9. 誰もが安心して一任できる作戦だよ♪
半信半疑だった。
生暖かい夜風が頬を打ち、ポツポツと暗闇を照らす街灯を除いて漆黒の闇に支配される宵闇を駆けて、脳内で再生される混乱に眉を顰める。
「……おい、大丈夫なのか?」
耳朶を打つ声は年不相応にハスキーで、細められた視線は酷く苛烈な攻撃性を帯びている。
だが、声色は驚くほどに暖かく、彼女生来の優しさが窺える。
全身を黒の装束に包み、油断なく周囲の警戒を怠らないように視線を張り巡らしながらも、意識はアナスタシアから外れていない。
チラとのぞく胸元からは痛々しい包帯が垣間見えるも、当の本人にはかすり傷程度の認識しかないようで問題なく動いている。
彼女は終始不機嫌でただでさえ近寄りがたい眼光をしているというのに、更に険しい表情まで追加されて、憎々しげに愚痴を溢す姿は海千山千の猛者を見てきたアナスタシアであってすら身震いを禁じ得ない。
“コンスタンティノープルの雪辱を晴らせ”作戦とかいう学芸会のような巫山戯た作戦に従事している現状に不満を抱いている……わけではないのだろう。
チリチリと燻る火種のような激憤の主たる原因は作戦の立案者にして、ドルからの逃避行を目論む三人のまとめ役を買って出た男に対する不平だ。
白髪にくすんだ瞳、人をコケにしたような善人の仮面と『悪人』といった共通認識がピッタリな男。
本人はオドアケルなどと名乗っているが、十中八九偽名だろう。
そんな容姿から胡散臭さの滲み出る彼に対して、ホロウはあらゆる面で許与できないのだ。
暗殺家業を営み、名だたる英雄紛いの功績を打ち立てた彼女をして感情の制御がままならない相手……もはや、あの『悪人』には敬意すら評せよう。
「わたくしは、問題ありません。ホロウ様こそ、慣れない作業でしょう?」
「ふん。吾を見くびってもらっては困る。天才とまでは言わないが、吾は秀才だ。知識さえあればこの程度……造作もない」
得意げに胸を張って答えるホロウからは、先ほどの刺々しい険が薄れたように感じられる。
素直な賞賛に一喜一憂できる側面では、否応なしにホロウが年頃の少女だと痛感させられる。
彼女も、何か運命が異なればどこにでもいる村娘として、漆黒の暗部とは無縁の人生を謳歌できたのだろうか?
仮定の話が如何に無益であるか骨身に染みて理解しているつもりだというのに、一度始めてしまった思考は止まらない。
同情してはいけない。
不要な憐憫など侮辱に値する。
ホロウ=クルヌがどれだけ苦難な道を踏破してきたのか、その片鱗すら想像できず共感できないアナスタシアには、そもそも資格がないのだあから。
「……? どうかしたか?」
「いいえ。なんでもありませんよ。ホロウ様の方は万事順調でしたか?」
「当然だろう。というか、貴殿が何に乗っているのか考えれば答えは簡単だ」
何を言っているんだ、この年増女は? とでも言いたげな表情をしているのだと被害妄想が膨らんでしまう。
どこぞの『悪人』のように素顔を隠したホロウの表情は、差異がわからずとも声色だけで呆れているのだとはわかる。
現在、ホロウとアナスタシアは彼の作戦通りに事を進めている。
その一環として、ホロウは今となってはアナスタシアの古巣であるスウィツアー商会より、アデラ・ジェーン山脈を通行できる山岳用の馬車と馬、そして数ヶ月分の食料等を掠め取ってきたのだ。
暗殺専門の吾がどうしてコソ泥の真似事を……! と悔しそうに呻いていた彼女を可愛いなと思ってしまったのは、ここだけの秘密だ。
「貴殿こそ、大事ないか」
「ええ。自分でも驚いていますけど……少し頭痛がするだけで、体調に問題はありません」
「…………そうか」
納得しきれていないとありありと声色で伝えてくれるホロウ。
よくもこの仮面で暗殺者として働けていたなと思う反面、これほどまでに肉薄した関係性を築いたことがないのかもしれないと思い至る。
ゼロから商会を立ち上げたアナスタシアには、帝国の暗部で名をあげて生活を安定させることの苦難が如何に途方もない労力を有するものか想像に難くない。
