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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第一章【自由の芽吹】──第一部【偶然の産物】
8/15

8.狂気の男

 ロバート=クライブは勇ましき漢で()()()


 筋骨隆々な肉体に、極めた実戦重視の剣術、死地においても鈍ることのない判断力に、磨き上げた戦場での嗅覚、そして何より圧倒的な才覚(センス)が彼を最強格へと後押しした。

 新進気鋭の“黒鉄”級冒険者は、帝国全土に名を轟かせること十年余りで最古参の“黒鉄”級冒険者として畏怖と尊敬の眼差しを一身に受ける存在となった。

 なにせ、冒険者とは身辺警護や行商人の護衛を主たる傭兵とは異なり、積極的に戦地へと赴くのだから殉職率はどの職種よりもずば抜けて高い。

 ベテランと呼ばれる“白金”級冒険者であっても、冒険者歴が三年を切る者の方が多い。

 そんな死と隣り合わせの冒険者にあって、危険度の跳ね上がる“黒鉄”級冒険者として十一年も活躍していれば、異常人物として認知されるのも当然だ。


 けれども、華々しき英雄譚も三年前の吹雪の日に終止符が打たれた。


 長年に渡って獣の返り血や盗賊を始末してきたせいか、くすんだ金髪にはドス黒い赤が染み付いた時期であった。

『豪傑』や『紅の象徴』だとか噂されて久しい頃に、勝負を挑まれたのだ。

 相手は若造……とはいえ目利きに自信がないために今でもそう認識しているが、やもするとまだ若かったかもしれない。

 歳の程は十三かそこいらの“白金”級冒険者が、無謀にも決闘を申し出た。

 無論、周囲は囃し立てた。

 身の程を知らないガキが膨れ上がった自尊心に胡座をかいて死にに行ったぞ、と。

 けれども、有象無象は気づいていない。

 まず、第二次成長すら迎えていないであろう少年が、“白金”級にのし上がっていたこと。

 勿論詐称も脳内の片隅にあったが……その愚かな楽観は、少年の佇まいと瞳を一瞥して捨て去った。

 ただ一言、()()と思わされたのだから。


 結末は語るまでもない。


 歳の差は二十以上の隔たりがあって、ロバートの身体にもガタがきていたとはいえ、秒殺であった。

 気がついた時には首元に少年の獲物が突き立てられており、反応すらまともにできなかったロバートは敗北を認めるしかない。

 独学で鍛えた武術なのか、それとも【権能】によるものなのかは判断できないが。

 それでも、負けは負けなのだ。


 潔く“黒鉄”級の座は譲り、隠居生活でも送ろうかと決断できた。

 まあ、世俗から姿を消したとはいえ、退屈凌ぎに始めた傭兵団がみるみる内に拡大してしまい、いつの間にやら二級傭兵にまで昇級していたのだが。


 全く生き汚いとは思ってはいるが、それでも抑えきれないのだ。

 “黒鉄”級冒険者として精力的に修羅場を潜ってきた矜持が、失敗を許さない状況への渇望が。

 もはや依存と言ったほうがいいだろう。


 鬱々と、とまでは言い切らないがさしたる目的もなく惰性で運営してきたディシェリ傭兵団に舞い込んだ大規模な依頼。

 下手を打つと一級傭兵にまで昇格してしまうのではないか? とすら思える依頼。

 帝国の懐刀と名高きグラード商会との繋がりがあると噂されるスウィツアー商会からの捜索依頼だと。

 ああ、今だから言える。

 “白金”級の少年……今となっては“黒鉄”級に昇級した青年に敗北した時に表舞台からは離れておくべきだった。

 もし、傭兵などにならなければ、眼前の『()()』と出会わずに済んだかもしれないのに。









 ❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒








 敵の首魁たるロバート=クライブの待機しているであろう大きなテントへと正面から入ると、二メートルはあるであろう巨体を誇る大男と目が合った。

 これが運命……!? とときめくかもしれない劇的な視線の交差だった。

 とはいえ、現実はそんなに甘ったるい展開には運ばない。

 ロバートの視線は歴戦の戦士が如く剣呑で、対峙しているだけで冷や汗が止まらない圧迫感を有している。

 くすんだ金髪……いや、茶髪か? に微かに赤の混じった短髪、三十代後半だというのに巨漢と見間違う立派な肉体、傍に立てかけてある双剣は年季の入ったもので彼の愛刀であることが窺える。


