4. 運命の饗宴
冷たい石畳、生の彩りを極力排除した間取り、最大収容人数四人を誇るここは──敷金礼金家賃は無償、且つ隣人同士の諍いなど滅多にない楽園のような物件だ。
仄暗い空間に、嫌にすえた香り、不衛生とも言い切れない絶妙な劣悪加減。
難点を挙げるとすれば、シェアハウスの容量なので(それも一日に何度も住人が退去し、入居する目まぐるしい環境ではあるが)一人を所望する入居者にとっては生活しづらいやもしれない。
おや、そうこうしている内に最後の一人が退去してしまった。
これで独占できる……つまりはこの部屋における最たる先達は自分ということになり、大分融通が効くようになった。
うん、そろそろ益体のない独白も終わりにしようか。
城塞都市ドル、都市代表管轄直営駐屯所……の裏にある留置所。
ドル内にあって窃盗、痴漢、強盗、殺人(永山基準のように三人までの、と留保はつくが)等の軽犯罪を犯したものを一定期間放り込んでおくびっくり箱。
召喚前には世話にすらなったことのない警察紛いの組織に、お尋ね者として身を寄せている次第。
無論、手荷物の類は全て押収されたためになけなしの装備一色も、鉄兜すら身につけていない格好では温度を感じさせない石畳の床は残酷に体温を奪っていく。
申し訳程度に麻のカーペットを敷いてはいるものの、焼け石に水だ。
……石畳が焼けている訳ではないし、火があると助かるのだが。
「おい、新人傭兵。場所を開けろ。来客だ」
甲冑姿の看守の声に、意識が現実へと引き戻される。
鉄格子に遮られた廊下からはコツコツと複数人の足音が石造りの建物に響き、徐々に近づく足音は麻のカーペットで横になる私の前で止まる。
そのまま、粗雑に突き飛ばされた後輩が蹈鞴を踏みつつも無様に転ぶこともなく牢内へと参入した。
キッと粗野な看守へと敵意を向けているが、悲しいかな、その程度では彼らの平常心を乱すことはできない。
日常茶飯事であるだろうし、そもそも、女性の敵愾心など意に介す必要すらないのだろう。
近代日本、延いては近代世界と比べてこちらの世界では未だに男尊女卑が克明に残っている。
しかし、かつての古巣とは異なり、この世界ではエルシニア人やフフェス人、それに準ずる混血……並びに“魔族”や“龍族”に対する偏見や差別の方が強く、女性の身分は比較的高く位置付けられている。
まあ、だからと言って皆無という訳ではないらしいが。
「……、何見ているのですか」
「気分を害したのならば謝罪しよう。とはいえ、ここでは同類だ。そのよしみで大目に見てはくれないか」
「同類ですってッ! わ、わたくしは……ッ! 来たくてきた訳ではありません……ッ!」
憤慨した女性は怒り心頭といった様子だが、それを差し引いても美しいと形容できる容姿だ。
ややほつれてはいるが長髪の金髪に、外套に包まれていてもわかる豊満な身体、平均的な女性より高い声はいつまでも聴いていたいと思わせる甘美で蠱惑的な優美があった。
しかし、地にて横になる自分を睥睨する彼女の瞳には、後悔と雪辱に濁っていた。
まあ、場所が場所なのだから多くの色が混在して然るべきだが……どうにも、一様な理由ではないようだ。
「立ち話も何だ。とりあえずは座りたまえよ」
「お断りします。わたくしは貴方のように堕ちぶれていませんもの」
「ああ、安心したまえ。私は生まれてこの方、無縁だからね。性欲に」
「……ッ、!? そん……ッ! は、破廉恥な……ッ!」
「おや、分かり易いように工夫したつもりが。却って混乱させたようだ。つまりは、私は君の身体に一部の興味もないし、興味のない女性の寝込みを襲うなんて下賤な真似をするつもりはない」
「……それはそれで腹が立ちます」
「面倒な人間だな、君は」
「〜〜〜〜ッ! 普通に会話できないのですかッ!」
コロコロと感情を変えて絶叫する彼女は、隣人や向かいの入居者に「うるせえぞッ!」と怒鳴られ、ひっと喉を鳴らして黙り込んでしまった。