だからだろうか、そんな一面を持つホロウが年相応に感情をコロコロと変える様子が実に愛おしい。
「あら? わたくしの無事がそんなに受け入れ難いですか?」
「……っ、ちがっ……! そういう意味で言ったわけじゃなくて……っ!」
「わかっていますよ、ホロウ様。彼の想定通りに進んでいることに、納得できなかっただけ。そうですよね?」
「あ、ああ。そうだ」
ワタワタと百面相が如く変化する感情の波に、思わず頬が緩んでしまう。
苦虫を踏み潰したような悔しげな表情、誤解を解こうと慌てた表情、ようやくわかったかと何故か自信ありげな表情。
齢にして十三程度のホロウの見せる変化は、アナスタシアにとっては到底得難い貴重なものに感じられた。
グラード商会や、オルウェルの邸宅にあっては終ぞ拝むことのなかった人間味があるからだろうか。
「……、そろそろか。吾たちは完遂したが、奴が順当に運ばなければ八方塞がりだぞ」
御者をしているホロウの視線の先には堅牢な城壁と、本来ならば検問を待つ長蛇の列が待機する広場に点在する異彩を放ついくつかのテント。
事前に彼から伝えられていた情景と、寸分違わぬ正確性に彼の力を疑う理性が減衰する感覚を覚える。
【権能】の戦略観点からの積極的運用。
これまでの軍略では禁忌とされていた秘奥を、貪欲に取り入れた……というよりも【権能】の使用を前提にした作戦の実行には、軍事に疎い商業畑のアナスタシアにとっても懐疑的に思えた。
それどころか、眉を顰める程度の嫌悪感とすら呼べる。
【権能】を利用して“黒鉄”級冒険者や、一級傭兵、帝都守護に選出される者もいるが、それらはあくまで手段として用いているに過ぎない。
彼の【権能】を運用する術は、まるで手段とすら思っていない節がある。
惜しみもなく己の【権能】を曝け出す暴挙も同様に、どうにも【権能】を軽視する傾向にあるようだが……一体、どのような教育を受ければ【権能】を道具程度に貶められるのだろうか。
不満はある。
あるにはあるのだが、それをホロウのように額面に表しはしない。
彼の思考が如何に受け入れがたい類の愚行であっても、現実に成果を叩き出しているのだから閉口せざるをえない。
【運命識士】とかいう万事を閲覧できる不気味な【権能】は、正しくありとあらゆる普遍を開示させた。
例えば、ロバートの【権能】とか。
…………許しがたいこととしては、彼は相手の手の内を簡単に露呈させられる【権能】に大した言及をしなかった点だろう。
言葉の通り、万事を見通せる【権能】を是みよがしに見せつけておいて……いいや、思考が逸れた。
彼のいう──正確には彼の【権能】が見せるにはーーロバートの【権能】は部下の思考を一時的に簒奪して、思いのままに動かすと言った“歪曲型”らしい。
奪取し得る相手には幾らか制約が必要とのことだが、一度でも適合してしまえば単純にロバートが一人増えることとなる。
そして、ロバートがラ・カール・レイヴ流の剣士として“黒鉄”級冒険者とのし上がった逸話は有名だ。
ロバート本人の肉体的優越性を差し引いても、百戦錬磨の経験を保有するラ・カール・レイヴ流の剣士が一人増えるだけで戦況は大きくひっくり返される。
敵対して改めて“黒鉄”級冒険者の恐ろしさに脊椎を冷たい緊張が奔る。
現在の“黒鉄”級には【権能】のみで名を連ねる者がいる中で、【権能】の片鱗すらなく単純な剣術のみで十数年君臨し続けたのだ。
如何にロバート=クライブという人物が異様で、そんな彼を相手に一枚も二枚も上手に事を進められる彼が異端であるか思い知らされる。
「(…………わたくしの【権能】すら、わたくし以上に理解しているなんて。正気を疑ってしまいますね)」
ドルからの逃避行に彼の手を借りると決めて、闇夜の市街地を直走る馬車で悶々と思考を巡らせる最中にあってもアナスタシアの心中には疑念が渦巻いていた。
──【悪因叛逆】
それが、一時はホロウの刃からアナスタシアの身を護った頼みの綱の名だ。
彼の【運命識士】に対する憎悪や、常識外れの効力への呆れは止まるところを知らない。
