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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第二章【自由の象徴】──第三部【南の慈愛】
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43. 懐かしきかな密林

 昏い世界だ。

 瞼は鉛を塗りたくったかのように重く、四肢は彫刻にでもなったのかと疑いたくなる程にぴくりとも動かせない。

 横になっているだけなのに、どこまでも沈み込んでしまいそうになる感覚。

 底なし沼に絡めとられて刻一刻と自由が利かなくなる切迫感。

 息の詰まるようなきりきりとした空間に響く荒い呼吸は()のものだ。

 しんと静まり返った自室で、現実を受け入れきれずにいやだいやだと子どものように駄々をこねている。

 希望的観測に酔い、目を背け続けてきた結果が、ついにこの身に降りかかってきた。

 あの人が行方不明になって早数日。

 警察や地域住民の捜索も虚しく、少女一人見つけられずに途方に暮れていた。

 もしかしたら、明日にでもひょこっと出てきて「ざんねん、私を見つけられなかったね」とからかってくれないかと夢想してしまう。

 まったくバカバカしく、そして何て綺麗な妄想なのだろうか。

 私を取り巻く世界は、想像よりも数倍醜く汚らしい。

 嫌悪の対象であった姉を追放する算段を立てていた親戚は、濡れ手に粟とばかりに歓喜を隠そうともせず。

 これで平和が訪れたと言わんばかりに安堵していた。

 そして、次に話題に挙がるのは、どうやって私を追いやろうかって話だ。

 反吐の出る伝統主義の家系で、唯一姉を慕い、親密にしていた異分子である私を葬るか。

 勝手にしていろと言いたいところだが、生憎とそうもいかない。

 昨晩などあからさまに毒物を混入したであろう夜食を、さも心配している風を装って持ち出してきた。

 命の危機を如実に感じて易々と引き下がっていい訳がない。

 姉は…………途轍もなく広く澄んだ心で害意を許し、あまつさえ笑顔を見せていたことだろう。


 だが、私は違う。


 姉に石を投げた者、冷笑を携えた者、悪罵を口走った者、不遇に扱った者、見下した者、拳を振り上げた者、苦痛を与えた者、出来損ないだと蔑んだ者、全てに。

 私は許しを与えない。

 見返し、首を垂れ這いつくばらせてやろう。

 そして、心の底から、姉への懺悔を口にさせる。

 魂そのものに後悔を刻み付けてやろう。


 そのために、私は斃れる訳にはいかないのだ。







 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐







 冷たく。

 苦い。

 極めつけは、黒い。


 詰まらない記憶だ。

 彼女を引き留められなかった後悔と義憤を、周囲に当たり散らしていただけの子どもだ。

 もし()()が安住の地になれたのだとしたら……きっと、隣には姉がいただろう。

 いや、待てよ。あいつらだって史上最悪のごみクズなんだから報いは受けるべきだ。

 そうだ、その通り。あくまでボクが手を下す必要はないのであって………………それが分かるのも、ある程度呑み下した今だからなのかもね。


「……っ。打撲かな。打ち身に、ひびも入ってるのか」


 身じろぎ一つするだけで全身へと痛みが伝播する。

 健全に動く視界だけを頼りに周囲を鑑みると、ごつごつと岩肌に僅かな光以外は何もない空虚な空間にぽつねんとボクが寝転がっているだけだ。

 ついでに脇に追いやられたボクの一張羅。

 そういえば、ボクは半裸だ。

 ぴりりと痛みを訴える首筋を黙らせて視界を上げると、丁寧に手当てがされているように見える。

 というのも、白い包帯ではなく、ありふれた木の葉を巻き付けてあるだけなので推測だが。


 はてさて、何があったのだろうか。

 あの忌々しい魔獣の猛き反抗によって意識が飛ばされたせいで何も覚えちゃいない。


「久しぶりに開いてみるか」


運命識士(リード・スペクター)】は本来、金色の装飾の施された百科事典の様相をしている。

 その姿を顕現させたのは使い慣れない当初のみで、多少使い勝手の分かってきた近頃は脳内に直接情報を流し込んでいた。

 しかし、起き抜けの茫洋としている状態で、情報の濁流を受ければどうなるのか。

 想像に難くない。

 右から左だ。

 さざめく木々が音を立てるように、太陽が昇りやがては沈むように。

 必然の事柄であり、人間である以上は致し方ないけれど。

 聞き流してしまうだろうな、いまは。


 中空へ浮かぶ瀟洒な本。

 寝転がったままという行儀の悪い態勢で、ボクは顛末へと目を通そうとした。

 しかし、ボクの意識はふいに訪れた気配によって途切れてしまった。


「ぁ……、起きてる」


 ぼそっと、まるで聞かせる気のない声音でボクを睥睨している。