その後、すごすごと麻のカーペットへとペタンと腰をつけて座った。
瞳を伏せて、何やら思案している姿は少女のように可憐で、しかしてキッと上がった表情の怜悧な面影には大人の魅惑が潜んでいる。
その気になれば稀代の美女になり得るだろうからこそ、何故にこんな場所まで流れ着いたのだろうか。
「……先ほどはお見苦しいところを見せてしまいましたね」
「ああ、実にみっともない姿だった。とはいえ、それも魅力だと割り切って武器にでもするといいさ」
「…………ッ、失礼な人ですね」
「それは勿論、君の平静を乱すような言動にもでるさ。何せ、君は商人なのだから、舌戦で後手に回ることだけは避けたい」
「──ッ!? な、なぜわたくしが……」
「大前提、留置所に放り込まれる点で軽犯罪、且つ現行犯は疑いようもない。加えて、君の手には剣だこ、拳だこではなく小さくはあるが……ペンだこが一際目に止まる。これで君が暴力とは別畑の人間だとわかった。後は簡単だ。私と一定間隔を空ける、今この瞬間にも打開策を講じようと目まぐるしく変化する思考……君の言葉を解釈するに冤罪か、それとも刺客でも差し向けられた手合いだろう」
つらつらと言葉を重ねる度に、端麗な相貌を驚愕に染めて仮説が事実であると証明している。
彼女が商人ならば感情を面に出す弱点は克服すべきと思わなくもないが、そうなるように仕向けたのは自分であるために言わぬが花だろう。
ああ、彼女の表情を見ればわかる──彼女は真の意味で同類だ、と。
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「それは勿論、君の平静を乱す言動にもでるさ。何せ、君は商人なのだから、舌戦で後手に回ることだけは避けたい」
「──ッ!? な、なぜわたくしが……」
思わず口を突いて紡がれた言葉の力を、アナスタシアは誰よりも理解していたつもりだった。
相手に何故と問う、それは苦し紛れの言い訳に等しいのだと。
続け様に浴びせられる彼の言説は適当な出鱈目などではなく、事実を見事に言い当てている。
つまりは、彼はこの短時間でアナスタシアの言動や仕草程度のごく僅かな情報だけで、留置所へと逃げ込んだ事実までも把握したのだ。
いつの間にやらアナスタシアの正面へと座り込んだ彼。
獣の毛皮を使用した最低限の服装に、白髪を無造作に掻き上げ、綻んだ口元が印象的な……そう、軽薄な青年を装って、その実、油断なく細められた眼が彼の本性を物語っている。
彼こそ、一体何があって留置所にいるのだろうか? 商人としての、人間としての勘だが、眼前の彼は多少のヘマをしてもどうとにでも改竄し得る手腕を誇るはずだ。
「さて、もし過ちがあれば訂正して欲しいのだが……そうでもないらしい」
満足気に頷く言動は相手の感情を揺さぶる常套手段。
理性を、平常心を保たねば。
眼前の彼の容姿を見ればわかる。
エルシニア人やフフェス人でもなく、他の人間種とも、伝承で語り継がれる“魔族”や“龍族”とも合致しない男は、あえてその容姿を選択している。
己を積極的に隠蔽し、相手を謀ろうと──
「改めて、同居人としてよろしく頼むよ。同じ暗殺者を差し向けられた者同士」
「──っ、…………?」
「君の外套は顔を覆える。私と君の身長は同程度。そして、没収されてしまったが、私は鉄兜を被っていた。仔細はわからずとも、刺客は私と君とを過って認識してしまったのだろう」
よくもぬけぬけと……ッ! そう目の前の男を恨めしい視線で刺突しても、返ってくるのは「君もこれで理解できただろう?」と啓蒙する宗教家のそれ。
彼の説明は頷ける箇所もある上に、合理的な結論とも思える。
「因みに、私はつい先日、ドルへと到着したばかりだ。つまり、君へと向かうはずであった暗殺者が、何かの手違いで私の元まで来て。私はおめおめと公共権力のお膝元まで逃げ込んだ訳だ……さて、申し開きはあるか?」
「……ッ! わたくしのせいだと言うのですかッ!」
「原因の一端は君だろう?」
