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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第一章【自由の芽吹】──第一部【偶然の産物】
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3. 信頼と信用は……どうやら瑣末に異なるらしい

 絢爛な装飾に、応接間として運用するにしては余りある面積、観音開きの扉には屈強な護衛すら要している都市代表の邸宅、その一室。

 まるで包み込まれるような弾性を誇る椅子を勧められ、相手の誇示する財政力、そして城塞都市ドルにおける権力をまざまざと見せつけられ、思わず萎縮してしまう。

 だが、それを悟られてはならない。

 商人にとって本音を看破された時点で続く人生はなく、一点滅びに通ずる。

 幾人もの破滅者を見てきたアナスタシアは同じ轍を踏まんと集中力をもう一段階引き上げる。


 失態を欠片も見せてはいけない決戦の場において、服装も相手に見合ったものへと変化させなければならない。

 波打つように光を反射する金髪は梳かしたままロングに流し、漆黒のドレスは全体を通して清楚に統一するが、唯一胸元だけが大きく開かれている。

 アナスタシアの信条(スタンス)としては使えるものは手当たり次第使うので、己の身体が交渉を優位に運ぶというのならば喜んで…………いいや、必要だと割り切って差し出そう。

 自己を顧みない手段を選択する彼女を非難する者もいるだろう。

 だが、それでもアナスタシアは己を曲げない。


「初めまして、かな。スウィツアー商会の、アナスタシア嬢」


「ええ、お初にお目にかかります。栄光ある城塞都市ドルの都市代表、ヨイツ=アウルス様」


 ドスドスと己の館だと無言の圧迫感を与えながら、引き締まった肉体に、一切の乱れを感じさせない軍服、そして油断なく光る眼光。

 凡そ四十代とは思えない生気に満ちた肉壁とも言うべき屈強な肉体は、一介の軍人からの登用であるため血の匂いを隠しきれていない空気を醸し出している。

 貴族流の挨拶を選択したが、それも形だけ。

 彼の裡に潜むは闘争と競合。

 一重に都市代表として地位を確立させた理由もまた、輝かしい功績を得るためである。

 それが、アナスタシアの収集した情報を噛み合わせたヨイツ・アウルスの評価だ。


 先入観を排除して見ても、粗雑な振る舞いや隙があれば首元を掻っ切ってやろうと沸々と狙う魂胆が見え透いている。


「それで、アナスタシア嬢に至っては何故に吾輩との会談を?」


「はい、アウルス様。まずは貴重なお時間を頂いたことに感謝を」


「世辞も無駄なやり取りもなしだ。貴殿の望みを聞かせてもらおう」


 ドカリと遠慮の欠片もなく正面に座り、稚拙に強引に話を進め、一言二言交わしただけで立場の違いから粗野な口ぶりに戻る。

 典型的な強突(ごうつく)張りな軍人気質、と万一にも手前勝手な評価を気取られぬように心中へと留めおく。


「では、アウルス様のご厚意に甘えまして。わたくし共スウィツアー商会は、城塞都市ドルの奴隷市場との専属契約を提案いたします」


「…………ふむ。続けよ」


「はい。スウィツアー商会は未だ未開拓と言って差し付けのない東部領土より、有益な奴隷を運送が可能です。わたくし共致しましては、他でもない城塞都市ドルの都市代表であらせられるアウルス様のお力になりたく思い、本件の交渉を持ち出すに至りました」


