24. 開闢と自由、共和の象徴
意外だった。
それが、吾の偽らざる感想だ。
多少脅したところで口を割る訳はないと思っていたから。
城塞都市ドルで殺意を交えた時から、逃避行のために協定を結んだ時も、“龍人”の邑で迷った時も、あの『悪人』は欠片たりとも心の裡を明かそうとはしなかった。
それが気に入らず、偽善で覆い隠したような素行は心底嫌気が指した。
だが、幾ら憎もうとも吾とて馬鹿ではない。
ドルからの脱出や、その後の旅路で彼の力なしに切り抜けられた想像がつかない。
彼の実力は認めざるを得ない程に本物で、だからこそ、先の失敗で衝撃を額面へと出さずに包み隠す様子が酷く気がかりだった。
普段ならば吾とて錯覚だと見逃したであろう極小さな違和感。
けれども、認識した途端にみるみるうちにその腫瘍は大きく膨れ上がっていった。
目を背けても無視しえないほどに。
気が付けば一人蹲る彼の隣にいて、尚ものらりくらりとその場しのぎの詭弁を弄する姿に激怒した。
あれは自分ではない。
感情に左右されて、外聞も考慮することなくみっともなく取り乱して。
今思い返しても赤面ものだ。
「まったく…………奴は常に吾を振り回すな」
ポツリと呟く声は静寂に溶けて消える。
陽光の降り注ぐ寝床で昨晩の醜態を反芻するには、記憶が新しすぎたようだ。
彼の独白を聴いたのがつい先ほどのように感じるけれど、既に時は夜が明けようとしている。
あの後──満足したように微笑んだ奴は、ただ一言「ありがとう」と口にした。
余りにも自然で、今までに見てきた彼の貼り付けたような微笑が偽らざる仮面だと強く確信するほどに。
彼の表情と言葉を受けて思わず立ち上がり、別れの言葉も交わさずに足早に寝床まで戻ってしまった。
「………………姉、か」
幾度咀嚼しても嚥下できない概念。
あの男に姉がいて、あの人を喰ったような人間が敬愛などという感情を持ち得るとは。
けれども、彼の話が全て真実ならばアナスタシアと行動を共にする理由も、彼女が信用している理由にも頷けよう。
……まあ、ホロウにとっては望んでも得られない代物だが。
生まれながらに天涯孤独を運命付けられた身だ。合点のいく話ではない。
羨ましいかと問われると────つい昨晩までは不要だと思っていた。
姉がいようといなかろうと、家族がいようと寄る辺があろうとなかろうと、それが強さに直結する訳ではないのだから。
彼の話を聞くまでは、そう頑固に、強情にも思っていた。
姉がいる彼はあんなにも強いのに。
家族など、血の繋がっているだけの関係性など枷にしかならないと思わなくては……ならなかった。
事情が違うのだとは、分かっている。
(彼の話を全て真実だとするのならば)彼の出身地では姉は何故だか迫害されていて、そんな彼女を慕う奴もまた忌避されていたと。
帝国の掃き溜めに生を受けて差別されてきたホロウと、類似していないこともない。
だけれども、指針になるような存在がいるのだと分かった途端に、妙な親近感は霧散した。
「奴も苦悩していた。奴も、人間だった」
口に出して初めて、彼が如何に気を張って、無理を押し通していたのかに気が付けた。
未だに不明な点はしこりのように残ってはいる。
何故、わざわざ出身地から出てきたのか、どうして【権能】の存在を秘匿されていたのか。
だが、どれも些事に過ぎない。
結論として、彼は何人をも踏み込むことを拒絶した本心を明かした。
それは偏にホロウに対する信頼だと受け取れよう。
【運命識士】第二段階の存在を口にしたのも、信用の現れなはずだ。
耳にした時は驚いた。
【楽園】とかいう堅牢で絶対の箱庭を、あまつさえ鍛錬に使用しようなど。
だが、ようやく彼が急激に頭角を現した始めたのか合点がいった。
ロバートとの一戦で発現して、奴の最後の一撃を防いだと知らされた瞬間など……悪寒が止まらなかったが。
寸での所で防げたからよいが……もし、【楽園】がなければ彼はこの世にはいまい。
