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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第二章【自由の象徴】──第三部【南の慈愛】
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47. 鼠

 私は箱入のお嬢様だ。

 世間知らずで、何も知らない……いいや、知ったつもりになっていただけの半可通。

 能書きばかりに気を取られて、世界に目を向けていなかった。

 まるでお調子者が叱られるみたいに、私は自分の無知を糾弾されているみたいだ。

 ぶわりっ! と頬を打つ強風の痛みや、大地を抉る轟音や、煌めく剣の流麗さ、鉄と鉄の衝突する甲高い音は全て想像の産物だった。

 眼前で繰り広げられる怪物同士の死闘を見るまでは。


 かつて一度だけ魔獣討伐の折に戦後の戦場へとお父さんに連れていってもらった。

 吐き気を催す程に濃厚な血の香り、ちくちくと眼球を刺激する細かな血霧、そして、支配者を気取っていた死の気配。

 どれをとってもこの世のものとは思えずに、お屋敷に帰って病的に全身を洗った記憶がある。

 幾ら清潔な水で流しても、どれだけこすっても、汚泥のように付着しているみたいで気分が悪かった。

 まるで戦場で死した生物が憑き纏っている感覚から抜け出せず、一睡もできなかった。

 ふかふかのベットが、私をも死地に誘う死者の手だと錯覚して。

 出自や【権能】のおかげで、私は血生臭い世界からは無縁の存在だと思っていた。

 今の今まで。

 お父さんが急逝して、私一人が生き永らえて。

 見渡す限り味方はいなくて。

 それでも、きっと綺麗で憂いのない最期が迎えられるのだと。

 無根拠にも信じていた。

 確固たる理由もない妄想なんだって。


 先まではずきずきと痛みを訴えていた傷はうんともすんとも言わなくなった。

 泥と砂で不快だった感触すら何処かへ消え失せた。


「…………すごい」


 ぽつりと零れた独白は、今尚激突している彼には伝わっていない。


 黒い眼帯に遮られているはずの右眼は、右半身へと打ち込まれるはずの攻撃を捉えられないはずのなのに。

 業物の刃と錯覚してしまう程に鋭利なかぎ爪を、真っ赤な刀身でさも当然のように受け止めて見せた。

 かと思えば、器用に半身を捻って回転しながら“羲戎(ぎじゅう)”種の右脚、その根本へと斬撃を浴びせたのだ。

 けれど、“羲戎(ぎじゅう)”種は意に介することなく反撃を続けて、彼もまた戦闘を継続する。

 正直、私の眼で追えるものじゃない。

 突き抜けた本能をもって殺戮を行う“羲戎(ぎじゅう)”種に、権謀術数を張り巡らして計算し尽くした攻防を魅せるロムルス。

【権能】が使えないにも関わらず、互角以上の死闘は既に数十分に渡っている。

 お互いに手傷は増えているものの致命傷は負わずに、それどころか隙すら見せていない。


 “羲戎(ぎじゅう)”種の伝承は私も聞いたことがある。

 真の英雄か否かを見定める役目を果たす神獣だと。

 高い知能に、獣とは思えない巨躯、敏捷性や非常に老獪な一面も持つという。


「でも、ロムルスだって…………」


 左腕と右眼のない劣勢でありながらも、一振りの剣と惚れ惚れする体術をもって渡り合っている。

 じんわりと胸の裡から暖かくも燃え盛るような熱が湧く感覚がした。

 わくわくしてるんだ、私は。

 まるで神話の世界に没入したみたいな感覚は、今まで感じたことのない胸の高鳴りを引き起こしている。


 けど、私は観戦者だ。


 ただ見ているだけ。

 心の中で声援を送って、彼の勝利を渇望しているだけの傍観者に過ぎない。

【権能】が使えたら……なんて、ないものねだりをするだけ。


 私の【権能】、【援舞強乱(パール・リング)】は最前線で鎬を削る類の【権能】じゃない。

 例えば、身体機能であったり、五感を強化できる後方支援に特化している。

 実存昇華(アウフヘーヴェン)すると【権能】すら強化できるんじゃないかと夢を見たこともあった。

 けど、まだ第一段階で止まっていて、ついさっきの生き埋めから助かったのも視覚を強化したからだ。


 けど、“羲戎(ぎじゅう)”種の特性がある限り【権能】は使えない。