 一言一言吟味するように頷くヨイツの様子に、手応えを感じて思わず笑みが溢れてしまいそうになる。

 ヨイツが南部の城塞都市であるファルアーデや、商業都市ジーニアに一方的な敵愾心を抱いていることは周知の事実だ。

 故に、これまでにも彼へとアプローチを仕掛けた商人は、ヨイツの功名心やドロドロとした出世意欲を突くような商案を提示したはずだ。

 だが、ドルでは専属契約を果たした商会は未だかつて存在しない。


 そして、アナスタシアはそこいらの商人と比べて、優秀であると自負している。

 何も空虚な自信で判断を見誤った訳ではない。

 スウィツアー商会を立ち上げて三年程経過したが、その三年で帝国内での評判はすこぶる良い。

 盤石な経営手腕に、各分野において右に出るもののいない人材を駆けずり回って引き抜いただけの価値はある。

 なんと言ってもスウィツアー商会立ち上げに、倍の六年を費やしたのだから。


 確実な実績に、新進気鋭の商会との商談であれば、いかにヨイツといえど無視はできず。

 そして、提示した餌に釣り合うだけの利益はある。

 奴隷がいれば単純な労働力の確保が容易となり、より活性化した都市の一助になる。

 それだけで、他の都市を出し抜き、彼の意地汚い欲は満たされる。


 同時にアナスタシアが手ずから管理することで、劣悪極まりない環境に置かれるはずであった奴隷たちに衣食住を提供できる。

 帝国領内における奴隷の扱いは千差万別あるが、それでも目を背けたくなる程の扱いを受ける方が多いのだ。


「アナスタシア嬢。これは都市の岐路を左右する重大な案件だ。少し時間をくれないだろうか」


 神妙な表情を偽装して勿体ぶって話を切り出すヨイツは、最早滑稽ですらあった。

 本能では今すぐにでも食らいつきたい好物であっても、軍人としてのチンケなプライドがそれの邪魔をしているのが見て取れる。


「はい、勿論でございます」


「うむ。では、再度使いをよこそう」


 勝った……っ!

 そう、年甲斐もなく叫びたい程にヨイツの返答は満足するものだ。

 最悪の場合、今回の商談を最後に没交渉になる可能性も捨てきれなかったが、アナスタシアの掴んだ勝利は次に繋がる貴重なもの。

 綻びそうになる表情を理性で律して、儀礼を疎かにすることなく反吐が出そうになる過度に下品な装飾の煌めく応接間より退出する。


 想像する理想へと大きく進展した歓喜に浮き足立っているアナスタシアでは……不幸なことに気がつけなかった。


 表面上は、彼女の思い通りに、いいやアナスタシアですら思っても見なかった再度の会合の依頼。

 ああ、確かに彼女自身が描いた絵図は緻密で、隙など生まれるはずもなかった。

 だけれども、悲しいかな…………彼女は詰めを誤った。

 かけ間違えてはならぬボタンを、噛み合わせなければならない歯車を、アナスタシア=メアリは翻って見直さなければならなかったのだ。








 ❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑








 肩の荷が降りたとはこのことだ。

 目前へと迫った商談は殊の外、あっさりと良い方向へと舵をきり懸念していた反応すらヨイツは額面へと表さなかった。

 ヨイツの邸宅がある中央市場より馬車で数十分あまり、上流階級や成功した一握りの冒険者、傭兵団の面々にしか許されない宿へも戻り、窮屈なストールや装飾品の数々を外しそっと息を吐く。


 先の応接間と同等の室内では数人の世話係と、スウィツアー商会の人材育成及び人事を一手に引き受ける副代表たるハギンズ=レイクウェルらがアナスタシアのもたらした報告に安堵しているところだ。