あの『悪人』は、【権能】を持ち得る当の本人よりも【権能】を理解していた。
たった一読しただけで、現状において最も効率的な運用方法をさも当然のように。
だからだろうか、継続的に今までにない使用を強行しているからか、鈍痛を響す脳髄に辟易しつつも、彼が泥に塗れて肩で息をしている情景がすんなりと受け入れられなかった。
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溜飲は自然と下がっていた。
強いて原因を探るのならば、思考の大半を占めていた『悪人』の存在を片時でも忘却できたからだろうか。
何故か馴々しく言葉をかけてくる美女に内心ドギマギしながらも、恐らくは無難にやり過ごせたであろう問答を交わして数十分。
当初はホロウの心中で吹き荒れる激憤の嵐を手綱を通して感じ取ったのか、大暴れする馬を宥めるのに必死だった。
しかし、今となっては、アナスタシアとの会話のおかげか穏やかに操れるようになった。
ホロウの役割としては、スウィツアー商会の宿屋──宿というより豪邸では? と錯覚してしまう広大さだったが──に潜入してアデラ・ジェーン山脈を行軍し得る馬と馬車を奪取するだけの目を瞑っていても可能な仕事だった。
正直に言って、ロバートの相手をしたくはないと言ったが、流石に子供騙しもいいところだ。
思い返しても感情に服従した言い分だったが、それでも必死に抗議した。
けれども、合理的に考えると、三人の中で隠密行動を得手としているのはホロウだけだ。
アナスタシアは言わずもがな、『悪人』は……不可能ではないだろうがロバート相手に時間稼ぎをする方が性に合っているだろうと思う。
あの感情と思考の狭間を突くように繰り出される言葉の応酬は、精神をキリキリと数ミリ単位で削られる感覚は度し難い。
まるで、何もかも見透かされるような…………そう思うと彼の【権能】は体を表しているな。
「(やはり、奴を思うとムカつくな)」
アナスタシアはよくあの『悪人』と行動を共にできるものだ。
ホロウでは三秒毎に渾身の右ストレートを見舞ってしまう。
それも、助走をつけて。
「やはり、吾は嫌いだ」
嫌に脳裏にこびりつく偽善の笑顔も、穏やかな存在であると見せつけるような物腰も、とってつけた抑揚を多用した口調も。
虫唾が走ってたまらない。
したり顔で不得手な領域に飛び込んでいく、言動や雰囲気とは裏腹に自分を守備領域にカウントしていないところなど特に気に入らない。
幾らホロウが奴の事を嫌っていても、無謀だと止めた。
奴が如何に異常で、奇怪な手癖を用いてロバートに時間稼ぎを行おうとも、一度戦闘に陥ってしまえば勝利はない。
ホロウが評価するのは、あくまでも神経を逆撫でるようにあの手この手で人を籠絡させる戦略的話術だ。
武力面については、お世辞にも秀でているとは思わない。
一度矛を構えた時には混乱の渦中にあったホロウの意識、その隔絶を突くように懐へと飛び込んできてすれ違いざまに一撃削がれた。
けれども、それは幾多もの偶然が重なって生じた、一種の奇跡とすら言える。
そんなものに縋って与えた損益は無視し得る範囲であったというのに、正面から小手先の詐術紛いな絡め手の通用しない相手に勝て得るはずがない。
『悪人』は弱い。
まるで暴力とは無縁であった箱入り婿が、暴威を振りかぶらざるを得ない必要性に駆られたから仕方なく空虚な外観を装っているような。
だからこそ、その情景を見ても、すぐ隣で戦慄しているアナスタシア程の衝撃は受けなかったのだろう。
彼女は『悪人』について盲信している節がある。
だが、ホロウは死と隣り合わせの日常こそが本懐であるために、彼の脆弱性については見当がついていた。
泥だらけで、血にまみれて這いつくばる醜態をみても、ああやっぱりかと妙な納得感と共に吞み込めたのだ。
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【思々転々】は万能とは言い難い【権能】である。
単純な武力としては目算できない、遥か外部の戦略的観点からようやく評価できる代物である。