「だとしても……ッ! わたくしだって……逃げて……ッ!」
「君は商会の代表だろう。何かしらの策を講じていたのではないか?」
「……ッ、どうして? と問うのは愚かですね」
「ああ、君の思っている通り。大筋は理解したさ」
末恐ろしい。
数多の修羅場を潜り抜けたアナスタシアでさえ手玉に取られ、気が付かぬ間に情報を搾取されている。
相手の感情をコントロールし、異様な会話の転換を隠蔽し、当たり障りのない口調の中に無視できない事実を織り交ぜて──商人や都市代表、ドロドロとした政治闘争に明け暮れる権力者顔負けの、詐欺師顔負けの詐術の天才。
商人であるとは否定しなかった……ああ、暗殺者に狙われたことも否定はできなかった。
冷静になって思い返すと最早滑稽にすら思える。
一介の商人程度にわざわざ殺し屋を遣わせる暇人はいないだろうし、如何なる腕の暗殺者であるかすら彼は身を持って理解している。
自身では対処できない故に、苦しさ紛れの時間稼ぎを目論見んで来たくもない留置所へと転がり込んだ。
…………いいや、待てよ。
対処できないから、彼もここにいるのではないか? ならば、彼はアナスタシアの身柄を手元に置き、暗殺者へと提示することで自分の命を──
「何も自分の命惜しさで君と会話している訳ではない」
「……………………もう、貴方とは話したくないです」
してやられた。
まんまと彼の俎上で踊り狂わされていた。
彼とアナスタシアの状況は同じで、彼にはアナスタシアを取り押さえる腹積りはなく、一人では突破できない状況も──二人になれば一分の可能性も生まれると。
警戒していたアナスタシアを軽口と共に謀略で手玉に取り、同時に己の有用性すら証明し切った。
「その分だと辿り着いたようだ。そう、同じ危機的状況に置かれる憐れな獲物同士──徒党を組もうじゃないか」
相手の思考を優越したなどおくびにも出さず、素直に右手を差し出してくる彼。
いいように扱われた苛立ちも、常人離れした所業に対する感慨も、目眩く感情は、下劣な詐術とは裏腹に誠実な色をもって対面する彼の瞳と目を合わせて霧散した。
退路は断たれたのだ。
ここで、彼の手を取らなければアナスタシア=メアリに、理想へは二度と手が届かなくなってしまう。
だが、だとしても──
「わたくしは…………名前も知らない相手とは、契約を結ばない主義なので」
大きく見開かれた彼の双眼は、沸々と湧き立っていたアナスタシアの溜飲を見事に下げた。
ほんの出来心だった。
そう、短い間に幾度も謀られた意趣返しをしてやろうと、打算も、計画もなく、ただひたすらにポッと浮上したアイデアに従って発した返答。
彼が主導ではない。
アナスタシアと彼の立場は少なくとも同等であるはずだから。
さあ、選択肢は開け渡した。
正直に名を語るのならば、手を取り合うのも吝かではない。
だが、ここではぐらかすようならば──【権能】の下に、完全なる傀儡として飼ってやろう。
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「わたくしは…………名前も知らない相手とは、契約を結ばない主義なので」
失敗した。
ああ、ありとあらゆる選択を最悪の方向へと舵を切ってしまったようだ。
彼女は商人で、所詮は損得勘定でしか動かない合理的な生き物とばかり先入観を抱いてしまった。
それが、敗因だ。
常にそうだった。
相手の行動、言動、在り方だけでは、その人間を図ることはできないと知っていたはずだと言うのに。
先の発問、お膳立てした好ましい状況へと一石を投じる暴挙に見紛う試金石。
自分は表面的な事象ばかりを推測して、彼女の中核を図り損ねていたのだ。
裏切られて命すら危ぶまれる憐憫なる商会代表──などではなかった。
人を使い、人の本質を見定め、どんな聖人よりも真っ当に人を視る。
それは、自分には幾度あっても取り得ぬ選択肢で。
それは、感情の機微に疎く麻痺し切った共感では望み得ない決断で。