 主人であるアナスタシアへと紅茶を注ぐ者、湯浴みの準備をする者、それら全てがアナスタシアの血反吐を吐いて築き上げた商会だと思えば、苦労も報われよう。

 そして、商会立ち上げから苦楽を共にしてきたハギンズもまた満足げに頷いていた。

 平均的な身長に、健康にも不健康にも見える体格に一端の燕尾服を着こなした彼は、普段からやつれたようなげっそりとした表情が特徴的だ。

 けれども、今ばかりは高揚している気分がひしひしと伝わってくる。


「アナスタシア様、ようやくですね。ようやく足がかりが掴めましたね」


「ええ、ハギンズにも助かったわ。情報収集、ご苦労様」


「いえいえ。それもアナスタシア様の悲願成就を思えばこそ。今晩は奮発したディナーにいたしましょうぞ」


 こんなにも上機嫌なハギンズは初めてだ。

 スウィツアー商会創設から感情や思惑、凡そ色と呼ばれる類を気取らせなかった……そう、正しく商人の鏡と言うべき男。

 相手の情を引き出し、特に複雑な人間感情を紐解きまるでマリオネットを動かすようにコントロールする話術で、幾度も脱帽させられてきた服芸の天才が。


 張り詰めた緊張の糸を緩めようと最高級のベッドへと腰掛ける寸前──ああ、実に刹那の葛藤だった。


 だが、その葛藤が、不可解が、生物の本能というべき勘が……彼女の命を救ったのだ。


「──ッ、!?」


 悪寒、殺気。

 まるで首筋に氷を充てがわれたような底冷えする感覚に、息が止まる。

 恐怖に絡めとられ身動きの取れないが、視線だけ動かして首元へと焦点を合わせる。


「流石はアナスタシア様。本来ならば、私の手元には貴女の首があるはずでしたのに」


 慇懃無礼に手を合わせ、まるで値踏みするような冷徹な瞳を携えて。

 わからない。

 意味がわからない。

 あれは誰だ? ハギンズの皮を被ったあいつは…………?


「おや、貴女らしくもない。現実逃避は愚行、そう仰っていたのはアナスタシア様……貴女でしょう?」


 心中を言い当てられて思わず身を硬くする。

 いけない。

 彼の術中に嵌っては一巻の終わりだ。

 首元の刃が、ぎらつく白刃に思考が恐怖で錆びつく。

 状況を、今、何が起こって────ッ!


「簡単ですよ、裏切らせて頂きました。まあ、はい。色々な手筈を整えて」


 だめだ。

 思考が読まれる──相手は人の感情を読み取ることに長けたハギンズだ。

 平静を保たなければ。

 いいや、今更固辞し続ける体裁もあったものじゃない。

 切り替えろ、巻き返せ、思考を重ねろ。


 ()()()()()()()()()()()()


