20. 行住坐臥は夢の先
妙な胸騒ぎはしていた。
普段のように慣習と化していた日課の鍛錬へと赴くために、息を潜めて荷台を後にした時に。
生暖かい風が木々を揺らした音が、言い表しようのない漠然とした不安を増幅させた。
生まれてこの方、恐怖や不安といった形のない感情に左右されることのないはずなのに、だ。
そんな、無体系のざわめきは【楽園】の中でも健在だった。
多数戦の経験を積むために億の“魔族”連合を撃ち滅ぼしていた最中、ふと【楽園】外の世界に意識が向いた。
ああ、それは天啓に近しい、一種の報せのようなものだ。
今すぐにでも【楽園】を解除して時間を戻せと、そうしないと後悔してもしきれない惨状を目の当たりにすることになると。
眉唾の感覚には振り向かなかった。
だが、振りほどけもしなかった。
正立方体に溢れかえる軍勢を、プロジェクターの役割を果たす【運命識士】の効果を切ることで霧散させる。
そして、【楽園】もまたその効力を消失させる。
冷静になった今となっては、【運命識士】の“未来視”を多用し続けた結果、運命を大きく変えるであろう“未来”に敏感になってしまったのかもしれないと憶測はつく。
とはいえ、それも後の祭りだ。
目の前に広がるのは無だ。
いいや、訂正しよう。
本来ならば馬車と馬車馬、荷台にはアナスタシアとテリアがいるはずなのだ。
けれども、眼前には粗野な盗賊紛いの連中が屯しているだけ。
ちらと視線を向けると、ホロウもまた動揺していることから…………少なくとも、己を捜索しに荷台から飛び出した間の刹那で二人は姿を消したこととなる。
あと少し【楽園】を解除するのが早ければ、いいや、言いようのない不安に従って鍛錬を行わなければ。
などと仮定の話を幾ら並べたところで意味はない。
己だからこそ分かる。
幾らたらればの御託を妄想したとて、己はその回数分最悪を引き当てる。
つまりは、己の秘密主義のためにホロウが見張りを離れて、何がどうしたのかは不明だが…………二人は忽然と消えた。
いや、忽然ではない。
今にも襲い掛かってきそうな傭兵崩れ共がいるではないか。
ああ、そうだ。
冷静と合理だ。
「お、おい……『悪人』。何をする気だ…………?」
何をだって? わざわざ聞かずとも分かっているはずだ。
殺しはしない。
温室育ちの日本人の価値観が抑制しているわけではない。
ただ、口を閉ざしてしまうと貴重な情報源を途絶させてしまうからだ。
「心配は不必要だ。ホロウ。ボクは極めて冷静だ」
「……っ、そうか。ならば、いい」
そうだ。
怒りなどない。
困惑もまた彼方に捨て去った。
時は金なり、無駄は極力排していかねば。
今この瞬間にもアナスタシアとテリアが命の危険に晒されているやも知れないのだから。
何が起こったのか容易に想像がつくが…………いいだろう。
裏付けは必要なのだから。
そして、全てを知り──次なる行動を起こせる頃には、既に夜明けを迎えていた。
❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏
決して心地良いとは言えない振動によって、目が覚めた。
朗らかな陽気が木漏れ日となって空間に注ぎ、小鳥の囀りが朝の訪れを予感させる。
けれども、爽快感や新鮮さは生憎と空の彼方に追放されたのであろう。
身を起こそうとも全身を駆け巡る痛みに顔を顰めるだけで終わってしまう。
ガタガタと揺れて木々を押しのけるような音を聞く限り、移動中の馬車で寝ていたのだと予想できるが……?