それは、非合理や非道理の論理的思考でなければ人間を理解することのできぬ己ではそも発問すら不可能で。
それは、それは、どこまでも──
「──美しい」
名も知らぬ商会代表の彼女は、背信に遭おうとも、絶望の淵に立たされようとも、再起の芽を摘まれてようとも。
それでも奮起する志を持っているのだ。
崇高で、純粋で、高潔で、潔白。
人は己に存在し得ないものを他者に追い求める傾向にあるという。
客観的に思い返しても、自分には、彼女のような思考は、感情はない。
舞い戻る機会を、心意気を、潰されてしまえば人はそこで終わりだと。
見切りをつけるハードルが極端に低いのだろう、と自分自身を定義して、自分も他者でさえも一緒くたにして手前勝手に足切りする。
だからこそ、無垢な“愛”を信じて、汚れを知らぬ笑顔で誰よりも至高を歩んでいた姉に惹かれたのだ。
だからこそ、人間の惰弱、悪性を唾棄し、裡に眠る善性を信じていた正優に興味を抱いていたのだ。
だからこそ、手折れぬ信念を据え、どれだけか細い道筋であっても挽回への途を模索する彼女の轍が美しく思えたのだ。
ならば、彼女へと返す言葉は──
「君を、知りたいと思った。教えてはくれないか?」
何を──とは幾ら問いただして見ても答えはなく、それを彼女に問う理不尽に苦笑してしまいそうになる。
事実、予測していた言葉とは根本的に異なっていたのだろう、彼女は一人静かに瞠目していた。
十重二十重にも多い隠した本音を悟らせずに浅慮な関係を築くべきだ。
危険を承知で口を封じるべきだ。
都合の良い時に動けない駒など切り捨てるべきだ。
理性と合理主義の傑物たる己が再三に渡って最善策を、次善策を、提示している。
きっとそれらは過つことのない最適解なのだろう。
だが、決して正答ではない。
彼女の輝きを前にして、それでも自分の返答はそれに報いる解でなければならない。
故にこそ、正道でも邪道でもない、己だけの魂からの言葉を送りたいと思えるのだ。
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「君を、知りたいと思った。教えてはくれないか?」
息を呑んだ。
真摯で誠実。
無垢な魂を彷彿とさせるような真剣な眼差しに、先までの思考を誘導し支配下に置こうと躍起になっていた人物の瞳との乖離はアナスタシアの平常心を崩すには十分であった。
変化は眼差しにとどまらず、アナスタシアという人間を正面から受け入れようとする言葉や、姿勢、何より纏う雰囲気が大きく歪んでいた。
まるで己以外の人間を信用していない、猜疑に満ちた、疑心暗鬼に縛られた病的な程の臆病者。
それが率直な印象であり、意に反さず、臆病が故の主導権の奪取であり、不信が故の欺瞞であった。
行動原理は合理性を突き詰めなければならない。
何故なら、激情に左右されやすい人間はつまり、行動の読めない存在であり、それは、他人をあけすけに信じられない彼らしい。
予期された返答でなかった。
アナスタシアを対等と認めて名を名乗った訳でもなく、新たなる切り口で詐欺師紛いのペテンに手を染めることもなかった。
感動を、感涙を、慟哭を。
凡そ、人間らしさと銘打たれる現象に従って、合理至上主義者が適正を放り投げた。
それはもう大暴投で、亜音速に迫る速度でと斜め右の不可解な方向へと飛ばしたのだ。
アンバランスなんて言葉では語り尽くせない程の不均衡であり、やもすると二重人格を疑っても良い真逆の変化。
本来ならば、真実を晒し暴かれた破綻者の悪足掻きとして、一個だにせず聞き捨ててもよかった。
だが、本能と理性はそれをよしとしない。
違う、違う、違う。
本能や理性、感情なんて外郭的な話ではない──魂が、彼の言葉を拒絶し得ないのだ。
これまでも、彼との会話は自然と、まるでそこに在って当然の感覚としてこなしていた。
まさか、そんな。
ぐるぐるぐるぐると一向に収束の兆しを見せない思考は、紡ぐべき言葉を決めかねて。