 ピチャリと素足に生暖かい液体が触れている感覚が心底気持ち悪い。

 だが、視線は眼前で不気味に微笑むハギンズからは離さない。

 何があったにしろ、この場の主導権は彼にあるらしいから。

 この空間にある息遣いは荒い呼吸のアナスタシアと、普段通りの規則正しいハギンズの二つのみ。

 つまりは、先まで交渉の成立を、商会の発展を己のことのように喜んでいた使用人たちは既に事切れていると見た方がいい。


 疑念を抱かずに、ふかふかのベッドに身を投げ出していれば、アナスタシアも物言わぬ骸へと成り果てていたのだろう。


 気配も、殺気も、感じさせない下手人たちは余程のものだ。

 現にこの部屋に何人潜んでいるのか、背後で首元に刃を突き立てる者以外、見当がつかない。


「それにしても、よくぞまあ、謀反に気がつきましたなあ。寸でのところでしたが、仕留め損ねました。まあ、私ではありませんが」


「…………何が、望み? わたくしを生かし続ける理由はありますか?」


「望みは一つですよ。わかっているでしょう? スウィツアー商会の利権、その全てですよ」


「権利に目が眩みましたか、ハギンズ。あなたらしくもない」


「いいえ、これが私ですよ。アナスタシア様。ヨイツ=アウルスとの商談が成功し次第、計画を始動する予定でありました」


 随分と上機嫌に講釈を垂れるハギンズではあるが、首元の刃が微かに震え皮膚を破っている。

 つまりは、背後の下手人の想定では足の付く表舞台には一秒たりとも長居したくはないのだろう。

 それもそうか…………幾ら名の知れている暗殺者であっても露見だけは避けなければならない。


 これは有益にすぎる情報だ。


 ハギンズと下手人の関係はあくまでも契約上、仕事仲間程度の親密度しかない。

 厄介な場合、絆や情、人間的感情で結ばれていると何をしでかすかわからない不確実な恐怖を常に勘定に入れる必要がある。

 だが、所詮は金銭だけの間柄における行動は、合理性の基に行われるものだ。


 ならば、付け入る隙は過分にある。


「商会を乗っ取るだけなら、何故殺すのですか? 命を握られている以上、権利移転の宣誓書にもサインしましょう」


「いえ、それは断固としてお断りします。私は、アナスタシア=メアリをよぉーく知っておりますので」


 かろうじて舌打ちだけは耐えた。

 だが、表情まで律せられたかはわからない。

 業腹だが、ハギンズは優秀だ。

 商会の業務を一任できるほどに。


 そろそろ引き出せる情報も無くなってきた。


 ハギンズの目的、アナスタシアを生かす予定もなし。


 ならば、早急に逃亡しなければ…………断腸なんて矮小ではなく、魂を引き裂かれるような苦痛を無理矢理にでも呑み込んで。

 今は、生き延びる必要があるのだ。


「──【悪因叛逆(マリス・リフレクター)】」


 第一段階“悪意(あくい)誘引(ゆういん)”。

 ハギンズの無駄話、アナスタシアとの問答、そして、彼女以外の人間の不存在。

 この空間を形成する全ての要素が、アナスタシアの逃亡へと大きく貢献したことも否めない。

 だが、最も彼女の力となったのは、他でもない彼女自身の布石だった。


【権能】──それは個人が生まれながらにして保有する絶対の能力であり、時偶に【権能】だけで世界転覆すら謀れる突出したものもある。


 生憎と、アナスタシアの【権能】は武力一辺倒の種別ではないが、生命の危機たる現在の状況を抜け出すのには最適だった。

 何故って? 彼女は【権能】を自認してから一度たりとも己の【権能】を口外したことが、ないのだ。


 肉親にも、兄弟姉妹にも、乳母にも、例え腹心であってさえも──アナスタシア=メアリは最後に頼れる己の力だけは決して明かさなかった。


 目の眩むような漆黒の光を顕現したと思わせて、下手人とハギンズ共々の視界を潰す。

