1. プロローグ
見渡す限りの雪原を慣れない行軍ともあってか、約六日間の旅路を経て踏破した。
移動中は絶えずアナスタシアやホロウ、テリアの三人が数日間の間に如何なる経験をしたのか冗談交じりに語り合っていた。
専ら御者をしていた己は右から左に流す程度であったが、中途でホロウが己の独白をこれ見よがしに滔々と口にしだした時は羞恥に肩身が狭かった。
己にもまだまだ人間的な感性が残っていて安堵した半面、素直に感情に従う戸惑いも顕在化した。
加えて、どうにもオスマンとビザンツの二頭がアナスタシアとテリアにも懐いたことに心理的なダメージも受けてしまった。
…………結構、洒落にならないレベルの傷だ。
更に、オスマンとビザンツのはドルから苦楽を共にしてきた馬車馬…………最近は勝手にドヴァーラヴァティと名付けたが、異種間交流というのだろうか随分と仲が良くなったように思える。
詰まる所、己だけが爪弾きにされたようで疎外感に涙を流した日が……………………いや、別にそこまでではないな、うん。
話が脱線した。
先の騒動の原因となった己の【楽園】についても、詳細を皆に伝えた。
どうにも、【楽園】の自由度はとてもじゃないが規格外らしく、己が規定するのであれば誰であっても死を超越できるらしい。
簡潔に表せば、己が認めさえすれば誰であっても地獄の鍛錬を経験できるという。
おかげで、今では夜な夜な四人で【楽園】内に入り八時間余りの訓練に勤しんでいる。
なんともシュールで筆舌に尽くしがたい光景だが、何故だか肩の荷が降りたような気がした。
引き換えに、己の尊厳が犠牲となったが。
三人が初めて【楽園】で復活した時の表情といったら…………「こいつ正気か?」と異星人の文化を目の当たりにしたような。
到底信じられない、受け入れられない隔絶を前にしたような。
兎にも角にも、【楽園】のおかげで己たちの総合力は階乗の如く増していったのだ。
さて、そろそろかな。
既に己たちは雪原にはいない。
ではどこにいて、何をしているのか疑問に思うだろう。
「あれぇ? ロムルスくん、どうしたの~?」
喧騒に包まれた路地に、至る所に人の頭が蠢く商店街。
ここはリヴァチェスター領首都、エディン。
疑問符を浮かべて振り返った“龍人”の少女が、きょとんと首を傾げる。
言動の端々にあざとさの香るテリアと共に、己は久方ぶりの人混みに圧倒されていた。
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リヴァチェスター領。
ウェスタ・エール帝国西側領土、その北に位置する帝国一の工業地域だ。
とは言え、そこかしこで工業作製通路が通っている訳ではない。
首都エディンを中心に北東地域では商業が、南西地域では工業が盛んなのだ。
そもそも、リヴァチェスター領の東半分の土地についてはアデラ・ジェーン山脈の延長線上とも思える樹林帯が広がっているため、必然的に人々の居住できる範囲というのは限られてしまっている。
領民は大多数が工業に勤しんでいるためか、工房と家屋と一体とし、南西部に居を構える。
そのため、部外者は基本的には中心に位置する首都エディンか、北東部の商業地域へと出向く行商人かに区分けされるのだ。
かくいう己たちもまた、まるっきり部外者であって、束の間の休息がてらにエディンまで足を運んだ。
「ホットミルク? っていうの、すっごぉくおいしいぃね」
ダークブラウンの机に肘をついて、まるで宝物を両手で覆うようにホットミルクの注がれたカップを捧げて暖を取るテリア。
商店街で目的を果たした己とテリアは、慣れない寒さと久方振りの人混みに参ってしまった。
そのまま宿へと戻ることもできたが、喫茶店のような外気と隔離された空間を見つけてしまえば…………取りうる選択肢など限られよう。
