44. 二分された世界で
空気が澄み渡っているな。
リヴァチェスター領から流れる寒冷な風と、ファルガー領の温暖な空気が密林であるドミア山脈を過ごしやすい地に変貌させているのだろう。
土壌や環境はアデラ・ジェーン山脈と何ら変わらないけれど、ドミア山脈には服が肌に張り付く湿気や、照りつける陽光が不快に感じない。
朝焼けに輝く雫、山頂が赤く燃え、山鳥は口々に新しい一日を寿ぐ。
肺を満たす空気は透明で、気分は爽快だ。
あと数分もすれば太陽は完全にその姿を見せることとなり、本格的に一日を始めることだろう。
とても幻想的で、原始的な光景だ。
まあ、三日続けて眺めていると多少の飽きがくるけど。
身に染みこみつつあるルーティンをこなしていると、いつの間にか感動に突き動かされた純粋な感受性も摩耗してしまう。
夜明けと共に起床し、朝ぼらけを瞼に焼き付けて、朝露を収集する。
拠点とする洞窟はファルガー領と密林の中心地に近しい位置にある。
南方には魔獣と遭遇した街道があり、北にはリヴァチェスター領とファルガー領を隔てる山頂が視界に収まる。
そのため、行動範囲は自然と北方へと限られてしまう。
人の行き来が頻繫にあれば、知恵の働く動物は寄り付かない。
残念ながら、人間は己の糧になる栄養がなくては緩やかに死を迎える生物だ。
…………生物は皆そうか。
幾ら澄み切った水であろうと必要な栄養分は含まれておらず、幾ら大量の野草を食そうがエネルギーには繋がらない。
つまりはバランスだ。
不純物のない水と適量の緑、そして、肉。
幸いなことに、ここは山中。
適当に歩いていても腹をすかせた獣は見つけられる。
ましてや、【運命識士】から答えを授かった外道はどこにお目当ての獣がいるのか知悉している。
猪は飽食する程に食したし、変わり種が欲しいと思い立って熊を狩ってみました。
ついでに河川で悠々と泳いでいた鴨も二匹ほど捕縛しておいた。
やはり鉈は本来の使い方をすべきだ。
獣の皮と削ぎ、肉を切り分ける。
おいおい、一体どこのどいつだ? 帝国一番の武芸者相手になまくらの鉈で対抗したやつは。ボクだ。
自問自答をしながら拠点まで戻ると眠気眼で顔を洗うヨークと挨拶をする。
一着しかないワンピースは夜のうちに洗濯と乾燥をするため、完全に頭を起こしていない彼女は毎朝下着姿でボクの目の前に現れる。
年頃の乙女がそれでいいのか? とは思わなくもない。
初日の夜だって【楽園】があるから外で寝ようとしたボクを強引に隣に寝かしたのだ。
無論、ボクの軍服だって干しているため、見る者によっては事後だ。
風紀の乱れそのものだ。
半裸の男が隣にいるのに寝息をたてられるヨークが異常なのか、それともボクに魅力がないのか。
やもすると、後者の可能性が高い。
今までにもアナスタシアたちと野営をしてきたが、警戒されたのは初日だけだ。
信頼の裏返しなのか、それとも、興味すら持ってもらえないのか。
やめよう。自傷行為なんて今時流行らない。
閑話休題。
「おはよう、ヨーク。着替えてきたまえ。直ぐに朝食の準備をしよう」
「……ふぁい。きがえる」
こくりと小さく頷いたヨークは牛歩をもってふらふらと洞窟へと戻る。
ぴょんぴょんと撥ねた寝ぐせだらけの赤髪を揺らしながら、おぼつかない足取りの後ろ姿はどこかで怪我をしないか心配になる。
低血圧なのか、それとも単に朝が弱いのか、ただでさえ動きの小さい彼女は声も殆ど聞こえない。
自己主張の少ないためか、纏う雰囲気も穏やかでヨークの周囲だけ時間の経過が緩慢に感じられる。
怜悧なアナスタシアや、抜き身の刃のような鋭利さをもつホロウ、おどおどとしたアヤメ、花畑のような可憐なマルタとは異なる。
和やかなテリアが近しいけれど、どうにも方向性が異なるように思える。
朴念仁や唐変木とも違う。
ぼうっとしていて…………そうだ、鈍感だ。
しかし、不器用な訳ではない。
きびきびと動くこともあるが、彼女を表すイメージはのんびりとした印象が強い。
「慣れるまでには時間がかかるだろうな」
文明が発達したとはいえ、まだまだこの世界ではひりついた緊張感が漂っている。
魔獣の脅威や、経済の変化、忌避される身分の相違。
