2. 権能
陰鬱な空気は苦手だ。
だが、商売上避けては通れない関門となっている。
重苦しい扉の先へと歩を進めて改めて強烈な刺激臭に眉を顰め、思わず鼻を覆ってしまう。
本音を言えば、このような劣悪な空間に訪れるどころか、視界にすら入れたくはなかった。
だが、幾ら本心で拒絶してもそれを額面へとは欠片たりとも表してはならない。
何故なら、感情を制御できない商人は未熟以外の何者でもなく、とって食うには丁度いいカモであるから。
故に、彼女は──若くして一大商店の基盤を盤石なものとし、帝国内にその名を轟かせる美貌を兼ね備えた商店の顔として、相応しい振る舞いをしなければならないのだ。
光を反射する程に輝く金髪を腰まで伸ばし、黒を基調にしたワンピースタイプの胸元を大きく開けたドレスに、黒のファーを首から下げ、黒のヒールを裡に秘める自信を表すように響かせて、従者と共に堂々と高飛車にいなければならないのだ。
全身を舐め回すように視姦する男どもの嫌悪を催す視線などどこ吹く風で、この場の誰よりも王者足らんと振る舞う必要がある。
彼女の名はアナスタシア=メアリ──新たな商売の端緒を得るために、城塞都市ドルの奴隷商館に足を運んだ新進気鋭の代表だ。
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城塞都市ドル。
雰囲気は嫌いではない。
良くも悪くも交易地として発展しているだけあって活気に溢れている。
大通りを中心に両翼をはためかせるように露店が所狭しと並び、そこかしこで競りが行われているのだと分かる大声が木霊している。
……どうやって検閲をパスしたかって? ああ、そもそも検閲など通ってはいない。
全く不本意であるが、異世界人として密林を生き延びた青年以外に確固たる身分は持ち得ないが、奴隷としての身分は保証されているのだ。
いや、気がつけば勝手に奴隷として運送されている最中であったといえようか。
おかげで、都市へと向かう奴隷運送馬車の底へとサバイバル装備云々を隠し、忍び込めば簡単に潜入できた。
「…………とはいえ、まさか人種で区別されていたとは驚きだ」
締め上げた……いいや、お話を聞いた盗賊曰く、この世界の奴隷身分とは特定の人種の人々を指すらしい。
イメージとしては獣人や亜人といった種族の人々が差別されている印象を勝手に持っていたが、そもそも“魔族”という区分に分類される種族は今では絶滅したらしい。
曰く、かつて世界の八割を手中に収めたとされ、絢爛に繁栄していた“魔族”は人間社会においては奴隷に堕とされていると。
曰く、彼ら彼女らが滅亡した後に、“魔族”の肩を持ったとされるエルシニア人と、フフェス人が今では奴隷身分にあると。
曰く、外見上の区別はないに等しいけれど、エルシニア人とフフェス人は“魔族”の武器である【魔法】が使えると。
ああ、常識に疎い自分では情報を情報としてしか認識できず、具体的な符号を獲得できずにいる。
「今は必要のない思考だな。幸運にも私は彼らどころか、支配者側の人々との共通点すらない。ならば、比較的自由に動けるといった所だ」
行動が制限されていないからといって、何から何まで手放し……と同義でもない。
後ろ盾も身分もない一学生に過ぎなかった時分では、異世界に放り込まれる経験などないし、その後の模範解答すら導き出すには実力不足。
「まさか、正優の与太話が活用できるとは思わなかったが。運命ってヤツは酷く気分屋のようだな」
不貞腐れた、とは仔細が異なるだろうか。
麗しき知人の雑談が、実際に災難の降りかかった我が身を生かすなんて当初は思っても見なかった。
その情報の真偽は勘定に入れずに、けれど合理的に再考すると切り捨てるには惜しい。
異世界の定番──数多の情報を得るためには、ぎるどとやらに向かうのが定石らしい。
ならばと、やさしぃく談笑したおともだちイチオシの場所へと赴くべく歩を進めよう。
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失敗した。