二人掛けの長椅子に一人ずつ腰掛けて、正面に相手を視界へと収められているように座った。
かじかんでしまったのだろうカップを握っていた両手をすり合わせるテリアの頬は、暖を取ったことでやや紅潮している。
アナスタシアから聞いた話では、テリアは人間を膨張させて凶暴に仕立てた怪物相手に善戦したという。
事情を知らなければ、どこにでもいる少女のような外見をした彼女がだ。
薄桃色のウェーブのかかった短髪に、桜色のポンチョのような腰丈の外套を羽織り、その下には淡いピンクのセーターを、同様にもこもこのショートパンツ、健康的な両脚を惜しみなく晒して、雪色のショートブーツを履いている。
一言で表すのならば大人びた少女といった服装のテリアは、おっとりとした雰囲気も相まって道行く人々や、店員、暖かい飲物目当ての客にまで存在感を受け付けている。
「そうか、それは良かった。先の雪原と比べても幾分か寒さはマシになったけれど……テリアは邑以外へは出歩かなかったのかい?」
己もまた、テリアと同様に首都エディンに到着してから改めて服装を一新した。
こちらの世界でサバイバルをしていた際の服装では、蛮族にしか見えないと口揃えて警告されたためである。
…………個人的には利便性に優れていてとても気に入っていたのだが。
まあ、己の願いと裏腹に獣の皮で作ったローブは寒さを防ぐことはできず、野盗から剥いだ装備は傷が目立ち過ぎた。
とは言え、いついかなる状況においても運動性を損なう訳にはいかないのも事実だ。
故に、己は白の軍服に純白のローブを合わせて、黒のブーツという何の味気のないものに落ち着いた。
まあ、テリアは一目見ただけで苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべたが…………何も言わないあたり、及第点は獲得できたのだろう。
「そうだね~。オンは“龍人”を外界へ出そうとは思わないヒトだったからぁ。あたしも~、こんなに寒いとこに来たのは初めてだね~」
確かに、彼女の言う通り、たった数日滞在した己であっても“オドラの邑”の排他性には辟易した。
ホロウが頑として永住を拒む程には、他の共同体との交流が皆無だった。
妄執に近しい閉鎖性は、もはや病的とまで思える。
「…………ホロウちゃんは~。経験あるのかなぁ……?」
ぼそりと。
己に聞かせるつもりのない独り言だったのだろう。
彼女の視線はカップの中のホットミルクに注がれて、水面に映る自身の顔と対面している。
テリアが何を思っているのかなんて、己にはわかるはずもない。
ただ、己には彼女が自身の世間知らずを恥じているように思えた。
アナスタシアとホロウは己たちとは別行動だ。
重労働ができる己とテリアは六日間の旅路で底をつきかけた物資の補充。
そして、二人は情報取集に勤しんでいる。
合流は日没。
馬車とドヴァーラヴァティ、オスマンとビザンツを預けられる納屋の併設される実に便利で合理的な宿屋に。
「ねぇ~、ロムルスくん。アナスタシアちゃんとホロウちゃんから聞いたけど~、あたしは君の口から直接聞きたいなぁ」
「何を、と問うのは無粋かな」
「そうだね~。わかりきっているんじゃなぁい?」
挑発的な琥珀色の瞳に、己の魂が射竦められる感覚に陥ってしまう。
ふわふわと捉えどころのない空気が一変、殺伐とした威圧感に様変わりする。
ころころと雰囲気の変化するテリア。
その内実は今も疑念に渦巻いていることだろう。
彼女は未だに己の存在に信頼がおけないのだろう。
アナスタシアが、ホロウが、如何に言葉を尽くしてテリアに語ろうが、彼女は決して納得しないだろう。
己が真摯に、真剣に、混じり気のない純粋な信念を投げかけなければ決して頷くことはないだろう。
