7. 『悪人』
不安、懐疑、猜疑。
それが心中を占める感情だった。
見渡す限り漆黒の塗りたくられた深夜の城塞都市にあって、毎秒降りかかる負の感情に押しつぶされそうになる。
可能な限り息を潜めて迷路のようなドルの裏路地を、まるで示し合わせたように明確な足取りを持って進む。
今この瞬間にも弱気が首をもたげて逃げ出したくなる本能を抑え込む意図を込めて歯を噛み締める。
あの澄まし顔の青年……同じ独房に入って、まるで誘導されるように語った生い立ちに異常な程の共感を示した変人。
客観的に見て同情される幼少期を過ごしたわけではない。
商人として各地を転々とするにつれて、自分の抱えてきた悲劇が如何にありふれていたか、なんて嫌でも思い知らされた。
だがらこそ、わかる。
彼は同情したのではなく、共感したのだと。
しかし、アナスタシアには彼が自分と同じ経験をしたようには思えなかった。
まるで意思を感じさせない白濁色の瞳、隠蔽しようとしても隠しきれない狂気的なオーラ、口調の端々から滲む他人事だと割り切る本性。
そして、何よりそんな本性に、本人が気づいていない異常性がアナスタシアに警鐘を鳴らしていた。
他にも怪奇な点は多々ある。
先ず、出生が不明で、一般的な常識に疎く、傭兵だと言い張る割には利権を軽々しく手放してアナスタシアに手を貸している。
加えて、【権能】を青年期に初めて顕現させたとかいうでまかせ。
【権能】を発現させる前後では異なる雰囲気、etc。
「やはり、信用できませんね……」
正直に気味が悪かった。
まだ利益目当てで擦り寄ってくる商人や貴族連中の方が信用できる、と思わせるなど相当だ。
それでも、つい数時間前に語った彼の作戦は合理性に突き動かされた良策であった。
幾らか疑問を呈した点もあったが、それすらも彼は必要性を懇切丁寧に論理を展開してついには納得を掴み取った。
アナスタシアだけではなく、裏世界に名を馳せるホロウでさえも納得させるのだから、現状望み得る最善なのだろう。
だが、不信感を拭い切るには不十分であった。
それどころか却って疑念を募らせる結果になった。
言葉にして糾弾できるほどに明確ではない。
だが、なんとなく……そう、感覚的に受け入れ難いのだ。
同じ人間の枠組みに分類する理解に忌避感すら抱いてしまうなど、数多の人間と言葉を交わしてきた生涯で初となる経験だ。
「…………なぜなのでしょう。なぜ、わたくしは彼を……」
自問自答しても答えは出ない。
論理に裏付けされたものではなく、感覚的なものだからだろうか。
善性を貼り付けたような微笑の仮面も、色を写さない白濁の瞳も、使い物にならない左腕も、酷く不恰好な傭兵姿も。
それら一つ一つは些細な違和感でも、積もり積もれば目を背け難い空白となる。
まるで、自分ではない何者かになりきろうと躍起になっている舞台役者のような……主軸が見えない。
彼はオドアケルと名乗っていたが、それを口にする時の声色は借り物の名を語るような寒々しい感覚を植え付けて。
唯一、彼が魂をひけらかした事柄は、性質の不明瞭な共感だけ。
アナスタシアに向ける視線には恋慕にうなされる生娘の如き激情を感じさせ、思わずこちらがむず痒くなるような類の色。
彼は一体、アナスタシアに何を視たのか。
何を想ってアナスタシアへと手を貸すのだろうか。
その内実について、彼は一言たりとも吐露することはなかった。
「悍ましくて、気に入らない。ホロウ様はそう言っていたけれど……わたくしも同意見ですね」
彼の作戦ではアナスタシア、ホロウの三人は別行動を強いられる。
少なくとも、途上までは。
それ故に、アナスタシアは人気もなく閑散とした、悪霊でも飛び出してきそうな裏路地で息を潜めながら彼の指定した場所まで進んでいる。
信じているのか? と言われれば否と返し。
信じられるのか? と問われれば拒絶を示す。
けれども、アナスタシアにとっては亡きオラウダの理想と、己が野望を実現するためにはどうしても彼の手を借りなければならない。
そのために犠牲にするのならば、命以外は安いものだ。
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憤慨が引かない。
沸々と湧き上がる怒りが理性を侵食し、合理的な判断の余地を根こそぎ簒奪していく。
漆黒の闇に包まれた街並みはホロウにとって日常のものとしても、その心中は初任務であってもあり得なかった大嵐に見舞われている。
「今にしても腸が煮え繰り返る……ッ!」
