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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第二章【自由の象徴】──第二部【北の花園】
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38. 浅春とスイートピー

 目が覚めるとわたしはいの一番に母のもとへと向かう。

 わたしの部屋と母の部屋は少し遠かったけど、「おはよう」と声をかけてくれるのを楽しみにしていた。

 扉を開けたらふわっと香る鈴蘭の匂いや、母様がいつも飲んでいた紅茶の香り。

 柔和で、ほっとするような微笑。

 どれもこれも、わたしだけに向けられたものだと、ほんの小さな独占欲が満たされる感覚。

 それを味わいながら、わたしは母様の腕の中で口を動かす。

 こんな幸せな夢を見たとか、寒くて眠るのが大変だったとか、寝る前に飲んだホットミルクが美味しかったとか。

 そんな、ありふれた他愛のない話。

 赤面してしまいそうなくだらない話だけど、母はいつだって笑顔で聞いてくれた。

 今になって思うと、夜通し仕事をしていたとだろうと思う。

 そんな大変な時にわたしは、母の気も知らないで一方的に話しかけてしまった。


 懐かしい。


 歳を重ねるにつれてわたしと母の目線は対等に、そしていつしかわたしが見下ろす形になった。

 けれど、わたしは必ず起きたら母の部屋へと向かった。

 大人に近づくにつれて話題は千差万別、遷移したけれど。

 わたしはあの時間が一番好きだった。

 いつだって、微笑んでくれた。

 何をしたって、受け入れてくれた。


 わたしは母が、レイラ=ノヴゴロドが大好きだった。


 母様に伝えられなかったことは、わたしの一番の後悔でもある。

 過労で倒れた母は、一度も目を覚まさないままこの世を去った。

 太陽の如き明朗な母様は、一度暗雲が立ち込めると二度と快晴の空を見せてくれることはなかった。

 息を引き取った瞬間でさえ、ただ眠っているようにしか思えなかったけど…………わたしは初めて、レイラ母様が眠っている姿を目にしたことがない、と気が付いた。

 それは一つの覚悟の形だ。

 リヴァチェスターの民を憂いて、彼ら彼女らの幸福を願った領主補佐の生き様。

 敵わないなぁって、思ってしまう。

 わたしが見ていたのは母親としてのレイラで、領主補佐としての姿は極力わたしに見せないようにしてくれていたのだろう。

 けれど、わたしが母の仕事を無理矢理にでも手伝うようになって、レイラ母様は統治者としての心構えを教えてくれた。

 もっと、母親に甘えたらよかったとも思う。

 もっと、部下としてではなくて、娘の顔を見せられたらと思う。

 もっと、親子の関係を築けたらと思う。


 でも、ダメだった。

 健康を、時間を、命を削っても慮ったこの領地は、レイラ母様が必死に繋いでくれた希望だから。

 それを、他でもないわたしが継がなきゃダメって、思っちゃったから。


 聖母の子もまた聖人でなくてはならない。

 聖人であるはずの子が邪であれば、聖母は正しくあれないから。


 マルタ=ノヴゴロドは完璧で、慈悲深く、寵愛を与える存在でなくてはならない。

 それが、レイラ母様への供養になるから。

 きっと、迷走していたんだ。

 わたしと母様の関係が歪んでいるとは思わない。

 だけど、心のどこかで違うんじゃないかなって、これじゃダメなんじゃないかって、不安にも思ってた。

 違和感を訴える本能に蓋をして、ハリボテの安寧を、言い訳にまみれた虚像ばかりを追い求めても…………そこに正解はないだって。


 ようやく、わたしはわたしの答えが出せたよ。

 わたしが孤児院にこだわっていた理由。

 工業技術に固執していた理由。

 わたしは失いたくなかったんだ。

 母親と子の関係は途切れてしまったから。

 前代領主補佐と、現代領主補佐としての関係だけは、失わないって。


 だから、わたしは降りないよ。


 許容してもらえるか、最後までやり通せるか分からないけど。

 わたしは、レイラ=ノヴゴロドではないけれど。


 それでも、わたしはリヴァチェスター領の領主になるよ。


 マルタ=ノヴゴロドにしかできない、わたしだけの“自由”と“愛”で、きっとよくして見せる。

 じゃないと、母様に顔向けできないもんね。


 …………わたしが困った時、助けてくれるかな? 