 幾ら強力な【権能】であろうと、発動できないなら何も持っていないと一緒だ。

 噂に聞く“黒鉄”級冒険者や、“一級”傭兵の団長とか、帝都守護の『武将』とか…………【権能】を使用せずに頂点に立つ戦士ならば。

 いや、戦士では勝てない。

【権能】を封じられて、鍛えた肉体と武術を用いても、基礎的な身体能力が人間と魔獣とではかけ離れている。

 圧倒的不利を覆すことのできる、英雄でないと踏破できない。

 私は──ロムルスこそ英雄だと思う。


「がんばれ……がんばって、ロムルス…………っ!」


 固く祈るように組んだ両手は真っ白だ。

 力を入れすぎたのかもしれないけど、足りない。

 他力本願の私にできることは彼の勝利を信じるだけ。


 そして、私と彼の歴然とした差異を前にして、諦めている。

 ロムルスの【権能】は決して戦闘向けの【権能】じゃない。

 あの金色の本はあくまでも情報を送致するだけで、目にもとまらぬ速度で動いたり、怪力になったりもしない。

 ──“霊力”。

 初めて言葉を交わした時、彼は“霊力”で傷を治していた。

 お父さんと一緒に魔獣を討伐した冒険者の人に聞いたことがある。

 “霊力”は脆弱な人間の肉体を強化し、劣後した能力を向上させると。

 私には、“霊力”が何なのか皆目見当もつかない。

 目に見えるものなのか、それとも空気のように漂っているものなのか。

 そもそも本当に実在するものかすら…………私には、分からない。


 だけど、ロムルスには見えている。

 愛刀の刃の如く使いこなして、身の丈の何倍もありそうな魔獣相手に善戦している。


 それが、とても心強くて。


 同時に、とても憎らしい。







 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐







 冷や汗が止まらない。

 つい数秒前に眼下を掠ったかぎ爪や、恐ろしく太い前脚に振り回された時。

 常に瀬戸際。

 いつこの均衡が崩れるか分からない。


 やはり、【運命識士(リード・スペクター)】の不在は無視できない。

 “未来視”はできず、“金色の(アガートラム)義手(・レプリカ)”を使えず、おかげで朱色の左剣(ベガルタ)も抜刀できない。

 ないないづくしの中で、辛うじて経験と勘で凌いでいるに過ぎない。

 どこか綻びが生まれてしまうと、そこからずるずると敗北を喫してしまうだろう。

 つくづく、ボクが痛感させられる。

 無意識に【運命識士(リード・スペクター)】を頼っていたことに。

楽園(エデン)鍛錬(トレーニング)を継続しておいてよかった。

 最近はマルタやアヤメも参加して活気づいたために、ボクたちもより一層のやる気を出していた。

 きっと功を奏するとはこれだ。

 蓄積してきた経験が、血肉どころか命を捧げてきた結果が現れた。

 圧倒的不利で生き永らえるという。


 だが、それだけでは足りない。


 “羲戎(ぎじゅう)”種を凌駕するには、ボクの運動能力では果てが見えない。


 数メートルの体格、それに見合った脚力、観察者と名高い埋めがたい本能の差。

 何ならあいつ、“霊力”すら操っている。

 微かだが、小さな切り傷を修復していた。

 高度な“霊力”治癒を曲がりなりにも会得しているとは…………厄介だな。

 生来の回復能力に加えて、タフネスだって無尽蔵に思える。

 どこかで打開策を講じなければならない。

 ぐずぐずと様子を伺っているだけでは、先に潰れるのはボクだ。


「クセは掴んだ……あとは、タイミングだ」


 攻防の末に認識できた僅かな隙。

 奴は朱色の右剣(モラルタ)の斬撃を恐れている。

 すわロバートの怨霊か。

 いや、朱色の右剣(モラルタ)の性質だ。

 かつての“黒鉄”と共に歩んだ朱色の右剣(モラルタ)は“霊力”をも断絶する。

 つまり、あの獣にとっては生命線を断たれるも同然。

 ボクの技量と朱色の右剣(モラルタ)の切れ味であれば、一太刀で終わらせられる。


 ジリ貧の中で獲物が自滅覚悟で博打にでると、奴が知らないはずもない。

 つまり、下手に大きな隙を見せたり、逆転の策を打ち出すと悟られると一巻の終わりだ。

 ()()()を見せるな。

 変化を勘付かれるな。


「……ッ、長くは続かないか…………!」