「ん、アナスタシアちゃん。目が覚めましたか~?」
声のする方向へと誘われるように視線を向けると、苦笑交じりに微笑むテリアの姿があった。
だが、どうしてだろう。
何か拭いようのない違和感がつきまとって離れない。
一体、自分は何に頷けないのだろうか、と。
一考した後に、ようやくアナスタシアは昨夜の唐突な出来事が脳裏にフラッシュバックした。
「……っ!」
「おや~? これでようやくお目覚めだね~」
テリアの皮肉が真実なのだとすれば、突飛な夢であるなんて妄想も通じない。
時系列を追って脳内に再生する情景が正しければ…………アナスタシアとテリアの身は恐ろしく危険な状態にある。
手元に視線を落とすと、やはりというべきか、手枷足枷がご丁寧に嵌まっていて。
改めて周囲を見渡すと消沈した様子で一々他人へと意識を向ける余裕のない少女や女性が所狭しと座っている。
当たってほしくもない予感ばかりが的中してほんっとうに嫌になる。
……悠々自適に鼻歌を響かせているテリアからは焦りや不安といった色が見受けられないが。
「ここは…………」
「そうだよ~。あたしたち捕まっちゃたみたいだね~」
「そんな……軽く言わないでください。窮地も窮地じゃないですか」
厭々と現実から逃げていても事態は好転しない。
断言しよう。
アナスタシアとテリアは、ホロウが馬車を離れて直ぐに奴隷商隊に攫われたのだ。
何も特別なことではない。
帝国には奴隷制度が確固たる地位を築いていて経済体系の一角を担っている。
しかれども奴隷身分の人間は既に大商会や傭兵団の手の元にある故に、新たに奴隷売買に着手しようとも既存利益を奪われまいと圧力をかける先駆者の前に潰されてしまう。
だからといって、はいそうですかと引き下がる訳にもいかない。
四方手詰まりの状態を打破する手段は…………実はそこまで難しくはない。
そこいらから性別も年齢も種族ですら頓着しないのならば、攫ってしまえばいいのだ。
難点としては拉致するにも条件が厳しい点にあるが、そこにさえ目を瞑ってしまえば…………つまりは二束三文でも満足できるのならば最も簡単な稼業だ。
アナスタシアとて、アデラ・ジェーン山脈の山中で女二人が護衛の姿もなしに野営をしている光景を見れば好機だと舌なめずりをするだろう。
まあ、それが拉致される側の商品としての立場ならば願い下げだが。
拉致された奴隷の末路は、その他の要因で奴隷となった者とも比較できない程に悲惨である。
どこの血筋か判別不可能な時点で商品価値は皆無に等しく、そんな奴隷を欲しがる消費者など余程逼迫した没落者か、物好きな道楽家ぐらいなものだ。
男ならば襤褸切れになるま労働力として使い潰されて、女ならば薬漬けにされて慰み者として盥回しにされる。
想像しただけで悪寒の走る境遇、その入口にアナスタシアは立ってしまったのだ。
不安と絶望の綯い交ぜになった表情を察してか、敢えて明るい口調を意識してテリアが口を開く。
「でも~、あの時反抗したりしたらみんな殺されるって言ったのはアナスタシアちゃんだよ~?」
「それは、そうですが…………」
人攫いを生業としている奴隷売買人の取れる手段は限られている。
数にものを言わせて問答無用で拉致する他にない。
もし、相手が実力者である場合には予め用意している奴隷を人質にして動きを封じる。
基本は前者の一つで、状況に応じて後者を選択するのだ。
万一に備えて精神介入の【権能】持ちを雇っておくと尚、効率が良い。
アナスタシアは仕事柄、多種多様な奴隷売買人を見る機会に恵まれた…………いいや、見ざるを得なかったが、基本的には想像よりも上手くいくことが多い。
何故ならば、如何に自分が助かるためとはいえ、眼前で血にまみれた人間を見てしまうと途端に罪悪感に蝕まれてしまい、正常な判断能力を損なってしまう。
そうやって、本来ならば烏合の衆程度では動じないような冒険者や傭兵、果てはかつて有名貴族の護衛をしていた者まで商品として手に入れられるのだ。
正直に関わりたくないと思った一番の連中が、人攫いの奴隷売買人だ。
「それで~? どうするの~? さっさと逃げちゃう~?」
ギラリと野生の獣を彷彿とさせるテリアは今にも手枷を引きちぎろうと力を込めている。
“龍人”の彼女にとっては、アナスタシアが逆立ちしても壊せない枷であっても粘土に等しく感じれるのだろう。
事実、昨晩の時点で奴隷売買人を蹴散らそうと動き出そうとしていた。
