62. GOOD WORLD
身体が羽のように軽い。
ふかふかのベッドに可愛らしい天蓋、包み込んでくれそうな絨毯ときたらどれだけ濃厚な疲労だろうと吹っ飛んでしまうだろう。
領主の私室と同じくらいの一室にはちょっと気後れする。
同じく領主であるマルタも慣れるには時間がかかったと言っていたし、やっぱりこの部屋が大きすぎるだけだと思う。
窓から刺す光が夜明けから数時間後、健康的な時間だと教えてくれる。
クローゼットから取り出すのは普段の服。
お父さんが亡くなる前日に可愛いと、似合っていると褒めてもらった服だ。
袖を通すだけで私が偉大なる領主のブルースの娘であり、マルド・プール領領主の座を継承したのだと再確認できる。
「今日は……何をするんだっけ?」
まだほわほわとしている頭を必死に働かせるも、蜘蛛の巣がかかったように曖昧と、ぼんやりとしたまま。
生来、私は朝に弱い。
考えが纏まらなくて、身体と思考が完全に起きるまで時間を有する。
ロムルスは「それは低血圧だね」、とかよく分からないことを言ってた。
ついでに、無理に起きなくてもいいとも、言ってくれた。
そういう所が、胡散臭くても信頼される人柄だと思う。
「それにしても……大きいな」
部屋から出るととても長い廊下が現れる。
私は二階の東側、マルタの前の部屋をもらった。
同じ階にはロムルスとアヤメの二人の部屋がある。
もうちょっと小さい部屋がよかったけど、満室みたいだから諦めた。
「ん、おはようございます、ヨークさん。ちょっと待ってもらえますか? すぐに準備するんで」
「ゆっくりでいい」
「そういう訳にもいかないですよ。昨日のでいいか? くそ。間違えた。いいですか?」
「いいよ。あと、丁寧な口調は諦めた方がいい。多分、ラミには無理」
「それ、会う人みんなに言われんだよな…………まあ、努力します」
表情の変化に乏しいメイドであるラミは毒づきながら三階へと上がっていった。
ガーネット色の可愛らしいメイド服に身を包んだラミだが、驚くべきことに通称アナスタシア邸には広大なお屋敷であるにも関わらず、彼女ともう一人のメイドしかいない。
たった二人でよく維持できるなぁとも思ったけど、理由は簡単だった。
とっても優秀なだけ。
あと、この屋敷で生活する人はみんな、自分のことは自分でできる人ばかり。
だから、二人のお仕事も少ないんだろう。
「だとしても、凄いと思うけど」
螺旋階段には埃一つなく、隅々まで掃除が行き届いている証左だと思う。
マルド・プール領邸宅でも、こんな高水準じゃない。
ただの主従関係が成せる業じゃない。
親愛が、敬愛が、契約を超越した人間関係が現れている。
階段から降りてリビングへ行くと、更に無尽蔵の寵愛を感じられる。
「あら、おはよう。ヨーク。よく眠れたかしら?」
「むむ……どう崩そうか? あ、おはよ」
「ヨークちゃぁ~ん! 手伝ってよぉ~!」
「おはよう、ございます……!」
十数人が座れる大きさのテーブルと椅子を超えて、前庭が一望できる窓際のソファーで。
アナスタシア対マルタ、テリア、アヤメのチェスが繰り広げられていた。
意味が分からないよ。けど、これも二日連続の景色なら不思議も薄れてくる。
まったく別の盤で、別の展開なのにアナスタシアが優勢で進んでる。
次の手を打つまでの速度だって三人より圧倒的に速い。
どういった思考回路をしているのか想像もつかないけど、アナスタシアはまだまだ足りていないみたい。
「ほら、そこどけてくれ…………ませんか?」
いつの間にか背後に立っていたラミの手にはティーポットと人数分のティーカップが並んでいた。