 腕には大量の枝が抱えられている他には、逆光のおかげで特徴が捉えられない。

 ついでに、キラキラと存在を主張しながらふわふわと浮遊する一冊の本。


「済まない、少し待ってくれ。直ぐ起きよう」


 調べ物は後回しだ。

運命識士(リード・スペクター)】へと回していた分の“霊力”を全身へと行き渡らせる。

 柔らかい雲海で抱擁されるような、母なる海で揺蕩うような。

 砕けた骨や潰れた内蔵、青黒く変色した肌まで。

 まるで端から何もなかったと白紙に戻し終えられた。

 グッと腹筋に力を入れるとぴりりと走った痛みは噓のように消え去り、果ては上半身を起き上げたとしても異変は感じられなかった。


「ゎぁ……っ、すごい。それって、“霊力”?」


「ああ。巡回させる量を調整すれば存外、簡単にできるよ」


「“霊力”で傷を治すのは難しいって言い伝えだけど……そうでもない?」


「うん、そうでもない。コツを掴むまでは難しいかもね」


 コツ……? ほわわんって感じかな? と自問自答する少女は抱えていた枝を脇に置き、“霊力”を合わせた両手に集めだした。

 ショートブーツに淡い山吹色の膝丈ウェストギャザーワンピース、白いカーディガンを羽織り、茜色の長髪をリボンのようにまとめている。

 むむむと唸りながら実践しようと果敢に挑戦している彼女に声をかけるのは些か憚れるな。


「ん、ごめんなさい。集中しちゃった」


「あ、ああ。問題はないよ。思う存分試してみるといい」


「ううん。もう疲れたからやめとく」


 頭を振ってこてんとその場で横になる少女は息を整えるようにため息を吐いた。

 不思議な雰囲気の少女だ。

 歳のほどはホロウやテリアよりも高いだろうが、アナスタシアや、マルタよりも低いだろう。

 そういえば、アヤメの年齢は聞いていないな。

 外見上はテリアよりも高そうだが、彼女は魔族の末裔だ。

 見た目で判断するのは愚の骨頂。

 やもすると、仲間内では最年長かもしれないね。

 そうは見えない点は置いておいて。


「もしかして、君が治療してくれたのかい?」


 肩を回すと痛みは走らず、“霊力”を流したおかげですこぶる調子がいい。

 “霊力”マッサージか。

 商標登録でもしようかな。

 肩こり解消、血行促進、万病に効く“霊力”マッサージ…………うん、胡散臭い。


「すごい痛そうだったから」


 バカな妄想はメゾソプラノの声色によって雲散霧消した。


「ありがとう、とても助かったよ。見ず知らずの男相手に本当にありがとう」


 本心だ。

 記憶が確かならば、ボクは魔獣の抵抗にあって吹き飛ばされたはず。

 一体どこまで飛ばされたのかは定かではないが、アナスタシアたちとは相当離れてしまっている。

 なにせ鼻につく緑の香り。

 赤髪の少女の抱えてきた枝。

 考えるまでもなく、ここはドミア山脈、その密林だろう。

 リヴァチェスター領とファルガー領を両断するドミア山脈は、アデラ・ジェーン山脈程に広大ではないけれど、領土を分断するだけの幅はある。

 縦幅か、横幅か。

 ただそれだけの違いに過ぎない。

 故に、人の手の行き届かない未開の地ならではの危険はごまんと存在する。


 ああ、まったく己が嫌になる。


 ボクは疑っている。

 善意だけで助けてくれたかもしれない相手に、万が一の悪意を懸念している。

 どす黒い失望と、致し方ないと正当化する理性が葛藤しているのが分かる。


「それで、つかぬ事を聞くのだけれどね──」


 迂遠に、白々しく。

 厚顔無恥も甚だしい。

 二言三言の会話の中でも、綺麗に畳まれた軍服に袖は通してある。

 内ポケットに納刀してある鉈も、腰に佩いていた双剣も、どちらも健在。

 見殺しにしてもよかった相手だのに、彼女は武器も没収せずに放置した。


「違う」


「……? 何が違うんだい?」


 憮然としているのだろうか? ただ一言、否を唱える少女に表情の変化はない。

 無表情の仏頂面。

 けれど、やや頬が膨れているようだから、不満を体現しているのか?


「名前。ありがとうの後は名前」


「…………そうか、成程。名乗り遅れていたね。ボクはオリバー=ロムルス」


「ん。私はヨーク」


 小さく頷いた少女、基いヨークは満足気に微笑みを浮かべて右手を差し出した。

 自己紹介は終わったのだしこれでお友だち……のように、親愛を感じさせる朗らかな微笑だ。

 とてもじゃないが、疑う気にはなれない。

 どこからどう見ても、ありふれた町娘のような様相だ。

 言葉少なで、無感情な点を除けばだが。


 とはいえ、ヨークに危害を加える動きは今のところ見受けられない。

 そもそも殺す気なら助ける必要性もない。


 ならば、今はひとまず、無意味な警戒は止めるべきだな。







 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐







 魔獣の伊吹(ラスト・パターン)