この土地に移り住んで早一年と半年。
本来ならば覚えていていて然るべき留意点をすっかり失念していた。
城塞都市ドルにおいては、決して近づいてはならないとされる禁足地が二つ存在している。
一つは、皇帝直々に任命された都市代表の住う中央取引所の管理局。
そして、二つ目は、使いを果たした哀れな奴隷がうっかり立ち入り人生で二番目か三番目の後悔に苛まれている裏路地だ。
奴隷身分と一概に括られるが、その内実、奴隷間にも差別がある。
職業や主の差こそ微々たるものではあるが、最たる根幹をなすものとしてエルシニア人の方がフフェス人よりも苛烈に差別されているという点。
理由としてはかつて人間種と争った魔族の末裔がエルシニア人で、フフェス人は同盟相手たる龍族との橋渡しを行ったのみに留まるから……なんていう理由だが、詳しい歴史は身分上教えられていない。
「は、早く……っ! 早く逃げないと…………っ!」
アリー。
それがフフェス人と人間種の間に生まれたあたしの名前だ。
平均的な身長に、通常少女よりはやや軽い体重、灰色の髪が特徴のどこにでもいる奴隷。
比較的幸運なことに、奴隷や使用人に対して温厚な主人に買い取ってもらえたおかげで名前も、性格も、信条でさえ調教されていない。
それが、良いことなのか、それとも真っ当な精神で一生侮蔑に晒される人生を見せつけるための悪趣味からくるものなのかは知らない。
どちらにせよ、ここにあたしという存在があって現在進行形で大ピンチに陥っていることだけが事実。
一刻も早くこの場から逃げなければならない……いいや、せめて表通りにさえ出られれば。
忙しなく動き続ける思考に喝を入れ、行動に移そうとしたアリーであったが彼女の足が動くことはなかった。
「……かかった」
「やっとかよ……ッ! どんだけ待たされりゃいいんだ」
「仕方ない。思ってる程、万能じゃない」
射すくめられた。
夜闇に浮かぶ灯火のようにゆらゆらと揺れ動く瞳に絡み取られた途端、身体の自由が効かなくなってしまう。
必死に身をよじろうとも、まるで関節に楔が打ち込まれたようにぴくりとも動けない。
焦燥と恐怖に気が狂いそうになるアリーを尻目に、長身と短躯の二人組の男は躊躇なく迫り来る。
これが、一秒たりとも逡巡せずに逃亡を選択しようとした現実だ。
城塞都市ドルに限らず、帝国領土の裏路地には人狩りが蔓延っているのだ。
主人に不要と捨てられた奴隷、職を失った浮浪者、街にはいられない重罪を犯した犯罪者等々…………その種類は多岐にわたる。
なんにせよ、もし仮に彼らの手中に落ちれば、その時点で生存は絶望的となる。
アリーの主人からも、仲間からも幾度となく注意されていたはずだ。
だというのに……迂闊なんて一言では片付けられない大失態。
ドス黒い闇が眼前に塗りたくられる錯覚が、一歩も動けないアリーの精神をガリガリと削っていく。
鼻の曲がりそうな悪臭を放つ長身の男の目に下卑た色は感じられない。
それもそうだ。
一部には成人女性の背丈半分にも満たない少女を嬲って悦ぶ人々がいるらしいが、眼前の二人からはそんな色欲に満ちた感情は感じられない。
しかし、そう簡単に安堵できないのが辛い。
身体目当てでない人狩りの目的など、一々類推する程のものではない。
彼らの欲しているは単純な金銭で、アリーをどこぞの奴隷商にでも売り込めば二束三文であろうと金は手に入る。
元手は無償で、数日の暮らしを保証されるなんて、裏路地で明日も知らない生活をしている彼らにとっては破格だろう。
その後のアリーの末路など、語る必要もない程凄惨な類だろうが。
弱気に犯され、芯から全身に渡って凍えるような寒気に襲われる。
想像もしたくない程に残酷で、救いのない我が身の行く末に絶望したわけではない。
ただ、そんな未来すら想像できない恐怖に苛まれているだけで。
「それで、どこに売り込もうって?」
「どこでもいいだろが、そんなもんッ! ああ、あれだ。表でグラード商会が屯ってた。もうあいつらでいいだろ」
粗野な口調に粗雑な言動に違わず、長身の男に乱暴に腕を引かれた痛みに思わず声をあげそうになる。
