2. 情報取集
郷愁が胸に広がる。
鼻腔をくすぐる葡萄酒の芳醇な香りは沸々と無限の力を与えてくれるようで。
口腔内に広がる最高級の獣の肉はソースと混じり合って手を取り合っている。
仄暗い個室では煩わしい視線もなければ、情報を整理するにはうってつけの場所だ。
気心の知れた相手と共ならばなおのこと。
けれども、この空間の全てがつい数週間前までは当たり前の情景で、あの頃のわたくしはきっと挫折も失敗も裏切りすらも想像だにしていなかった。
スウィツァー商会。
それがわたくしの全てだった。
実利と発展、拡大。
ただひたすらに商会の成長だけに邁進していたわたくし。
なんて、野心に漲っていて…………なんて、哀しいのだろう。
わたくしだけは、わたくしを哀れんではならないと分かっている。
それでも、オラウダの願いを自分の理想だと定めた時から、一心に進んできた道程と結果はいとも簡単に瓦礫してしまった。
命からがらドルから逃げて、絶滅したと公伝されていた“龍人”に人質とされて、人攫いに拉致されてあわや奴隷になるところだった。
それでも、わたくしは瀬戸際で耐えて、ようやく腰を落ち着けられる場所まで逃げてきた。
自分一人の力ではない。
どうしようもなく途方に暮れるわたくしに、力を貸してくれた人たちがいた。
「……? どうした、アナスタシア。何か気に障ることでもあったのか?」
年不相応に精通したテーブルマナーには、アナスタシアの方が度肝を抜かれた。
仄かな暖色の照明に照らされた個室でお互いに向き合って少し早めの夕食としていたけれど、気配に敏感な彼女はわたくしの視線に気が付いたのだろう。
こてんと僅かに首を傾げて疑問に歪む表情は、見ているこちらが溶けてしまいそうな愛らしさがある。
彼女は見慣れた漆黒の装束ではなく、黒のショートブーツに同じく黒のパンツ、黒緋色のシャツという身軽な服装だ。
隣の空席には紺色のガウンを置いて、窮屈さを極限まで取り除いている。
琥珀色の瞳は薄暗い個室においても蘭々とその存在を知らしめて、わたくしの真意を探ろうと躍起になっていることだろう。
とはいえ、ただ想いを馳せていただけのわたくしに、探られて痛い腹はない。
「いえ、ただ。懐かしいなと」
「……なるほどな。思えば、アナスタシアと邂逅してからまだ一月と経っていないのか」
「ええ。とっても不思議ね。もう何年も一緒に過ごしたような…………そんな感覚だけれど」
「濃密に過ぎるんだ。ロムルスといると、な」
「全面的に同意するわ。【楽園】なんて、文字通り時間の感覚をずらしてしまうもの」
それまでは饒舌に愚痴を滔々と語っていたホロウだったが、【楽園】の名を出した途端に苦虫をダース単位で踏みつぶしたような表情に様変わりしてしまった。
エディンに赴くまでの六日間、わたくしたちは彼に願い出て【楽園】を用いたトレーニングを経験した。
感想はただ一言。
──狂っている。
【楽園】の構造は【権能】の範囲を大きく逸脱している。
あくまでも【運命識士】の派生としては、破格だ。
そのアドバンテージは偏に圧倒的優位性にあるだろう。
【楽園】内では敵対者に不利を押し付けて、自分は幾度となく復活できるなんて…………【楽園】に引き込んでしまえば勝利が確定すると同義だ。
問題は、ロムルスが【楽園】を突飛な方向へ運用したことにある。
最初に聞いたときは彼の倫理観を疑った。
経験値を積むには確かに効率的なのだろう。
実際に、成果としてロバートに苦戦していたロムルスは“龍人”の長であるオンを片手間であしらったのだから。
だが、まさか、その過程で幾億も自身の命を代償にしていたなど…………到底受け入れらない真実だ。
故に、そんな残酷で惨い道を彼にだけ歩ませたくは、なかった。
それはわたくしも、ホロウも、テリアだって承知の上で【楽園】へと踏み入れた。
その結果──
「【楽園】か……吾は今でも信じたくないと理性が叫んでいる」
「わたくしもよ、ホロウ」
ホロウの常識が砕けてしまった。
彼女だけではない。
わたくしだって、テリアもまた、現実だとは思えない。
死とは終幕で絶対だ。