臓腑がひっくり返るのではないか? と思わせるだけの怒りが、ホロウの小さな身体を蹂躙している。
感情を感じさせない瞳に、無理矢理に起伏を創出している声色、開けば無駄口を織り交ぜた大口を叩く。
経験や仕事柄、不快感や嫌悪感には慣れていると思っていたが、彼は域外の存在であった。
ホロウとあの二人は運命共同体で条件と立場は同等だと錯覚していた自分が愚かだった。
──「ボクの【権能】は、万象を閲覧できる」
何度反芻しても沸点を容易に超越してしまいそうな言葉が、耳朶に思い返されるだけで平常心が掻き乱される。
自然と歩調が乱れていると自覚はしているが、普段ならば沈静化する感情が氾濫して抑えが効かない。
作戦会議などと言い張るにはお粗末な会談は、ものの数時間で終幕を迎えた……はずであったが、ホロウの心に爪痕を残すには十分であった。
瞼の裏には嫌味にも神々しく輝く分厚い一冊の辞典が空中に鎮座し、白紙の頁へつらつらと情報が刻まれていく過程が克明に焼き付いている。
「何なんだ、あいつは……ッ! 一体何様のつもりだ……ッ」
地団駄を踏む、とまではいかないが乱れた歩調は石畳の路に砂埃を発生させ、振りかぶった拳は真横の壁へと下ろされた。
怒り、屈辱。
暗殺者は感情を額面には出さない──それは人々の共通認識であって、何ら違うことのない事実だ。
ましてや、各方面から依頼が止まず、異名すら馳せるホロウは声を荒げることすらするはずもなく……何よりもしないように心がけている。
だというのに、あの嫌味ったらしい男はズケズケとホロウの心中を掻き乱して、したり顔で我儘を貫き通したのだ。
ホロウとて彼の作戦に不満がある訳ではない。
悪感情を抱く最たる要因は、彼が手の内を明かすに至った過程だ。
彼の【権能】は数多の強敵と鎬を削った……いいや、そこまで外聞良い耳あたりのいい英雄譚ではなく、泥臭い殺し合いを演じた害敵の中でも破格だ。
武力面での憂慮はあるが、それを差し引いても万象を知り得る【権能】は類を見ない。
だが、それにしても限度はある……あって然るべきであり、なくてはならない。
【権能】すらも開示する【権能】など、世界の戦力均衡を崩壊させるには十分な代物なのだから。
世界に名を轟かせる“黒鉄”級冒険者や一級傭兵は、常識を逸した剣術でのしあがる者もいるが、その大多数が【権能】ありきの地位である。
帝国を支える都市代表や、帝都守護でさえも【権能】を頼りに力を誇示しているのだ。
彼は、そんな【権能】に支えられていると言っても過言ではない帝国内にあって、初めから秘匿されるべき情報を知り得ている段階からの勝負となる。
【権能】だけではない。
あの男は、あらゆる時間軸の情報すら閲覧ができ、やもするとそれは“未来視”に匹敵する代物ではないか。
そんな無類にも思える【権能】が、誰であろう、あの万事を掌で弄ぶような狡猾で得体の知れない男の手にあるなど。
悪夢に他ならない。
「見ようによっては、ずば抜けた知略に見合った物なのだろうが……やはり不気味だ」
壁やら大地やらに怒りをぶつけた影響なのか、幾分か溜飲の下がったホロウは改めて停戦協定を結んだ『悪人』の力を評価できる。
【権能】然り、ホロウを籠絡……基い勧誘した話術然り、咄嗟の判断力然り。
だが、何よりも驚愕に値するは、武の片鱗も感じさせないというのに、死地にあっての生存力は並外れている点だろう。
ホロウの肉を削いだ決断と行動もそうだが、仮にも城塞都市の留置所から脱獄して何食わぬ顔で街を闊歩できる精神性もまたあの男の強みだろう。
だが、解せない側面もある。
アナスタシア=メアリは、一体何をもってあの男と行動を共にするのだろうか、と。
依頼とはいえ命を狙った身で何を今更、と自己不信に陥りそうな思考ではあるが、協定があるからといってホロウとて完全に彼を信用できた訳ではない。
けれども、彼女は彼の意見に無条件に従い、彼は彼女のためを思って行動しているのだという。
ホロウの知らぬ因縁があるのかもしれないが…………生憎と、長年の経験で培われた観察眼は否と警鐘を鳴らしている。
もし、どこかであの二人の関係が破綻して、修復の不可能な間柄になったときにホロウは──
何を、想うのだろうか。
「ふん……杞憂に終わればいいが」
思考を重ねながらも足取りに迷いのないホロウは、既に目的地へと辿り着いていた。
まるで聳え立つが如き施設は、貴族や大成した商人が使うであろう宿泊地。
二度目の訪問となるホロウに感慨深さなどない。
これは仕事で、任務で、生き残るための布石に過ぎないのだから。