「ボクはアナスタシアが理想を現実のものとする手助けがしたい。けれど、ボクは愚かだった。一人で抱え込んで空回りして。そんなボクをホロウが救ってくれた。だから、その恩に報いたい」
幾度となく反芻し、数え切れないほど自問自答を繰り返した。
己が彼女たちの生に干渉するそれらしい理由を御託のように並べるのではない。
アナスタシアの願いに、ホロウの心に、己が惹かれた。
ただそれだけのことを…………なんとも情けないことに言葉にするまでに大いに時間をかけてしまった。
けれども、眼前で息を吐く少女の反応は煮え切らない。
まるで、聞きたかった事柄とは違うと察してほしいと言わん様子だ。
「どうやら、ボクは質問の意図を履き違えたようだね」
「………………それ、君の悪い癖だと思うなぁ。あたしの仕草とか、反応とか。何でもかんでも計算式みたいに書き連ねて」
「はは、勘弁してくれ。その悪癖に関しては充分自覚しているさ。けれども、仕方ないだろう? ボクはそれでしか人と関われない。ボクには、そういった機能が欠落しているからね」
「ふぅ~ん。まあ、ほんとのことみたいだねぇ~。今のも、さっきのも」
「成程。謀ったのか、ボクを」
してやられた。
否応もない事実を語る時は無意識にでも真実を語る姿勢になる。
そして、噓を見抜く端緒ともなる。
己の発言、その整合性を己で証明させられたと。
常人では知覚できないであろう一種の精神状態を、“龍人”である彼女ならば体温の機微や漏れ出る“霊気”の波長から判断できる。
「悪いとは思って……ないかもね~。これくらいの仕打ちは当然だと受け入れてほしいなぁ」
「それは手厳しい。テリア、君は何をもってボクを詰問しているのかい? ボクは本心を君に示した。その真偽はこれからの行動で証明していくしかないけれど」
「うぅ~ん。もし、あたしが妬いてるって言ったらどう思う~?」
「……到底信じられないね」
悪びれもなくちょろりと舌を出して悪戯の成功した子どものように笑うテリア。
まあ、正真正銘子どもであることに変わりはないのだが…………ホロウといい、彼女といい、天真爛漫な少女だと一括りにするには些か無理がある。
その精神性は己でさえも敬意を表する場面が幾つかある。
だからこそ、テリアが何を思って己に語りかけているのか、見当がつかない。
「信じられなくても、それが本心なのよぉ。すっごく格好よかったもの、あの時のロムルスくん。絶体絶命の窮地にすかさず見参! なんて~」
饒舌に言葉を紡ぐテリアの様子は、当時の情景を思い出したかのように興奮している。
それを言うのであれば、己もまた脱帽しているのだが。
人攫いたちの拠点で、協力者と奴隷の少女たちを逃がすためにたった二人残った決断はそう易々と下せるものではない。
それが、アナスタシアの発案であっても、テリアは彼女の意に反して在留を選んだ。
話に聞く怪物とやらを相手取り、必死に食い下がって、疲弊しきった直後でだ。
己たちが間に合ったのも偏に二人が策を講じて限界まで生き延びていたからであって、そうでなくては結果は悲惨だっただろう。
「ロムルスくんはさ~。アナスタシアちゃんとホロウちゃんの方が大切だと思うけど…………」
「テリア。その勘違いはいけない。勿論、出会った当初に疑心がなかった訳ではないが、今では充分信頼しているさ。邑ではホロウを、エディンまではアナスタシアを。君は護ってくれた。ボクの至らない範囲を君がサポートしてくれた」
「……ふぅ~ん。まあ~、それで勘弁してあげるわ~」
「勘弁だって? テリア、詳しく教えてくれないか」
己の態度と裏腹に、彼女は溜飲が下がったようで満足げに頷いて立ちあがっている。
つまり、この会話は終わりだと言外に遮られてしまった形になるが。
彼女を納得させられるピースを己は知らず知らずのうちに提示してしまったのか?