 間違いない。


運命識士(リード・スペクター)】に齎された情報と合致する、目の前の人物こそがディシェリ傭兵団の団長であり、己の敵たる二級傭兵『豪傑』ロバート=クライブだ。


「……暗殺者にしては堂々としているな」


 長い沈黙の後に口を開いたロバートの声色は、押し殺した怒気が垣間見えている。

 まずは作戦の前段階が成功したと見るべきであろう。

 歴戦の相手に対して、こちらはつい数十日前に殺人を合理化して感情と切り離した素人に過ぎない。

 比べるまでもなく圧倒的劣勢にあることは自明。

 故に、ロバートを討ち果たすには彼の平常心をどこまで崩せるか、その行動のもたらす結果如何に関わってくる。


「交渉の一環だけれど……どうだろう。これ以上の()()を出さないためにも、我々を見過ごしてはくれないか」


「ふむ。一考に値すると思わせるための、虐殺か」


 思案するように眉根を寄せるロバートの様相に、少なくとも感情に左右される愚者ではないと再認識できた。

 彼の滞在するテントへと向かう前に、小さなテントでくつろいでいた団員を全員抹殺したのだが……どうやら、それに気がついていて野放しにしていたらしい。

 あくまでも、こちらの武力見せる目的と、一対一の状況を作るための行動であったが、はてさて瞠目した彼は何を思うのだろうか。


「…………底が知れんな。みすみす逃すには恐ろしい輩だ」


 いや。

 ああ、これは予想外かもしれない。

 本来ならば数段階先に予想されていた問答の結論へと、既に彼は至ってしまっている。


「計算違いか、下郎。高々、数人の兵員の命を不当に奪っただけで、俺から譲歩を引き出せるとでも? 青い。青過ぎるぞ、貴様」


 ゆっくりと腰を上げたロバートの動作はあまりにも自然で、まるでそうすることが正しいと思わされた。

 侵食するように語りかける内容の真意に気がついて、弁明や反論をするまでの猶予は既に消し飛んでいる。

 失敗だ。

 ああ、完膚なきまでの失策だ。


 “コンスタンティノープルの雪辱を晴らせ”作戦の性質上、ここで己がロバートの相手を務めなければならないのだが……幾ら頭を捻っても正面戦闘で勝利できる現実(ビジョン)が浮かばなかった。

 故にこそ、搦手や禁じ手を用いて優勢、せめて停戦まで持ち込みたかった。

運命識士(リード・スペクター)】より閲覧した彼の情報を、合理的で年齢を重ねるとともに若き日の直情な言動は鳴りを潜める……と解釈したのだが、どうやら解釈違いだったらしい。