自分と波長の適合する仲間がいて、ようやく真髄を発揮できる戦士として前線へと赴くのならば足枷にしかならない。
故に、“黒鉄”級冒険者として命を賭けていた頃には日の目を浴びることのなかった無用の長物。
唯一、効率的に運用できた場面としては、突如として発生した未開域巣窟にて遠方のパーティと連絡を取り合う程度だった。
しかも、有事の際に限った運用で。
しかし、意識の片隅に追いやっていた【権能】は、傭兵として個でなく郡へと価値観が変化すると共に生命線へと大回転した。
如何に円滑で、打てば響くようなパフォーマンスを披露できるかが分水嶺となる傭兵にあって、自分を量産可能な【権能】はなくてはならない必需品だ。
なにせ、本隊と末端の足並みを本筋と逸れることなく統一し得るなど、恐怖を超越して悍ましさすら感じる。
“黒鉄”級冒険者時代に、一糸乱れぬ統率力を誇った軍隊蟻の魔獣を討伐した経験があるが、その時の光景は背筋を凍らせるただならぬ圧迫感があった。
一体一体では掃いて捨てるような、小物程度というのに、崩落せぬ物量には高水準の冒険者で固めた防衛線すら突破されかかった。
それが自身の手で再現できるのだから、却って戦慄しない方がおかしい。
ロバート=クライブにとっての幸運は、正に手本となる存在の有無であろう。
数多の数の暴力と、並外れた統率力の底力を見せつけられた彼だからこそ自分が二人以上いることとなる【権能】を使いこなせた。
ロバート=クライブにとっての不運は、故にこそ無意識に力をセーブしてしまったことだろう。
まるで津波のように押し寄せる暴威を前にして、飲み込まれるという生命的恐怖を味わってしまったがために魂が記憶した恐れを基に制限してしまった。
現在においては、見事に後者へと傾いてしまった。
本能的に危険だと警鐘の鳴った『悪人』が眼前へと現れた時点で、【思々転々】を使用すべきであった。
時間稼ぎのためにつらつらと無駄話を始めていた時点では、アナスタシアの【思々転々】による悪意の収束は未完だった。
つまりは、自由にしてはならないと、何を持ち掛けられようとも拒絶して息の根を止めるのだと決断したのだならば、口車に乗ったふりをして油断を誘う必要もなかった。
ロバートには、自身を“黒鉄”級冒険者へと押し上げた剣術があったのだから、尻込みする必要もなかった。
偏に、彼の異常性と、かつての敗北がロバートの判断を鈍らせたのだ。
その代償は鷹揚に頷いて支払える程に、安くはなかった。
右足の粉砕と、数分後には死が約束される出血量。
少なくとも、死神の鎌は雁首に添えられていることだろう。
終わってたまるものかと、奮起するだけの活力すら…………前線を退き、せいぜいが老体のロバートには枯れ果てていた。
一昔前、例えばドーリアに敗北した直後であれば、違ったかもしれない。
だが、精神が、魂が死を拒絶するようにのっそりと動く肉体に追随できない。
致命傷だ。
同じような大怪我を受けて息を引き取った同胞を、この目で幾らでも見てきただろう。
もう、諦めて休もう。
……………………ああ、そうできればどれだけよかったか。
圧殺してしまうのではないかと思える程に握りしめた愛剣が、せめて一太刀をと躍起になって大地を踏みしめる左脚が、一矢報いたいと咆哮する魂が。
ロバート=クライブを終わらせてはくれないのだ。
ああ、そうだろう。
生き汚くて、滑稽だろう。
ロバートの前進を信じられないと、眼を見開いて臨戦態勢を取る『悪人』の反応は何故だか新鮮だった。
先までは、まるで想定通りの演劇をつまらなそうに見ていた客が、場面の展開と共に理解を拒むような。
詰まる所、ロバートはまだ戦士として完成されていたのだ。
【権能】が使えないと分かって、見事に策略に嵌った惨めな老体で、命短い這う這うの体で。
それでも、死線を潜り抜けてきた魂は、死を善しとしていない。
さあ、前へ進もう。
せめて、あのすまし顔を驚愕と恐怖に染めてしまおう。
それができてようやく、終止符をうてるのだから。