたことがない、言葉を交わす経験すらない男と結婚する意思はあるかい?」
卑怯な聞き方だ。
耳聡いアヤメや、感情に敏感なテリア、ボクの手の内を熟知しているホロウの三人は何を言いたいのか、言わせたいのか予想がついただろう。
ヨークは貴族、それも領主の娘だ。
有力者の使う婚姻の意味を捉えられないはずがない。
その上で、ボクは領主と個人を天秤にかけろと迫った。
模範解答は迷いなく前者を取ることだろう。
けれど、ボクの望む答えは……そんな月並みな回答ではない。
この場の全員がヨークへと視線を投げかける。
是か非か。
背景も、弁論も不要だ。
再び沈黙の降りた空間で。
体裁と本音のせめぎ合う彼女を急かしたてる者はおらず。
その時は訪れた。
「私はいや。理由はない。いやだから、いや」
きっぱりと、毅然と。
ヨークは本心を、個人を選択した。
「わかった。ならば請求棄却。縁談破却。破談もいいところだ」
「調子がいいな、ロムルス。どういう風の吹き回しだ?」
「気に食わないだけさ。ボクにはヨークを政治の道具にするつもりは毛頭ない」
「……ありがと」
ボクにしては珍しく……自分で珍しいと断じてしまってよいものか不安だが、ともかく、今回ばかりは本心を語った。
【運命識士】は、ボクの理性は、彼女を囮にして内部からランゴバルド家を瓦解させようとする鬼畜の作戦が浮かんでいる。
現在進行形でとても合理的で、採用しない理由はないと思う。
けれど、もし断行してしまえば。
ボクの根底にある何かが歪んでしまいそうで、原初的な恐怖が湧き出て止まらない。
ヨークではなく、例えばネリーアルスやシスター・オルメカであれば駒にして神輿に乗せただろう。
彼女たちがどう思われようと、何を思おうとボクには一切合切興味もないし気に掛ける必要すらない。
ボクの中に明確な線引きがあるのは重々承知だ。
あの人のように、恐ろしい程に平等で、公平な愛情をボクは持ちえないから。
今回、ヨークを差し出せば結果は簡単に手に入る。
既に【運命識士】には一つや二つでは数え切れない悪行の限りが閲覧できた。
一度屋敷に潜り込めさえすれば、ホロウが証拠を握って終幕。
今までにない安定性と、迅速性を揃えた最高効率の作戦になっていたことだろうさ。
けれど、その先に。
ボクの理想はない。
故に、ボクは迂遠だろうと、非合理だろうと。
最善を捨てる。
「いいえ、ロムルス。貴方の方針には従えません」
ただ一人。
ボクの甘い考えに檄を飛ばすように、否を突き立てたアナスタシアの言葉が響くまで。
まるで迷走していた子どもを叱咤するかの如く、容赦なく否定した。
【運命識士】は彼女の返答を予期しえなかった。
勿論、ボクだって。
アナスタシアに
拒絶されるとは思ってもみなかった。
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リビングルームの空気は最悪だ。
機微に疎いボクが漂う暗雲を感じ取れるのだ。
皆、不安と困惑を携えて趨勢を見守っている。
裁可すべきは今後の方針。
より詳しくいうのであれば、ファルガー領攻略に際してヨークを差し出す代わりに主導権を握るか否か。
意思統一を図るには基盤が揺らいではならない。
少なくとも、明確に定めておくべき指針であろう。
ボクたちが作戦の根底で争うことはなかった。
なぜなら、常にアナスタシアは正しくて、皆が全幅の信頼を置いているからだ。
それは今も変わらない。
アナスタシアの言葉には力があって、否応なく行動を纏めてくれる。
翻って。
オリバー=ロムルスに信用はない。
口先だけのペテン師で、外道な策を弄するだけの下衆に過ぎない。
では現状。
政戦に王道も邪道も存在しない。
あるのは清々しいまでの勝敗だけ。
勝者が等しく正史とされ、敗者は顧みられることのない路傍の石にすら並べない。
信頼を積み重ねてきたアナスタシアと、信用を踏みにじってきたボク。
対立してしまえば、どちらかの意見しか残らない。
……ボクに勝ち目があるのかは甚だ疑問ではあるが。
それでも、今回ばかりは譲歩する選択肢はない。
如何に、アナスタシアが正しかろうと。
「それは……どういう意味かな、アナスタシア」
「貴方の方針は間違っているという意味です」
「ならばキミは。ヨークを矢面に立たせると、あるはずのない婚約を演じると、そういうのかい?」
「厳密には異なります。結婚はしません。貴方の言う通り、わたくしも望まぬ相手と婚約させる気はありませんから」
「婚約を偽装する。それはボクも考えたさ。けれど、全てが丸く収まった後、ヨークはどうなる。世評は彼女を酷く貶すだろう。看過するなんてできない」
「それをどうにかするのが貴方の役目です。暗躍は得意分野のはずでしょう?」
「火のない所に煙は立たない。裏工作をすれば必ずどこかしらに痕跡は残る。シロイくんがいい例だ。万全の情報統制にだって綻びは生まれる。事実が存在する限りね」
「だから事実を残したくないと……随分と甘ったるいことを言いますね。まるで善人のようです」
「……そうとも。ボクは正しくも、優しくもない。これはボクのエゴさ、ただの我儘だ。ヨークを傷つけたくはない。仲間だから」
「青臭い台詞を吐くには泥に塗れすぎましたね」