三枚のチェス盤が占領しているローテーブルに置きたいのだろう。
「少し待って頂戴。あと二分で終わるから」
「それは、早計じゃないかな?」
「……、いい手を打つわね」
「おまえら……ちゃ、ちゃが、ちがう。あなた方は本当に……!」
けれど、主にアナスタシアとマルタは白熱しているのか、譲る気はないらしい。
青筋を浮かべるラミの様子に、引き攣った表情でテリアとアヤメの二人はそっと退いた。
このまま放置するのはラミが可哀想だ。
「ラミ。テーブルでいい」
「…………強く言わねえと治らねえぞ」
「楽しそうだからいい。それに、多分、カレンの方が効くと思う」
「それもそうか。悪いな、ヨークさん」
諦めたように笑って、彼女は長テーブルにティーカップを並べだした。
彼女の逆鱗に触れないように退散した二人もアールグレイの香りを楽しみだした。
ベルガモットの香りが揺蕩いつつも刺激を受けて徐々に思考が纏まりだした気がする。
つい昨日ラミに振る舞ってもらって初めて紅茶の美味しさに気が付いた。
やっぱり、この屋敷のメイドは規格外だ。
今まで飲んだあらゆる紅茶よりも口障りは滑らかで、優しい味がする。
手先が器用で料理やガーデニングをこなすラミと、無尽蔵かと思える体力と集中力で洗濯や掃除を瞬きの間で終わらせるカレン。
二人の仕事ぶりは領主邸宅で働くメイドに引けを取らず、惚れ惚れするプロ意識に溢れている。
「ひゃぁ~。負けちゃった。アナスタシアさんは強いな」
ぐったりとした様子のマルタがティーカップを受け取ろうとして……ラミにお説教をもらってる。
こんな光景は他の屋敷じゃあ決して見れない。
メイドが主人に講釈を垂れるなんて死罪か極刑にあたる。
自殺行為に等しいことも、アナスタシア邸だと日常茶飯事。
常識が根底からひっくり返される気分だ。
「……そういえば、ロムルスは?」
「ロムルスくんならぁ、ホロウちゃんとカレンちゃんと一緒にお買いものぉ~」
「仲良し」
「そうよねぇ~。けどぉ~、ホロウちゃんの前で言ったらだめよぉ」
「……? なんで?」
ファルガー領で出会ってから思っていたけど、親子のような、兄妹のような間柄だと思う。
“カインの傲慢を暴こう”作戦でも二人で切磋琢磨して作戦遂行に励んでいた気がするし。
「ホロウが嫌がるからよ」
「ロムルスのこと嫌いなの?」
「嫌いって感じじゃないと思います……きっと」
「気に食わないんだろうさ。ほら、ロムルスって性悪じゃん?」
「あはは……否定はできないかな」
みんな、苦笑いだ。
どこか心当たりがあるみたいに。
私はロムルスのこと嫌いじゃない。
けど、もし誰かに兄妹みたいって言われたら全力で否定するかも。
「ヨークも、思い当たったみたいね」
「……っ! どうして分かったの?」
「アナスタシアちゃんだもの~。隠し事はできないわよぉ~」
本心から凄いと思った。
お父さんも私の表情から何を考えているのかなんて読み取れなかった。
誰からも……いや、ロムルスには見透かされたけど…………それでも、こんな経験初めてだ。
誰かとテーブルを挟んで会話をするなんて。
ラクノアの言っていたことは全部、正しい。
ずっとお父さんの背中に隠れて、領主の娘としての威厳や貫禄を示せていなかった。
けど、今は違う。
面と向かって、言葉を交わせる相手がいる。
心強い仲間が、友人がいる。
「さて、マルタもヨークもいることだしお仕事の話でもしましょうか」
「げ……! それが狙いだったの……?」
「それはどうかしらね」
著名な画家の描いた絵画の世界から飛び出してきたみたいだ。
なんてことのない部屋着に、気持ちだけの化粧、ストレートの金髪。