だが──
「いえ、それは得策ではないでしょうね」
アナスタシアは踏み出そうとしたテリアを止めたのだ。
もし、引き留めなければ十中八九、テリアはかすり傷一つ負わずに勝利を掴んだだろう。
故にこそ、不機嫌さを隠そうともしない。
「どうして~? テリアちゃんに聞かせてほし~いな~」
凄むように身を寄せてくるテリアの纏う雰囲気は、先までの間延びした緩やかなものから一変した。
まるで、逆鱗に触れられた獣が如く、アナスタシアの本心を暴こうと牙を研いでいるように。
「第一に、昨晩も言った通り人質の皆さんがいるからです」
「うん。でも~、奇襲なら問題ないんじゃな~い?」
「わたくしは軍事には疎いので断言できかねますが、少なくともホロウの認めた貴女ならば可能なのでしょう」
ならば、どうして止めるのか。
何をもって殺人を押しとどめるのかと、テリアの瞳には疑念の籠った感情が渦巻いているのが分かる。
息を吞むほど澄み渡っている琥珀の瞳から視線を逸らすことなく受け止めて、“龍人”の無意識の敵愾心を受けて震える身体に鞭を入れる。
「反抗を止める理由としては多々ありますが、先ず、相手の正確な人数が分かりません。それに、相手が有象無象だけとも限りません。中には“黒鉄”級冒険者……人間世界でいうところの最高峰の実力者が混じっている可能性も捨てきれませんし、何より、テリア一人ではここにいる皆を守りながら戦うには人数が足りません」
「人数なら分かるわよ~。それに、強いって思える人もいな~い。アナスタシアさんは“龍人”を舐め過ぎだよ? そんなの、感覚でわかるんだから~」
「その感覚とやらが正しいなんて保証がどこにありますか? もし、その情報が【権能】で歪められていたら? もしかすると敢えて実力を隠しているかもしれません」
「そんなに留保しちゃうと~、何もできないよ。アナスタシアさん、どこかで切らないと進めないんだよ」
「ですが……っ!」
思わず声を荒げてしまう。
すると、分かっていたようにテリアもまた怒気をさらけ出した。
悲鳴の零れそうな口元に力を力を入れるも、射竦められた恐怖は先の言葉を紡ぐ機能を封じ込めてしまう。
おかげで、アナスタシアとテリアが向かい合って無言を保つ奇怪な構図が生まれる。
けれども、力の差は明瞭だ。
アナスタシアにテリアを抑え込める合理的な理由は、生憎と先の問答で手にしていないのだと知らしめてしまった。
ならば、武力でもって抑え込めればいいが、アナスタシアでは到底勝ち目がない。
拮抗も時間の問題で、全てはテリアの気分次第で崩壊してしまう。
だが、そんなアナスタシアの予想は第三者の介入によって想定外の方向へと飛躍することとなる。
「あのぅ……、少しよろしいでしょうか…………?」
弱々しく向かい合う二人の様子を伺っているだけの集団の中で、唯一、踏み出して声をかける少女がいた。
灰色の長髪に、覇気のない表情。
雨風を凌げるとは思えない最低限の襤褸だけを身に纏い、例に漏れず手枷足枷に自由を奪われた奴隷の一人。
「あたしはアリーって言います。ここから逃げるんですよね? あたしにも手伝わせてもらってもいいですか?」
小声で、それでいてよく通る凛とした声色は聞く者の意識を否が応でも傾ける。
安全を示すように微笑を携えながら進み出る少女は、血色の悪い顔をしているものの、相当な美少女であると思われる。
完全に意識外からの介入者ではあるが、話を聞かねばならない気がする。
理由はわからないが、アリーと名乗る少女には人を惹きつけるような…………商人であれば垂涎の才覚を保有しているのだろう。
兎にも角にも、アナスタシアとテリアは互いに溜飲を下げるべきであろう。
そして、新たな少女と話をつけねばならない。
❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏❒❏
運が良かった。
帝国内に無数に存在する奴隷の中でも、アリーは比較的温厚で人道的な買主に恵まれていた。
実年齢と外見共に少女の域を出ないものの女性としての機能は備えてある奴隷は、成人女性の奴隷と同等の価値を有している。
難点としては強度に多少問題がある程度だが、それを差し引いても目を覆いたくなるような扱いを受けるのは当然と言える。
けれども、アリーを買い取った中級貴族の主は一度たりとも下卑た視線を向けなかったし、そういった類の話題からはアリーを遠ざけていたとすら思える。