逡巡なんて刹那の出来事ではなくて。
永劫にも思える葛藤を経て。
アナスタシア=メアリと構成する、渇望なんて生半可な飢餓ではない“理想”の端緒を、素性も名前も知らない傭兵へと語り始めていた。
❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒
アナスタシア=メアリは六人兄妹の末の子である。
現在も密かに最高だと自負している金髪は幼少から輝きを主張し、代わりに今ではスラリとした長身が平均的な女児と比べても低かった程度の外見のありふれた少女だった。
それだけを聞くと、兄妹が多くて退屈しないだとか、第一子との年齢差はどれほどなのかとか、母親は随分と苦労したのではないかとか、どこにでもある家庭を思い描いて口々に意見を言うだろう。
だが、たった一つ、彼女が帝国の大蔵省と称すべき大商会の代表、オルウェル=メディツァ=メアリが父親だとフィルターを通した色眼鏡で見ると、印象は大きく変わる。
“魔族”との激烈な大戦争を辛勝として幕を下ろし、けれども“人間種”は自力で成立する余力すら残されていなかった二千年前。
帝国の開祖たるリーガオルを支えた大商人によって帝国本土へと現代まで続く名を轟かせる商会──グラード商会。
脈々と代表がすげ替わり、一時は衰退の負い目に遭いながらも存続してきたグラード商会において、三十七代目代表の名は一際後世に語り継がれるであろう異様な功績の数々を打ち立てた。
その者こそ、アナスタシアの父親であり、『鮮血商人』と凡そ商人とは程遠い異名で市中に存在感を及ぼす傑物だ。
商人としての才覚もさることながら、時代の潮流を読み、内部の不和を未然に防ぐために不審な動きをしたものは即座に粛清する残虐性は人間らしさを感じさせない。
勿論、グラード商会の存続と更なる繁栄のみが脳内を占めるオルウェルに、家庭を顧みるなんて考えがある訳もなく。
付け加えるのならば、自身の子種をより優秀な者へと引き継ぐために、彼は延べ三十人を超える女性と関係を持った末に生まれた六人の異兄妹を実子として認めたのだ。
人間性はともかくとして、グラード商会に対して苦慮していたのは事実だし、何よりも手段を選ばない彼の姿勢には商人としてアナスタシアもまた見習うべき点が多いと感じる。
だが、捨ておいてはならない側面まで…………つまりは、家族を蔑ろにする側面に関しては、強い憤りを感じていた。
アナスタシアたち兄妹は出生もバラバラで、母親も異なり、挙げ句の果てには物心着く前に母親とは引き離されて、オルウェル邸で乳母の手によって育てられる。
生まれてこの方、アナスタシアは家族愛という曖昧で、あるのかないのか不可解な“愛”には疑問を呈していた。
それは、今でもそうだ。
何故って? 子どもを組織繁栄の道具にしか見ていない父親や、顔も名前も知らない母親からは“愛”など微塵も教わっていないから。
アナスタシアに“愛”はあるのだと確信させた者こそ、腹違いの姉であり、六人兄妹の長女──オラウダ=ハプアだった。
さて、ここいらでグラード商会の複雑で、面倒な仕組みについて紹介しよう。
まず、二千年も存続する商会が、一度たりとも分裂しなかったか? と問うのならば、答えは否だ。
千三百年前、当時ですら珍妙であった生き残りの“魔族”が当代の皇帝に対して暗殺未遂事件を引き起こしたのだ。
その対処をめぐって皇室に近しい距離にあったグラード商会の意見は見事に、三分された。
その末に、三つの派閥はそのまま三つの家系へと変貌し、“メディツァ家”、“ハプア家”、“ブルング家”へと現在まで分断されたままなのだ。
そして、グラード商会の代表は三つの分家より、優秀な者を選抜し、代表へと据える。
だが、いつの時代にもイレギュラーは存在するもので……今代における異端とは、他でもないアナスタシアであり、彼女はオルウェルが一目惚れした娼婦の子だった。
他の兄弟や家系のものは皆、程度の差はあれど、少なくとも貴族階級であることは間違いない。
