3. 束の間の安息
人間には一人になりたい時がふいに訪れる。
そういうものだとセンチメンタルになるもよし、無理矢理にでも交流を保って気付かない振りをするもよし。
対処法は人によって千差万別、蓼食う虫も好き好きだろう。
だが、現状、己の…………いや、ボクは違う。
選択肢がないのだ。
今にも雨が降りそうな曇天の下で、ただでさえ薄暗い裏路地にとあるものを視界に納めて。
眼前で泣き叫ぶ少年と、まるで親の仇を今にも殺さんと覚悟を決めたような視線を向ける少女に出会ってしまえば。
うん、静寂の支配する宿から逃げてきた身にとっては酷だろうさ。
順を追って説明しよう。
アナスタシアたち三人はリヴァチェスター領屈指の湯銭…………つまりは湯時に赴いてしまった。
褒められるべきはボクが自制心を働かせた点だ。
本音を包み隠さず語るのなら共に行きたかったのだが、うん、流石にいただけない。
せっかくアナスタシアたちに認められてきたのだから、何も己から好感度を下げる愚行は犯すまいよ。
けれど、たった一人で喧騒から離れてしまえば途端に居ても立っても居られなくなる。
皆と出会うまでは、孤独が寂しいものだとは気付かなかった。
しかし、ドルからは常に隣には誰かがいた。
だからだろう……一人で物思いに耽る瞬間ですら、寂寞感に苛まれてしまうのだ。
思考も一段落したのだから、リヴァチェスターの工業とやらを見学しようかと。
そう思い立ってエディンの南西、あと数歩で工業地帯に入らんとした瞬間だ。
悲痛な泣き声が耳朶を打ったのだ。
誘蛾灯に誘われる羽虫が如く音源へと歩を向けると、そこには上述した通りの二人がいた。
わかるかい? 入り組んだ路地で、いたいけな少年少女が二人。
それも片割れは泣き腫らしているのだ。
そこに白の軍服に膝丈の純白のコートを羽織った不審者──つまりはボクだ──が睥睨している。
誰がどう見ても事案だろう。
今すぐにでも回れ右をして去るか? けれど、放っておく訳にはいかない。
「………………何か、用ですか?」
苦悩していると少女が口を開いた。
警戒心と猜疑心に塗れた声色はやにわにボクの精神を削るが。
まあ、いいさ。
おかげで会話の端緒が開かれたのだから。
「いや、ね。子どもの泣き声が聞こえて、無視できるほどボクの心は凍えていないさ」
「そうですか。なら、ご心配なく。わたしたちは大丈夫ですから。それに、知らない大人は唾棄すべきだって教えられてますから」
「途轍もなく尖ったことを教わっているんだね、君は」
利発だ。
そして、賢い。
齢は十三程だろうか、淡い水色の髪を後ろ手に束ねて、完全防備な防寒に灰色のコートを羽織っている。
緩むことのない警戒心には称賛を送りたくなるが……ボクにもはいそうですかと立ち去る理由が、今この時点でなくなった。
「君は人攫いというものを知っているかい?」
「……? はい、見つけたら脛にローキックを見舞ってすぐ逃げろと教わってますので」
「その行程本当に必要かい? 少なくとも、君の教育者はろくでもないことが分かったよ」
言い切るや否や、背を向けたボクには彼女が抗議をする気配を感じ取った。
ボクが泣き声を無視できなかった理由。
ただ気にかかっただけではない。
この世界は日本ほど治安が良くないにしろ、その分、子どもたちの危機管理能力は比較にならない程に高い。
彼女ほどの年齢になれば、日暮れに等しい日中に子どもだけで外出はしまい。
けれども、実際に彼女は屋外で、それも裏路地で蹈鞴を踏んでいる。
原因は少年だろう。
何が気に食わないのか一歩たりとも動くことなく、わんわんと泣き叫んでいる。
人攫いにとってはこれ以上ない獲物だろうさ。
「生憎と、ボクは人攫いが大の嫌いでね。己の無力感とか何とか、色々と思い出してしまうんだ」
雑踏から路地を塞ぐように現れたのは四人組。
手には麻袋とぎらつくナイフをこれ見よがしに晒している。
色に変化はない。
下卑た笑みも、嗜虐的な空気もない。
人攫いの練度を計るのもどうかと思うが、彼らは熟練だ。
淡々と作業をこなす。
ただそれだけ。
【楽園】には感謝を述べよう。
【運命識士】には無類の信頼を捧げよう。
早数週間、【楽園】で鍛え上げたボクの“未来視”はロバートと死闘を繰り広げた時から数倍も馴染んでいる。
なにせ、『魔帝』相手に“未来視”を怠れば一秒の間に六千回は死を迎えるのだから。
如何に脳内への負担が大きいといえど、嫌でも使わざるを得ない。
