45. 大好きだった父とそれ以外
マルド・プール領。
温暖な海洋である“オディアの魔海”を海産資源の源泉として発展した領土。
ワデラ・ジェーン山脈を東に眺める土地では差異はあれど、立場における分断は少ない方だと思う。
噂に聞くリヴァチェスター領領主の贅沢三昧や、重税ばかりをかけて領民に負担をかけるファルガー領とは違って。
もちろん、貴族位は存在して、貴族のみんなは領民よりも金銭感覚が外れてる。
それでもマルド・プール領の発展のために領主には付き従っているし、何より連綿と語り継がれてきた伝統に則って派閥はある。
大きく二つに分かれて領主の座を狙って鎬を削る関係だけど、それが競争に繋がってマルド・プール領にとってより利益のある結果に繋がる。
そう、お父さんは言っていた。
マルド・プール領前代領主ブルース=スヴァルグ=コンコート。
私の大好きなお父さんで、私の誇り。
お仕事には厳しくて、にこりともしない堅実な人だったけど。
私にだけは甘かった。
一日の仕事は必ず終わらせて、私と夕食を食べて「おやすみ、ヨーク。また明日」って額にキスをしてくれた。
そして、朝起きたら朝食を食べるために食卓を囲むの。
誠実で、愛にあふれた父親だと思う。
曲がったことも、信義に反することだって認めない正しい人。
お父さんは毎日言っていた…………毎日じゃないけど、それでも、口癖だった。
──臣下に敬意を、民に感謝を、家族に愛をって。
綺麗な理想を堂々と口にする姿は領主に相応しい人だと思わせる迫力があって、何が起こってもどっしりと構える様子は頼もしい。
むかし、私がまだ子どもだった頃に、“オディアの魔海”から魔獣が現れた時だってお父さんは最前線で戦った。
ロバートっていう“黒鉄”級冒険者の人と一緒に討伐したから、『剛腕領主』って称えられてた。
今でも簡単に思い出せる。
活気に満ち溢れた市場の熱気も、口々にお父さんを褒める貴族の人たち、謁見すらして感謝を伝えにきた人もいた。
けど、だけど、お父さんは笑顔にはならなかった。
すごい気難しい人だったから、称賛の声を素直に受け取れなかったんだと思う。
おやすみをする前にどうすればいいのかわからないって言ってたし。
これが、最初で最後の弱音だったんじゃないかな。
私の前で弱みを見せたのも、柔らかい心中を吐露したのも。
ぇ? 私がどう答えたか? ん……思い出せない。
当たり障りのない答えなんじゃないかな。大丈夫だよ、とか。みんなお父さんが大好きなんだよ、とか。
やっぱり、私は分かってない。
ううん、あの時は何もわかっていなかったんだ。
八日前ね、お父さんが死んだの。
心臓が止まったんだって。
リヴァチェスター領の領主が変わって、蒸気機関に革新が起こったって喜色満面に呟いて。
お父さんは優しくて、生真面目だったから絶対に食卓でお仕事の話はしなかったんだけど。
その日は違った。
よっぽど嬉しかったのか、私にも説明してくれた。
もし蒸気機関で舟を作れるようになったら“オディアの魔海”をもっともっと遠くまで行けるようになる。
だから、マルド・プール領も更に発展できるって。
私も嬉しかった。
歳を取って皺の増えていたお父さんは、あちこち身体にガタが来ていて、満足に笑えることも少なくなってたの。
腕を大きく回すことも、全力疾走することも、昔みたいに剣を振るうことだってできなくなった。
身体を動かす度に痛みが走るみたいで、睡眠だって碌に取れていない様子だった。
だから、私は少しでも父の力になりたくて。
「頑張ってね、お父さん。私もてつだう」
それが、最期の会話。
微笑んだお父さんがワインに口をつけたら、顔色が悪くなって……泡を吹いて。
それで、倒れて。
とても苦しそうに藻掻いてるのを、私は何もできずに固まってただけ。
助けなきゃって、お父さんが死んじゃうって、わかっていたのに。
怖くて、見たくなくて。
ドクドクって嫌な鼓動が耳に痛くて、不規則な呼吸だけが聞こえていて、ついさっき飲み込んだ食材がせりあがってきた。
頭はぐわんぐわん回ってて、変な汗が身体中から出てて、涙は止まらなかった。
びちゃびちゃ! って、広げた吐瀉物の臭いはむせ返りどうで。
もう、どうにかなりそうだった。
正気を保つのに精一杯だった中で、どれくらい時間が経ったかわからないけど、大慌てで使用人の人たちが来てくれた。
みんなが宥めて、慰めてくれてようやく私は正気に戻れたけど。
もしかしたら、私が私でなくなっちゃった方が良かったのかもしれない。