それは生物の共通認識であって、人間のみならず“魔族”だって、“龍人”、魔獣ですら逃れられない宿命だ。
それを……ロムルスはさも当然のように覆してしまったのだ。
死の痛みと、あの無力感、わたくしの生命が活動を停止する瞬間はいつまで経っても慣れることなく。
生々しくわたくしの脳裏に恐怖として刻まれている。
誰よりも死と隣り合わせで、それを拒絶してきたホロウならば……受ける衝撃はわたくしたちの比にならないだろう。
「…………まあいい。頭打ちだと思い込んでいたが、吾にもまだ成長の可能性があると分かった」
「その上昇志向、羨ましいわね」
「ふん。やつの狂言ならば幾分マシだったがな」
吐き捨てるように締めくくるホロウは、【楽園】の話題を早く終わらせたいようだ。
だが、彼女の言う通り、成果はある。
ホロウならば“龍気”と【権能】を織り交ぜた際の最大の欠点である持続時間を克服して伸ばし続けている。
テリアも総合力が根底から上がっているように感じる。
わたくしも、“顕現悪性”を応用的に使用できるようになった。
自分の力不足を痛感したからか、今まで以上に武力の必要性に気が付けた。
その分、実力は着実に我が物とできているといった自負はある。
「それで、アナスタシア。休息は十分か?」
「ええ、おかげさまで。自分なりに精査もできたわ」
気遣いの視線を向けるホロウに応える声色は、自分でもはっきりと違いの分かるほどだった。
何故、わたくしたちがエディンでも五指に入るレストランの、それも個室で優雅なディナーに饗しているか。
その疑問に答えるには些か複雑な事情がある。
先ず、エディンに到着してからわたくしたちは二手に分かれた。
比較的力仕事の得意なロムルスとテリアの二人は物資の調達へ商店街へと。
そして、わたくしとホロウはエディンにて帝国情勢を知るために各方面へと赴いていたのだ。
(正誤はともかくとして)情報の坩堝である冒険者ギルドに始まり、傭兵ギルド、挙句の果てには井戸端会議まで盗聴した。
無論、物理的に歩き渡ろうものならば時間が足りない。
そこで、【楽園】で鍛えた【悪因叛逆】の出番というわけだ。
暫定的な拠点とした宿を中心に同心円状に【悪因叛逆】を波紋させる。
それを中途に休憩を挟みながらであるが、半日程度強行した。
ロムルスがわたくしの行動を知ればきっといい顔はしないだろう。
絶え間なく、無慈悲なまでに機械的に。
情報という名の暴力で脳内を殴打され続ける感覚。
それを、ロムルスは知っている。
僥倖か、はたまた不運か。
彼の【運命識士】の“未来視”は、【悪因叛逆】の感情透視に近しい感覚だろう。
【悪因叛逆】を使い慣れているわたくしだって、時折意識を整えなければ発狂しそうなのだ。
彼ならば、十中八九というか確実にわたくしの無茶を咎めるだろう。
そして、不器用な彼は咎めた自分自身に対して、「それは正しかったのだろうか?」と自問自答を始めて…………果てには自責の念に駆られる。
たった数週間の付き合いであるが、その情景が嫌でも想像できる。
だから、言わない。
彼は【楽園】で孤独な闘いを経験して、わたくしはその努力を知りさえできなかった。
こんな意趣返しは未熟者の証だと思う。
成熟しきっていない子どもならまだしも、わたくしは大人だ。
折り合いは付けられるはず…………なのだけれど。
素直に無謀を伝える気には、なれなかった。
いつか、打ち明けられる時が来たら。
その時は叱責を甘んじて受け入れよう。
どうやら話題が逸脱してしまった。
詰まる所、【悪因叛逆】を半日に渡り稼働させたおかげで、夕暮れ時の時点で、わたくしは足元のおぼつかない泥酔者も真っ青な状態へと様変わりしてしまった。
視界はいつまでもぐるぐるとして、自分が立っているのか、座っているのか、はたまた倒れているのか。
まともな受け答えができたとは考えにくい状態で…………気が付けば、この個室で晩餐会を催していた。
ホロウと二人っきりで。
正気に戻ってことの顛末を聞いて、頭を抱えたのはすぐ後だ。
どうやらとてもじゃないが人様に見せられる状態ではなかったらしい。
余程の醜態だったのだろう。