 あとは、着の身着のまま生存のために、手塩をかけて育て上げた商会から惨めにも逃げ出すのだ。









 ❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒








 朝が来た。

 嬉しいこと……であるかは、残念ながら判別がしづらい。

 森林サバイバルでも毎朝の目覚めを迎える度、日本へと、住み慣れた我が家へと帰還しているのではないかと期待に胸を膨らませていた。

 しかし、未だそれが叶うことなく、染みついたルーティンを消化していく。


 顔を洗い、荷物を確認し、左腕の具合を診て、防具を着用して、最後に鉄兜をはめる。


 防犯のために扉や窓枠にセットしたつっかえ棒や、鈴の類を回収し終えて。

 ふっと一息をつく。


 湿気によって底の抜けてしまいそうな床や廊下だが、簡素な宿に文句は言うまい。

 いつ如何なるタイミングで襲ってくるかわからない獣や野盗蔓延る森林の方が気は抜けないし、安眠できた試しがない。


「…………【権能】か」


 独りごつは昨日、アリーから得た情報の中で最も有益と言える【権能】についてだ。

 彼女曰く、先天的な機能──手足を動かす、呼吸をする、瞬きをする、匂いを嗅ぐ、正しく人間の生存行動と同様に、意識せずとも引き出せるらしいが。

 さて、転生者か召喚者か定かではないが、少なくともこの世界の住民ではない自分に【権能】が宿っていて、刻まれていたとしても使用できるのか。


 だが、翻って“霊力”とやらには心当たりがある。

 己の背丈の数倍はあろうかと獣や、今にも命を奪わんとする盗賊や野盗と矛を交えた時に、胸の裡から暖かな感覚が溢れてきたことがあった。

 当初はただのアドレナリンか、生存本能の一種として処理していたが……もし、()()が“霊力”ならばこれ以上ない武器となり得る。


【権能】の不利を覆せる“霊力”は、【権能】の存在が不確かな今、唯一縋れる最終手段だ。


「とはいえ、それすら具体的な使い方がわからないんじゃ、話にもならないな」


 現状、【権能】と“霊力”については棚上げだ。

 だが、だからと言ってのうのうと無意に過ごしているわけにもいかない。

 昨日失敗した傭兵からの情報収集は、諦めるに惜しい。

 必要最低限の荷物だけを背負い、傭兵商会へと向かおう。


 緊張は解いていない。


 足音はできうる限り殺し、呼吸は平坦に、生の気配を隔絶する──五感の優れた獣や、狩りのエキスパートである盗賊や野盗を相手に、効率よく勝利を収めるために独学で得た知見だ。


 けれども、生命体である以上、何かしらの痕跡は残るものであり、“完全な虚”は実現し得ない。

 創出した隠形は、どこか作為的な姿隠しとして却って不自然に思えてしまうのだ。


 ()()

 扉の先に、極限まで無駄を削った薄いドアの先に、溢れんばかりの殺気を携えた何者かが、いる。

 それは惰眠を貪っていた動物的本能を、一週間に渡り研ぎ澄ました彼だからこそ違和感を抱けた些細な平時との相違点。


 視野を、感覚を、五感を、拡げる。

 遮蔽物を透過し、人の会話も僅かな衣擦れでさえも具に拾う。

 累計、五人──包囲されている。


 扉の先に一人、廊下の天井裏に一人、窓の近辺に一人、隣の建物の窓枠に二人。


 成程、完全な包囲陣だ。

 蟻一匹たりとも逃さないとする気概すら感じ得る。

 何故? と思わなくもないが…………どうやら相手はこちらを生かすつもりないらしいし、

 相手の力量までは予測できないが、まさか自分よりも弱いはずがない。


「…………私が何をやったんだ。命を狙われる筋合いは、ない」


 沸々と怒りが湧いてきた。

 わけもわからないままに逃亡奴隷として追いかけ回されて、左腕を食い潰されてからは回復の見込みはなく、挙げ句の果てに一週間彷徨った末にようやく降ろせた腰は脅威を前に上げざるを得ない。