なんであれ、ヨークのように己の調子を確固たるものにしている人物は少ない。
よく言えばマイペース、悪く言えばとろいやつ。
相手によっては神経を逆撫でされる感覚だろうな。
他者との軋轢を軽視する末路は散々たるもの。
彼女を襲った悲劇もまた、人為的で悪意に満ちたものだった。
「……いい匂い」
「香辛料がないから味付けは塩だけだけど、上出来だとは思うよ」
「ん。とっても美味しそう」
もはや見慣れたワンピース姿のヨークは、起きているのか判断できない程の半眼で切り株に座る。
生活空間の向上、それすなわちストレスの軽減。
逃避行と長旅のおかげで身についたライフハックだ。
ヨークは鈍感だけど、積もり積もればいつ限界に達するかわからない。
定位置となった切り株に、木を削って作製した皿に盛った朝食を並べる。
寝起きから肉はインパクトが強いが、小麦粉やパン粉が手元にない状況では致し方あるまい。
熊肉を焼き塩を振ってスライスしただけの簡素なもの。
しかし、昨日までのイノシシ肉とは異なる食感や独特の風味は満足のいくものだった。
ボクはね。
相変わらず表情に変化のないヨークの感想は不明だ。
初日にイノシシ肉を頬張っていた時は目を輝かせて感激していたが、日を重ねる毎に変化は乏しいものになった。
今ではもそもそと機械的に肉を口に運ぶ作業をしているように感じる。
ストレスには気を配っていたから精神的な疲弊ではあるまい。
とすれば。
「さて、ボクは昼食の調達に行ってくるよ。くれぐれも【楽園】からは出ないようにね」
「………………ん」
ほんのわずかな首肯。
瞬きもなく、視線だって動いていない。
喉の動きもごくわずかで、返答したのか判断がつかない。
だが、ヨークは確かに返事をした。
恐ろしく小さい肯定。
ボクでなきゃ見逃しちゃうね。
…………疲れているのはボクかもしれない。
「心に余裕ができると…………どうしても考えてしまうよね」
嘯いて退席した足で木陰に潜んでヨークの様子を窺う。
ここまでは予定調和の範疇。
卑怯者の誹りは受けよう。
不可侵を謳う私的な空間にずかずかと土足で立ち入って、ただでさえ目を背けたい事実を強要する。
それも無断で。
初日は拠点となる洞窟や、生存に欠かせない類の調達を行った。
切り株の椅子や机、不格好な皿、塩や食事などは全て計画の準備に過ぎない。
チェックをかけるように【楽園】という絶対不可侵領域まで常時展開しておく。
安心と安寧、快適と限りなくゼロに近いストレス。
四日前までは生き残ることに意識を割いていたリソースを、余暇につぎ込めるように。
知識も経験もない中で三日も孤独で生き永らえた彼女の意地と幸運は見事だ。
【権能】を利用して精神を保っていたが、それでも限界はある。
彼女の手が届く範囲にボクが墜落したのは奇跡以外の何物でもない。
慣れと飽きは遅延性の毒だ。
心を突き動かす感動も、恐怖に抗う反発心も、次第に鈍麻する。
人間の感性では必然的な機能で、かくあれかしと設計された以上、摂理とすら言える。
ボクの仕掛けた罠は存分に効力を発揮してる。
頒布してきた毒は十分に機能しつつある。
頃合いだろう。
「存外、後味は悪い」
苦く、吐き出したい。
純粋で潔白の彼女を弄び、恣意的に思考を操作する。
最低最悪のゲス野郎だ。
ヨークにとっては見たくも思い出したくもないものを掘り起こして、ただボクが気に入らない一点で思索せざるを得ないなど。
けど、後悔は必要ない。
懺悔は後で幾らでもすればいい。
詰めを怠るつもりはない。
決行は、日が落ちてから。
チェックメイトをかける。
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血の滴る山鳥を三匹ほど狩り終えるのに、半日をかけた。
勿論、わざとだ。
【運命識士】があれば縦横無尽に空を駆ける鳥であれど、路傍の石を投擲するだけでいい。
“未来”の光景をそのまま現実に投影するだけでいいから。
けれど、今回の狩猟はただの食料調達にあらず。
所詮、時間潰しだ。
今夜、ボクはヨークの心に踏み込む。
“未来”を順当になぞれば、明日にはドミア山脈を発つことになる。
保存食は十分に準備してあるため、これ以上の狩りは不要。