おかげで、脳内へのダメージを“霊力”でカバーしつつ、“未来視”を扱えるようになってしまった。
その成果として、ボクは二人の命を救えるのだから、全くの無駄とは言えまい。
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晴天とは言い難いものの、太陽が素顔を覗かせた昼下がり。
先までの態度とは打って変わって浮足立った様子でボクを見上げる少年、そして、疑念がさっぱり取り払われてはいないが、態度がやや軟化した少女と表通りを歩いていた。
勤勉な人攫いを二度と仕事ができないようにトラウマを植え付けていると、瞳を輝かせていた少年の姿が視界の隅に映ったのだ。
今までは少女の陰に隠れていたために全貌は不明であったが、随分な美少年だった。
少女と同じような格好だが、色白の肌にトパーズ色の短髪、何より好奇心に心を燃やす様子は爛漫を表している。
彼が信用してくれたおかげか、それとも一先ずは敵とは思われなかったのか。
少女もまた警戒心を一回り解いてくれた。
「改めて、ボクの名前はオリバー=ロムルス。色々あってエディンに滞在している商人……の護衛さ」
「僕はエムスっ! よろしくね、ロムルスさんっ!」
「ああ、短い付き合いになるだろうけど、よろしく」
エムス君。
成程、彼女が気に掛ける訳だ。
年の程は七か八に見えるが、どうにも他人を信頼しすぎる節がある。
見るからに怪しい人物であれどほいほい付いていきそうな危うさが目立つ。
「ほら、姉さんも」
「……ティナ」
不承不承といった感覚が見え透いている。
エムスがボクにベタベタするのが気に食わないのか、警戒は解けても攻撃性は増してしまったようだ。
兎にも角にも、これでようやく会話の端緒が開かれた。
エディンの商店街、喧騒絶えない中でも呼吸をしていないのでは? と思える程矢継ぎ早に言葉を紡ぐエムスとご機嫌斜めな様子を隠す素振りのないティナ。
そして、軍服に身を包んだボク。
店主の皆々様からの視線は酷く痛い。
まるでハーメルンの笛吹き男にでもなった心持ちだ。
まあ、ボクには二人を誘拐しようなんて思わないが。
「それで、エムス君。君は何故、あの路地にいたんだい?」
「……? わかんない」
「分からないだって? それは、中々どうして奇怪じゃないか。自分の行動理由を把握していないのかい?」
「こうどう……? でも、わからないよ。気付いたら走って、泣いちゃった」
意図を計りかねる。
この美少年は何を言っているのだろう? いたく衝動的で、抗い難い誘惑に駆られた落伍者のような言い分を恥じることなく口にしている。
彼が齢七歳程度であろうと、言動には不自然さが際立つ。
何かを隠している? まさか。
ボクに語るを憚る事情があろうと、「わからない」と断じるよりはマシな言い分もあるだろう。
それに、【運命識士】は彼の言葉を真として譲らない。
幾度となく閲覧しても結果は変わらない。
「では、君とティナ君の関係は何なんだい? 随分と親密に見えるけれど」
「姉さんは姉さんだよ?」
「ふむ……補足はあるかい、ティナ君」
「…………ない。ただ、孤児院では姉弟ってだけ」
「成程。合点がいったよ」
フフェス人のエムスと、エルシニア人のティナ。
互いの親は接点がなく、既に他界している。
両者ともに迫害の末、形容しがたい最期を迎えた。
エムスはきっと記憶はない年齢の出来事だが、ティナに限ってはそうではない。
記憶野が発達し始めた矢先の悲劇なのだから、忘却は不可能なレベルで刻みこまれていることだろう。
「ねえ、ロムルスさんは優しい人?」
「ふむ、藪から棒に何を言い出すかと思えば。エムス君、君はどう思う?」
「ううぅん…………悪い人はとっても醜い人だから、頑張ってばとうして逃げろって言われてる」
「ティナ君、教育衛生上よくない人がいるようだ。是非、ボクに会わせてくれないかい?」
「やです。あなたみたいな見るからに怪しくて、無害だって白々しく示して、挙句の果てにはわたしの身体目当ての人には絶対にいやです。ほら、エムス。逃げるよ」
「君がボクをどう思っているかは身に染みて理解したよ。うん、まあ悪人と呼ばれることには慣れてる」
「それは……あなた、一体何をしでかしたんですか?」
「おや、ボクが原因だと決めつけないでくれたまえ?」
露骨に眉をひそめるティナの様子をみて、疑問府を浮かべるエムス。
血は繋がっていなかろうと、二人は姉弟なのだろう。
