59. 完全と完璧の隔たり
雪原と花畑が天井一杯に広がっている。
吹雪く雪景色に色とりどりの花々は大いに映える。
酷寒の象徴である冬至と、生命と新たなる季節を引き連れる春の訪れを予感させる一面の花々。
万象には抗うことのできない無類の転換点が点在し、普遍など世界には存在しないことを予感させる。
私はこの絵画が好きだ。
幼い頃に一目見ただけで画家の伝えたいと願ったメッセージを受け取れた。
毎晩、必ず絵画の前で瞠目して、自分の姿をこの世界に投影する。
辛く耐えがたい時には雪原に立ち、かじかむ手足を動かして春を目指す。
幸せを嚙みしめている時には、野原で蝶と戯れる。
両親よりも永らく私と共に半生を過ごした一枚の絵画には、余人には想像もしえない苦楽が詰まっている。
私、ラクノア=ゲティア=コンコートの、辛酸を舐めてきた日々を、煩わしい邪魔者を排除してからの優越感にも似た万能感を、教えてくれるのだ。
「さて、ラクノア様。話し合いを進めてもよろしいでしょうか」
よく通るテノールの声の主は私の正面にある。
代々マルド・プール領領主が私生活を過ごしたという、今は私の部屋には他に二人の人間がいる。
一人はゲティアに忠誠を誓うリッチモンド家の今代当主であるロナルド。
見え見えの好意を貼り付けた中年の男だ。
同じ空間で息を吸っているだけで吐き気を催すけど、ゲティアが領主の地位を獲得するまで力添えをしてくれたのも事実。
けれど、だからといって何から何まで要求していい訳じゃない。
美女と同席できるだけありがたいと思うべきだろう。
「構わなくてよ。けど、夜更かしは天敵ですの。手短に済ませてくださる?」
「はい。勿論でございます。お互い、時間は無駄にしたくありませんものね」
そういって、徐に鞄から数枚の書類を取り出した。
本音を言うなら今すぐにでもベッドに向かって休みたい。
今日は朝から晩まで机に拘束されて意味の分からない紙に日がな一日サインを書き続けたんだ。
じんじんと右手が痛みを訴えているし、目だってぱさぱさしている。
字も小さくて、難しい内容の紙を差し出されたところで読む気すら起こらない。
「簡潔に、と言いましてよ。要点だけまとめて説明なさい」
「失敬。そうですね……ラクノア様、マルタ=ノヴゴロドとアナスタシア=メアリが接触してきた件は覚えていますか」
「ノヴゴロド……リヴァチェスターの小娘でしょう? それと、メアリの負け犬。それがどうしたっていうの?」
地理や歴史はある程度教え込まれているから、彼の言葉にも合点がいく。
リヴァチェスター領領主の直系がノヴゴロド家であり、つい最近代替わりして私よりも五歳程年下の長女が領主となったと聞いた。
まったく、度し難い話だ。
私は血の滲むような努力と屈辱の日々を耐え忍んで上り詰めたというのに。
けれど、私の費やした時間は無駄じゃない。
領地運営という領域で、きっと成果に差が出るはずだ。
蝶よ花よと育てられた小娘では手も届かない結果を、私は叩き出してやる。
それと、メアリの奔放娘のことだって頭にある。
今のメアリ家には六人の跡継ぎがいると聞いている。
皇帝の懐刀として、次期商会代表は競争をさせて決めるといった物騒な家だから記憶に残ってる。
優勢なのは次女と長男の二人。
名前までは覚えていないけれど、聞けば思い出すはず。
だから、私がピンときていない時点で取るに足らない残りの姉弟のどれかだろう。
一人は新参者で、もう一人は能力のない娼婦。
私が警戒するには値しない有象無象だ。
「はい、どうやら彼女たちは先の使用人と繋がりがあるようなのです」
「使用人ですって? 何の話?」
「それは…………そちらにお聞きください」
ロナルドの示す先には、暗雲が立ち込めていた。
比喩ではなく、物理的に。
まるでその空間だけが塗りつぶされているように、黒い靄がかかっている。
辛うじて、ヒト型の何かだとわかる程度の、形を保っている不気味な奴。
男か女か、大人か子どもか、そもそも人間かすら不明瞭な者だけど。
あの人が遣いとして与えてくださった駒に違いはない。
「《腹を探られました。けれど、対処は完了しています。問題は、エンリ=モルダートに一部始終を知られたことでしょうか》」
まるでノイズの走ったようなしゃがれた声のせいで、言葉は形を成さず言語体系が破綻しているのかと感じる。
けれど、意味は分かる。
脳内に直接情報として届けられる気分になってしまって……気に食わない。
「《そして、当該人物の他に二人。つい三日前にレキシントン家の使用人として雇用された男女も謀議に参加していました》」
「情報取集感謝いたします、協力者殿」
「《これも任務です》」
「聞いた通りでございます、ラクノア様」
「つまり、何が言いたくて?」
「……つまり、ですね。協力者殿はダットン=アヤラに近づく不届き者を確認したのです」
「……!? 緊急事態じゃない!」
どうして、この二人は落ち着いていられるんだ。
ダットンといえばブルースの執事で、暗殺をさせた実行犯の男だ。
生死不明の妹のために長年仕えてきた主を裏切ってまで私たちの手足となって働いた愚か者。
まさか本当に殺してしまうなんて思わなかったから妹なんてどこにいるかもわからないし、そもそも、目障りなガキも始末できていないしで放逐したけど。
「いえ、対処はしています。ダットン=アヤラは始末致しましたし、同席していたエンリ=モルダート並びに二名の使用人には監視の眼をつけています」
抜かりないことを褒めるべきか、それとも危険分子を殺していないことを貶すか。
いや、ここは沈黙を選ぼう。
飴と鞭というが、この程度のトラブルに対応するのは当然だ。
「素性は分かっているの?」
「はい。オリバー=ロムルスなる男と、ホロウという少女です」
「《反乱を企てる愚者にしては油断がありませんでした。どこか不穏な影を感じます》」
「そうですね……ダットン=アヤラへの接触、リヴァチェスター領領主とラヴェンナ商会代表の共同商談、レキシントン家とボスラ家の動き。全て、ラクノア様を領主へと就かせないための策謀でしょう」
ダットンに話をするのはわかるけど、どうして外からの介入が私の存在を脅かすのだろう?