 ロムルスくん。








 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐







 ほっと息を吐いたマルタは、乾いた喉を潤すように、会話の間隙を埋めるようにティーカップへと手を伸ばした。

 湿った桜色の唇から紡がれる問いは、“未来”への不安の発露とも思える。


 今一度、顧みた己の根源は、正しくマルタの人物像を形成した一端だ。

 彼女は母親の姿を理想としていた。

 意識的に模倣していた部分もあるだろう。

 無意識に再現していた側面もあるだろう。

 ボクには、レイラ=ノヴゴロドが如何なる人物で、何を想って辣腕を振るっていたのかは分からない。

 あくまで【運命識士(リード・スペクター)】によってもたらされる情報は、無機質な記録の断片でしかないから。


 しかし、マルタの口振りや仕草、魂に刻まれた熱量を鑑みるに、心惹かれる人物だったのだろう。

 言葉を交わせず、旅立ったことには無念に思う。

 引き換えに、ボクはマルタと出会えた。

 ティナやエムスに肉親が如く接する様子や、アナスタシアに伝え聞く領主補佐としての器量。

 三年に渡り孤軍奮闘してきた覚悟。

 とても残酷で、無情な話だ。

運命識士(リード・スペクター)】は彼女を理想を掲げた合理主義だと評する。

 ボクは現実に打ちひしがれて手折れる寸前の花だと表する。

 ラインのように楽観的に、理想主義的に事を運べない。

 アナスタシアのように緻密で超人的な才覚をもって、実利主義、功利主義的に物事を計れない。

 それは偏に、目標とする母親と、己との齟齬を解消できずにいる苦悩からだろう。

 思い通りにいかない現実は、そっくりそのまま母親と己の手腕や能力の差異だと責め続けたのだろう。


 ああ、実際に彼女の懸念は正鵠を射ている。

運命識士(リード・スペクター)】曰く、マルタがむこう二十年従事しても、レイラのようには結果を残せないと語った。

 いずれ、どこかで潰れると。

 例えば、今回のように、綻びが生まれて瓦解してしまうと。


 結果として、ボクは彼女に肉親の命を奪う行為を強要させた。

 対外的にも、制度的にも、機関的にも。

 それが最善で、最高効率だった。

 けれども、最たる理由は他にある。

 彼女が道半ばで信念を汚してしまう、破綻してしまう“未来”を抹消するために。

 マルタは優しく、厳俊だ。

 しかして、どこか甘い。

 政乱(クーデター)を可能にするだけの証拠を握っておきながら、機会を先延ばしにしていた。

 まるで、手に入らない宝物を眺め続けるように。

 決して分かり合えないと理解しているのに、捨てきれない希望を持ち続けるように。

 絵に描いた餅、机上の空論だが、レイラなら必要に迫られたのであれば…………きっとフェイラーらを切っていただろう。

 けれど、マルタは最後まで踏み込めなかった。

 故に、覆滅しかけた。


 ボクの本心を語るのなら、マルタに仲間となってほしかった。

 けれど中途半端な甘さは()()()()