 実に窮屈だ。


 ああ、そうだ。


 “自由”がないのだ。


「生死の瀬戸際なんて、もう慣れた。私の“自由”を犯さんとするなら、いいだろう。相手になってやる」


 同じだ。

 詰まるところ、生存競争なのだから。

 密林での生死をかけた殺し合い──相手は巨大な獣から、逃亡してきた囚人、後先考えない盗賊に野盗。

 殺気を振り撒き、敵対者を固定し、牙を剥く。

 そして、最後まで正気という名の狂気で己を騙し切った者が“自由”を得る。


 単純明快、一々考えずとも良い自然の摂理。


 ああ、虫唾が走る。


 己が強者だと自認し、いつまで経っても弱者の“自由”を嬲る立場にいると自惚れている連中が、醜悪にも滑稽にも思える。

 “自由”を得るために、姉の言葉と共に、生を謳歌するために。


「……ッ、!」


「ブラフだ。間抜け」


 パリンッ! と手元にあった干し肉を包んだ塊を窓を突き破るように全力投球する。

 無論、すぐにでも奴らは自分が室内にいることに気がついくだろう。

 だが、狙いは窓の外に待機している三人ではない。

 投球後、即座に扉前より離れることで、聴覚に頼り窓が割れたことで外に逃げたと()()()した一人が喜び勇んで室内へと踏み入れる。


 無論、行動を誘発したのだ、次に取るべき行動は既定してある。


 無様にも背後を向けた全身黒ずくめのいかにも変質者然とした人間の脳天を目指し、鉈を振りかぶる。

 暗殺業を営む相手に人質を用いた撤退線は不都合にすぎる。

 ならば、早々に相手の頭数を減らす選択をするしかない。


 そのまま、廊下へと躍り出て血相を変えて大慌てで飛び出てきたもう一人に対しても、躊躇せずに鉈を振るう。

 しかし、今回ばかりは奇襲でもなく、正面衝突だ。

 そして、こちらは素人で……相手は手練れ。

 寸前で身を翻され、脇腹とふくらはぎを削ぎ落とすにとどまってしまう。


 だが、それでいい。


 こちらが優越している……少なくとも知略の点では、優っているのだと示せればそれでいいのだ。


「……ッ、」


「動揺しているのか。珍しいな。まさか、今までに殺し損ねた獲物が皆無なわけないだろう?」


「……! 侮辱するのか、()を……ッ!」


「ますます珍しいな。感情を全面へ出す暗殺者なんて」


「貴様……ッ!」


 声調から性別を判断できないようにあえて濁声で話している。

 それに身長や体付き、全身を覆う漆黒の装束……どれを取っても個人を特定できないように工夫が凝らされている。

 それに、たった一合かすめただけだが、奴は相当な強さだ。


 剣圧、殺気、覇気、温室育ちの日本人には欠片も理解できない強者のオーラ。

 しかし、侮辱された事実に身を震わせ怒りを抑制している奴の眼光、言葉に滲む暴力の香り。

 今までに相対してきたどんな生命体とも比較すらできない危険度。


 だが、奴は無闇に吶喊を選択できない……いいや、選択できないように仕向けた。

 一人は奇襲を用いて殺し、ブラフにまんまと釣られて我先にと室内へと突入した三人の暗殺者共は、つっかえ棒を噛ませた扉に苦戦し、つまりは四人の援軍がいない状態。

 何もこちらが実力をひけらかす必要もなく、勝手に過大評価してくれる。

 しかし、あの薄い扉ではせいぜいが数十秒が限界だ。

 瞬きの間に援軍たる三人の追手が合流し、袋叩きに合うだろう。


 故に──


「さらば、としておこう。もう二度と会いたくはない」


「……ッ! 待てッ!」


 全力で、血の滲む程に握りしめた鉈を足元の崩れかけた廊下へと振り下ろす。

 バキバキッ! と小気味いい崩落音を聞き流しながら、階下へと滑り降り──あとは簡単だ。


 複雑怪奇に広がる裏路地へと身を眩ませば、逃亡の一手となる。









 ❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❑❒❑❒❑❒






 ホロウ=クルヌはその道三年の暗殺者である。

『影幽の幻霊(ホロウ)』の名は業界に輝かしいばかりの異名を轟かし、その依頼料など下手をすれば豪邸が一つでも建ってしまうほどである。

 死と隣り合わせ……というよりも死を振り撒く職業であるために、常に死は数秒後の自分と重ね合わせられるのだ。

 人の入れ替わりなど日常茶飯事の中で、ホロウは三年に渡り不動の頂点を貫き、帝国の暗部では引っ張りだこの人気者。


 その強みは、依頼人(クライアント)の情報を漏らさない、明瞭な証拠を残さない、暗殺者としての技量に優れているといった通り一辺倒の要因ではない。