そんな、主に命じられる任務といえば、使いや伝令が関の山で慰み物として扱われる経験は皆無だった。
その上で、衣食住は一般的な家庭並みに保証ときた。
地獄のような扱いを受けている奴隷からしてみれば垂涎の待遇だろう。
既に物心がついた年齢で困窮した両親に売り飛ばされたアリーではあるが、自分の待遇が奴隷としてではなく家族同然の代物だと気が付ける程には鋭いつもりだった。
そして、その夢のような状況が薄氷の上に成り立っているものだとも。
アリーの居住していた城塞都市ドルは商人の出入りが一際激しい。
それは即ち、アリーの主が貴族としての地位を存続させるには、一種の流れというものに機敏でなければならないと同義。
一つでも歯車が狂えば、ボタンを一つでもかけ間違えてしまえば…………待っているのはありふれた没落物語だ。
数奇な偶然に過ぎない。
城塞都市ドルの都市代表なんてアリーにしてみれば雲の上の存在が、振興の商会と専属契約を結んだことが始まりだった。
曰く、帝国の西側に位置する辺境の地より大量の奴隷を安価で手に入れ、その出身地を偽って高値で売買する。
利益としては、元手との乖離で生まれる差異と、高額の仲介手数料。
たった一人の奴隷を売るだけで平均的な日給が手に入ると思えば、悪いビジネスではないし、教養に疎いアリーでも聡いと思える手腕だ。
けれども、主は奴隷を商売の道具としてすら、金を得るための契機未満としてしか認識しないやり方に主は意義を申し出たのだ。
理解は示すし、嬉しいことだ。
だが、相手が悪すぎる。
振興商会ならばまだしも、都市代表に異議を唱えるのでは訳が違う。
都市代表の肩書は皇帝直々に与えられた名誉職と同時に、実質的に都市の支配者としての全権を掌握しているといっても過言ではない。
とはいえ、一貴族でしかない主の反対を一々気に掛けるほど、両者は暇ではないらしく。
いつのまにやら城塞都市ドルを中心とした大規模な奴隷売買市場が構築されつつあったのだが…………そこに一石を投じる出来事があった。
なんと、都市代表が認可した二級傭兵団総勢三十余名が何者かによって壊滅させられたらしい。
正直に、だからなんだと困惑するしかないのがアリーの限界だ。
主によると、大衆の関心を引き付けるには充分過ぎると。
都市代表がお抱えの傭兵団を保有することが珍しくなく、直属の傭兵団が崩れることもないという。
何故なら、皇帝が背後に控えてある都市代表が雇っているのだから、国家直属と言えるからと。
そして、いかな酔狂であろうと国家に対して宣戦布告は行わないだろう。
ここまでくると利害関係が複雑に絡み合って理解しづらいが、少なくとも大事件であることはよく分かった。
だが、城塞都市ドルの場合は、更に厄介なことに水面下進行中の奴隷売買市場の警備や現場監査を、二級傭兵団に任せる手筈であったことが発覚する。
莫大な利益の見込める商談に必要な要因が、何らかの原因で実現不可能になったとあれば、重い腰を上げざるを得ないだろう。
割を食ったのは中小貴族だ。
なんと都市代表と振興商会は、他の傭兵団や冒険者崩れの荒くれを集めるための資金や労働奴隷を簒奪するかの如くかっさらっていったのだ。
アリーの主もまた奴隷と家財を差し出せと半ば脅迫に近い形で捻出を求められるも、奴隷は一握りの財産をもたせて逃がし、財産は信用のある者に預けて降参した。
だが、幾ら待遇が良くても奴隷に変わりはなく、知識もない少女一人では逃げるに逃げれず…………結局、人攫いに捕まってしまった。
滔々と語るアリーの横顔は酷く他人事で、既に後悔し尽くしたような諦観があった。
「…………これが、あたしの事情です。信用……してもらえましたか?」
上目遣いに視線を投げかける彼女は、アナスタシアではなくテリアを捉えていた。
というのも、唐突に話しかけてきた第三者を気安く信頼することなどできないと駄々をこねたのだ。
アナスタシア自身も口にはしないまでも、態度示し、会話の中で探りを入れたであろう。
故に、テリアの「テリアちゃんって人見知りだから~、自己紹介がてら~、洗いざらいぶちまけてもらおうか?」とかいう脅迫紛いの誘い文句に頷けた。
そして、確信した。
アリーは清廉潔白で、どこにでもある悲劇を駆け込んだ少女に過ぎないと。
「少なくとも、わたくしは信じます。所々、聞き覚えのある単語や情報もありますし」