「泥だらけの手でも藁程度なら掴める」
「詭弁ね」
「ああ、欺瞞にあふれたとっても面白いユーモアさ」
互いに譲るつもりがないと、証明された。
彼女の目論見は、ボクと【運命識士】が最も成功可能性の高い作戦として一考したもの。
ヨークは婚姻に応じて、ボクたちはランゴバルド家に接近する。
挙式などそう易々と開催はできない。多少なりとも時間がかかる。
その間にコルバリウスとシーバスを告発できれば婚姻は無効。
ヨークの尊厳は守られて、ついでにファルガー領の実権すら手に入る。
けれど、十中八九、名誉までは護れない。
政敵としてシーバスにすり寄った悪女として、ヨーク=コンコートの名は汚名となる。
たった一つの領土を得るのに、それはあまりにも釣り合わない犠牲だ。
そして、ボクとアナスタシアの認識に軋轢が生じてしまっている理由でもある。
「キミにとって悪名は犠牲の内に入っていないんだね」
「犠牲ではありません。市政の情報など幾らでも制御できます」
「だから、危険を冒してもよいと? アナスタシア、それこそボクの役目だ。キミが取るべき手段じゃない」
「わたくしの思考はわたくしだけのものです。貴方に干渉される謂れはありません」
「失言だったか。謝ろう」
「謝罪は必要ありません。ただ、貴方に失望しただけです」
「軽口に対して? それとも、青二才然とした甘さについて?」
「両方です。わたくしは曲げるつもりはありません」
「ボクもだよ。奇遇だね」
平行線だ。
どこまで行っても、何を言っても。
既に分かたれている。
グラード商会一強の商界へとスウィツァー商会、ラヴェンナ商会と二つも対抗馬をぶつけられる稀代の天才。
アナスタシアの思考は明瞭で、一貫している。
最低限のリスクで、最大限の結果を得る。もし、リスクが上がるのであれば……圧倒的な結果で覆い隠してしまう。
ヨークの名誉とファルガー領。
個人と利益を天秤にかけた末に生じる隔絶は、アナスタシアならばどうにかできるという実績に後押しされて公正な判断を鈍らせる。
確かに、実態の伴わない婚姻を利用する方が効率が良く、彼女ならば本当にヨークの名誉すらも護れるだろう。
だが、しかし。
けれども、ボクは。
「今回ばかりは、ボクは譲れない」
「まるで今までは関与していなかったような口ぶりですね」
「ああ。何から何まで任せて遊び歩いていたのは謝るよ」
「…………へえ、何を言うかと思えば」
間違えた。
一から十までボクに過失がある。失言にもほどがある。
そもそもアナスタシアと対立している時点で誤っているのだが。
端正な顔に微笑を携えて、とっても穏やかで柔和な雰囲気を感じ取れる。
だが、それは見せかけに過ぎない。
青筋を立てて、ぷるぷると小刻みに肩が震えている。
アナスタシアは怒っている。
限りなく純粋な怒りが蜷局を巻いている。
「わたくしを信用せずデコイに使って、失敗を前提にした予防策を張って。挙句の果てに、遊び歩いていたですって?」
「あ、アナスタシア……? 落ち着きたまえよ。そうだ、深呼吸をしようじゃないか。どうにも白熱してしまったようだしね?」
「まだ煙に巻くつもりなのかしら? 貴方はいつも……だから、わたくしは──」
言葉を切り、睨みつけるようにボクを真っ直ぐに見つめるアナスタシア。
激怒していると、肌で感じ取れるほどに感情を発露させているにも関わらず。
彼女はとても美しかった。
容易には触れ難い絶世の、あまりに乖離した美貌は。
ほんの僅かに。目尻で光る雫は。
ボクの息を止めて、意識を収束させるには十分すぎた。
「──貴方のことが大っ嫌いだわ」
「………………、そうか」
聞かなければよかった。
得意の口八丁で彼女の言う通り有耶無耶にしてしまえばよかった。
“オドラの邑”から、振れ幅はあれど。
アナスタシアからの敵意には勘付いていたさ。
「好かれているとは思っていないさ。けれど、面と向かって言われると……些か堪えるね」
「……それが……ッ! 気に入らないと言ってるのよ…………ッ!」
カツカツと、感情のままにヒールを鳴らして。彼女はボクの胸倉を掴んだ。
目と鼻の先に気後れしてしまいそうな美の結晶がある。
紅潮した頬も、きりりと吊り上がった眉も、抗議するような視線も。全てがアナスタシアの美しさを補助している。
【運命識士】よ、やめてくれ。
その“未来”は視せなくていい。
二度も、幻滅の烙印を押されたくはない。
ああ、ほら。
ボクはキミを信じている。
だから、わかってしまう。
今まさに言葉を紡ごうとした彼女の口元は。
キミの“未来”通りで──
「────やめろ」
泥濘に見間違う程に絡みついた刹那は、怜悧で有無を言わさない言葉によって遮られた。
温度などないはずの音の反響には恐るべき零度が込められていて。
「二人とも、頭を冷やせ。あと、アナスタシア。吾と来い」
返答は期待していないらしい。
強引にボクとアナスタシアを引き離し、そのまま彼女と共にリビングルームを去ったホロウ。
【運命識士】はホロウの仲裁を予見できなかった。
まさか、ホロウが自分から仲人を買って出るとは思わなかった。
降って湧いて始まったボクとアナスタシアの口論は。
唐突に終わりを迎えたのだ。