だって、お父さんはいないもん。
私がしっかり者だったら、私が領主の娘として完璧だったら。
お父さんも助けられたかもしれないのに。
父親を見殺しにした極悪人、そう言われても仕方ないんだ。
……? 誰がって…………ラクノア、ラクノア=ゲティア=コンコート。
一応、私のお姉さんにあたる人。
同じコンコート家だけど、遠い遠い親戚だから会ったこともほんの数回しかない。
ミドルネームのゲティアは、私たちスヴァルグと犬猿の仲で…………明け透けに言っちゃえば領主になれるたった二つの家系なの。
ずっと昔から仲の悪いゲティア家だけど、私とラクノアは家柄なんて関係なく相性最悪だった。
ラクノアはなんていうんだろう……とっても目立ちたがり屋なの。
派手な服装だったり、最先端のスタイルだったり、とにかく自分が一番じゃないと気が済まない人。
まだ私が五歳の頃にパーティーで初めて会ったけど、その時から言葉に棘があった。
会う人みんなを見下して、いつだって自分が上に立っていないと自意識が保てないんだと思う。
私は、苦手。
お屋敷の人たちはいい人だって、慈悲深い人だって褒めるけど。
私は知ってる。
お父さんが亡くなって、直ぐに次の領主を決めなくちゃいけないからラクノアを招待した時、あの人はメイドたちに悪口を言ってたの。
どうして私のドレスが準備されてないの!? って、しっちゃかめっちゃかに喚いてた。
メイドのみんなだってラクノアのために沢山のドレスを用意していたのに、気に入らないからって理由で当たり散らして。
みっともないとも思うし、こんな人にお父さんの後継が務まるとも思えなかった。
でも、私はもっと酷くて、惨めだ。
大好きだったお父さんの命も救えなくて、私を応援してくれた人たちの期待を裏切って。
挙句の果てには、騙されて。
捨てられた。
ロムルス。
これが答えだよ。
私は根暗で、最低で、救いようのない悪人なんだよ。
何も守れなくて、ぜんぶぜんぶ掌から零れ落ちて。
もう二度とマルド・プール領には戻れなくて。
私は──安心したんだ。
もう、あんな怖い所に戻らなくていいって。
ドミア山脈に捨てられて、誰にも知られずに死んでいくのもお似合いなんだよ。
臆病な恩知らず。
お父さんの遺志も継げず、自分可愛さにみんなを切り捨てた。
だから、ロムルスは。
私のことなんて、考えなくていいんだよ?
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嗚咽の混じった声音は、酷く乾燥した表情から紡がれた。
機微の少ない面持ちで後悔を、懺悔を口にする彼女の姿はとても痛々しい。
諦観と達観は大きく違う。
後者ならばまだ立ち上がるだけの余力を残している。
しかし、前者は既に折れて、砕かれて、再起の芽を摘まれた状態にある。
ヨークは贔屓目なしに前者だ。
敬愛する父親は毒殺され、見殺しにしたと罵声を浴びせられる。
最愛の人を失った際の喪失感や無力感は、ボクにとって身近なものだ。
己で己を殴り、壊して、果ては殺す。
けれど最後には保身を前に糾弾の手を緩めてしまう。
膝を抱えて、色を失った瞳で虚ろを晒すヨークは負けたのだ。
政戦? 謀略? 陰謀? 否、己に。
最後まで父親の無念を晴らす道はあったのだろう。
分家の領主候補を下して領主となる道は残されていただろう。
だが、ヨークはその全てに背を向けて考えうる限り最も簡明な道を選択した。
その決断を、彼女は悔いている。
あらゆる情報を加味する必要もなく、皮肉なことにブルースの教育は成功していた。
ヨークは正しく、優しく、堅実に育った。
彼の育てた最善の領主たる枝葉は、害敵によって朽ちてしまったけれど。
養分を含んだ土壌へと丁寧に埋められた芽には、届いてはいない。
ブルース=コンコート。
君の娘はとっても素直に、実直に成長したよ。
彼女は己を許せずにいる。
ああ、そうだろう。
ボクだって似たような境遇にあって、未だに恕すことができずにいるのだから。
そう、だから。
ボクは何も言えない。
己の事情を棚に上げて、再び地獄となってしまった故郷へと帰れなんて。
けれど、だとしても。
暗々とした僻地で、出口のない迷路で卑下し続け、最後には誰にも看取られず死するなど。
到底、許容できるはずもない。
ボクは寄り添えない。
例え、実行したところで安っぽい同情だけが浮ついた言葉で紡がれるだけだ。
ヨークには悪いが、彼女の思い上がりを糺させてもらおう。
「ヨーク、君は──」