アナスタシアの言葉を受けて、ぱぁぁああっと擬音が生じるように頬をほころばせた姿に罪悪感がないとは言えない。
奴隷としての身分で生活を送るには精神的負担もかかる上に、彼女自身が口にしていたように寄る辺のない不安は身を蝕む。
けれども、アリーは奴隷としての生活に苦悩していた様子もなければ、新たな環境へと乗り出す覚悟もなかった。
断言しよう。
アリーの安寧を崩壊せしめたのは、アナスタシアであると。
「アナスタシアちゃん、自分を責めちゃダメよ」
「……けれどっ」
「ぜんぶ、ぜぇんぶ、悪い偶然。そう思わないと持たないわよ~?」
テリアが耳元で囁くものの、それはアナスタシアの首を縦に振るわせるには足りなかった。
自分でも、不運な偶然が重なっているとは思う。
アナスタシアの暗殺に失敗したハギンズは、それでも死を偽造してオルウェルに認めさせたのであろう。
本来ならば、行く当てもなく使い潰される奴隷たちを選定した買主への橋渡しをすると同時に、仲介手数料にて拡大させるプランであった。
その中には、アリーの買主の名も含まれていた。
けれども、ハギンズは利益のみを追い求めた。
その結果として、内実を知らない貴族や温情派の商人たちは、あまりにも露骨で非人道的なハギンズとオルウェルに反旗を翻したのであろう。
ディシェリ傭兵団の件についても、首魁たるロバートを打ち取った後の顛末は知らなかった。
ロバートの一人軍隊とは彼に聞いてはいたが、まさか頭目が斃れただけで瓦礫するなど予想しようか。
その結果として、反目連中の弱体化と商業の再起を目論む両者が合理的な決断を下すのだとも、アナスタシアには憶測の端にすら立てなかった。
やもすると、彼ならばあるいは──
「あの、アナスタシアさん、テリアさん」
「なぁにかな~? そんな決意に満ち溢れた顔しちゃって~」
未だ数奇な運命なんて腹立たしい偶然の導いた結果を前にして、立ち直れぬアナスタシアの代わりにテリアが答えている。
彼女の間延びした声も、こと今に至ってはやすらぎを感じられる。
「お話しする前にごめんなさい、謝罪させてください」
「……? 構わないけど~?」
「ありがとうございます。先程の、お二人の会話を盗み聞いていました。テリアさん、貴女はお強いそうですね」
「……………………へぇ~? もしかして~。、助けてほしいの~?」
「いいえ、もっと烏滸がましいことを頼みたいんです」
酷く冷静で、淡々と言葉を紡ぐアリーの姿には既視感があった。
どこかで、いつか見た瞳をしている。
まるで、後戻りできない決心をしたような、何かを背負い込んでいるような。
「あたしには仲間がいます。あたしが攫われる前に分かれてしまいましたが、今もあたしを追って近づいているのだと分かります…………話は少し変わりますが、お二人はこの馬車がどこに向かっているのかご存知ですか?」
疑問符を浮かべるテリアには悪いが、既に思考を加速させているアナスタシアには見当がついた。
そして、相手の興味を惹き、引き込まれるような話術には覚えがある。
本質をはぐらかして、遠回りをさせた挙句に、退くに引けない状況まで相手を追いやる話術に。
「あたしたちが向かっているのはリヴァチェスター領の、彼らの隠れ家です。そこには、もっと大勢の奴隷や子どもたちが、集まっています。そして、彼らのリーダーも。もし、よろしければ…………一緒に戦いませんか」
詰まる所、嵌められた訳だ。
アリーはアナスタシアとテリアに現状の窮地を脱する手だてがあると知り、自分たちの計画に組み込んだのだ。
じっとしているとテリアがこの馬車を抜け出して壊滅させるやもしれないから。
それではアリーの計画である人攫いの大元を根絶できないと考えて、却って、企てを完遂させるための私兵に変えた。
テリアを力では従えられないから、アナスタシアへと知恵をもってアプローチを仕掛けた。
何たる策士か。
憧憬すら抱いてしまいそうになる程に清々しく、天晴な手腕だ。
「こうも手玉に取られ続けると自信を無くしますね…………」
不本意ながらも脳裏に思い浮かべたのは、すまし顔で困難を踏破して進む彼の姿で。
真剣な面持ちで返答を待つアリーの、切実で不屈の精神に感化されて。
アナスタシアへと回答を委ねるように視線を向けるテリアの表情は期待に染まっていて。
まるで出来レースだ。
けれども、それを、全ての思惑を理解していても。
アナスタシアは首を縦に振るのだ。