だって相手は政治の世界に疎い小娘とおめおめと西側領土に逃げてきた力もない女。逆立ちしたって、天地がひっくり返ったって勝ち目はないでしょうに。
それに、レキシントンとボスラがゲティアの敵だってのも、今に始まったことじゃない。
スヴァルグと昵懇の背任者たち。私が領主となれば真っ先に締め付けを厳しくするつもりでいる。
ゲティアへ批判的な貴族や商人には辛うじて存続させられるだけの資金を残して財産を奪う。
引き換えに、ゲティアに友好的な家には過剰な報酬を与える。
これこそ、飴と鞭だ。
「では、情報共有はここまでにして。ラクノア様、明日の工程はご存知でしょうか」
「ええ、覚えましてよ」
あの過密スケジュールを組んだ者と、悪びれもなく持ってきた侍女はどうしてやろうかと思った。
けど、領主の仕事ならば仕方ない。
本来ならば、八日の余裕があったところを強引に明日に短縮した。
原因はわかりきっている。
ダットンに接触を図って私の地盤を壊そうとしている連中がいるからだ。
羽虫は飛び回る前に、存在しているだけで煩わしい。
既に彼奴らの計画は潰してある。
ダットンは殺したし、消しきれなかったカンザス家は商家に堕としておいた。
付け入る隙は完全になくなったはずだけど、念には念を入れて。
次の作戦を始めさせる前に、一気に勝負をつける。
「ロナルド、それと協力者さん。尽力感謝するわね。明日、全てが思いのままになる。あの人も満足してくださるでしょう」
「勿論でございます。では、また明日」
慇懃無礼に一礼して退室するロナルドと、音もなく消え去っている協力者。
ようやく、マルド・プール領領主の地位が手に入る。
ようやく、ラクノアという名前が歴史に残る。
ようやく、苛立たしい小娘に蔑まれなくて済む。
あの舞踏会で、私を見下した娘。
ブルースと共に殺してやろうとしたのは私なりの慈悲のつもりだった。
ロナルドは言葉を濁したけど、私は彼が思ってる程バカじゃない。
不穏分子の暗躍は勝算あってのことだ。
私に勝つためには、領主就任を阻止するためには新しい領主候補が必要。
マルド・プール領の慣例ではゲティアかスヴァルグのどちらかから選出される。
ゲティア候補はこの私、容姿端麗才色兼備なラクノア。
スヴァルグ候補はあの分別のついていないガキ。
結果は火を見るよりも明らかだけど、万が一の可能性だって油断できないためにわざわざ追いつめて自滅するように仕向けた。
ブルース暗殺の原因を自分にあるかのように思わせて、自責させた。
ディリンに要請して使用人からも責めたてられて。
きっと生きた心地がしなかっただろう。
私の良策は功を奏して、ヨーク=コンコートは逃げだした。
はずだった。
明日、あの娘は帰ってくる。
今一度、まみえることとなるだろう。
勝ち目のない勝負に挑んで、惨めに敗北するためだけに。
簡単には殺さない。
この屋敷で飼ってやる。
私の受けた屈辱を全て追体験させたやる。
もう二度と、私を軽蔑させないために。
礼儀を、服従を、地獄を、教えてやるのだ。
胸が高鳴ってやまない。
いま、私は、一面の花畑にいる。
この先、私は雪原に降り立つことはないのだ。
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懐かしい香りがする。
気のせいなんかじゃない。
私はいま、帰ってきている。
ほんの三週間前に二度と戻ってくることはないと、涙を抑えて出ていった屋敷に。
お父さんと私の家に。
領主就任を記念して盛大に飾り付けられている室内は、似ても似つかないけど。
確かに、ここは思い出の家だ。
「緊張しているのかい」
「ん、ちょっとだけ」
柔和な声が聞こえる。
覗き込むように一つしかない眼を向けてくれるロムルスは、純白の軍服姿とパーティーには似合わない恰好。
だけど、別行動のアナスタシアさんやマルタさんは思わず見惚れてしまう正装姿だったから、彼にとっての正装は軍服なんだろう。
「心配はいらない。キミにはボクたちがついている。ホロウに至っては物理的にくっついているよ」
「心強い。だから、この恐怖は私のせい。きっと敵わないって怖がってる」