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夜風が心地よい……なんて。
そんな感傷など一度たりとも去来したことはない。
時刻は深夜の宵闇に包まれているが、正門に近しい屯田地には活気に溢れ昼夜の逆転が甚だしい。
小さなテントが点々とある中で、一際大きなテントには己の求める相手がいるはずだ。
いいや、確実にいると断言できる。
【運命織士】より閲覧した情報は、幾多の実験を重ねることで信憑性が高いと判明した。
ならば、作戦の実行に着手した段階で疑問に思っても、その思考は無用の産物だ。
「さて、そろそろかな……?」
勝利条件と必要な工程を検討し、最小限の犠牲と行動で最善を掴むための作戦は、三者三様の目的が達成されることで初めて身を結ぶ。
アナスタシアが、ホロウが、そして、己が。
誰か一人でも疎かに、粗雑な仕事をすると悲惨な結末を迎えることとなるだろう。
少なくとも、城塞都市ドルからの逃亡は不可能となり、ジリジリと追い詰められる形で最終的には自死か投降の二者択一を迫られる。
「……それだけは、あってはならない。せめて、アナスタシアとホロウだけは逃げてもらはなくてはならない」
脳裏にはアナスタシアのコロコロと変わる表情が、ホロウの呆れたような歳不相応な達観した苦笑が刻まれている。
だが、悲しいかな。
二人は完全に己を、オドアケルと名乗る男を信用していない。
……ホロウに至っては『悪人』とまで言い切られてしまった。
悪人面だとは思わないが、お世辞にも『悪人』でないと思われない方が少ないので反論ができない。
ああ、これはいけない。
胸の裡から迫り上がってくる不快感と、嫌悪感。
魂にこびりついて離れない悪意と軽蔑、同じ生命体として視られていないと分かる視線の数々。
──人は道具で、感情なんて取り入るためだけの都合の良い餌としか思ってなさそう
「……黙れよ」
──いつになったら覚えてくれるの? やっぱり、どうでもいいって思ってるの?
「黙れよ…………ッ!」
──お前さ、最低だよな。人を人だって思ってないっていうか……正直、お前のこと好きになれないわ
「黙れッ!」
耳朶を打つ悪態に、人外を見るような粘着質な視線が、平静を簒奪して止まない。
隣人に、同級生に、クラスメイトに、家族に。
否応なしに突きつけられる疎外感と孤独が、寄るべもない空虚で伽藍堂の魂に漆黒の汚泥を流し込んで満たしてしまう。
ヘドロの堆積が増す度に、元来より希薄であった自我が侵蝕される言いようのない恐怖。
己だって、自分だって、拒絶したくてしている訳でもなく。
生まれついて、モノクロだったのだ。
視界に映る情景は白と黒の無機質で、彩飾の欠落した乾いた世界で。
人間だろうと思える生物の区別はつかない。
動物の個体の区別が不可能な場合と同じなのだ。
顔がわからない。
人がわからない。
相貌失認とかいうそれらしい病名に区分されても、納得はできなかった。
両親の顔も、親戚の顔も、幼馴染の顔も、同級生も、クラスメイトも、教師も、街中ですれ違う他人も、己にとっては一括りの分類しかできないのだ。
けれども、万人の貌を視認できない訳ではなく、万象が無色でもない。
今は行方しれずの姉は、アナスタシアは、ホロウは、貌があって“色”に満ち溢れていた。
何故? と疑問に思う反面、やはりかと納得する二面が共在している感覚。
なんにせよ、特別なのだ。
「私と、ボク。どちらにもある、護りたいと願えるヒトが。全霊を賭して救いたいと思えるヒトが」
だからこそ、ここで朽ちる訳にはいかない。
己の補える範囲であれば、如何なる犠牲を払おうとも成功させてみせる。
燻る高揚感と、使命感の正体には検討がつかないが、それでも従うより他にない。
気がつけば、眼下の情景が騒がしくなっていた。
そろそろか、と想像よりも軽く上がった腰に安堵しつつも立ち上がる。
覚悟は決めた。
決意も固い。
恐るるものはない……と、断言できれば良いのだが、イレギュラーに怯える本能の存在は否定し難い。
「まあ、考えてしまうとキリがない。直面している問題だけに集中しよう」
自己暗示は高い精度で人格を維持しているようだ。
僥倖、僥倖。
握りしめる鉈はたった数十日の付き合いではあるが、安心感と愛着が湧いて出る。
最後に鉄兜を降ろして、城塞都市ドルをかき乱す『悪人』は完成だ。
兜に隠れた表情は見えないが、それでも彼が何を思って戦場へと躍り出るのかは纏う気迫で一目瞭然だった。