あのホロウが頬を引きつらせて、無言で慰めてくれたほどなのだから。
そんな痴態を晒してまでも手に入れた情報ではあるが、大半が無用の長物だ。
けれども、塵の砂山の中には苦労に見合ったものもあった。
「ノヴゴロド家とランゴバルド家の縁談、リヴァチェスター領の機械産業、フォルド領の領主、勇者一行、ファルガー=リヴァチェスター間で魔獣の目撃情報か……見事なものだな、アナスタシア」
「どれも貴重で利用できるものばかり。知っていると知らないでは立ち回りにも影響がでる。身体を張った甲斐があったわ」
一見すると些末な情報も含まれている。
特に勇者一行の存在など現状、帝国東側領土、それも高々噂程度の眉唾に等しい。
だが、捨て置くにしては早々無視できるものでもない。
仔細については不明だが、いつか利用できるかもしれない。
問題は目下、次なる布石のための情報だ。
ノヴゴロド家はここリヴァチェスター領の領家であり、ランゴバルド家はリヴァチェスターの南──西側領土を俯瞰するならば最西の領地だ──の領家。
互いに一体何の因果があって縁談など取り付けたのかまでは出回っていないが、付け入る隙は多いほうがいい。
そして、同様の考えをホロウも保持している。
だから、彼女は真剣な面持ちで情報を吟味しているのだ。
これは一時の気の迷いかもしれない。
けれど、打ち明けるならば、きっと彼女をおいて他にいない。
アルコールの類は口にしていないから、酔ったわけでもない。
つまりは、完全にわたくし自身の判断であって、言い訳も通用しない。
「ホロウ……一つ聞いてもいいかしら?」
「……? 何だ、思い改まって。吾で構わないならいつでも問題ないぞ」
「……………………わたくし、ロムルスに。彼に不釣り合いではないかしら……?」
口に出した途端、自分の頬が紅潮するのが知覚できる。
勇気を振り絞って言葉にしたが、勢いにのってしまった感も拭い切れない。
ああ、きょとんと空を喰ったような表情のホロウの視線が痛い。
でも、押さえ込んでなんておけなかったのも事実だ。
返答を聞くのが怖い。
彼女は、ホロウは一体なんて返してくれるのだろうか。
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アナスタシアが壊れた。
思いつめたような表情に、目元を潤ませて上目遣いで、おずおずと口を開く彼女の姿は庇護欲をかきたてられた。
今までの印象を覆すように純白のワンピース型のドレス──それも身体のラインを強調するような扇情的なやつだ──を着たアナスタシアは、傍目には現世に降り立った女神と思える。
歴史には疎いホロウではあるが、純白のドレスを着て怜悧な眼光の中に柔和な優しさを内包して、けれどもどこか妖艶なアナスタシアを一目見て、かつての『天神将軍』シャープールに仕えたとされる『女神』だと錯覚してしまった。
何も『女神』本人を視認した訳ではないが、いつかの依頼で『女神』の壁画を垣間見たことはあった。
そっくりだった。
姿形ではなく、纏う雰囲気がだ。
そんな美女が、生唾を吞み込みそうになる仕草で一体何を口に出すのかと思えば…………吾の予想を軽々しく覆してしまった。
「釣り合うもなにも…………それを心配するのはやつだ。アナスタシアではない」
「そ、そうかしら? けれど……」
煮え切れない。
もじもじと生娘のように手入れの行き届いた金髪の毛先を弄って。
この様子では吾の返答など端から参考にする気はさらさらなかったようだ。
全く、これではまるで──
いやだ。
断固として認めたくはない。
けれど、認めざるを得なくないか? 吾の観察眼と経験では、アナスタシアは思い切って相談…………という体で本心を口にしているようにみえる。
間違いはない。
短い人生ではあるが、相手の様子や仕草を見続けてきた吾の勘が違うなどありえない。
アナスタシアは、ロムルスに恋心を抱いてしまっている。
さもありなん。
ドルでは裏切られて傷心のアナスタシアを克己させて、先の事件では文字通り命を救ったのだ。
惚れるなという方が酷だろう。
勿論、吾としては嬉しい。
アナスタシアの歩んできた道は知っている。