だが、発音はうまくいかず、掠れた空気だけが喉から逃げるばかり。
「異論はない。なら、さっさと行くぞ、誰かに奪われる前に──」
短躯の男が言葉を切った時の違和感に、アリーは気が付かなかった。
幾ら力を込めても動かない身体に、恐怖が麻酔となってうまくいかない呼吸、そして、ジンジンと痛み出した腕。
自分のことで精一杯であった彼女は、気がつけなかった。
この世界の常識に疎く、尚且つ、奴隷と人狩りの区別もつかず、当てが外れて無収穫で帰らざるを得なかった傭兵の格好を真似た人間が助けてくれるなど。
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拍子抜け。
それが一通りの優先事項を消化した際の素直な感想だった。
城塞都市ドルは帝国内においても交易地よりも、武装蜂起に近しい物々しい空気を肌で感じていた。
その予感は幸か不幸か的中し、近代日本では滅多にお目にかかれない剣を佩いた連中や、中世ヨーロッパの模範的な甲冑姿の騎士等……まあ、見ていて飽きはしなかった。
ドルへと足を運んだ目的たる情報収集を最も効率良く行うには、人が集まる場所へと赴くのが定石。
とはいえ、文字通りの部外者たる時分ではそんな楽園のような場所に心当たりなど到底なく。
故に、正優の助言に従い、ぎるどとやらに方向を定めた矢先。
盗賊や野盗の皆々様から分捕った耳寄りの情報の一部が脳裏を掠めたのだ。
曰く、「冒険者ギルドと傭兵商会のどちらを選ぶのか」と。
実に困った。
どちらでも大した変わりはないだろう、と楽観視したくなる本能を世界間の乖離が未知数なために慎重に選択すべきだとする理性で抑え込んだ。
しかし、身分を証明する術もなく、相場が幾らか不明であるがために今晩の安息地すら心許ない。
「端から選択肢などなかったのだがな」
「……? 何か言いましたか?」
「いや、ただの独白さ。思うようにいかない道程への」
まさしく、それは恨み節であった。
密林で奪取した簡易な鎖帷子や、籠手、具足、そして、まるっきり顔を隠すことのできる鉄兜。
特筆すべ荷物としては背負う鞄と、使い物にならない左腕のみ。
その装いは着の身着のまま旅をするバックパッカーを彷彿とさせるが、どうにもこちらの世界の人々にとってみれば傭兵の典型的な格好らしい。
おかげで、傭兵商会へ情報収集へと赴いた時も、その帰りに拉致されかけていた少女を寸での所で救出できた。
腕が立つ、若しくは無能の区別なく仕事に区別をつけない傭兵という職種はある種毛嫌いされる傾向にあるらしい。
事実、先導するように歩く少女も流し見で様子を伺っている。
傭兵だと名乗ったのは間違いだったのかもしれない。
傭兵商会には大規模依頼だとかで他の傭兵の姿は見えなかったために、どうにか情報を獲得したいのだが……警戒された状態での信頼度など高が知れている。
失敗した、とは思わない。
冒険者ギルドを選んでいたところで、現在の姿格好では灰色髪の少女のように、傭兵では? と疑われるだけだ。
かといって、顔を見せるわけにもいかない。
できうる限り、己の情報を外部へと与えることだけは避けなければならない。
「………………傭兵さん、ここです」
「ん、そうか。済まないな、道案内を頼んでしまって」
「い、いえっ! 助けてもらった恩は返しますっ!」
健気に断言する少女の悪しきを知らない純粋な瞳を受けて、僅かな罪悪感に平常心がちくりと痛む。
なにせ、結果的に彼女を助けたように見える行動も、出鼻を挫かれた苛立ちのままに、そう感情的に行動した結果だからだ。
目ぼしい情報もなく傭兵商会の付近でどうしようかと苦悩していた際に、兎にも角にも一人で方針を立てようと人のいない路地へと入って行った。
そこで不躾な視線を浴びて不快に思ってしまった己を恥じても……今となっては遅すぎるか。
不機嫌を全身から醸し出していた男に正しく言いがかり──「なんだ、獲物を横取りする気か」とか何とか──と共に殴りかかられてしまえば、反撃せざるを得ない。