なんとも悪運が強く、そして根気強いのだろうか。
それしか路がなかったとしても、ホロウには何千何万と命を散らせてまで強さに貪欲にはなれない。
それも、ありとあらゆる難敵を相手にだ。
「……もはや、『悪人』とは呼べないな」
言葉とは裏腹に内心では諸悪の根源として相応しいと思う自分がいる。
けれどもそれは、きっと彼の外界へと醸し出しているイメージに近しいものなのだろう。
初対面で相手のイメージを決めつける傾向の強い人間ならではの偏見だろう。
そう、偏見だ。
既に彼の内心を知った者として、『悪人』などと蔑む訳にはいかない。
さあ、気持ちを切り替えよう。
昨晩、彼はアナスタシアを救出したのちに、同じ話を彼女にもするのだと誓った。
それを果たすためには、どうしても明日の……いや、今日の作戦如何にかかっている。
彼の全知全能を誇る【権能】はラクシュミーの友人の特性のためか機能を発揮できない。
だとするのならば、頼れるのは彼自身の洞察力と予測能力だ。
……認めたくはないが、自分では役不足だと壇上を降りる必要がある。
今までに暗殺者として活動できたのは依頼人から十分な情報を得られたからだ。
今日の作戦のように前提となる情報が欠如した状態では、憶測を下地にした類推が求められる。
それは、ホロウの埒外であり、同時に足手纏いになる。
だが、ホロウに不安はない。
何故って? 簡単だ。
あの男が、誰よりも論理を愛して理性に従う性分の彼が、本気で思考を重ねるのだ。
【運命識士】を活用していた時よりも圧倒的に信用できよう。
「頼んだぞ、オリバー=ロムルス。全て、貴様に委ねよう」
ありのままを語ったあの夜、最後に息をするかの如く自然に。
明かせなかった名の代わりと言ってはなんだけれど…………なんて、苦々しい前置きをして。
まるで本当に名付けられたように。
オドアケルなんて仮初の名では到底受け入れられない違和感などなく。
──ボクはオリバー=ロムルス。“声なき者”を開放する、“自由の象徴”さ。
ホロウの耳朶を打ったロムルスの声は、今まで聴いた彼の声の中で最も聴き心地の良い響きであった。
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朝日が憎々しい。
真夜中に痴話喧嘩…………いや、あれは親子喧嘩か? ともかく醜いまでの本音を詳らかにした言い争いを間近で聞かされる身としては肩身の狭さに朝の訪れに八つ当たりしたくなるだろう。
あの二人と二匹とは、確かに協力関係だ。
襲撃をしかけてものの見事に返り討ちにあって、それでも目的の一致から数日間行動を共にした。
正直な感想としては、酷く不器用で気味の悪い二人だなと思った。
男の方は表面上に感情を出さず、そんな彼に対して、女児──少なくとも、そんな年齢ではないであろうが──は口に出したくとも何も言えていないときた。
何て窮屈で、安らぎのない関係性なのだろうかと。
そんな二人が読んで字のごとく、追い求めている存在のいたたまれなさといったら。
たまったものじゃないだろう。
顔も名前も知らない人間に対して「ご愁傷様」と憐れむなんて初めての経験だ。
「はあ……まっ、本番に揉め出さずにすんでよかったか」
そうだ。
何も悪い方向にばかり気を揉んでいても仕方がない。
今日が救出作戦本番であって、もしそこで円滑なコミュニケーションができなければ目も当てられない。
作戦実行中に話始めるぐらいならば、昨晩の内に話を付けてくれたほうがいい。
貴重なオレの睡眠時間を代償に差し出して、だが。
僅かに鈍痛を訴える頭を抱えて、気だるい身体を無理矢理にでも起こして水分を求めて寝床から出る。
すると、何やら黄昏ている女児が一人。
幸いなことに、彼女とラクシュミーの寝床は人ひとりが身を隠せる大岩で遮られているために、見つかる前に避難できた。
……いや、なんで隠れる必要がある?