故に、ヨークの意識を現実に引き戻す時間を見計らっただけの行動。
帰路に至っても普段の数倍は時間をかけて回り道をしながら歩みを進める。
見かけ倒しの抵抗が功を奏したのか、日は落ちて徐々に闇の帳が降りつつある。
「……っ、おかえり」
獣の毛皮を剥いで作成した簡易的な毛布の上で、ヨークはうつらうつらと舟をこぎながらも起きて待っていた。
やや腫れた目元を見るに、寂寞と不安に充てられたみたいだ。
「ああ、戻ったよ」
これまでボクは狩猟を一時間以内と決めて帰還していた。
一日の八割をヨークと過ごしてきたからこそ、半日も離れていた事実がそっくりそのまま思索に耽る時間となる。
幾許か消耗している様子を鑑みるに、二度とボクが戻らない状況まで想像したことだろう。
もしかすると、ずっと一人かもしれない…………そんな、根源的な恐怖を煽ったのだ。
ドミア山脈に訪れた当初は一人でも生きていこうと固めた決意も、一度平穏を味わってしまえば酷寒に戻るのは至難の業だ。
殊に、家族に裏切られたヨークにとって、未知の世界で生まれた絆を過信するのは難しいだろうしね。
「今日は鳥? 獲ってきたの?」
「ああ、時間はかかってしまったけれどね」
「てつだう」
「助かるよ。じゃあ羽を取ってもらおうかな」
沈黙の時間が流れる。
とても窮屈で、異様な空間。
昨日まではわざと無音を生じさせないように言葉を紡いできた。
ヨークの背景には触れずに、ボクの素性やアナスタシアたちとの旅路を面白おかしく語って過ごした。
耳朶を打つのは衣擦れの音や、木々がざわめく音、梟の鳴き声、耳の痛い時間だ。
異変を感じ取ったのか、ヨークは俯いて忙しなく視線を動かして横目にボクの様子を伺っている。
無論、声はかけない。
たった数日であれど一人ではない時間を経験した彼女にとっては、拷問のような時間だっただろう。
楽園のように感じられた一時が、薄氷の上に立つ虚像に思える刹那。
蜃気楼に弄ばれた虚像だと、ようやく自覚させられた。
この時点で既にボクは人でなしだ。
やり方は幾らでもあった。
より時間をかけて親しくなってから、お為ごかしの欺瞞で包み隠して言葉巧みに誘導したり。
口八丁手八丁の口巧者、詐欺師の本領発揮だろうに。
ほんの一欠片、針一本の良心が静止している。
葛藤し、問い質し、真にそれが必要なのか提起し続けている。
それでも、ボクは最も残酷で非情な方法を選択した。
浮かんでは消える数多の甘言は優しいだけの噓だから。
彼女に必要なのは傷心を癒す美辞麗句だ。
彼女が必要としているのは手折れた心を繋ぎ合わせてくれる万能薬だ。
彼女を取り巻く人間が必要としているのは彼女が負け犬であることだ。
「ヨーク。ボクは明日ここを発つ。君はどうする?」
ヨーク=スヴァルグ=コンコートが渇望しているのは停滞を打ち壊すきっかけだ。
見かけ倒しの平和でも、噓で塗り固めた親愛でもない。
淀んだ心中を、潰れた自尊心を。
晴れ渡らせるだけの言葉を、人間を、彼女は待ち望んでいる。
でなければ。
見ず知らずの男を、人間不信に陥ったヨークが助けるはずもない。
意識を失ったボクは放っておけば命にかかわるダメージを負っていた。
案外危機的状況にあったボクが一命をとりとめたのは、偏に彼女の尽力あってのことだ。
恩を仇で返すようで心底申し訳ないとも思うけれど。
裏切られ、迫害され、背信の限りを尽くされたヨークにとっての救い。
「ボクは君のことを知らない。教えてはくれないかな?」
ああ、なんて残忍な人でなしなのだろうか。
答えに窮する彼女に対して、視野狭窄に喘いでいるヨークに、たった一つの道筋を提示して。
選択肢を丁寧に一つ一つ潰して、不安を限界まで高めて、さも当然のように操り人形が如く操作する。
けれど、彼女がこれを望んでいた。
誰かに聞いてもらいたい、手を取って連れ出してほしいと。
残念ながら、ボクでは完全に叶えることはできないけれど。
話は聞こう。
全てを知悉しているけれど、当人の口から感情と共に再度聞こう。
しかし、手は取らない。
他人に与えられた選択肢など脆く、直ぐに剝がれる塗装に過ぎない。
彼女が踏み出す、その刹那を信じて。
ボクは彼女を断頭台に押し上げるのだ。