これもまた密林での彷徨経験が活きた……なにせ、反撃しなければ次の瞬間に事切れているのは自分であるから。
生憎と、「殺しはいけない」なんて考えは二日目あたりで捨てた。
「傭兵さん?」
詰まるところ、ことの成り行きから二人組の男から助け出した少女に、手持ちの金銭で過ごせる宿泊施設を聞いたのだ。
うん、まさか「後先考えずに、その眼が、言葉が癪に触ったから反撃して殺しました」は締まりが悪いじゃん? まあ、彼女は動じることなんてなかったが。
まさか、この世界では目の前で出来立てほやほやの殺人現場が作出されるなんて日常茶飯事なのか? と疑いたくもなる。
「……君、時間はあるかい?」
「へ? あ、あたしですか?」
「無論、君以外に問う相手がいれば君以外の誰かになろうが」
「…………傭兵さん性格悪い」
「ああ。そういえば、よく言われた」
空を掴むような問答しかできずに悪いとは思う。
だが、相手が幾ら少女だからといって、自分という人間の一端でも露呈するわけにはいかない。
まだ断片的な情報しか持ち得ないが、少なくとも奴隷制度があって、堂々と腰に懐に殺傷具を仕込める世界なのだ。
次に誰が敵へと変わるのか、分かったものでもない。
ならば、いついかなる時も警戒を解いてはならないのだ。
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支柱に木造の骨組みを拵えて、空間を適当に埋めたような宿。
それが、外観と内装を流し見て抱いた正直な印象だ。
現在、日本のビジネスホテルと同様の広さに一人分の寝台、一組の机と椅子、申し訳程度の装飾に包まれた一室で、灰色髪の少女──アリーと談話中だ。
いや、嘘を吐いた。
鉄兜の男と身を縮こませて座る少女の図は、どこからどう見ても尋問か、脅迫の最中と見えるだろう。
まあ、異文化交流が妥当だろう。
それすらも、一方的なものだが。
「つまりは、あの裏路地は人狩りの巣窟で、君は危うく売り飛ばされる寸前であったと」
「はい…………本当に、傭兵さん……オドアケルさんには感謝しています」
俯きながら先の恐怖と戦っているのだろう、本来ならば言葉を紡ぐことさえ辛いというのに、それでも礼は口にできる。
よほど心が強いのだろう。
ただひたすらに敬意すら抱ける姿勢に、気圧されそうになる。
「そ、それで、オドアケルさんは何を聞きたいんですか?」
『傭兵隊長』オドアケル。
それが傭兵としての偽名だ。
傭兵と聞いて思い浮かんだ人命が、西ゴートの人物だっただけ。
幸運にも、この世界のありふれた名前として受け入れられた。
「ああ、そうだな。とりあえず、幾つか質問してもいいか?」
口火を切ったものの、質問と返答の応酬で目新しい情報はない。
何故それを聞くのか? と怪訝な表情が浮かぶこともあれば、それは知らないときっぱりと断られることもある。
だが、情報を精査していくにつれて、彼女の知らない事象の傾向も掴めてきた。
つまりは、この世界の奴隷身分の人々の生活水準……アリーは自身でまだ恵まれている方の奴隷だと語った。
だとするのならば、高待遇のアリーですら世界の歴史や帝国における内部の情報は教えこれまれていないということ。
「────っと、こんな感じですか?」
「ああ。実に有意義だったさ」
嘘も方便とは言いようだ。
アリーから得られる情報はどれも把握していたものだが、彼女相手に邪険な態度を取って無為に敵を作る必要もない。
だが、彼女はやけに機微に聡いらしい。
心中の感情を言葉へと表出しないように最新の注意を払っていたつもりだが、不満一杯の表情で見つめ返されてしまった。
「オドアケルさん、あたしからも一つだけ聞いていいですか?」
当惑。
疑問。
疑念。
どうやら、会話の最中であっても鉄兜を外そうとしない無粋な傭兵に疑問符が生まれたらしい。
はてさて一体いかなる質問が飛び出してくるのやら──
「あの、どんな【権能】をもってるんですか?」
「は……?」
間の抜けて、困惑一色に塗りたくられた声を自分のものだと認識するには相応の時間がかかってしまった。
今、彼女は何と言った? 【権能】だって?