やはり、分からない。
己はただ感謝を伝えただけだ。
テリアがいなければ言い表し様のない凄惨な末路を辿ったであろう“未来”を、彼女が変えてくれたのだ。
疑念など当に捨てた。
いつか…………己へとその胸の裡を伝えてくれる日を待ち続けるしかないようだ。
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想像を絶する鈍感。
今でも彼の疑問に埋め尽くされた表情が脳裏に染み付いて離れない。
我ながらあざとすぎるでは? と羞恥に悶えながら本音を口にしたつもりだったが…………伝わっていないのであれば折角の覚悟も意味がない。
ころころと口内で弄ぶ糖分の塊ーーリヴァチェスター名物ハバリとかいう飴菓子と謳っていたーーをがりりと嚙み砕いて、せめてもの憂さ晴らしとしよう。
ちらと視線を左隣へ向けると何食わぬ顔で平静を保つロムルスくんの姿がある。
あたしなんて、今この瞬間にだって「少しならいいかな……?」とか調子にのった自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られているというのに。
けれど、失敗したとは思っていない。
やはりというべきか、彼はあたしの本心に気が付いていなかったのだから。
あの時の絶望感と無力感は嵐が過ぎ去った今でも、夢に見る。
何のためにあたしはあの場に残ってアナスタシアの隣にいたのだと、自責で潰れそうになる。
言い訳ならいくらでもる。
連戦で消耗していたからとか、敵の人数が予想よりも多かったとか、味方が少なすぎるとか。
そのどれもが、事前に承知していたというのに。
あたしは怖気づいてしまったのだ。
危急存亡を現実に突き付けられて、足が竦んだのだ。
アナスタシアを信用していない訳ではない。
けれど、心許ないと思ってしまった。
なんて失礼で恩知らずなんだと、今でも自分自身に張り手を見舞ってやりたい。
そんな、平常心が乱れる寸前で、自制心の働かない状況で。
唐突に現れた背中が、頼もしくて。
素直に感謝を伝えればいいんだけど……アナスタシちゃんとか、ホロウちゃんとか談笑している中には安易に踏み込めなかった。
いいや、分かっているんだ。
あの二人は優しい。
聞くだけでは想像力を働かせるしかないが、それでも苦労の道筋をたどってきたはずだった。
だというのに、こんな田舎者の“龍人”相手だって見下さず、侮蔑なんてなくて、対等に接してくれる。
そんな二人だからこそ、そっとしまっておきたくなる程輝かしい純朴な二人の心根は、きっとあたしの存在を許してしまう。
それ自体には問題がないばかりか、あたしの望んでいるところだが。
ああ、まどろっこしい。
あたしは、嫉妬したんだ。
瞬きの後には命のない死臭の充満する戦場を前にして、決意と想像力の欠如した少女を救っておいて放置なんて。
助けてもらって何様なんだと、誹りは受ける。
けど…………助けられたあたしの、これは行き場がなくて持て余している。
暖かくて、手放したくはないけれど。
まるで茨のようにあたしを締め付ける。
本来なら、あたしの席はない。
でも、アナスタシアちゃんは、ホロウちゃんはぽっと出のあたしなんかを仲間として、友達として認めてくれた。
彼だって、ロムルスくんだって、まさか…………あたしに感謝してるなんて知らなかった。
優しさが、愛が、こんなにも朗らかで苦しいものだとは思わなかった。
その二律背反な代物を、あたしはどうしていいか迷ってる。
「ふむ、少し冷えてきたね。テリア、急ごうか」
今だって、ロムルスくんは何気なく歩いているだけだけど、吹き荒ぶ風から身を盾にしてあたしを守ってくれている。
“龍人”のあたしには、たかがその程度の風なんて気にするにも値しない。
それは、彼だって百も承知だろう。
けれど、ロムルスくんはあたしを“龍人”として見ていない。
そんな特別扱いが嬉しくて、それでも何故だか後ろめたくて。
ロムルスくんの一挙手一投足があたしを翻弄する。
文句の一つでも言ってやりたいけど。
今は、まだ。
言葉にはできない。
それは卑怯だから。
受け入れてくれたアナスタシアちゃんに、ホロウちゃんに、背を向ける行為だから。
けど……、うん。
ちゃんと話せる時が来たら。
ぜんぶ、ぜんぶ。
話そうと決めた。