無論、アナスタシア自身、オルウェル邸の使用人や乳母から向けられる奇異で、侮蔑的な眼差しに気が付かなかったわけでもないし、分別がつく年齢になれば己の出生にも、その末の扱いにも納得がいった。
まあ、だからと言って、その心の寂寞が消え失せる訳でもないし、取り巻く人間が一人残らず敵だと知って常に息苦しさを感じていた。
いいや、あれは暗示に近しかった。
──お前は汚れていて、人間とは程遠い“魔族”のようだと
日常的に罵声と侮辱混じりのそれに晒されて、齢七だか八だかの少女が耐え切れる訳もない。
自分は見ていた、感じていた、憤っていた。
兄妹がただ歩くだけで傅かれる環境にあって、まるで唾棄すべき汚物として見向きもされない現状に、その不条理に。
そんな暗澹として鬱々とした幼少期を過ごしてきたアナスタシアにとって、姉の、オラウダの告白はハギンズの裏切りに匹敵する青天の霹靂であった。
「わたしね、エルシニア人なの」
正しくは、オルウェルが素性を隠していたエルシニア人の貴族と関係を持ち、その後に生まれた子こそオラウダだった。
言葉にしてみれば簡単で、けれどもそれを口にするには一朝一夕の覚悟と決意では事足りず。
彼女が如何に巨大で乗り越えがたい葛藤の果てに、アナスタシアだけに打ち明けたのか……今ではわからずじまいだ。
薄暗い離れの倉庫──酷い癇癪持ちであった使用人の鬱憤を晴らす的となっていたアナスタシアが、一晩にわたって監禁されていた最悪の朝。
日に日にエスカレートしていく折檻に子どもながら命の危機に震えていた……まあ、今でも世知辛い時分であったと思える灰色の日常。
そっと、まるで禁忌の呪物に触れるかの如く静かに、おっかなびっくり扉を開いたオラウダの横顔は脳裏に刻みついていた。
いつ終わるとも知らぬ閉塞感と孤独、苛み続ける自責に膝を抱えていたアナスタシアにとって、彼女は自分よりも酷い顔をしていたと記憶にある。
一体、何をしにきたのか──一つ上の姉のように嘲笑いにきたのか? それとも、力を入れると手折れてしまうであろう心を木っ端微塵に砕きにきたのか? それとも、見え透いた憐憫と同情で無感動ならば凌げる現実に色を戻しにきたのか?
それとも、それとも、それとも────
荒んでいた、自棄になっていた、もう、殺して欲しかった。
そんな、他人なんて顧みることすらできないアナスタシアを前にして、心の底から何をしにきたのか……やもすると、糾弾したかったのかもしれない。
目を閉じると全てが赦された楽園にいて、目が覚めると暴威、理不尽、不条理、敵、敵、敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵──
「わたしね、エルシニア人なの」
だから? だから、なんだというのか。
自分よりも格下の存在がいるからお前はまだ大丈夫だ、とでも言いたいのか?
地に伏して、空腹に喘いでも、それでも降ってくるのは原寸大の絶望で。
生きていても嘲笑に、汚物に、心傷に塗れていて。
死んでも尊厳はなく、唾を吐きかけられる末路があって。
自分が、何をした? 目も背けたくなる悪辣外道を犯したか? 黄泉にあっても裁ききれない愚行を成したか?
何も、何も、していないしできていない。
「わたしも、いっしょ。全部、ぜんぶ、いつでも消えるの」
辿々しく、けれども包み隠さず。
彼女は、オラウダはアナスタシアが暴露するとは思わなかったのだろうか。
人間はいとも容易く濁流に流され、想像もつかない手段で人を蹴落とせる。
それは、何よりも“メアリの系譜”にあるオラウダの理解にある所だろう?
「信じてる。アナスタシアの、重荷になるかも、しれない。でも──」
でも、でもなんだ? 毛色の良い銀髪、どこに出しても恥ずかしくない格好に、教養の詰まった仕草、闘争を勝ち抜きさえすれば二千年続いた大商会を継ぐことのできる姉が。
得れば奪われる矮小な妹に、何がわかるというのだ?