見渡す限り、ヒトで埋め尽くされたパーティー会場。
見知った顔が多い中で、私は招かれざる客なのだろう。
次期領主はラクノアで決定。不要な波風を立てるだけの邪魔者を歓迎はしない。
だけど、私は折れる訳にはいかない。
昨晩の作戦会議で、私たちが事前にたてた作戦は全て失敗したと知った。
ダットン……お父さんととても仲の良かった彼は、弱みを握られて暗殺に加担せざるを得なかった。
その証言をしてもらう前に、殺されてしまった。
カンザス家も証拠共々雲隠れ同然。
私たちに残された道は、ロムルスの作戦に頼る他にない。
第一段階として、それぞれの作戦通りに二手に分かれた。
アナスタシアさんとマルタさんたちは既に会場に入って、失敗した作戦をなぞるようにロナルドの気を引いてくれている。
索敵が得意なテリアさんとアヤメさんはダットンを殺したっていう人を探している。
ロムルス曰く、絶対に会場にいるらしいから。
そして、私たちは。
「大丈夫とは言わないよ。キミは最善を尽くしてくれれば、それでいい」
「けど、それが足りなかったら…………? 私の力が及ばなかったら……?」
「それはその時さ。何のために、ボクたちがいると思ってるんだい?」
にこりと笑いかけてくれるロムルスさん。
今の私はヨークじゃない。
アヤメさんがかけてくれた“魔法”で、他の人には別人に見えるように細工してもらった。
【無色なる屍】という魔法らしいけど、私にはアヤメさんが“魔族”だってことに驚いた。
知識として学んだ“魔族”からはかけ離れていたから。
“龍人”だってそうだ。
アヤメさんもテリアさんも、みんな。狂暴で言葉の通じない獣なんかじゃない。
本当に、偏見や噂は当てにならない。
何でもそうだ。
まずは、自分の眼で見て、確かめる。
決めるのは私だ。
世評なんて参考にすらなりやしない。
「ラクノアは控室にいる。場所はきっとキミの方が詳しい。時が来たら、手筈通りにね」
それだけ言って、ロムルスは足早に距離を取った。
マニュアル通り、作戦通りに。まるで感情をもたない人形のように正確な動きだ。
「おっと……っ!?」
ふらふらと歩いて、適当な人にわざとぶつかった。
手に持っていたスープをぶちまけるように。
「うわっ!? な、なんだ…………!?」
「失礼。何分、不自由なもので。何卒何卒」
隻眼隻腕の人間に怒るに怒れないのか、迷惑そうな顔をしながらもぶつかられた人はされるがまま。
無遠慮に騒いだためか、何事かと人が集まっている。
私の周りにいた人たちも、一人残らず。
「……【月明かりの精霊】」
使いたい魔法の詠唱を契機として、前もって内包しておいた魔法を発動させる“魔法”──【定められた預言】──らしい。
詳しい原理はわからないけれど、これで【月明かりの精霊】が使えるようになったという。
その効力として、私が解除を決めるまで透明人間になれるらしい。
看破できる【権能】や“霊力”の強い相手には効かないというけど、それでも、誰にも見咎められず行動できるのは隠密行動にうってつけだ。
例えば、今回のように。
「変化がない訳じゃない。けど、やっぱり懐かしいな」
屋敷の構造は熟知している。
私が生まれて、育った家だ。
慣習となってるパーティーで、一体どの部屋を使うのかも全て。
パーティー会場は二階のエントランスを拡張した空間で行われているため、私は階段を降りて一階に向かう。
会場の真下、普段は一切使われていない部屋が、控室だ。
一日限りの装飾を施して、次なる領主の門出を祝うため。
その部屋は封印されている。
「こんな風に、来るとは思わなかったけど」
──【呼人の夜明け】
ほんの一節唱えるだけで、魔法は解ける。
透明化だけじゃなくて、認識を書き換える魔法も。
人っ子一人いない中、私は一人扉の前に立つ。
室内にはラクノアがいる。
私には、わかる。
控室に入れるのは次期領主だけ。
だから、一人しか入れないと思われがちだ。
同じ世代に、次期領主候補が二人いれば。
両者ともに、資格は満たしている。
「久しぶり……ラクノア」
案の定、彼女は着飾ったドレスに身を包んでいた。
そして、まるで私の来訪を予見していたかのように、にたりと笑った。