 ほんの機微を見せるためだけに表情を歪めて見せる。

 まるで自然に、後がないように見せつける。

 “霊力”を僅かに後退させながら、余力も底を尽きかけていると錯覚させる。


 どこからどう見ても、今のボクは追い詰められた袋の鼠だ。


 そう、本来なら演じる必要すらない危機的状況を創出して。


「……ッ!? ロムルス……ッ!」


 ビシリッ──! と右脚を巨躯に見合うかぎ爪によって大きく割かれる。

 飛び出る血潮に、肉の防壁に隠れているはずの骨すら見えてしまっていた。

 全身を硬直させるには十分すぎる激痛に思わず苦悶の表情を浮かべる。

 ほんの少し動かすだけで思考などできない膨大な苦痛の波が襲い掛かる。

 無論、ただで重症を負ってやるわけにもいかない。

 苦し紛れだとわかっていても、懐の鉈を投擲する。


 しかし、見え透いた抵抗も徒労に終わる。

 ふっ──と首を揺らしただけで狙いは外れ、鈍い音を立てて背後の大木へと突き刺さる。


 そして、機動力を失った獲物は静かに地に伏せるのが自明。


 当然、力尽き恰好の隙を晒す獲物を“羲戎(ぎじゅう)”種が見逃すはずもない。


「────、」


 睥睨する両の瞳。

 うつぶせに倒れていると、大地を通じて接近する足音や気配を如実に感じることができる。

 目と鼻の先に、奴はいる。

 ボクの血に濡れたかぎ爪をギラギラと見せつけて、動きを止めた。


「は……っ、見定めているのかい? 君はボクに何を見出したのk──」


 挑発、目も当てられない惨めな悪足搔きのつもりだったのだが。

 思いの外、“羲戎(ぎじゅう)”種とやらは沸点が低いのかもしれない。


「…………うそ………………ロムルスッ!」


 動揺するヨークの絶叫、不安を増大させる浮遊感。

 滴る血流の深紅。

 涙の滲む左眼が映す景色は数メートル眼下の大地だ。

 どくどくと流れ出る黄金は、無念にもボクの敗北を決定づけている。


「ご、は……っ」


 逆流した血反吐は、ごつごつとした鱗に包まれた堅牢な“羲戎(ぎじゅう)”種の爪へとまき散らされる。

 悪いが、粗相に対する謝罪はできない。

 ()()()()に風穴を開けられてしまうと……存外、呼吸も会話もできないようだ。

 急激に体温が低下しているのがわかる。

 四肢の感覚が遠ざかり、五感は次第に閉ざされていく。

 すぐ首元に死神が刃をあてがったのだと知覚できる。


 幾度となく味わった、死の瞬間。

楽園(エデン)】における唯我独尊の領域下ではなく、現実の出来事としてボクの命が溶けて消えゆく。


「ロムルス……! おねがい、ロムルスッ!」


 ああ、いけない。

 ヨーク。声を張り上げてしまうと、意識が向いてしまうだろう。

 ぎょろり──と、狩人が標的を視覚するように、“羲戎(ぎじゅう)”種は緩慢に動きを始める。

 目標を新たにした“羲戎(ぎじゅう)”種の歩みは先のように警戒に満ちたものではなかった。

 彼女が抗う実力を持ちえないと理解しているのだろう。

 まるで敢えて恐怖を与えるように、一歩を踏みしめて追い詰めるように接近している。


 対するヨークは“羲戎(ぎじゅう)”種の思惑通り、震える脚は思うように動かず、腰の抜けた姿勢では這いずるように後退するしかできない。


 頼みの綱であった男は無惨にも腹を貫かれて身動きが取れず、攻撃的な【権能】でもなく、直截的な攻撃手段を持ちえないヨークに一矢報いる術はない。


 悠々自適にのっそりと、余裕を感じさせる足取りをもって奴は歩みを止めることなく標的の元へと着実に歩み寄る。

 七メートルはあろう縦尺を誇る“羲戎(ぎじゅう)”種の縦に避けた猫目に捉えられては平常心を保ってはいられない。

 発作を起こしたように、ヨークは荒い呼吸のまま目を見開いて()()()を待つしかない。


 “羲戎(ぎじゅう)”種は疑問を持たない。

 既に生命の途切れた隻眼隻腕の男の不存在に。


 “羲戎(ぎじゅう)”種は想像しえない。

 己が生命を脅かすであろう男の存在に。


 ────()()()だ。


「君は強かったよ」


「……っ!? ロムルス…………!?」


 ()()が“羲戎(ぎじゅう)”種の死角、左側面から走り始めると同時。

 耳をつんざく轟音が“羲戎(ぎじゅう)”種の死角、右側面から発生した。


 君は本能に忠実な獣だ。