 確かに、ロバートは感情的に行動した訳ではないのだろう。

 合理的に判断して、()()()()()()()()()()()()()|に()()()()()()()と結論付けただけだ。


 恐らくは、冒険者時代の彼には導き得なかった帰結だろう。

 傭兵団の団長として、組織を運営し続けたために変化した思考だ。

 現状の己にとっては実に迷惑な変化だが……まだ、打つ手は残っている。


「これは、素直にボクの落ち度だと認める他ない。けれど、どうだろう。一度、立ち止まって考えてみては」


「……? 意図が掴めん」


「君の雇い主は、スウィツアー商会の代表だろう?」


「ああ。二級傭兵の身にとっては垂涎の相手だ。上手くことを運べば、強大な後ろ盾となる」


 ペラペラと喋ってくれるが、どうせ消すのだから無意味だろうと格上の立場だからこそだろう。

 腹を立てるべきか、これ幸いと飛びつくべきか。

 進退を決するには良い分水嶺となる。


「なら、その代表は何をもってボクたちを狙う」


「………………、ふむ」


 逡巡。

 好機だ。

 彼は迷っている。

 そして、決めかねている。

 己がどこまでの情報を掴んでいて、何を目的に揺さぶりをかけているのか。


 この舌戦は不公平だ。

 交渉とは、双方に平等の情報が開示されていなければお話にならない。

 一方だけが持つ核心的など、その者が勝利するためだけの禁忌とすら言える。

 だからこそ、弱者は必死に情報をかき集めて交渉のテーブルで強者に必勝を叩きつけるために虎視眈々と機会を狙っているのだ。


 そして、現状における強者はロバートで、弱者は己だ。


「君も難しい立場にあるようだ。もしかして、ボクの問いは答えずらいものだったかな」


「…………ふむ。そうでもな──」


「なら、ボクが答えてあげよう。君はハギンズとやらに元商会代表の暗殺を頼まれて、更にその情報を握っている者の拿捕若しくは殺害、だろう」


 表情の変化を見逃す訳はない。

 全神経を集中させてロバートの気難しいしかめ面を注視していたつもりだったが、雇い主の思惑云々を看破されても表情が動くことはなかった。

 図星を隠しているのか、それとも、その程度の情報ならば露見しても問題がないとたかを括っているのか。

 判断には迷うが……手応えは悪くない。


 少なくとも、彼はスウィツアー商会について漏らすつもりはなく、同時に表舞台へと詳細を露呈させることなく秘密裏に完遂させようとしている。


 ならば、次に取るべき手は──


「戯言は終わったな。話に聞く元代表でもなく、暗殺者でもない貴様の相手をしている時間はない」


 ピシャリと告げられる交渉決裂の宣言。

 気がついた時には、ロバートは双剣の柄に手を伸ばしており、あと数瞬の内に抜刀されることだろう。

 交渉材料としての情報にあっては不足はないはずだ。

 というよりは、あえて出口の見えない延々とした交渉をもって時間を稼ぐ目的だったのだが。

 あわよくば鉾を収めてもらえるのならば万々歳であった。


 成程。

 彼は、追い詰められているのだ。


 同時に、ロバートの焦燥と“コンスタンティノープルの雪辱を晴らせ”作戦の始動は無関係ではない。


「【権能】が──【思々転々(リンド・オルマ)】が不発で不安に思ったかい?」


「……ッ!?」


 予測不可能、回避不能。

 今の今まで温存していた切り札と、随所でかなり危険な橋わたりとはなったものの時間稼ぎの効力も上手く機能した。

 目を剥いて殺意に肥大化した全身の筋肉を硬直させて、動きを止めた……止めてしまったロバートの懐へと全身の神経を集中させて飛び込む。

 最高のタイミングと、最善の判断。

 警戒心へと割く労力を外道な手段と、不可解な交渉で埋めて。

 ただ、この一撃のために不利益しか被らない存在の露見すら作戦へと組み組むことを決断したのだ。


 直接的な戦闘能力を有さない【運命識士(リード・スペクター)】の最も効率化された使用。


 本来ならば何人においても看破されないであろう【権能】の漏洩。

 駆け巡る思考の間隙を縫うにあってはならない禁じ手。

 鉄兜を彩る鮮血、鉈から腕へと伝わる生暖かい感触。


 跪いて砕けたアキレス腱と、ざっくりと断裂され大量の血を吹き出す見るも無惨な頸動脈を抑えて、未だに現実が受け入れられずに目を白黒させるロバートを見下す。

 勝負はついた……と、背を向けて衰弱死が確定すればどれほど良いものか。

 一世一代の不意を突いて得た致命傷を、無駄にしないために今一度振り下ろさねばならない。

 生命を刈り取るための剪定を。







 ❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒








 ロバート=クライブは元“黒鉄”級冒険者である。

 それは即ち、個人としては人智を逸した実力を誇る“黒鉄”級冒険者は、有象無象を容易に引き剥がせるであろう一芸に特化した者と同義である。

 それは、約越した暗殺技術であったり、対生命に特化した【権能】であったり、先天的な技能を極限まで研ぎ澄ました者であったり…………一芸とはいえ、“黒鉄”級冒険者の()()は多種多様であって他を寄せ付けない圧倒的なものだ。

 その隔絶たるや、石槍が主装備であった原始時代に核兵器を持ち出すような暴挙に等しい。


 さて、そんな“黒鉄”級冒険者に限らず、傭兵や、帝都の兵に至るまで一通りの戦士は剣術を嗜むのが常道だ。


 最も古く、伝統的でオーソドックスな剣術──“ジャスティ・レイヴ流”


 一刀入魂、一度抜刀すれば初太刀にのみ完結し、二の太刀を考慮に入れない──“シネン・ジゲン流”