だけど、斜陽を背景にぴっしりと伸びた背筋、優雅な仕草でカップを運ぶ動作の全てがアナスタシアの気品を象徴している。
ロムルスはただただ途轍もない人外であると、だから容易に近づけない。
同じように、アナスタシアは決して触れることを許さない禁断の果実を思わせる美を携えている。
「マルド・プール領の領主はヨークちゃんが踏襲した。レキシントン家とボスラ家を中心に、貴族の統制もできた。ゲティア派閥は飼い殺しに成功した。万々歳じゃないかな?」
マルタが指折り数えるのは、三日前まで私たちが奔走して築いた地盤だ。
あのパーティーの後、私は正式にマルド・プール領の領主になった。
そこから二週間。
永遠と引継ぎ作業に従事していた。
二週間も、缶詰めで。アナスタシアとマルタに手伝ってもらって、短縮できた方だ。
だって、おかしい。明らかに領主の仕事じゃない案件まで回ってきたもん。
「ええ、完璧よ。領主様と契約も締結できたしね」
ちゃっかりしていると言うべきか……それとも、商人らしいというべきか。
アナスタシアは忙殺されていた中でも、当初の目的を果たしてた。
「ん。お父さんならチャンスを逃がさない」
「賢明な判断よ」
ラヴェンナ商会の影響力と版図の拡大。
後者に関しては、フォルド領領主の依頼であることは、昨日の顔合わせで知った。
他人を評価する立場に私はないと思うけど、それでも、私は彼女のことが苦手だ。
どこか夢見がち。とても高くて気高い理想をもっているのに、口だけで行動を起こそうとしていない。
きっと、ラクノアなら怠惰だと、怠慢だと罵って領主の座を簒奪する計画を立てるだろう。
どうして、ロムルスやアナスタシアが彼女の指揮権下にあるのか分からない。
もちろん経緯は聞いているから疑問には思わない。だけど、今ならフォルド領の後ろ盾がなくとも活動できる。
…………でも、それは私が口を挟める話題じゃない。
だから、今は口を噤むしかない。
「だからって……カンザス家の放棄した土地の所有権をもらうのは強欲すぎない?」
「そうかしら? わたくしに弓を引いた敵対者がどうなるのか……知らしめられたと思うけれど」
それだけかな? マルタも疑っているけど、カンザス家の土地はレキシントン家やリッチモンド家に次ぐ広大なものだ。
マルド・プール領における最南端の土地。
“オディアの魔海”から水揚げされる海産資源が停留し、競りの行われる魚市場がある場所。
「それにしてもぉ~。すごいわねぇ~」
「……? 何がです?」
「だってぇ~、ここには二人の領主さまがいるんだよぉ~」
「ええ、そうね。少し前には想像もつかなかったけれど」
テリアの感慨深い言葉に心の底から同意できるのは、きっとアナスタシアだけだ。
私がここにいるのは一念発起した起源があるから。
アナスタシアと、ホロウと、テリアと、ロムルス。
四人が始めた行動があったから、私はここまで辿り着けた。
「ほんの短い間だけど、今は休息を楽しみましょう。まだ、道半ばなのだから」
彼女の言葉には力があった。
紆余曲折、艱難辛苦、幾重にも積み重なった多難を乗り越えたアナスタシアだからこそ、重みがある。
私はお父さんの跡を継いだ。
未だに夢物語なんじゃないかって、不安ばかりだけど。
不思議と、嫌な未来にはならないと確信できる。
一人じゃないって本当にいい。
あの洞窟でロムルスに出会た幸運に感謝して。
私は、明日を選ぶんだ。
❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐
相変わらず星々が綺麗だ。
アウグリュニーも街中であり、街灯や人々の営みが光となって点在しているはず。