手を引いて並び立つ姿はどこからどう見ても家族のそれで、互いに無尽蔵の愛情をもっているように感じられる。
なんて、美しくて。
酷く羨ましいよ。
「…………ボクも、あの人と」
「……? 何か言いました?」
「いや、負け犬の戯言さ。聞き流してくれて構わないよ」
ティナは怪訝な表情が板についているようだ。
きっと、ここで彼女に打ち明けられない時点で、姉さんがボクに愛想を尽かした理由も分かる気がする。
ボクは世界で誰よりも、何よりも姉さんを慕っていた。
でも、あの人が欲していたのは敬愛でも尊敬でもなく──“愛”だった。
ボクはそれがわかっていながら、ボクに都合の良いものを渡し続けた。
だから、きっと姉さんは。
女神のように綺麗なあの人と無二の親友になったのだろう。
そして、終ぞ、ボクには別れを告げずに去ってしまったのだろう。
「……っ! ロムルスさんっ! ハバリだっ!」
「ちょっと、エムス! この人は知らない人なんだよ!」
「知らない人じゃないよ。ロムルスさんは知ってる人だよ?」
……………………邪念が薄れる気がした。
自己嫌悪の渦巻く坩堝へとずぶずぶと嵌まっていたボクの意識は、エムス君の屈託のない声色によって遮られた。
眼前では彼が黒い棒状の飴菓子──サルミアッキ色の──を指差して頬を紅潮させていた。
そういえば、これはテリアも食べていたが、ハバリというのか。
ドルでは目にしなかったから、きっとリヴァチェスターか、西側領土固有の菓子なのだろう。
卑怯だとは言うまい。
惨めだとも思わない。
代替にしているだけだと分かっている。
ボクと姉さんでは実現できなかった関係を、ティナとエムスに当てはめているだけだ。
ああ、ボクの浅はかさには酸鼻を極める。
けれど、止められなかった。
次の瞬間には、二人分のハバリをボクは買い与えていた。
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湯けむりが支配する世界。
つんと鼻腔をくすぐる香りは温泉という限定的な空間を象徴する。
幼少期に存在自体は知っていたが、実際にわたくしが赴いたのは今日が初めてだ。
雲の切れ間から太陽が多少覗く空の下、舗装されたタイルにぽっかりと円形に口を開ける温泉と呼ぶべきもの。
唐突にテリアが提案した湯時ではあるが、わたくしもまた興味があった。
そのために、一も二もなく賛同して今に至る。
来訪者ごとに個別の湯源が割り振られるらしく、この温泉はわたくしたち三人のみが使用できる。
贅沢だとは思う。
わたくし自身、名のある商人の生まれであるが本家での地位は決して高くなかった。
というよりは最底辺だった。
使用人にすら蔑まれて、寝床は土蔵、食事があればいい方なんて生活を経たおかげであまり上等な経験はできなかった。
とはいえ、初めての感動をホロウやテリアと共にできるのだから、悪いことばかりではない。
願わくば、オラウダとも来れたらよかったのだが。
「どうした、アナスタシア。さっさと行くぞ」
個室の脱衣所で一糸まとわぬ姿になったホロウが立ち止まったわたくしの手を引いて、のれんと呼ばれる布の仕切りを手でどける。
既にテリアは中にいるらしく、いつまで経っても脱衣の終わらないわたくしに業を煮やしてホロウが迎えに来たと。
迷惑をかけてしまったようだ。
まだまだ少女といっても過言ではないホロウではあるが、彼女の身体には生々しい古傷が所狭しと刻まれている。
大方は切り傷だが、何よりも目を引くのは左わき腹から右肩にかけての火傷痕だろう。
痛々しくも華奢な姿に思わず目を逸らしてしまいそうになるが、意地でも視線は、外さない。
わたくしが、彼女の波乱に満ちた生を受け止めずして、一体誰が…………。
「変わらないんだな、アナスタシアも」
「……? それは──」
「テリアも何も言わなかった。それが乙女のギャップなんだと、笑ってくれた」
「そう、なのね。テリアらしいわ」
「ああ。勿論、アナスタシアもな。下手な同情はせず、ただありのままとして扱ってくれる。言葉には、悪いが吾ではできない。でも……救われた気がするよ」
先導するホロウの表情は、わたくしには預かり知れない。
けれど、彼女の纏う空気はとても柔らかかった。
なんて気丈で、悟った少女なのだろうと、義憤──いいや、私憤だな、これは──に駆られてしまう。
あの夜、彼は理想を口にした。
抑圧なき世界。
きっと、人攫いに拉致された少女たちのことも影響していることだろう。