「いい。何も言わないで」
ぴしゃりと踏み込もうとしたボクの口は、酷く冷たい彼女の拒絶によって閉ざされた。
何人をも寄せ付けない鬱屈とした様子がありありと感じられる。
「ロムルスは優しい。だから、私を助けてくれる」
「優しいか……それは過大評価というやつさ」
「違う。ずっと気にかけてくれてる。私が立ち直るって、信じてくれてる」
これは驚いた。
たどたどしくも必死に懇願するヨークは、俯瞰して、客観的に物事を捉えられている。
粘着質な漆黒の失意に呑まれていようと、それでも、この少女は他者を慮れるのだ。
ああ、ボクはよく知っている。
善良で愛に満ち溢れた者を。
まったく、つくづく世界とやらはボクに厳しいな。
ボクの行動を、新たにした信念を、こんな形で弾劾してくれるなんてね。
「私は大丈夫。大丈夫だから」
…………はは、あの人もそんな顔をしていたっけ。
かつては思い至りもしなかった印象だ。
ヨーク。
やはり、大丈夫なんかじゃないよ。
君は小さく微笑んでいるつもりだろうけど。
悲痛に歪んだそれは。
誰かに救いを求める者の顔だよ。
「ヨーク。君は思い違いをしている」
「ぇ……?」
君には酷だろうけれど、断言しよう。
想像を絶する痛みを受けて他者との関係を取ろうとする心持ちはよく理解できる。
けれど、ボクは言わなければならない。
断頭台に押し上げるだけでは満足できず、ギロチンを落とす役目すらボクが担おう。
「君程度が最低最悪な臆病者に相応しいとは思わないことだ」
「…………、ぇっと?」
激励の言葉をかけられると思ったかい?
失意のどん底から救ってもらえると思ったかい?
それとも、己の行動を批判してもらえるとでも思ったのかい?
予期しない言葉に思考が停滞しているようだ。
初めて変化を見せてくれたね、ヨーク。
ぽかんと当惑を隠せない様子は却って新鮮だ。
「世界は広い。とてつもなく広大で、君の想像力の及ばない愚者だって、臆病者だってごまんといる」
「ち、ちょっとまって…………? なにいって……?」
「いるんだよ、君が霞む程に愚かしくて、泥濘を清水だと信じてやまない表六玉が」
君には視界に映る全てが色のない醜悪な塊に視えているのだろう。
泥沼にまみれた中で、一際劣悪に感じられる者こそ己だと。
「この世界にはね、大切な人を一人にしないと虚像の決意を自認しただけの妄言者とか、自己犠牲を尊び早々と自力を諦めるバカだとか、必死に守ろうとして空回る悪人なんかがいるんだ」
何人にも憎悪を向けられる姉の寄る辺は彼だけだった。
頗る気分の悪い代償行為を目論んでとっとと消え失せた私は卑怯に過ぎる。
そして、勝手にレッテルを貼り付けて遠ざけた自己満足な秘密主義が災いした悪人などは目も当てられない。
しかし、それでも。
数多の自己陶酔的で高慢ちきな小心者を踏みつけにして、ここにボクはいる。
「ヨーク。君は『悪人』だと嘲った。けれどね、悪徳の栄えならばボクに勝る者はいない。精々が小悪党か、悪人だと自称している善人だ」
「…………ロムルスも、後悔したことがあるの?」
「日常茶飯事さ。常に過去のボクへ悪罵を投げかけている。「もっといい方法があったんじゃないか?」って取り返しのつかない自問自答ばかり繰り返してる」
「……っ、私といっしょ…………」
「そうさ、ヨーク。人間はそういうものさ。いつだって悔悟に付きまとわれて、振り払いきれずに憑かれてしまう。けれど、歩みを止めることはできない。そうだろう? ヨーク」
わかってるさ、【運命識士】。
とても卑怯な手だ。
奮起した責任を取らず、今一度業火の最中へと背を押す。
正しく、『極悪人』の所業だ。
ならば問おう、【運命識士】。
君は、得も知れない罰を甘んじて受け入れようとしている彼女を見捨てるというのか。
ここで彼女を、ヨークを独りにして、ボクに理想を語る資格はあるのか。
ああ、その通りだ。
先の言葉に噓はない。
心から、創り上げた言の葉だ。
相変わらず表情に変化はない。
だが、確かに燻っていた篝火に、灯がともった。
瞳で揺れる深紅の覚悟、固く引き絞った弓なりの口元、まるで弱さを振り切ったように目尻に浮かんだ涙を拭う仕草。
「ロムルス…………お願い、私を────」
だから、その刹那に奔った警鐘はボクの本能を突き動かした。
やっと本心を口にしてくれた彼女に覆いかぶさるように。
機能していたはずの【権能】を再び起動させて。
魂を揺さぶる絶叫と、支柱を失い瓦礫する穴倉で。
ボクは鈍く光る赤い相貌を、視たのだ。