 いずれどこかで足を引っ張るだろうし、()()のためにもならない。

 だから、ボクはマルタの未熟を削ぎ落した。

 まるで、救世主のように絶望の淵に立たされた彼女の前に現れて、手を差し伸べた。

 詭弁を弄して、詭策を論う。

 詐欺師か、はたまた、とんだ食わせ者だ。

 苦境の最中にあった彼女を事実救っているのだから、余計に質が悪い。

 彼女の懊悩を、理想を、全て己が俎上に載せて最大限利用しようというのだから……なんて邪悪で、不善なのだろうか。

 言葉を変えて、表現を転換して、主語を改定して、最後には全て君のためだと言い張る。

 浅ましく、酷くさもしい。

 狡猾でペテン師紛いのボクの創り出す理想は、万人にとって不都合と成りえるだろう。

 だから、ボクはボクの手で理想郷を創出できない。

 マルタのように、独善的な手段をもって傀儡よりも見せかけの偽善でさえない()()()としてしまう。

 所詮は“未来”の選択肢を選ぶしか能のないボクの出した答えだ。


 だけれどね、ボクの仲間は違う。


 “未来”を視るのではなく、“未来”を切り拓いて進む皆だからこそ、ボクにはない最善を創出できるだろうから。

 先の問いに答えよう、マルタ。


 泥にまみれた手でよいのなら貸そう。

 そして、更に清らかで、意味のある人のもとへと手を引こう。


 そこには、欺瞞と虚言を弄する詐欺師はいないから。






 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐







 かさりと手放した紙が書類の山々へと同化する。

 木を隠すなら森の中と往々にしていうけれど、確かに似たようなものは紛れてしまえば見分けがつかない。

 小難しい文字の並んだ誓約書だったり、契約書だったり。

 わたくしの判が必要なのか、マルタの実印が必須なのか。

 諸手続きや引継ぎに入り用な書類を整理する片手間、ラヴェンナ商会と正式に契約を結ぶ作業まで並行して行う。

 すると、なんともあら不思議。

 いつの間にか空は夕暮れ、誰彼時。

 体感時間なんて三時間にも満たないというのに……既に応接間──勝手にわたくしの部屋として使わせてもらっているが──で書類相手に格闘して八時間は経過している。

 途中ノヴゴロド家のメイドから間食を差し入れてもらったけれど、それでも空腹を感じない程度には集中していたのだろう。

 ふと気が付けば、腹の虫は鳴き始め、矢庭に集中力が途切れてしまう。


「少し休憩にしようかしら……」


 間食と共に配膳された紅茶は既に熱を失っているが、それでも香りや風味が薄れるわけでもない。

 恐らく、マルド・プール領の茶畑で栽培された茶葉だろうか、口腔に含んだ際の広がり方が尋常ではない。

 わたくしの舌だって肥えているはずだが、常識を覆された気分だ。

 西側領土の生産物は東側領土では希少で、滅多にお目にかかれない。

 なにせ、商業の中心地が中央集権体制に批判的なフォルド領のフィリア家であり、地理的にもアデラ及びワデラ大山脈に、ゴ・ジェーン渓谷と輸出に不利な地形ときた。

 農業や狩猟では西側領土の方が有利ではあるが、それを御し得る環境や制度が整っていない。

 故に、東側領土の限りある資産家や上位階級の者だけが、西側領土の作物に手が出せる。


 きっと、この茶葉でさえ西側領土では市場に出回っているものだろう。


「さて、確認だけでもしましょうか」


 先ほど埋もれてしまった一枚の紙を探し出して、推敲すべき箇所がないか再度目を通す。

 この書類だけは不備があってはならない。

 他のどの紙よりも質が良く、記述には最新の注意を払った渾身の一枚。


 ──皇帝へリウス八世への報告書


 リヴァチェスター領で起こった動乱に全てがたった一枚の紙にまとめられている。

 フェイラー=ノヴゴロドの汚職、バルムス=ノヴゴロドの蛮行、コルセロ=ノヴゴロドの失脚、そして、新たな領主であるマルタ=ノヴゴロドの即位。

 それら全てがマルタの名で語られる。

 彼女はとても優秀であり、いつでも彼らを退けられるように証拠(ネタ)は数多握っていた。

 おかげで、破却への工作は最低限で済んだ。


 昨晩、ロムルスとマルタがフェイラーの部屋へと向かっていた時、わたくしは彼女の自室へと証拠を回収しに行っていた。

 道中、何故かバルムスに出くわしたため、拘束した後に痛めつけたが…………まあ、殆ど私怨だ。

 ほんのちょっぴりの義務感に駆られただけで。

 フェイラーはマルタの手により処罰され、バルムスは投獄。

 両者を止められる立場にありながら静観したコルセロは継承権を失う。

 なんて綺麗で、簡素な筋書き。

 流血のない、閉鎖的な内紛(クーデター)

 これを全て【権能】で得た情報だけで構築したロムルスは、やはり一種の怪物だ。

 領主となったマルタと、正式に契約を結んだラヴェンナ商会は大手を振るって商売ができる。

 ラインの信用も勝ち取れて、莫大な利益の見込まれる工業技術だって手中に収めた。

 何より、信頼に足る相手が商売相手だと、わたくしも肩の力を抜いて商談ができる。


「ふぅ……欠缺はなし。問題ないわね」


 書状を包み、封蠟で留める。

 後は東側領土へと運んでもらうだけ。

 数週間はかかるだろう。

 やもすると、数ヶ月か。

 それまでに、マルタ政権の地盤を盤石にしておく必要がある。

 余計な介入を許さない強固な基盤を。


 …………まって。

 なんでわたくしがリヴァチェスター領の政治に関わる前提なんだ?