 そもそも、単純に()()のだ。


 物心ついた頃からフフェス人の混血で最底辺からのスタートであった。

 略奪、暴力、陵辱、惨禍。

 そんなありふれた悲劇は友人を超えて最早家族とすら言い切れる間柄。


 明日を生きるために、今日を犠牲にする。

 空腹を満たすために、より飢餓に苦しむ者を犠牲にする。

 寝床を確保するために、家なき浮浪者を強襲し物資を強奪する。


 常に己より弱き者を足蹴にして、自分は少しでも強者へと駒を進めていった。


 それは、表参道の人間にとってみれば汚物同士の醜い蹴落とし合いに映っただろう。

 事実、幾度か暇を持て余したのであろう貴族らの()()に命を散らしかけたこともあった。

 だが、その度に、追い縋る騎士らを嵌め殺し、目障りな肥豚共を嬲り殺し、裏路地で弱者からの略奪を続けていては一生お目にかかれない高価な武具や装飾品を奪取してきた。


 だが、それらは安易に手放したりはしない。


 より強大な力を得るための足がかりに利用するのだ。


 磨きに磨いた隠形技術を駆使して繁華街の噂話に耳を傾け、必要な人間に、必要な量だけ情報を、武具を、宝石を売り払う。

 そして、更なる“力”を求め、より苛烈で下劣な手段をもって繰り返すのだ。


 終わりはない。

 善性など持ち合わせるだけ無為で、そも、それは力あるものの悦楽でしかない。

 慈悲深い微笑みを浮かべてあからさまに良心を説く輩は知り得ないのだ。

 “力”の本性を、人間を矮小だと思い知らせる渇望を。


 その限りにあって、ホロウ=クルヌは誰よりも“力”に誠実で、善性を唾棄すべきものとして徹底的に排斥してきた。


 人間としての欲求全てに蓋をして、二度と掃き溜めには戻らないと金剛の決意をもって、帝国内でも有数の実力者として上り詰めたのだ。


「…………屈辱だ」


 裏家業を営む者にとっての定石の一つとして、報復を未然に防ぐために定住地を持たないことが挙げられる。

 八畳もないであろうスペースに、簡素で少量の荷物だけを無造作に置いた部屋が、帝国内を転々とする根城の一つ。

 本来ならば、自分を曝け出せる場所にあって、それでもホロウは顔を覆う漆黒の面や、全身を闇夜に同化させる漆黒の装束、そして、この世界で唯一信頼している武具の数々を手放すことはない。

 それはプロとしての矜持ではなく、暗殺者ではない自分を己の中で規律できずに自我が崩壊してしまう危険性を憂慮しての慣習だ。


 普段ならば任務終わりに瞑想をして、明日へと意識を切り替えるのだが……どうにも今回ばかりはそうもいかない。

 ぎりりと強く噛み締めれば今までに幾度となく圧力を加えられた奥歯は鋭い痛みとして悲鳴をあげる。


 初めてだ。

 標的に逃亡を許したのは。


 これまでに失敗をしなかったわけではない。

 だが、どの失態にあっても最後には仕留めて依頼完了の判をおさせた。

 ホロウの追跡網に囚われることなく、終ぞ逃げ切れた標的など皆無であったがために、今回の一件については重く受け止めているのだ。


 当初は商会の副代表が代表を暗殺して、当座を強奪するという実に香ばしく弱肉強食の縮図には郷愁を感じさせる依頼内容であった。

 事前のシナリオに沿って順調にことを進めていたというのに、あの胡散臭い依頼人(クライアント)と、妙に勘の鋭い標的(ターゲット)のおかげで盤上は滅茶苦茶に掻き回されてしまった。


 特にホロウの心中を驚愕一色に染めたのは後者の代表、毛艶の良い金髪の美女が発揮した死地での危機感知能力だった。


 ホロウとて手を抜いた訳ではない。

【権能】も、技術も、ノウハウも、状況も、計画も、その他一切を用いてただ一人の息の根を止めるためだけに神経を集中させていた。

 だが、彼女は気取ったのだ。

 それのみに限らず、非日常に高揚したであろう典型的な凡夫の講釈を聞き流しつつ適切な相槌を入れ込み油断を誘い、あまつさえ【権能】を発揮して逃げ仰る妙義を披露した。

 依頼人(クライアント)の言い逃れ曰く、彼女の【権能】は商才に関わる類の“特化型”であり、まさか“万能型”だとは聞かされていなかったらしい。


 ホロウとしてはこの時点で仕事を降りると、その場で吐き捨てた。


 あの薄ら細い男(クライアント)の話を信ずるのであれば、豊満な肉体をしたあの美女は、己の実力だけで一介の商会を創り上げて、いづれ裏切られるであろう“未来”を最小の犠牲で回避するために腹心にすら手の内を明かしていなかったとなる。