 それがボクの失態だった。

 死に際の魔獣がため込んだ“霊力”を放出することは往々にあるらしい。

 だが、消化不良の“霊力”であった場合、大気中に漂っているそれとは性質を異にする。

 異なる性質の“霊力”が反発し合って大規模な霊力爆発を起こすことは類まれなる確率で起こりうる。

運命識士(リード・スペクター)】による“未来視”を切ったために、ボクは警戒を怠り今に至る訳だ。

 なんて無様。

 お荷物になるどころか、足手まといに成り下がるとは。

 世が世なら切腹ものじゃないか。

 幸いなことに【運命識士(リード・スペクター)】曰く、アナスタシアたちは先を急いでくれた。

 ある程度の着地点が判明しているからといって、ボクの捜索へ時間を割くのは愚策だ。

 広大な樹海へと大人数で、それも大荷物を積載したままの行動では機動力に欠ける。

 もし行き違いになどなってしまえば目も当てられない。

 きっと、皆はボクが自力で帰還し、ファルガー領で合流することと踏んだろう。

 …………そうだよね? きっとそうだよ。これでいい厄介払いができたと思われていたらうっかり自死を選ぶ。


「さて、ここからどうしたものか」


 ぽつりと呟いた独白はヴンと伽藍洞の洞窟へと反響した。

 正直に今すぐにでもここから発ってアナスタシアたちの後を追いかけたい。

 だが、口惜しいことに、これ以上の行動は起こせない。

 洞窟の出入口から差し込む光は僅かに黄昏色を含んでおり、あと数分で夜を引き連れてくるだろう。

 ()()の山道は想像を絶する程に悪路だ。

 月明かりのみを足掛かりに、ただでさえ方向感覚の狂う山中を移動するのだ。

 強行軍の苦痛はアデラの逃亡生活で嫌というほど味わった。

 夜目の利かないボクでは肉食獣及び魔獣の警戒もままならず、“未来視”を用いるにしても非常に効率が悪い。

 故に、徐々に闇へ近づく世界を横目に、ぐつぐつと煮たるような焦燥感と、忸怩たる後悔に耐え続けるしかない。


 それに──


「置いていくなんて、できないよな」


 頼りすぎるなとは思う。

 けれど、油断が生んだ過失のせいで、全身を蝕む自責の念に炙られてるのだから大目に見よう。


 ボクがこの洞窟から動けない理由。

 小さくはにかむも表情には現れない不器用な少女。


 ヨーク。


 泥で汚れてはいたが上等なブーツ、枝で切ったのか所々解れていた服装、滑らかな赤髪。

 まるで山中には似合わない格好で、血色の良い頬ときたものだ。

 何か複雑な事情があるのだろう。

 まさか、所作の一つ一つの洗礼された彼女に家名がない訳がない。

 ヨークは意図的に家名を秘匿した。

 とても高い防犯意識ではある。

 身につける物だけで良家なのは一目瞭然なのだが、それでも本名を隠匿するのは必然。


 しかし、【運命識士(リード・スペクター)】の前には如何なる秘密も欺瞞も通用しない。


 複雑も難解。

 理解はできるが大変面倒な経緯を辿って、彼女はドミア山脈の洞窟に流れ着いた。

 彼女の責には帰さない、不条理によって。

 何も好き好んでドミア山脈まで足を運んだ訳ではなく、彼女の得も知れない思惑の果てにここに至った。

 彼女が必要として自然の中で生きるというならボクだって異を唱えまい。

 しかし、そうではないのだ。

 ならば、ボクのすべきことは。


「ん、ロムルス。いっぱいあった」


「ああ、そうか。なら組木の中に放ってごらん」


「こう?」


「ああ。あとは火種を放り込むだけ。乾燥した草の塊に、鉈と石を使って」


「まかせて」


 言葉少なに火種を作って焚き木の手順に入るヨーク。

 闇に包まれる前に大量の松ぼっくりを抱えて帰ってきた彼女は、従順にボクの指示を守る。

 危なっかしい手つきで悪戦苦闘する姿は、とても新鮮で。

 だからこそ、彼女が山暮らしに慣れていない証左となる。


 きっと余計なお世話、無駄な干渉になるのだろう。

 もしかすると、ヨークはこのまま人知れずドミア山脈で果てる方が良いかもしれない。

 だから、ボクの行動は褒められたものじゃない。

 終わるはずだった彼女の人生を、半ば無理矢理修復するのだから。

 八つ裂きにされた心を、目を逸らしている生傷の癒えない魂へと意識を向ける。

 ボクは外道に徹する。

 忘れたいと願う彼女に、嫌でも思い出させて立ち直る契機とする。

 既に道筋は定まっている。

運命識士(リード・スペクター)】を基盤に、拙いながらもボクの言葉で伝えるべきものはある。



 済まない、アナスタシア。

 そちらへ向かうのは少しばかり先になるようだ。


 どうか許してくれ。

 ボクに、ヨークを救わせてくれ。

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