 “ジャスティ・レイヴ流”をより実戦的に、剣術だけでなく他の武術の動きすら取り入れた──“ラ・カール・レイヴ流”


 三者三様の特徴を内包する剣術の羅列だが、個々人のアレンジこそあれど究極的な帰結は変わらない。

 つまりは、如何に相手を最高効率で無力化できるか、という一点だ。

 そして、【運命識士(リード・スペクター)】によって開示された情報に、ロバートがラ・カール・レイヴ流の達人と無慈悲にも突き出された。

 故に、必要のない虐殺、無用な交渉、本来ならば漏洩するわけもない【権能】の看破を雁首揃えて提示した上で思考に間隙を生み出したのだ。


 何故そんな無謀を犯したのかって? 【運命識士(リード・スペクター)】を用いた()()によると、正面からであろうと、奇襲であろうと、闇討ちですら無様に返り討ちにあるらしい。


 だから、策を弄した。

 それは偏に、ロバートへと反撃の隙を、その思考すら奪い取って刹那の優位を獲得するために。

 ラ・カール・レイヴ流の特徴すら【運命識士(リード・スペクター)】より閲覧した情報から対処法を編み出した。

 ……どうにも、【運命識士(リード・スペクター)】を発現させてからは推理や憶測といった知略を駆使していないが。

 目先の便利な道具に頼りきってしまう、漠然とした不安が沸々と湧き立ってしまう。

 とはいえ、致し方あるまい。

運命識士(リード・スペクター)】とて()()()なしに情報の提示を行なっているわけではない。

 その分の褒賞を返礼すれば、問題はない。


 思考が脇道に逸れている…………うん、そうだ。

 ラ・カール・レイヴ流は実戦重視の、いわばお座敷剣術ではなく戦地にてその真価を発揮する類の武術だ。

 一般的な剣術の型から、流水が如き防御、極小の隙から転じる反撃、果ては相手の態勢を崩す心理戦法や、獣に見立てた四足歩行を基盤にした異形すら剣術として確立している。

 その混沌たるや、ジャスティ・レイヴ流とシネン・ジゲン流に属さない剣術は全てラ・カール・レイヴ流に収めたような適当さすら感じられる。


 事前知識を脳内と身体に叩き込んだところで、改めて現実へと戻ろう。

 ロバートはラ・カール・レイヴ流の達人であり、【権能】とは無縁に剣術だけで“黒鉄”級にのし上がった人物だ。

 加えて、他の二流派についても達人とまではいかずとも実戦で利用でき得る程に鍛え上げられていると。

 生来の肉体的戦闘センスに物を言わせた、経験に基づく強靭且つ性格無比の剣術は若造に敗北するまでは“黒鉄”級最強とすら目されるに十分な理由だ。


 さて、そんな剣術の最終兵器が如き男を相手に、武術よりも殺傷に慣れてしまったど素人の日本人が立ち向かった際の勝率は…………目の覆いたくなる()()()に教わった。


 故にこそ、己がロバートから勝利を掴み取るには奇跡を己が手で作り出す他になかったのだ。


 そう、そのはずだった。

 だというのに、何故、己は──


 ──テントの外で星空を見上げている?









 ❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒









 不覚をとったと勘づいた時には、致命傷だと本能が伝える損傷を受けていた。

 全身を駆け巡る激痛に顔を顰めながらも、努めて平静を言い聞かせて現実を受け入れようと思考を稼働させる。

 睨め上げると、そこには無感情に右腕の鉈を振りかぶる白髪の男がいた。

 生殺与奪の権利は命を塵程度にしか勘定していない無機質な男の手にあって、命乞いの選択肢すら与えない徹底した合理主義には人間性の欠片も感じられない。


 時の流れが酷く緩慢になった世界で、ロバートは自分の失策と相手の意図に到達したのだ。


 全ては()()()()のために。

 姿を晒して、交渉に見せかけた時間稼ぎのポーズを見せて、最後には誰にも明かしてこなかった【権能】すら看破して。

 そして、理解し難いことに、彼はそれすら布石にして目にも止まらぬ程に流麗な動きで剣術すら封じたのだ。

 まるで一連の行動を予め知っていたように、最適解をトレースした。


 ジャスティ・レイヴ流の踏み込みと、ラ・カール・レイヴ流の抜刀術を組み合わせたロバートの我流抜刀術を壊すために腱を砕き、自然と前傾姿勢に傾いたガラ空きの首元へと鉈を沿わせる。