 用意周到、際限なき猜疑心、過つことのない判断力。

 どこにでもいる商会代表などではなく、一角(ひとかど)の……それこそ、ホロウの実力を持ってしても遠巻きに眺めるしかできない最上級の“黒鉄(くろがね)級”冒険者や、一級傭兵に匹敵するような傑物。


 それが、死を前にして震えて諦観する以外の選択を成した標的、いいや、敵を相手に下したホロウの評価だ。


「吾の決断に過ちはない。ないのだが…………煮え切れない」


 漠然とした不安が心中を駆け巡る。

 その内実は、ただの商会代表の底力にではなく、依頼人(クライアント)より提示された契約不履行の代償中に遭遇した怪物についてだ。


 依頼人(クライアント)の次善策にて用意されていた数人の暗殺者……というより、奴にとってホロウは失敗しても変えの効く駒にすぎないと言外に伝えられたようなものなのだが……ああ、それが発端となり諍いになる例も後をたたない。

 金にならない殺生はしない──それがホロウの信条であり、あの副代表を殺した所で面倒が増えるだけだ。

 とはいえ、もう二度とスウィツアー商会の依頼は受けない、と所謂要注意人物記録(ブラックリスト)に刻まれたが。


「……ッ、やけに響くな」


 ズキリ──ッ! とホロウの脇腹と脹脛が苦痛を訴え始めた。

 そう、この痛みこそがホロウに判断を後悔させる一端となっている。

 次善策だとか呼ばれていた四人組──確か、三級傭兵隊だったか?──と標的(ターゲット)の宿泊しているだろう宿を包囲していた時だ。

 まず、ホロウですら追跡のできなかった相手を、たった一晩で特定するなど眉唾ものだが……十中八九、「どうせ逃亡中のやつは不審な格好に、顔を隠してるものだろう?」とか巫山戯た理由で無作為に選んだだけだろう。


 時間を大いにドブに捨てていると、きな臭くなってきた状況に辟易していた最中の出来事だった。

 止まったのだ。

 誰の? 勿論、標的(ターゲット)の呼吸が、動きが。

 そして、ホロウが呆気に取られているのも束の間──恐るべき速度で、素人四人組を無力化し部屋から飛び出してきたのだ。

 思わず、迎撃しなくてはと本能に従って動き出そうとした刹那に、更に戦慄する事態に遭遇した。


 屋根裏から首元目指して跳躍しようとしていたホロウに合わせて、反撃を目論んだのだ。


 幸にして鉄兜の男に武道の心得はなかったがために、振り翳された鉈から身を捻って回避に繋げられた。

 しかし、ホロウの懸念はそこにあるのだ。

 ホロウの経験から、あの男に血生臭い香りはない──そんな相手がホロウの呼吸を読み、あまつさえ無力化せんと襲いかかってくる決断ができ得るだろうか。

 それに……今でも身震いしてしまう程に、あの男の()は酷く冷たかった。

 冷徹で、酷薄、無機質なそれは死を熟知している者の携えるものだ。


 武道を極めた訳ではないが、死をよく知っている。


 そのアンバランスさがホロウの意識を釘付けにしている最大の要因である。


「悪夢だ。ああ、そうだ……悪夢と、しておこう」


 見て見ぬふり、臭い物に蓋をする、問題の先送り。

 詰まるところ、ホロウは今回の依頼に伴った多様なイレギュラーを忘却しようと決断した。

 事実、既に依頼からは手を引いているので間違いではないが……正しいとも限らない。


 静かに、それでいて警戒は閉ざさずに、若い暗殺者は濃厚な一日に幕を下ろしたのだ。

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