だけど、彼の脳裏にはホロウの存在があったはずだ。
わたくしには、もう寄る辺となってくれた人はいない。
ああ、柄にもなく感傷に浸ってしまう。
ぺたぺたと可愛らしい音を立てて先導する彼女の、壮絶な生を想起させるものの、まだまだ年相応の小さな手を思わず強く握って。
もう、この世界にオラウダはいない。
わたくしの姉は二度と会えない。
けれど、味方は、仲間は、いる。
ガラッ! と耳触りの良い音をたてて、ホロウが思いっきり引き戸という特徴的な戸を開ける。
一目見た温泉の幻想的な雰囲気に、思わず、栓なき願いが首を擡げた。
「アナスタシアちゃ~ん、おっそ~い」
「テリアの堪え性がないだけだと思うがな」
「あぁ~! ホロウちゃんが意地悪言う~!」
「おいっ! どこを触ってるっ! やめ……! はなせっ!」
肌に纏わりつく湯気が心地よく、水のせせらぎが、波紋を広げる様子が何とも言えない感慨深さを与える。
夢ではない。
これは、現実だ。
オラウダを亡くして、我武者羅に突き進んで。
ハギンズに裏切られて、心血捧げて立ち上げた商会を乗っ取られて。
全てを無くした。
でも、わたくしには、まだみんながいる。
そんな当然のことを、改めて教えてもらえた気がした。
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身体の芯から邪気の抜ける気がした。
テリア曰く、温泉につかるためには手順を踏む必要があるらしい。
まず、全身の汚れを落とす。
まあ、湯治をするにあたっては当然だろう。
温水とソープで全身を流す。
ここまでは普段と何ら変わらない。
しかし、湯船に身体をすっぽりと納めてからは勝手が違った。
第一声はふぁとも、ふぅとも付かない間の抜けた声だった。
そして、誰一人として口を開かない時間が流れたのだ。
居心地の悪い沈黙ではない。
まるで事前に決められていたように、示し合わせたのではないか? と思ってしまう静寂が横たわったのだ。
耳朶と打つのは身じろぎの度に鳴る水の声だけ。
いつまで瞳を閉じて脱力していたのだろうか。
数秒だったかもしれないし、数時間とも感じられた。
けれど、ふとした瞬間に、わたくしは口を開いた。
今ならば、この先言えないであろう事柄について、言及できる気がしたのだ。
「…………ホロウ、テリア。ありがとう」
「……? な、なんだ? 何があったんだ、アナスタシア」
「ねぇ~、急すぎてびっくりしちゃったよね~」
衒いもな口にした感謝であったが、二人には不信感を与えてしまったらしい。
わたくしも突然に言葉にされれば面食らうこと間違いなしだ。
突発的であろうとも、事実に他ならないのだけれども。
「ここまで、わたくしと一緒にいてくれてありがとうと。そう伝えたかっただけよ」
「そ、そうか……脈絡がなくて驚いたが」
「いいの~? あたし照れちゃうけど~」
「二人ともわたくしの目的に、理想についてきてくれて本当に感謝してるわ」
「いいのよ~、アナスタシアちゃ~ん。最初は、ホロウちゃんについてきたけどね~。今はアナスタシアちゃんにもぞっこんだよ~」
「それは嬉しいわね。わたくしも心強いわ」
間延びしたテリアの口調も出会った当初は癪に触ったけれど、今では落ち着くように感じられる。
人攫いの拠点で大暴れした時から、テリアとの仲は簡単に切れぬものとなった気がする。
だからこそ、なのだろう。
きっと明日にはエディンを後にする。
わたくしに力を貸してくれる二人を、また酷使してしまう日常が始まる。
今のように、息を吐ける瞬間はもう二度と巡ってこないかもしれない。
差し当たってはフォルド領へと向かって基盤を造る。
何日、何週間、何カ月かかるかも不透明で、立ちはだかる障害も不鮮明。
それでも、二人は最後まで隣にいてくれることだろう。
だから、わたくしはここで宣言する。
何が起こっても、ホロウとテリアの平穏と安寧を護るのだと。
……………………随分と変わった。
三人と出会わなければ、自分が自分以外を尊重できる人間だとは知らなかっただろう。
わたくし以外の人間はみんな敵で、いつ寝首を搔かれるのか、どのタイミングで寝返るのかびくびくと怯えていた。
でも、ホロウは、テリアは、ロムルスは。
安心できる。
心の底から信頼できる。
わたくしは、これを、幸せだと思う。
失いたくない、手放したくない幸福だと思う。
だから、護るんだと、初めてわたくしはわたくしの、わたくしだけの願望を抱いた気がする。