 体格と力で劣る彼だからこそ、倒れ込むロバートの自重を利用して脈を斬らせた。

 勿論、随所に疑問があるのは確かだ。

 ロバートの行動は拒絶一辺倒であったが、もし、あの場で停戦交渉に応じていたらどうしていたのだろうか。


 いや、愚問だ。

 停戦交渉に応じるのならば表立って敵対する必要もなく、ドルからの脱出が目的の彼らにとっては渡りに船なのだ。

 交渉が成功するならば良し、決裂するのならば当初の計画通り奇襲をもってロバートの殺害に舵を切っていたはずだ。

 最終目的までの道筋を複数用意して、究極目的を達成する予見の精度。

 強敵とも、難敵とも思わない。


 そもそも、彼にとってロバートなど敵とすら認識していないだろう。


 だから、ロバートもまた彼を敵とは思わない。

 あの白髪の男は怪物だ。

『悪人』なんてちんけな枠組みに捉えられない人外だ。


 視界に映る全てが遅滞に知覚する中にあって、ロバートの決断は長年剣士として酷使してきた肉体を半ば強引に、本能的に動かした。

 不恰好に、武人としての矜持など先手を取られた時点で放棄しているがために、力一杯に拳を握り振りかぶる。

 ぐにゃりと拳に伝う肉を潰して、慣性に従って吹き飛ぶ姿を尻目に見ながら態勢を立て直す。

 彼が武人として未完成で助かった……とは思うまい。

 怜悧で排他的な瞳に、合理に則った思考、挙げ句の果てには暴力を迷いなく選択できる凶暴性。

 何をとっても常道より大きく外れている脅威を差し引いても、不恰好に思える程に武術の片鱗は感じ得なかった。


 だからこそ異形だと戦慄するのだが。


「…………ッ、動けて数分か」


 未だ吹き出す血潮を霊力を用いて応急処置として塞ぐ。

 霊力は剣士にとって不可欠な外的活力であり、全身に満遍なく行き届けて配分さえ注意すれば肉体能力を向上させる効力を持つ。

【権能】に対する対抗策だけではなく、肉体の向上、そして、重宝される所以として治癒能力の内包だろう。

 だが、何も傷を完全に消滅させるわけではない。

 あくまでも自然治癒能力を向上させた結果、みるみるうちに傷が治癒されているだけだ。


 事実、失った血液は回帰しない上に、砕かれた右足は使い物にならないだろう。


 経験則……というより、常識として人間は一定の血液を失えば死ぬ。

 正確な量は知らないが、少なくとも自分は致死量を遥かに上回っているはずだ。

 眼前の情景は酩酊したかの如く揺らいで、無事な左足すら地に着いているとも思えない。

 しかし、それでも。

 借りは返さねばならない。

 見事に蜘蛛に絡め取られた哀れな虫が何を大口叩いているのだ? と思わなくもないが、無意識とはいえロバートは反撃をして窮地を脱した。

 それは紛うことなき実力のもたらした糸口であり、ようやく対等の勝負に持ち込めたというだけ。


【権能】が不発で、尚且つ、その素性が知られている点については疑問が尽きないが。


 世の中には摩訶不思議で、到底信じられない現象が現実として具現しているとロバートは身に染みて理解している。

 人生最期の晴れ舞台としては重畳だろう。

 なにせ、相手は若き身で怪物として完成された存在で、けれども自分は一矢報いる権利を手に入れているのだ。

 ()()を野放しにしてはいけない──まるで魂が絶叫するかの如き使命感に従って両の足へと喝を入れる。

 血に濡れた両手で握りしめるは長年にわたって苦楽を共にしてきた愛剣。

 月明かりが木漏れ日の代わりを果たし、まるで死に舞台へと上がる死刑人の気持ちに共感してしまう。


 若き生命を手にかける罪悪感は既にない。


 抵抗力を削ぎ、完膚なきまでに敗北を強要するあの怪物を先じて摘める安堵の方が強い。

 その異常性に気が付かぬままに、ロバート=クライブは驚く程に身を固めて久しく感じる緊張感に身を任せてテントより外界に出でるのであった。

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