「でも、わたしはわたしのままに死にたい」
空白と隔絶。
自分と姉の間に埋めがたい隔たりがあるようで、毅然と末路を口にしたオラウダの姿が眩しくて。
知っていた、理解していた。
エルシニア人の混血が如何なる最期を迎えるのか、迫害が、差別が、如何に醜悪で救いようのない“未来”を導くのか、知らないわけがなかったのだ。
それでも、一人では抱えきれなくて、誰かに知っていて欲しくて。
この広大で、救済なんて望みようのない地獄で。
大多数が何不自由なく暮らせる中で、歴史に裏付けられた罪なき一定数が辛酸を舐めさせられる世界で。
同じ泥を啜る同志として、オラウダは唯一の自分を誰かに覚えていて欲しかったのだ。
「だから、協力して。わたしはエルシニアの混血で、アナスタシアは嫌われ者。理由は違うけど、わたしたちはいっしょ。この世界が嫌いで、でも生きなきゃいけない。なら、わたしたちで世界を少しでも生きやすいように、変えようよ」
面と向かって、衰弱しきった女児に何を語りかけて、何を持ちかけているのだろうか。
詰まるところ、オラウダの敵は世界で、固定観念と化した絶望の坩堝で。
そんな無形を打倒しようと躍起になっている。
それはあまりにも愚かしい。
人間が燃え盛る大火を前にして拳を振り上げて、剣を振り下ろして、槍を突いて、炎を撃滅し得るか?
彼女は、そんな暴論で、荒唐無稽な夢物語を今にも事切れそうで、二桁に満たない少女に聞かせて…………そんな夢物語が現実となるのならば、地獄でも煉獄でも何でも走り抜きたいと思ってしまって。
裡に秘めた一切を吐露して、それでも安心しきれないでいない。
視線は忙しなく倉庫の扉と、アナスタシアを行き来して。
額に滲む冷や汗は何人たりとも明け透けにはしまいと、心の決めていた事象を口にしたからなのか。
耳に痛い静謐を、緩慢に区切る呼吸が裂いて。
枷から解放されたような、安堵に満ちたオラウダの表情はアナスタシアの初めて向けられた好意の印であった。
❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒
気がつけば、小さな窓枠から零れる陽は消え失せていた。
悲痛にも、無感動にも感じられる彼女の横顔はオラウダという名の姉を、彼女自身が悪様に感じていなかった証左だ。
「それで……姉上は」
「随分と畏まった呼び方ですね。わたくし相手みたいに舐め腐った態度でも構いませんのに」
「そうはいかない。顔も合わせてすらいない人に失礼をはたらくわけにもいかない」
「構いませんよ。死人に口なし。オラウダ姉様の尊厳を護るのはわたくしだけですもの」
「…………、気休めは必要ないかい」
「ええ。実の籠っていない同情ほど、人の神経を逆撫でするものはありません」
ピシャリと乾いた微笑と共に吐き捨てる彼女の──アナスタシアの心中は推し量れまい。
絶望の淵にあった魂を掬い上げてくれた恩人とも言える姉を、きっと言いようもない凄惨な末路を見たのだろう彼女には却って無為に終わるだろう。
それは、誰よりも己が刻んだ後悔と、口惜しさ故に。
「君は、姉上の悲願のために商会を立ち上げたのか」
口を突いて出てきた言葉は慰めでもなく、叱咤でもなく、まるで世間話のように展開される他愛のない話の様相をしていた。
「それも、ありますね。オラウダ姉様に生きる原動力を与えて頂きましたが、それに薪を焚べたのはわたくしの貪欲な願望ですもの」
「随分と卑下するんだな。察するに、君はその貪欲な願望のために、こうして不本意ながらも牢にいるのだろう」
「……少しは感傷というものを理解してはいかがですか? オラウダ姉様の理想は、少しでも生きやすい世界。エルシニア人が、フフェス人が、奴隷身分の人間が、差別も偏見もなく生きられる世界」
首を少し傾けて、目を合わせるアナスタシアの紫眼の瞳を見つめ返して、不可能だと半ば無意識に悟ってしまう。
偏見も、先入観も簡単には消えてはくれない。
二千年前熟成した差別意識ならば、末代まで魂にこびりついて到底払拭し得る類の伝聞ではない。
意味不明、理解不能、不可解極りない──そんな根も葉もない噂に塗れて、誰一人として認めようとしなかった姉に、何もできなかった己だからこそ、断言できる。