これまでの問答で有りうべからざる言はただひたすらに脳内の回転を錆びつかせ、続く言葉を外には出させない。
だが、たった一点。
この世界の常識をフィルターに用いると、そっくり前提が瓦礫するのだ。
ああ、遅まきながらも理解できた。
この世界では【権能】とは常識で、けれども、それがどんな代物なのかは自分にはわからない。
「済まない。その【権能】とやらについても、教えてはくれないか」
これは賭けだ。
そう、一縷の可能性を己が手に誘わねばならない大博打。
「え、はい……【権能】は、そうですね。改めて説明しろって言われたら難しいですね。オドアケルさんは世界って何だと思いますか?」
「君は私をコケにしているのか?」
「ち、違いますよっ! っていうか、怒らないでください。あたし怒られるの苦手なんです」
「叱咤は堪えるだろう。分かった。もう、怒りはしない」
「…………皮肉とか、嫌味もなしですよ」
「君は私を話の通じない獣とでも思っているのか」
「割とそうでしょう? お金の単位も知らないし、文字も書けないし、それに、【権能】も知らないし」
「ああ、そうだ。【権能】の話だ。君との漫才に興じる暇はなかった」
「あたしもそうですよっ! それで、オドアケルさんは世界を何だと思いますか?」
「君は私をコケに──」
「それはさっきやったでしょうっ!」
肩で息をして身を乗り出しつつ、一歩踏み込んだ彼女の口元には僅かながらも笑みが浮かんでいた。
お気に召したようで何よりだ。
……おふざけはこの程度で十分か。
「オドアケルさん。空気って知っていますか?」
「空気、ああ。酸素と窒素、二酸化炭素の集合物か」
「さんそ……? よくわかりませんが、空気には霊力があります」
「れいりょく……? よくわからないが、そうなのか」
「バカにしてるでしょうっ!? やっぱりオドアケルさんは意地が悪いですっ!」
喝采を言祝ぐように叫んでくれるアリーの姿は、実に愛らしい。
紅潮した頬に、怒りを全身で再現する動きは自然と──幼き姉を思い出して、胸に一抹の郷愁が響く。
ああ、そうだ。
アリーは彼女に似ているのだ。
笑顔を携えれば奔放なアリーと、姉の雰囲気は類似点が多い。
見苦しいと思わなくもないが、密林での一週間、割と命の危機に瀕した壮絶な経験であったが……姉の言葉を思い出す度に死ねないと奮起した。
「済まない、済まない。話を続けてくれ。霊力とやらがどう【権能】と結びつくんだ」
「謝ればいいって思ってるでしょ……まあ、いいです。霊力とは即ち、抵抗力です」
「【権能】に対しての、か」
「はい。【権能】は生まれた時に世界から与えられる特殊な力のことです。色々ありますが、自然を自由に操ったり、呪いを使えたり……ですかね」
「────君が逃げるに逃げられなかったのも、【権能】か」
「は、はい。多分、目が合った相手の支配権を握る……みたいな?」
痛いところを突かれた、と瞳を伏せる彼女の様相は悲壮感に包まれていた。
「成程、理解した」
つまりは、【権能】は先天的に使用できる超能力のようなもので、霊力で何らかの対策が可能と。
アリーの表情や呼吸、言動から虚偽の可能性は薄く、あまりに突拍子のない世界の常識であったがどうにか咀嚼ができそうだ。
問題は──
「私に【権能】が宿っているか、だな」
自慢ではないが、客観的に自分を俯瞰した場合において、血生臭い闘争に勝利できる程運動能力は高くないと自負している。
これまで生き延びてこられてのも、偶然や相手の油断等、様々な要因が歯車が如く噛み合って──その上で全力の逃亡を選択したからだ。
信頼できるのは合理的判断と、唯一の武器たる鉈だけだ。
苦々しい現実を前に幾度目か分からない思考の潜水は、再びアリーの声によって引き戻される。
「……ぁ、オドアケルさん、時間が……」
黄昏の西陽に目を細めたアリーの声は、心なしか先よりも沈んでいた気がした。
彼女は奴隷の身分であって、一時の自由時間を使って付き合ってくれていたのだ。
だが、それも終幕に近しく、既に刻限は迫ってきているのだろう。
「ああ、そうだった。わざわざ時間を使ってくれて感謝する」
「いえ、あたしの方こそ助けてもらってありがとうございます」
恭しく頭を下げるアリー。
素直で純粋、しかして悪性を知らぬわけでもない。
世界の常識に疎い自分でもわかる、奴隷としてこの世界で生き抜くことの苛烈さ、理不尽や不条理。
彼女はそれら全てを経験してきたはずだった。
だが、それでも彼女は恩人に頭を下げ、謝意を口にできるほどに“善性”を裡に秘めている。
「アリー。君は、“自由”を望むか?」
「……ぇ?」
自分でも驚くほどにするりと、無意識にままに言葉は紡がれていた。
何を問われたのか理解に時間をかける彼女の表情は、斜陽に照らされ試案しているのだと感じさせる。
言葉の意味ではなく、何故それを問うたのかを訝しむ眼。
しかし、生憎と彼女に答えられることはない。
他でもない己自身ですら、紡ぐつもりのない言葉だったから。
「────仮に、“自由”があっても……あたしは、何がしたいのかわかりません」
逡巡の末に小さな唇から発せられた言葉は諦観と納得があった──けれど、その表情は悔しく歪められていた。
彼女が何に対して悔悟を抱いていたのかは分からない。
“自由”を得られぬ現実に、もしくは、理想を夢想できぬ己に向けたものなのか。
だが、唯一として断言できるのは、自分は決して彼女の言葉と表情を忘却できぬのだろうと。