幼少期から出自のせいで冷遇されて、最愛の姉すら理不尽に淘汰されて、頼れる者は皆無。
それでも、理想を実現せんと邁進してきた強い女。
それが、アナスタシア=メアリだ。
不幸自慢をする気はないが、吾も彼女の気高さ崇高さには敬意を表する。
そして、そんな彼女に相応しい男がロムルスだとしても、吾は驚きはしない。
ロムルスも大概諦めが悪く、それでいて純朴だ。
偽善を貼り付けたような仮面は気に食わないが、最近では彼のありのままの素顔を見せてくれている。
“オドラの邑”では吾を助けてくれたし、それ以前も嫌悪はするが認めてはいた。
お似合いだ。
だというのに…………どうして吾は素直に喜べないのだろうか。
「その格好。奴に合わせたのか?」
「……っ、やっぱり気付いてしまうかしら?」
「まあ、変化は激しいからな」
ダメだ。
これ以上は見ていられない。
年不相応に熱を浮かすアナスタシアの姿は、まるで取りこぼした幸せを必死に手中に収めようとしているようで。
否が応でも彼女の道程、その残酷性に意識が向いてしまう。
きっと、自然なことだ。
でも、だって…………それは、アナスタシアが少女時代を暗澹の中で過ごしてきたと認めるに充分な証左になってしまって。
何も恋をしなければ健全だと言うつもりはない。
その論理を適応するのならば、吾だって人の恋路を分析する資格はない。
…………吾はどうすればいい? 何と返答するのが正解なんだ?
テリアに相談するか? いや、アナスタシアは吾を頼ってくれた。
意見を取り入れるのならば、その数は多い方がいい。
アナスタシアならば簡単に思い至るだろう。
テリアのいないこの場で、吾にだけ問いかける時点で、吾は彼女の信用に背きたくはない。
「アナスタシア…………吾は……」
「やはり、急にイメージを変えるのは悪手だったかしらね。商人と護衛を装うなら、統一感を出そうと思ったのだけれど」
は……? 待ってくれ。
「は………? 待ってくれ」
「どうしたの? ホロウが露骨だって教えてくれたのよ? リヴァチェスター領に入る前に決めたように、わたくしたちには圧倒的に資金が足りない。だから、新しく商会を立ち上げるために交易の中心地、フォルド領に向かう道すがら冒険者として資金を貯めると」
い、いいや。
それはそうなのだが。
まさか、吾の早合点だったのか?
「何か気になるところでもあったのかしら? もし、そうなら教えてほしいのだけれど」
「や、ない。ないはないんだが」
暑い。
羞恥のあまり全身から湯気がでそうだ。
吾はなんて破廉恥で、下世話な勘繰りをしたのだろうか。
アナスタシアは健気に作戦の基盤を確認したかっただけなのに。
「済まない、吾の早とちりだったようだ。その…………アナスタシアがロムルスに気があるような捉え方をしてしまった」
「……? わたくしが彼に?」
ああ、アナスタシアの視線が矢のように刺さる。
分かっている。
少し考えれば勘違いだと理解できるはずだ。
偏に、吾が浮かれているだけだ。
幼少期の残像を醜く追っているのは吾の方だ。
「わたくしと彼はただの契約関係に過ぎないのよ? それに、彼は彼の姉上様の姿をわたくしに重ねているだけ」
やけに自嘲的な物言いに、思わず凝視してしまった。
既にロムルスはあの夜、吾に語った全てをアナスタシアにも話したのだろう。
だから、アナスタシアは求められているのが自分ではないと言いたいのだろう。
けれども、それは、吾にとってはより一層受け入れがたい事実だった。
これなら、アナスタシアが熱を上げてくれていた方がずっとマシだった。
「…………アナスタシア、君はどう思っているんだ?」
「わたくし? わたくしは…………」
続く言葉を期待したのだが、終ぞ彼女はその答えを口にすることはなかった。
けれど、渋っている様子ではない。
彼女もまた、持ち得ていないのだ。
まだ、模索している。
藻掻いている。
誰よりも素直で、純粋であろうとする彼女は。
噓偽りのない本心を言葉にしようと、必死に自分の裡を視ている。
その姿を、きっと吾は今生、忘れることができないだろうと他人事のように思っていた。