自分勝手に口論を始めたのはあいつらで、その気まずい空気をどうしてオレが察してそっとしておかなければならないんだよ。
ならば厚顔無恥に声をかけられるか? 答えは不可能だ。
「…………クッソ。言葉に出せ、か。言ってくれるじゃねえか」
あの女児、絶対におかしい。
まず射殺すような鋭い眼光に、携帯した日本のダガー、身軽な服装に、果てはあの白毛半魔獣を二匹も手懐けて下僕に成り下げるなど。
それに加えて、この前の失敗で翼竜に襲われた時などオレよりも俊敏に、大量の竜を効率的に狩っていた。
ただ身のこなしが常人離れしているだけではない。
何か、そう……根源的な何かがずれているんだ。
年不相応の達観した俯瞰的な視座もさることながら、的確な言葉には頷く他ない。
ラクシュミーは確かに不気味なあの男に完敗した。
手の内を全て見抜かれて掌で弄ばれてから協力者に仕立て上げられた。
だが、あの場で彼女と戦っていても負けていただろう。
「自信なくすな……あんな化け物共は団長以来だ」
ラクシュミー=トラウザーラは帝都守護の一人、『権将』ミッドアイ=トラウザーラの一人娘である。
幼い頃には敬愛していた父ミッドアイは、常軌を逸した【権能】の持ち主で、下級貴族でしかなかったトラウザーラ家を帝国で三人しか任ぜられない栄えある帝都守護に君臨させた。
だからといって、武術がからっきしという訳ではない。
“ジャスティ・レイヴ流”剣術を師範級まで極めたミッドアイの教育は、確かにラクシュミーを相応の剣士に育てたのだ。
だが、ラクシュミーには合わなかった。何が? 地位が。
「将来は『権将』を継承しろ」が口癖の父に反発した……なんて可愛らしい理由ではない。
ただ単純に義務と責務に雁字搦めにされる地位に、権力に、嫌気がさしたのだ。
だから、十四の誕生日を迎えた日に出ていった。
とはいえ、所詮は小生意気なガキに過ぎない。
どこにいこうが居場所なんてある訳もなく、ただひたすらに自分の武器である剣術のみを使って存在を知らしめることしかできなかった。
そして、紆余曲折どころか、大きく歪んだ六年の末にとある男に初めて畏怖した。
その男の名は、ロバート=クライブ。
元“黒鉄”級冒険者であり、丁度ディシェリ傭兵団を立ち上げた傭兵だった。
我流剣術だけで“黒鉄”級まで上り詰めたロバートの【権能】は、あまりにも埒外で奇怪なものだ。
自分の意思を他人に憑依させられるなど……自我の浸食に近しい。
互いの自我が混ざり合い、主導権を握ろうと牽制し合う。
だが、ロバートの自我は正しく鋼鉄の強度を誇り、浸食させることも、させられることもなかった。
だから、ロバートの意思を転ずるための道具でしかないラクシュミーに彼の意思が混ざることはなく、転移を続けると、今ではまるでロバートのように“ラ・カール・レイヴ流”剣術を扱えるようにすらなった。
「…………団長は負けた。オレも、負けた。負け続きだ」
城塞都市ドルで破格の依頼を受けた。
それがディシェリ傭兵団最後の仕事となるとは知らずに、皆気合を入れていた。
ああ、そうだ。
そうだった。
ディシェリ傭兵団は寄せ集めのごろつきに過ぎないが、それでも、皆ロバートの背中に憧れて、若しくはその道程を知りたくてついてきたのだ。
そんな、清々しい居場所はたった一夜で消え去った。
まるで悪夢のような出来事だ。
気が付けばロバートの思念は届かず、右往左往している間に夜が明けると──ロバートはこと切れていた。
契約違反並びに、頭を失ったディシェリ傭兵団は蜘蛛の巣を散らすように霧散。
ようやく見つけた居場所と、精神的な支柱であるロバートも失った。
酷く気が立っていたラクシュミーを、同じく酷い姿格好の彼女が────
「チッ、気が悪くなったな。兎も角、今は作戦の成功に尽力するしかない」
これでは、あの女児を同じではないか。
走馬灯が如く走り抜けた自分の半生にうんざりしながらも、改めてやるべきことを明確にできた。
ラクシュミーは未だに弱い。
実の父から学んだ“ジャスティ・レイヴ流”と、敬愛と畏怖の対象であったロバートに学んだ“ラ・カール・レイヴ流”。
そして、長年の勘。
どれもが半端で、武器としては成立していない。
だからこそ、今は他力本願に頼るしかないのだ。
「頼むぞ、オリバー=ロムルス。お前の作戦に全てがかかってんだからよ」
オドアケル、『悪人』、あの男。
そのどれもが偽名で、オリバー=ロムルスもまた本名ではないらしい。
だが、それがどうした。
ラクシュミーには、その名こそが真名のように感じられる。
言葉にして初めて、ようやく彼を信じられたと安堵した。