けれど、空に視線を上げると煌びやかな自然と宇宙の神秘がボクらを睥睨している。
とはいえ、ドミア山脈から眺めた夜空の方が透き通って見えた。
局所的な違いはあれど、まだまだ澄み切った世界が広がっている。
「とりあえず、息を吐けるね」
バルコニーチェアに腰掛けてホットココアに口をつける。
まるで優雅な一時を体現しているボク。ああ、かっこいい…………やってみたかっただけだ。
仕方ないだろう? テラスでアナスタシアの姿を見てから一度はやってみたかったんだ。
似合わないなんて百も承知。
けど、もしかしたら、様になるかもしれない。そんなちっぽけな野望だ。
まあ惨めな気分にはなったよ。
いい年して一人で何やってるんだか…………やめだやめ。人には人の尺度があるんだから。
「始まりこそ予想外だったけれど…………上々な結果じゃないか」
ドミア山脈に飛ばされた時はどうしたものかと頭を抱えた。
しかし、有終の美を飾ったかと思う。終わり良ければ総て良し。
ヨークとの邂逅、“羲戎”種の討伐、【護国神卿】の獲得、マルド・プール領の平定。
挙句の果てにラヴェンナ商会の新たなる契約先となった。
謀反の心配はない。
ラクノアは近いうちに暗殺される。例の協力者とやらに。
曰く、あの方の存在を知っているから。
巧妙で狡猾な奴だ。間接的にしか関わっていないために【運命識士】にも上がらない。
ホロウを撒いたとかいう凄腕の下手人の情報も皆無。
罠を張ることもできるが、彼らに始末は任せた方がいい。
何たってプロなのだから。
己に嫌疑のかかるような真似はしない。証拠も残さず事故死に見せかけてくれるだろう。
ボクらに擦り付けることも可能だが、そちらの方が好都合でもある。
直截な行動を選択してくれるなら対処もしやすい。
とはいえ、面倒事は避けるべきだろうな。
清廉潔白な商売が結局合理的なのだから。
リヴァチェスターに関しても問題ない。
コルセロとかいう次男の政治手腕、特に雑務や書類作業に係る処理能力は信頼がおける。
反乱を起こす度胸もない。もし、下剋上精神の高い者なら、とっくにフェイラーを蹴落としてことだろう。
マルタには及ばないが、コルセロもまた優秀だ。
というか、バルムスは実兄でないし当然か。
レイラの子は総じて能力が高い…………やはり子は親に似るな。
閑話休題。
「ハギンズは苦戦しているようだし、ようやく背中が見えた頃合いだね」
アナスタシアは弩級の、超抜級の商人だ。
政治にも精通していて、引き際を弁えて、人間関係や因果関係、あらゆる背景を巧みに操って。
ボクが一々口を挟むまでもなく、彼女ならば一角の英傑に並ぶだろう。
だから、ボクの役割は最終的な予防線だ。
今回のように表舞台に上がるのは控えるべきである。
まあ、あれ以外の手段がなかったのだから仕方ないとはいえ。
「出来うる限りの策は講じておくべきか。差し当たっては──」
──“ゾディアック星団”
西側領土、特に東側領土との境界にあるロンディーン領を中心に奴隷解放を行うテロ集団。
総構成員数千七百六名、名だたる“金”級冒険者や二級傭兵団を有する新進気鋭の反帝国を掲げる一団。
西側領土を掌握するには避けて通れない連中だ。
さて、どう懐柔するか。
接近はまだ先の話とはいえ、無策という訳にもいかない。
これは“未来”を知り得るボクにしかできない予防策なのだから。
皆が心休める刻。
それがボクの独壇場。
次はファルガー領。
出立の日まで、観測と予測、推測の繰り返し。
けれど、それでいい。
それが、ボクの存在理由なのだから。
ここで何と新事実。
フェイラーさんの不貞行為が判明。
産業廃棄物の名は伊達じゃないね、フェイラーさん。