そんな、諦観混じりの嘆息を感じたのだろうか、アナスタシアは自嘲を含んだ言葉を続ける。
「綺麗事で、世間知らずな世迷言。ええ、その通りですよ。わたくしも、できやしないって心のどこかでは思っています」
「……ならば、何が君をそうさせるんだ」
眼前には、思い慕う姉を亡くした哀れな女性はいなかった。
血の滲む程に拳を握り締め、身体を強張らせ、口元はキツく噛み締められていた。
だが、決してアナスタシアは道半ばにして手折れるように脆弱ではなかった。
姉との決別を、理想の離隔を、理解し得ない程に愚かしくなくとも、あえて愚者で居続けるような矛盾を、呑み込んだ一種の──
「だって、嫌じゃないですか。あの時、真っ黒な地獄から連れ出してくれてすぐに、オラウダ姉様は魔族の混血だって、露見して……尊厳なんてなくて、泥に塗れた最期で。なんで、あんなに澄んでいたオラウダ姉様が、泥中で死ななきゃならないんだって、惨めな最期を迎えなきゃならないのかって」
淡々と。
激情と共に。
弓引かれた眉根は射殺す狩人のようで、纏う激憤は阿修羅を彷彿とさせる。
だが、彼女の芯にあるのは信じられないほどに澄み切った畏敬と、疑問だった。
「世界に、認めさせたいのです、わたくしは。オラウダ姉様の理想はすごいんだぞって。ついでに……大っ嫌いな商会を完膚なきまでに叩き潰したいな、と。後者は、わたくしの醜い憎悪ですけど」
悪びれるように、先までの険悪な空気を霧散させた。
オラウダの雪辱を果たすと同時に、その理想を叶える。
そして、オラウダを、己を辱めた二千年続く商会を己が手で潰すために。
情愛と憎悪が健在しているのか。
善性と悪性が両立しているのか。
其処には、其れは、其の形は──
「アナスタシア、とそう呼ばせてもらっても構わないか」
「ぇ、ええ。いいけれど……わたくしには、やはり貴方が図りかねます。まるで、別人ではないですか」
「ああ、別人……に感じられるのなら、悪徳人の演技が堂に入っていたのだろう」
戸惑いながらも頷き、疑問を呈する表情の変化は、いやでも思い出させられる。
コロコロと変わる表情だけではない、心奥に秘める両極の“感情”と“愛”。
そして、失っても、踏み躙られても、彼女はそれを指針にして──信念として歩みを止めなかったのだ。
「当初は、君を都合の良い人形に仕立てて窮地を脱するつもりだった」
「…………本当に、貴方は何なんですか?」
「強いて言えるのならば、私は君の信念に惹かれただけだ」
「ますます意図が見えません。貴方に一体何の徳があるというのですか」
話せば話すほどに疑念を深めてしまう。
まあ、それはそうだろう。
唐突に己の手の内を明かしたと思えば、味方になるなんて眉唾ものの、真偽の定かではない狂言を口にするのだから。
彼女が当惑するのは、当然の摂理で、だからこそ行動で信頼を得なければならない。
「私も同じだ」
「……ッ、?」
「唯一慕う姉は行方も知らず、悪評を私では覆せず。挙げ句の果てには、彼女の信念すら、忘却するところだった」
今となっては脳裏に再生するだけの姉ではあるが、彼女はそれでも満面の笑顔を携えている。
彼女だけなのだ。
灰色な世界で、無味無臭の生き地獄で色彩豊かな存在は。
そして、それは世界が異なったところで変わらなくて。
殺意を向ける獣も、盗賊も、野盗も、少女も、道ゆく人々も、動植物にあってすら貌がなかった。
生物は所詮記号で、それ以上でもそれ以下でもないと割り切らねばとっくに発狂して首を掻っ捌いていただろう。
孤独は怖くはない、死であっても隣人から除外されたことはない。
ようやく、出会えたのだ。
不条理と狂気の垣間見える運命が、気まぐれに温情をかけただけなのかもしれない。
だが、感謝しよう。
アナスタシアは、貌がある。
端麗な形、整ったパーツ、当惑に眉を顰めていてもその美貌が薄れることはなく、却って彼女の蠱惑的な雰囲気を助長している。
今度こそは、護ってみせる。
二度と失意に堕とさないように、蹴散らしてみせる。
違うことの許されぬ誓約として、ここに新たなる己を定義するのだ。