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素晴らしい朝が来たと歌いだしてしまいそうになるほど、己にとっては目覚めのいい朝だ。
雲泥を吞み干すような起床を経験してきた身にとっては願ってもない変化だ。
膿が如く沈殿していた思いの丈を吐き切った己はもはや無敵ではないかと思える程に清々しい。
一回りも年の離れた少女に惨めに、みっとなく一方的に喚き散らして何が無敵だと誹りは受けよう。
他の誰でもない、己自身が決壊してしまった精神性に未熟さを感じているのだから。
そんな己でも、起き抜けだが思考はグングンと加速している。
アナスタシア救出と、ラクシュミーの友人が立てたという作戦を成功させるための。
ラクシュミーと【運命識士】の情報を統合するとアナスタシアたちの馬車がロンディーン領の本拠地まで到着するのに二日の猶予があると憶測がたった。
そのため、本日中にリヴァチェスター領に入領し、その上で明日までには敵陣まで歩を進めなければならない。
随分と難易度の高い行軍だ。
しかし、信憑性はある。
なにせ、不具合の起こらない【運命識士】によって裏付けられた予測であるためだ。
あくまで、【運命識士】不具合を起こすのはラクシュミーの友人に関して閲覧する場合のみだ。
と、すれば…………その友人を直接索引に入れなければよい。
【運命識士】で閲覧するのは馬車の行く先と、目的地までの所要時間に過ぎず、ラクシュミーの友人については不干渉を貫く。
問題は己がどの面さげてアナスタシアと顔を合わせるか、だ。
自慢ではないが己は厚顔無恥だ。
もはや軽蔑を超えて呆れすら感じられる程には無遠慮で、傍若無人だ。
けれどもそれは、磊落とは程遠い他人の神経を逆撫でする類の人でなしときたものだ。
勿論のことえではあるが、昨晩ホロウに相談はした。
元はといえば、己が無断で【楽園】鍛錬を慣行したことに非があるのだ。
彼女の返答はというと…………「飾らず、ありのままを語れ。阿呆」とすげなくあしらわれてしまった。
とはいえ、確かにホロウが口を挟める領域でもない。
これはアナスタシアと己が解決すべき溝であるから。
却って、ホロウには迷惑をかけてしまった。
やはり、一晩経っただけでは己の過ちに顔を覆いたくなる衝動までは消えないな。
つまりは、羞恥。
ただひたすらに、己の未熟に嘆くのみだ。
危うく彼の覚悟を、やもすると己は踏みにじってしまうところだった。
しかし、ホロウには幾度となく救われる。
単純な武力でも、仲間としても、彼女は大きな支えとなっている。
「アナスタシアが傾倒する理由にも納得できる。利発で、賢明で、素直。本当に……」
本当に、どうして彼女は暗殺者に身をやつさねばならなかったのだ。
もし、生まれが帝国ではなく“オドラの邑”であれば。
もし、両親が健在で愛情を与えていたら。
などと栓なき空想を描く虚しさよ。
たらればはなく、過去は不動の遺産だ。
きっと、夢想すれば、安住の地があって気の許せる存在が幼少期にあれば…………きっとホロウは今よりもより優しく、人に寄り添えただろう。
無論、裏世界で生き残ったホロウに善性がないなんて話ではない。
そんな彼女にこそ、己は救われたのだから。
だが……、それでもと思ってしまうのだ。
だからこそ、己が“未来”を変えるしかない。
ホロウに安住の地を、気の許せる友を、家族を。
そして、それにはアナスタシアの存在が必要不可欠だ。
既にホロウは彼女を認め、求めているから。
テリアのことも忘れてはならない。
“オドラの邑”で不甲斐ない己ではできなかったことを成し遂げたのだから。
では、己には何ができる? 簡単だ。
どこにいても、安息を確約できる世界。
“自由”と“公正”、“愛”が知覚できる世界。
そのためには、今一度、アナスタシアと言葉を交わそう。
ようやく手に取れるまで鮮烈にイメージできるようになったのだから。
「差し当たっては、自己紹介か。知り合って一月弱で、ようやく……ね」
ああ、まだ一月も経過していないのか。
なんとも克明に脳野を灼く記憶だろう。
一人アデラの密林で逃亡生活から始まり、ドルの牢獄でアナスタシアと会い、そしてホロウと邂逅した。
一年、二年と錯覚しそうなほどに熱烈で、怒涛の日々だ。
全く、いつまでたっても己は不甲斐ないな。
ようやく、やっと、理想を口にできる……その資格を獲得できた。
「ボクの名は、オリバー=ロムルス」
天才と称される二人の英雄から(勝手に)拝借した名前。
共に祖国を憂いて指導者として力を尽くした人間だった。
ならば、己は今はまだ影の形もない国のために全力を尽くそう。
それが、愛すべき家族のためにできる唯一の己の役割だから。