 わたくしは一介の商人で、エディンには商売をしにきただけ。

 どうして、わたくしは領主の執務室で、領主にしか許されない案件に手を出している?

 マルタはより重大で機密性の高い業務に手をまわしていて、激務に猫の手も借りたい状況なのだろうが。

 損失ではない。

 リヴァチェスター領への介入は、ひいてはラヴェンナ商会の利益を高めることに繋がる。

 政治とは偏に利潤の追求だ。

 領民の需要を満たし、より一層の発展を目指す。

 なんてことはない。

 商会を巨大に拡大させるための手法と同じだ。

 相手の欲望を見透かして、効果的な商品を提供する。

 だとしても…………何かが腑に落ちない。


 そんな、取り留めなく違和感を抱いていたわたくしの思考は、扉をノックする音に現実へと浮上した。


「あら~? アナスタシアちゃん、まだお仕事してたの~?」


「む、多忙は身体に毒だぞ」


「ただいま戻りました。修繕作業は滞りなく終わりました」


 テリアとホロウ、アヤメの三人が雪崩のように応接間へと現れた。

 三人は焼失してしまった孤児院の修繕へと、人手として駆り出されていた。

 というより、ホロウが自主的に手を貸そうと言い出したのだ。

 正式な契約には多少の時間がかかるため、承諾したけれど半日力を貸したのか。

 ロムルス曰く、第二孤児院には世話になったらしい。

 こうやって面倒を見るのは、彼女らしい律儀な性格だ。


「アナスタシア、仕事は終わったのか?」


「ええ。大方は。まだ細々としたものが残っているけれど」


「そうか…………もし、よかったら夕飯を食べに行かないか? 良さそうな店を見つけたんだ」


「そうね、行きましょうか」


 たじたじと俯きながら誘われては、断れない。

 普段はバッサリと言葉を投げるホロウが、気を遣ってもごもごする様子はとても可愛らしい。

 アヤメなんてぎょっとして二度見している。

 …………そういえば、アヤメは先の騒動でホロウの戦闘を目の当たりにしたらしい。

 認識に隔たりが生まれてしまえば、驚愕するのも仕方ない。


「やったぁ~! ねえ~、()()()()()()も行こうよ~」


「ひぁぃ……! ど、どうして分かったのかな?」


「あたしはわかるのぉ。ほら、行きましょ~」


 “龍人”の五感は圧倒的だ。

 扉の近くで躊躇っていたマルタの姿を看破するなど容易だろう。

 ぐいぐいと背を押されているマルタは満更でもない様子で、ホロウとアヤメは連れ立って執務室を後にする。

「かわいいところもあるんですねぇ……」と感心され、予想だにしない解答にしどろもどろするホロウは、アヤメの言う通り非常に愛らしい。

 一区切りしましょうかと、わたくしも椅子から身体を引き剝がす。

 数時間ぶりに立ち上がった反動か、立ち眩みから少しくらくらする。

 これも、業務に精を出した成果だと受け取ろう。

 でないと本分でない仕事に嫌気がさしてしまう。


 ふと窓の先を見つめると、点在する光がそっくりそのまま人々の生ける証だと教えてくれる。

 マルタが守りたかった世界、彼女が愛する土地と民の姿。


 とっても眩しくて、尊いものだ。

 わたくしには、いえ、わたくしたちは持ちえないものだから。

 けれど、きっと。

 ()()()()()()()()のために戦えるのだとしたら…………それは命を賭けるに相応しいものだと。

 柄にもなく、漠然と。

 迷いを断ち切るように、わたくしは外界から視線を外し、皆のもとへと駆け戻る。

第二章【自由の象徴】ーー第二部【北の花園】はこれにて終幕です。

アナスタシアは版図を拡大する上で必須となるリヴァチェスター領の工業利益を得ることに成功し、マルタという心強い仲間も加わりました。

また、テリアとホロウはアヤメと仲を深め、リヴァチェスター領を後にすることになります。


さて、第三部では如何なる道程を辿るのか…………最後までお付き合い頂けますようお願い致します!

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