 だから、それを利用させてもらった。

 もはや意識の埒外に置いていたであろう破れかぶれの投擲。


 大木の中腹に突き刺さったままの鉈を中心に、メキメキッ! と断末魔が如き大音声が反響する。


「──ッ──!?」


 突如として発生した爆発によって倒れ込む大木の下敷きになる“羲戎(ぎじゅう)”種。

 その困惑がありありと感じられるよ。

 俊敏性に長けた君であろうと、脅威たる男の出現と、倒れ来る大木による自由の束縛を同時に処理することは不可能。

 “霊力”を暴発させるために意図的に軌道を逸らした鉈は予期した通りのタイミングで役割を全うしてくれた。

 けれど、君は確かに己の手で息の根を止めた男が再び現れた点に疑念を抱いているのだろう。


「形勢逆転さ、“羲戎(ぎじゅう)”種。そして、君に逆転の芽は残されていない」


 簡単な話だ。

 ボクが使用できるのは“霊力”と“龍力”をボクなりに混淆させた“龍皇裂帛”。

 ついでに“魔法”。

 魔族が得意とした妙技は、【権能】のように他者を攻撃したり、身体能力を向上させたりといった使い方はできない。

 “魔法”は相手の能力を極限まで下げることで、相対的に己の能力を優位に置く手法を用いるのだ。

 そもそも生物として高みにある魔族には、それで十分。

 俗に言う能力低下(デバフ)に特化しているのだ。

 そして、ボクの使用した魔法もまた、精神感応系統の認識汚染魔法。

 戦闘が始まってから徐々に、しかして確実に発動していた魔法が、ようやく実を結んだ。

 決定打となった右脚への攻撃も、致命傷となった一撃すら、全ては幻覚に過ぎない。


 必要だったのは間隙だ。

 厄介な戦士を始末すれば、残るはか弱いヨークだけ。

 彼女へ至るまでの道筋は決まっているだから、罠は簡単に仕掛けられた。

 心理誘導をもって刻一刻と弱体化するボクを、善戦していたが一歩及ばなかった男の抵抗を徒労に終わらせる。

 それで君はボクという存在を意識下に置くことはなくなる。


「如何に膂力のある君だろうと、樹齢千年を超える大木を押し上げる力はないだろう?」


 朱色の右剣(モラルタ)を抜刀する。

 目と鼻の先にあるのはかぎ爪ではなく、無防備に晒された“羲戎(ぎじゅう)”種の首元。

 未だにズキズキと痛みを訴える胸元と右脚は必要経費だと割り切ろう。

 十分な時間を費やせなかったがためにあらゆる感覚遮断が間に合わなかった。

 おかげで、【楽園(エデン)】でないにも関わらず、一度死を味わった。


 ボクも一度死んだのだから、君も一度くらいは経験してもいいかもね。


「君のお眼鏡に、ボクはかなったのかな?」


「────J850j3708」


 死を間近に感じて、“羲戎(ぎじゅう)”種は怯まなかった。

 神聖を思わせる瞳を揺らすことなく、記号にしか聞こえない唸りをあげて。

 そっと、瞼を閉じた。

 大木から脱しようとしていた身体を止めて、審判の時をただ息を潜めて待っている。


「そうか。敬意を」


 朱色の刃は、驚くほど綺麗に吸い込まれてた。

 決して派手な音を立てることもなく、まるで予定調和の如く“羲戎(ぎじゅう)”種の首と胴とを両断した。


 黄金にも見える血潮を四方八方にまき散らしながら、神獣と称される獣は今生を終えた。

 暴威と絶望を表象したような惨状は、彼が如何に手強く、域外にあった存在であるかを証明している。

 何を思ってボクたちの前に現れたのかは不明だ。

 ただの偶然であったのかもしれない。

 答えを知ろうにも、既に彼は事切れた。


 ともかく、今は安堵してもいいだろう。


「あぁ……ヨーク。無事でよかった…………」


 どっと疲れが襲い来る。

 ()()には覚えがある。

楽園(エデン)鍛錬(トレーニング)を終えた際にのしかかる重圧。

 緊張の連続に終止符を打つと、精神にかかっていた負荷が一挙に撓む訳だ。

 つまり、限界が来たというだけ。


 必死の形相でこちらへ駆け寄るヨークの様子を見ながら。


 意識が急速に遠のいている朧気な状態で。


 ヨークの背後で蠢く空間の歪みだけが、際立って見えた。


 疑問を呈する暇すらなく。


 ボクの意識は霧中へと溶けて消えた。

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